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2010年3月19日

鳴子の米プロジェクト─「消費者」から「当事者」へ

100514_yuuki.jpgのサムネール画像

地元学は、その土地の人びとの声に耳を傾け、そこを生きる人びとに寄り添って展開されるものであるが、ときに時代の課題に相渉り、格差社会に抗って展開されるものでもある。たとえば宮城県旧鳴子町で2006年から取り組まれている「鳴子の米プロジェクト」は、大規模化を進める日本農政が切り捨てた小農の米づくりを地域の力で支援する「米の地元学」である。

 2007年、自公政権下の日本農政は、「品目横断的経営安定対策」の名のもとに、戦後農政の大転換に踏み切った。グローバル化によるWTO、FTAなどの外圧などを考慮し、少数精鋭による大規模効率農業の推進がその判断の根拠だが、果たしてそれでうまくいくという保証はない。しかもこれによって中小農家の大多数が政策対象外になり、農政の支援がなくなるということになった。
 中山間地農業はどうなるのか。とても人ごとではいられない。「4ヘクタール以上の認定農業者に本当に展望はあるのか」「規模も耕作条件も年齢も異なる多様な農業者をむりやり20ヘクタールにかこって、村にどんな未来像を描くのか」「切り捨てた小農への対応はどうするのか」「もしこの政策に失敗したら誰が、どのように責任を取るのか」等々、問いつめても問いつめても無表情な役人たちから答えは何ひとつ返ってこなかった。この人たちは課せられた数値目標の達成以外はまったく関心がないのだ。
 農村はたんなる食料生産の場ではない。小さくても支え合って生きる暮らしの現場である。不安に揺れる中山間地の集落を訪ねながら、冷酷な農政に抗しうる方法を模索していた。
 東北有数の温泉地として知られる宮城県旧鳴子町は3100世帯、8000人の人びとが暮らしている。1995年には738戸の農家があったが、米価の低落などで、この10年間で118戸が離農し、耕作放棄地が4.5倍の94haに増えた。かつて小林秀雄は「世捨て人とは世を捨てた人の謂ではない。世が捨てた人のことだ」と言った。離農者も同様だと思う。条件不利地域で懸命に私たちの食料を支えてくれた人びとを、私たちが見捨てたのではないか。それに今度は国が見捨てた。
 鳴子町に現在いる農業者620戸のうち、政策支援が受けられる4ヘクタール以上の農家はわずかに5戸のみ。国の支援から外された大半の農家を離農者にしてはならない。
 論理ではない。ひとりの人間の感情である。口では食が大切、農が大事といいながら、こんな大事なときに口をつぐんでいてよいものか。
 隣人が苦しいときに、他人ごとですませない村の心が地元学の原点である。その心が通じるところは、すべて「地元」である。この呼びかけに鳴子町はもとより多くの人びとが協力を申し出てくれた。旅館の人びと、工芸の職人、農家の人びと、たくさんの食を支えてきた女性たちが、自分ができる米の支援に力を貸してくれた。市場では米の生産者価格が1万3000円にまで下がってしまった時代に、5年間1俵1万8000円を農家に約束し、それを食べ手には1俵2万4000円で買ってもらい、その輪を広げようという「米の地元学」─「鳴子の米プロジェクト」。
 安くて安全であればよいという「消費者」から、農と自然と暮らしを大切に思う、食の「当事者」になる人びとが増えている。人も時代も、まだまだ捨てたものではない。

2010年3月16日

地域が「ぐずぐずと変わる」ための「地元学」

 自分が暮らす地域をよくしたいと思うのは、誰もが抱く願いのひとつだが、この国ではそれがなかなかうまくいかなかった。
 都市であれ地方であれ、そこに住む人びとがいつのまにかバラバラになっていて、地域づくりの役割を行政に丸投げしてしまっていて、そのクセから抜け出せないでいる。
 一方、住民から託された地域づくりの専従者である行政も、そこに暮らす人びとの声に耳を傾けることは少なく、有識者や霞が関などの暮らしの現場からもっとも遠い人びとの考えや思惑に支配され、画一的なものを押しつける結果になっているような気がする。

