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2010年8月 6日

平井和子:「ヒロシマ以後」の広島に生まれて─<継承>のために

大妻女子大学非常勤講師・平井和子

■「ヒロシマ以後」の世代にとって

 わたしは1955年の広島市生まれだが、本籍地は1度も住んだことない住所にあり、そこは現在平和公園になっている。爆心地である。祖母と父は、原爆投下の数ヶ月前に建物疎開によって郊外に引っ越したため被爆を免れたのだが、本籍地は戦後もそのままにしておいたのである。

 しかしながら、戦後10年経って広島に生まれた「ヒロシマ以後」世代にとって、戦争も原爆も、父や近所の人たちの会話に出てくるのを漏れ聞く程度で、すでに過去の歴史であった。はじめて原爆の事実を知ったのは、小学校低学年のとき。父に連れられて原爆資料館へ行き、被爆直後の広島の地獄のような様に言葉を失った。なぜ、原爆が落とされたのか?戦争や原爆使用への知識もないまま、このただならぬ事態は幼い頭には自然災害の不可抗力のように思え、この重さを受け止めかねてこれを封印することで乗り切ろうとした。広島に生まれながらもわたしが長くヒロシマから逃げてきた原点はここにある。

 このような体験からわたしは、原爆のパネル展や被害の凄まじさに頼って、「平和教育」をした気になっている大人の感性を疑ってきた。戦争が起きたメカニズムや、原爆使用の背景などの根気の必要な説明を怠って、悲惨さを強調するようなやり方では、子どもは驚き同情はするが、自分をそこへ関わらせて考えにくいのではないか。それは安直な被爆者の利用でもある、と。

 毎年8月になると広島へ集まる人々へも冷めた目を向けていた。まるで、季節行事のように、折鶴を携えてやって来て、「語り部」たちの話に涙して、それぞれの場所へ帰ったらすっかりヒロシマを忘れてしまう。自分の日常生活とどうリンクさせて認識したのか、「2度と繰り返えさぬ」ために、あなたはどのような生き方をするのか?と。祈っただけでは平和は来ない、とも。その後大学進学などでわたしは広島を離れた。

 そんなわたしが、ヒロシマに向き合えるようになったのは1980年代。軍都広島の近代史とアジア・太平洋戦争が一続きのものとして見えたとき。そこまで約20年かかったことになる。したがって、わたしが原爆の被害とともに、あるいはそれ以前に、歴史教育が必要であるとするのはこのような経緯による(詳しくは『「ヒロシマ以後」の広島に生まれて―女性史・「ジェンダー」...ときどき犬(hiroshima・1000シリーズ 10)』 ひろしま女性学研究所2007年)。

■悲惨な体験の継承を巡って

 悲惨な被爆体験をどう子どもたちに伝えるかという点について、わたしの上記のような意見に対して、5歳のときに広島で被爆した女性史研究者の加納実紀代(かのう・みきよ)は強い異議を唱える。死んだ子どもたち、女たちは「ショックだからといって拒否することなどできなかった」、「15年にも及ぶ戦争や原爆投下までの道筋云々について何も知らないままいきなりピカにさらされたのだ」、「戦争体験の継承とはそうした不条理を含めてのものであるべきだろう」、と。そして、現在各地で繰り広げられている紛争地への「想像力と共感を養うこと、そして世の中には理解を絶することがあり、その前でたじろがない姿勢を育てていくこと」だと主張する (※1)。

 これを読んだとき、わたしは原民喜(はら・たみき)やプリーモ・レーヴィらが恐らく直面し絶望した、体験者/非(未)体験者の断絶の深さを想い浮かべ、言葉もなかった。一緒に遊んでいた友達や近所の人々の死を記憶に刻みつけている加納の、「当事者」でない者への怒り、違和感は分かるような気がする。この「当事者」性をどうやって引き受けて行けるか―やはり広島生まれの音楽批評家・東琢磨(ひがし・たくま)は、これまで「当事者性を乗り越える言葉を生み出す努力や模索が十分にはおこなわれていない」と指摘する (※2)。が、どのような経路を辿ろうと「ヒロシマ」を、現在の紛争地の人々への「想像力と共感=コンパッション」につなげたいという思いは共通で、加納も東もそしてわたしも世代を超えて根っこで繋がっていることは確かだ。

 現実の問題は、近年の学生・生徒たちの反応が、証言や体験を提示する側の意に反してかなり深刻であるということだ。もはや悲惨な事実に「たじろぐ」感性さえ持ち合わせない若者の姿があちこちで報告されている。2005年、ある大学高等部の入試問題に、沖縄「ひめゆり」の女性の語りを「たいくつだった」という感想が載せられたことがあったが、ある小学校では、教師が「きもだめし」に被爆者の写真を使い問題となったという報告もある。

* * <参考グラフ> * *

Q、被爆当時のことを聞いてどう感じますか(出典:『広島高教組時報』(1999年12月・614号))
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「実感にならない」が過半数で始まった71年が、79年に「悲惨だ。憤りを感じる」と逆転する。が、90年代後半に再逆転し、97年には「実感にならない」が過去最高の割合となる。

