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ロバート・ドラーチャ:モチベーションを持たせない日本での努力の価値

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日本は、高いモチベーションを持たせる環境ではなくなったのである。前回の雑文で述べたように、日本は世界で最低のモチベーションレベルにあるとのことである。真剣に努力しながらも報われない環境だと思いがちであり、努力の価値を尊ばなくなることは、理解に難くない。しかし、それは全く努力しないことを正当化するわけではない。自らのポテンシャルを完全に活かすためには、真剣に努力する必要がある。努力は人生における業績に繋がるものであり、かつ人生の意義を生み出すものだからだ。それにもかかわらず、努力の価値を見失った人が多いのではなかろうか。

努力の価値を見失う傾向は、大卒新人離職率の推移でも表れている。すなわち、努力の価値を見失い真剣に努力し続けたいという気持ちにならず簡単に辞めてしまう新卒就職者が近年増加している傾向が見える。換言すれば、仕事に対するモチベーションが足りていないのである。

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出所:厚生労働省による新規学校卒業就職者の就職離職状況調査 城繁幸[2006]『若者はなぜ3年で辞めるのか?年功序列が奪う日本の未来』光文社新書

社会人のモチベーション不足は、日本での教育体制にかかわる問題ではなかろうか。つまり、モチベーションの発達に最も必要なのは、明確かつ具体的な目標の設定である。明確な目標が無ければ、何のために努力しているのか全く解らず、真剣に努力したいという気持ちにはならない。努力の価値を理解するためには、明確な目標を設定する必要がある。ただし、批判的思考による判断力が無いと、将来的な目標の設定が非常に困難になる。従って、判断力の育成は、教育体制の役割の一つである。

しかし、日本での教育は、批判的思考による判断力を育成する教育ではない。原田教育研究所の原田隆史氏によれば、いわゆる「自立型人間」は全体の5%の人を占めており、圧倒的に多い95%の人が「依存型人間」だとのことである。つまり、95%の人が積極的に生きておらず、自らのポテンシャルを無駄にしているのだ。その原因は、判断力を発達させない教育体制、すなわちモチベーションの高い自立型人間を育成しない日本の教育体制にある。いわゆる「ゆとり教育」の最大の問題点は、学力低下ではなく、完全に生徒の将来のためになっていないことである。例えば、学校週5日制等の改革に関しては、80.4%の小学校教員および89.1%の中学校教員がおおむね子供のためになっているとは思わなかった(出所:学校5日制完全実施後の「教員勤務実態」調査報告 苅谷剛彦[2008]『学力と階層』朝日新聞出版)。生徒の将来のためになる高いモチベーションを持たせる教育体制を創る必要がある。そのためには、判断力の発達に注力せねばならない。

欧米の教育体制では、批判的に分析し自分で判断する能力の育成を必要とされる。そのために、幼少期からディスカッション等を通じて子供を自分で考えることに慣れさせるのである。批判的思考による判断力の発達には、批判的に考えさせる機会を与える直接会談のあるコミュニケーションが必要である。米国のような「ロー・コンテクスト・カルチャー」、すなわち文脈への依存度小の文化では、自らの意見をストレートに伝え、相手と会談する傾向があり、直接会談の多いコミュニケーションが発生する事は、想像に難くない(出所:エドワードT.ホール(安西徹雄訳)[2003]『Beyond Culture(文化を超えて)』研究社英文叢書)。ところが、ロー・コンテクストだけでなく「ハイ・コンテクスト・カルチャー」(文脈への依存度大の文化)も欧州で多くあり、何故そのような国の教育体制でもコミュニケーション能力の発達に注力するのであろうか。何故なら、欧州は、多言語かつ多文化のある環境であり、近隣諸国との国交および経済関係のために、欠くべからざるコミュニケーション能力が重要である。従って、欧州の「ハイ・コンテクスト・カルチャー」の国でもコミュニケーション能力に注力する。