 私は近頃つくづく思うのだが、自分でそれをやろうとしない人間が考えた計画や事業は、たとえそれがどれほどまことしやかで立派に見えても、暮らしの現場を説得することはできないのではないか。そんな気がしている。そして反対に、たとえ考え方は未熟で計画は手落ちが多くても、そうしようと決めた人びとの行動には人を納得させるものがある。為そうとする人びとが為すのであって、そうしようと思わない人びとが何人徒党を組んでも、現実と現場は変わらないのではなかろうか。
 地域とはさまざまな思いや考え方、そして多様な生き方と喜怒哀楽を抱える人びとの集まりである。しかし誰もが心のどこかでわが暮らし、わが地域をよくしたいと思っている。だが、その思いや考えを出し合う場がほとんど失われてしまっているのも地域の現実である。
「地元学」とは、そうした異なる人びとの、それぞれの思いや考えを持ち寄る場をつくることを第一のテーマとする。理念の正当性を主張し、押しつけるのではなく、たとえわずらわしくとも、ぐずぐずとさまざまな人びとと考え方につき合うのである。暮らしの現場はいっきに変わることはない。ぐずぐずと変わっていくのである。

 地元学は理念や抽象の学ではない。地元の暮らしに寄り添う具体の学である。たとえば1999年に宮城県旧宮崎町で始まった「食の文化祭」。これは私なりに言えば「食の地元学」である。
 わが町にはほかに誇れるものは何もないと嘆き、「ないものねだり」の愚痴をこぼすより、暮らしの現場の足元の「あるもの探し」をしてみよう。たとえばふだん食べているわが家の食事。現代の食生活はその多くが「買う食事」ばかりだが、わが町にはスーパーもコンビニも食堂もない。多くの家庭は庭先で野菜を育て、季節になれば山野に出かけて山菜、きのこ、木の実を採集する。それを女性たちが家族を思って日々料理をつくり、食卓を飾る。むろん手づくりの保存加工品も充実している。そのせいか、わが町には食の安全安心を叫ぶ声も少ない。
 もしかしたら、この食生活、都会よりもぜいたくなのではあるまいか。いわば金だけに頼らぬ自前の食生活、自給の食。その値打ちをみんなで確かめることはできまいか。そんな呼びかけに応えて集まった家庭料理が1年目に800品、2年目は1300品、体育館いっぱいに並んだ。
 名づけて「食の文化祭」。足元のふだんのあたりまえの食事が、食と家族と地域の物語を豊かに語りかけてくる。名も知らぬ見知らぬ山間の町に1万人の人びとが押し寄せ、それぞれに食物を間において、楽しいおしゃべりの場が広がる。そしてあらためて思う、わが町の自然の豊かさ、自給の力。人と人の距離を近づける食の不思議な力。たとえ小さくても、みんなの力を持ち寄れば、食以外にも何かができるのではないか。地域が変わるのではないか。「食の文化祭」は、忘れかけていた地域力、住民力を取り戻す「食の地元学」である。

 そしてその輪は、地元の食の力を食育に広げた宮城県旧北上町の「食育の里づくり」や、食と器を総合化して、地元の多彩な仕事場づくりに歩を進めた山形県真室川町など、全国50地区で、それぞれの流儀で多彩に展開されている。

Profile

結城登美雄(ゆうき・とみお)

-----<経歴>-----

1945年中国東北部(旧満州)生まれ。
民俗研究家。
仙台で広告会社経営に携わった後、東北各地を10年以上歩きながら、住民を主体にした地域づくりの手法「地元学」提唱する。
「食の文化祭」などの地域づくり活動で、1998年「NHK東北ふるさと賞」、2005年「芸術選奨芸術振興部門文部科学大臣賞」受賞。
「増刊現代農業」「グラフィケーション」など、雑誌や新聞を中心に農と地域づくりについて多数執筆中。
現在、宮城教育大学・東北大学大学院非常勤講師。

BookMarks

-----<著書>-----


『地元学からの出発―この土地を生きた人びとの声に耳を傾ける』
2009年11月、農山漁村文化協会


『東北を歩く―小さな村の希望を旅する』
2008年8月、新宿書房


『山に暮らす海に生きる―東北むら紀行』
1998年11月、無明舎出版

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