■「平和教育」の届き方

 冒頭に触れた、わたしが原爆資料間で強いショックを受けたという点に関して、同様に自分の子ども時代の体験を思い出した、という人は多い。1960年代生まれの歴史研究者・長志珠絵(おさ・しずえ)は、時期と場所は異なるが「わたしも同じ経験枠にある」という。以下、承諾を得て寄せられた感想の一部を紹介する。

─小学校低学年の担任が平和教育に熱心で、「米軍が撮った放射能の影響を人体レベルで確かめる映像を見せられ...その夜寝ていて車の光を浴びたとき、放射能でもう死ぬんだ...と瞬間的に思ってふとんをかぶってしまった...その後もそういう感覚はずっと引きずっていたし...70年代の少女漫画で流行った『白血病もの』も、いつも怖かった...同時に子どもとは残忍なもので、被爆者ではない自分─をしっかり確保している。こうした大衆文化的内容が当事者にどれだけ過酷なものであるのか、他者意識として思い至ったのは90年代になってから」だという。

 そして現在、学生に教育する立場から、「私が日々、学生に接する中で感じること─私が向き合っている現実─前提は、これほどヒロシマや空襲について知識が払底しているのに、なぜ学生はこうした話題に『飽きて』いるのだろうか、ということ...自分が経験してもいない過去史を伝授する─という点で、私という立ち位置はすでに明治も昭和も同じこと。過去の過酷さの強調はごく普通には『あ~、今の日本に生まれて良かった』としか戻ってこない。特に、戦争の記憶は、過去のものではなく、今、過去がどういう文脈にあるのか、何が問われているのか、を説明できなければ─たぶん女性史も同じなのだが─学生の上記の感想を補強することに加担する」と、いう。

 ヒロシマが単なる過去のものでなく、「今、過去がどういう文脈にあるのか、何が問われているのか、を説明できる」教育をめざして、広島の教員も被爆者も、そして歴史研究者も日々格闘している。

 2000年夏に組まれた『中国新聞』の特集「新世紀への課題 ヒロシマ再構築」に、ヒロシマの平和教育がどう受け止められるのかを巡って、教師たちの抱えるジレンマをていねいに追った記事がある。広島市内のある小学校校長(60歳)は、数少なくなった被爆体験者である。「悲惨な体験を話すのが平和教育」と思ってきたが、考え方を改めた。沖縄戦の映画上映に際して、低学年の児童の1人が「怖いから見たくない」と、学校を休んだことがきっかけだったという。「子どもたちの生活とどう結びつけるかが重要」だ、と。

■おわりに

 しかし1960年代から続けられてきた「ひろしまの教育」は、着実に、歴史にかかわろうとする「ヒロシマ以後」世代を育ててきたことも確かである。『八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学 ちくま新書 (544)』で、「終戦」の記憶が戦後どのようにつくられたかを浮き彫りにした佐藤卓巳(さとう・たくみ)も1960年、広島市生まれである。彼は、新聞やテレビの「8月ジャーナリズム」は、「体験の風化」や「世代の断絶」を憂い続けてきたが、それがむしろ結果としてそれらを「必然」や「宿命」として甘受する風土を生み出しているのではないか、と鋭く問う。この書を書かせた根底に、彼は、「小学校時代から繰り返し受けた平和教育の中心は8月6日であって、8月15日ではなかった」ことがあるような気がするという (※3)。

 『ヒロシマ独立論』で、広島市あるいは、平和公園を国家に回収されない平和空間として独立させようというユニークな提案する東琢磨も60年代の広島生まれである。また、広島市に生まれながらも「原爆に関するものを避け続けてきた」という漫画のこうの史代も、『夕凪の街桜の国』を描くに当たって、「遠慮している場合ではない、原爆も戦争も経験しなくとも、それぞれの土地のそれぞれの時代の言葉で、平和について考え、伝えてゆかねばならない筈」だ、 と述べている(※4)。一度はヒロシマに違和感をもったり、回避したりしながら、また、ヒロシマに向き合い、それぞれのやり方で、引き受けて行こうとする「ヒロシマ以後」世代が育っているとは言えるだろう。この基盤に、ヒロシマという地のもつ、広い意味での「教育」があることも確かである。

(「私にとってのヒロシマ」『戦争と性』第27号・【特集】「ヒロシマ・ナガサキが問いかけるもの」 戦争と性編集室 2007年 をコンパクトにまとめ、一部修正しました)

※1:加納実紀代「ヒロシマをひらく─〈迂回〉を経ての継承」『インパクション』2007年
※2:東琢磨『ヒロシマ独立論』青土社2007年P.50
※3:佐藤卓巳『八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学 ちくま新書 (544)』ちくま新書2005年P.259
※4:こうの史代『夕凪の街桜の国』双葉社2004年P.103

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