その一方、島国で「ハイ・コンテクスト・カルチャー」の日本の教育体制では、批判的思考による判断力の発達に注力しない。クラス内のディスカッション等を行うのは、非常に珍しい事である。すなわち、主にトップダウン教育制度になっている。その結果、多くの学生は、自分で考える事に慣れておらず、自分で判断して失敗する事を恐れるのである。ただし、日本は、大学に入学するまでは、自分で判断しなくても目標が設定される環境である。つまり、大学への進学という目標があり、どこの大学を受験するか、本人ではなく外的な判断に基づく生徒の「レベル」により決め付けられる場合が多い。明確に決まった目標があり、一時的には努力するだろう。

しかし、それ以降の将来的な目標は無く、進路に迷ってしまう人が非常に多いのである。その上、大学卒業後の目標が明確に解っていない事により、勉強における努力と将来的な目標の繋がりを感じておらず、入学試験に挑戦し懸命に勉強してきたのにもかかわらず、大学での4年間を無駄にする、遊んでばかりいる大学生は珍しくない。将来的な目標を明確にしないと、どこの大学に挑戦するか決めても意味が無い。入学試験への挑戦だけではなく、長期的に考え、それ以降の目標を設定する必要がある。

欧米では、将来的な目標を明確に解っており、その目標を達成するために大学で何を勉強するか自分で判断するのは、当然な事である。しかし、日本では、どこの大学またはどこの学部の入学試験を受験するかは、前述の通り、本人ではなく外的な判断に基づく生徒の「レベル」により決め付けられる場合が多いのである。日本では、大学に入学するまでは、どうすれば良いか言われ、自分で考える必要はなかろう。ところが、自分で考える事に慣れておらず、指導する人がいなくなり急に自分で判断しなければならない事になると、迷ってしまうだろうことは、想像に難くない。

勉強における努力の価値および努力の意義を理解させない日本の教育体制には深刻な問題がある。日本の教育体制を、努力の価値を理解させる、高いモチベーションを持たせる教育体制へと変革させねば、悲惨な将来になるのではなかろうか。

また、教育体制にかかわる問題だけではなく、就職制度にも多くの問題点がある。終身雇用制度の時代は終わりながらも、過去の年功序列制度はいまだに残っている。年功序列制度は、高いモチベーションを持たせるものではない。その上、安定だった終身雇用制度の時代と全く違うフリーターの時代すなわち労働生活の不安定な時代になった。経済大国である日本では、労働生活の安定性が無くなったのである。つまり、日本は、努力しても報われない不安定な環境になったと思いがちである。このような環境では、絶望感に襲われることは、理解に難くない。しかし、努力しても報われないはずは無い。最も重要なのは、希望を持つことである。フリーターの10年後の希望と予定を分析すると、希望する職業に就ける自信が低いと言えよう。自らの目標を必ず達成すると決心する上、何事にも揺るがない信念が必要である。

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出所:山田昌弘[2004]『希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』筑摩書房

不安定な時代だからこそ、大きなチャンスがあるはずだ。従って、リスクを上手く管理し、この時代ならではの機会を活かすべきである。ただし、そう言いながらも、チャンスを簡単に手に入れられるわけではなく、自分でイノベーション精神を活かし、ユニークなチャンスを創る必要がある。自らの道を切り拓かねばならない。

真剣に努力しても必ずしも計画通りに行くわけではない。しかし、報われない環境だから努力しても意味がないと最初から思ってしまい、全く努力しないと、結果は確実にわかる。努力しないと成功するはずは無い。真剣に、懸命に努力し続ける覚悟を決めて邁進すれば、確実ではあらずとも、成功する可能性はある。日本を、そういう希望を持たせる環境にしなければならない。

自らの可能性、自らのポテンシャルを活かすことは、努力の意義かつ挑戦精神の意義である。人生を決して諦めてはいけないのである。つまり、モチベーションを持たせない日本でも、自らのポテンシャルを無駄にしてはならない。努力の価値はまだある。人生に挑戦する意味はある。

*   *   *   *   *
【プロフィール】Robert DRACEA(ロバート・ドラーチャ) 1986(昭和61)年生まれ。東欧のルーマニア出身、カナダ育ち。(ルーマニア革命の時にカナダに移住)カナダのヨーク大学のSchulich School of Businessにて国際経営学を専攻。現在、早稲田大学の国際教養学部に所属。

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ご理解・ご協力のほどよろしくお願いいたします。

ロバート・ドラーチャさんの論に大方 賛成です。

目標と動機(モチベーション)の関係は、
その目標を達成するための手段に依存します。

欧米では、将来的な目標を明確に解っており、その目標を達成するために大学で何を勉強するか自分で判断するのは、当然な事である

つまり、欧米では、目標を明確にすることと、その目標を達成するための手段との認識がはっきりしているということですね。
目標がいくら明確でも、それを達成するための手段にたいする認識が不明瞭では動機は沸いてこない。

これで、この前の事業仕分けのことが思い浮かびました。
つまり、目標と手段の関係が明確にそして具体的に関連付けられていなかったことがわかった。
その事業が設定する目標を実現するための手段の認識があいまいであることが暴露された。

で、もしかしたら、これは日本人一般の問題なのではないかということですね、

日本は労働生産性が欧米に比べても低いということが問題になっている。
だから、長時間労働になるのだという。
これも、ロバート・ドラーチャさんのご指摘のことが関係しているかもしれない。

仮説 1: 明確な目標を設定し、その目標を達成するための手段を具体的に思考する力が
日本人には弱いから、労働生産性が欧米に比べても低い

目標がのみが明確であっても、手段があいまいであっては、動機が強化されない。
その手段を考える力は、教育によるということですね。

自己実現のためであるとして就職する若者が少なからずいるそうです。。
その場合、自己実現 - 目標
職場で働くこと - 手段

これだと、おそらく 目標と手段がかみ合う確率が非常に低いことが想定されるので、
すぐにあきらめて辞めていく若者が多いというのもうなずける。

日本での教育は、批判的思考による判断力を育成する教育ではない。

完全に同意。わたしも 以前からそう思っていました。
これについては、色々な事例を出せると思います。

私の小学生の頃に作文教育というのは、
「なんでもいいから 思ったことを作文しなさい」とか、
「遠足について」というテーマならば、
「好きなようにその感想を書きなさい」という教育法だった。
最近分かったのは、未だにその教育法が 大方 変わっていないらしい。
なぜこれがわかっかたというと、PISAという国際学力調査結果についての記事を読んでいたら、
そういうことが書かれてあったので、「えっ、まだ同じことをやっているのか」と
驚いたということがあります。

私が小学校のときに受けた作文教育が未だにおこなわれている。
これを見て分かるのは、教育法というのは 中々 かわらないものだということ。

批判的思考による判断力を育成する教育
というのは、論理思考にかかわることです。
で、たとえば、国語の作文で 「論理的に」文章を書かせるというのを
早いうちからやるのは、おそらく日本人の文化に抵触する問題かもしれない。

仮説 2: 国語の作文教育で 「論理的に」文章を書かせるいうのを
早いうちからやるのは、おそらく日本人の文化に抵触する

この推測は、私の単なる勘です。なんら論理的なものではありません。(笑

社会学者の宮台さんの言う 「日本人にとっては事実性が重要である」というのも、
裏を返すと、「日本人は論理的にものを考えない国民である」とも取れる。

ですから、
推測
早い時期から 幼児に論理的な作文を書かせることに対する抵抗感が
日本の文化のどこかにあるのかもしれない。

動機(モチベーション)を上げるには、
目標の明確化と、その目標を達成するための手段の有効性の計測が必要なわけでは、
これを行うことはまさに 論理思考なわけで、
その論理思考を行う教育が日本では行われていない、ということですね、

基本的に同意です。

 こんばんは。

 ロバート・ドラーチャさん、前回論説の冒頭

「日本は現在、危急存亡の秋を迎えている。」

に強い共感を抱き、私なりに機会を見つけて(別テーマへの投稿など)はいろいろ書かせていただいています。

 ロバート・ドラーチャさんご指摘の「努力の価値・意義喪失」が日本人からモチベーションを奪ったという説に同意します。

 私は、日本国の躾、教育の場から「強いること」と「争うこと」を排除して以後、「努力の価値・意義喪失」が生じたのではないかと考えています。

 以下の私の主張は、別テーマへの投稿を想定して書いたものですが、主旨が近いと感じますので、ここに投稿させていただきます。 

★ 成長戦略議論は『人づくり』から-競争心 ★
 
 初・中等教育に携わる教師達の中には、都道府県の所在、県庁所在地都市名、主要国の所在地、首都の所在地名、太平洋戦争対戦相手国、・・・etc.、常識と思しき知識さえ身につけていない者が少なくないとの指摘があり、また、少子化に伴って生徒獲得に躍起な高校、大学などで導入拡大された推薦入学、A.O.入試などで入学した生徒の激しい学力劣化が指摘されている。更に、中には名前を書くだけで合格させるような入試の形骸化も指摘され、中途依願退学者の急増の原因とも言われている。確か第1ベビーブーマー世代終盤辺りだったか、所謂受験戦争の弊害が喧伝され、所謂「偏差値教育」、所謂「詰め込み教育」などに(一部勢力の邪な意図の下)責任転嫁され、教育の場から競争(と強制)が忌避されたことによって生じたのではないかと思う。。

THE JOURNAL【速記録】檄論檄場第8回 総選挙2009 歴史は動くのか!?(3) 2009年08月30
の中でのひとコマ

・・・・・・・・・

【田中】 これからどうやって政党政治が官僚政治に変わるのか。

【平野】 統治構造の問題じゃなくて、人間の問題。明治生まれの官僚出身の政治家は、官僚出身であったけれど、政治家として厳しかった。福田赳夫さんもそうだったし、ケジメをつけていた。今の政治家で、何とか塾とか、外資系などから来ているような連中は、偏差値が高い。偏差値が高いということは、人間性を喪失している(笑)。そんなのが政治家になってね、政治主導って、己自身を知れと。与野党の若い政治家にそういう謙虚さがない。点数付けて、一番エラいと思っていますからね。謙虚さをどうやって教えるか。教える立場の当選4、5回の人達がまたね(笑)。まあ、今日は悲観的なことを言っておいた方がいいんですよ。

(田中さんの質問が今一釈然としませんが・・・)

 平野さん世代が『人づくり』責務を怠っていた、或いは、間違っていたと自ら認めるような発言だが、象徴的に「偏差値」という言葉が出てくる。私は、学習能力が高いこと、学力が高いこと、「偏差値」が高いことそのそもは非難されるべきことでは無く、平野氏のように「偏差値」無知、「偏差値」恣意的曲解の悪弊に責任転嫁して、そこから先の思考を停止したことに、今までの約60年にわたる『人づくり』失敗の根源を見るような思いだ。所謂学力教育と同時に「人間性教育」が必ずあるべきであると思うが、この所謂「偏差値教育」に責任転嫁しての主張は、平野さんに限らず、一時期、日本国に蔓延した所謂進歩的文化人、新左翼系言論人、・・など垂涎の主張で、結果、日本国の教育から競争心育成機会を奪い、無定見な権利主張を生み、抑制の効かない優しさが能力差を差別と言い包めて能力あるものへの羨望を無謙虚と言い放つ僻み根性を正当化し、・・・日本国の活力を阻害したのだと思う。

 今、所謂「ゆとり教育」見直し機運が高まり、主要教科授業時間数増、学習知識量増・・・などが俎上に載せられ、一部実践もされている。しかし、少子化が学習競争心、受験競争を衰弱化させ、かつてあった責任転嫁先、所謂「偏差値」の意味は、今は殆ど無い。そこで、本来の「偏差値」の意味、意義、役割を再検証し、所謂「詰め込み教育」意義の再検証と合わせて、健全な学力格差是認、健全な学習競争心・受験競争を再考し、勉学の切磋琢磨を通して、児童・生徒個々の学習能力向上技術の習得体験、自身能力所在発見とそれに合った自身の役割探求、異種能力・役割者への理解と尊敬を通して様々な他人との意思疎通術の習得、理解不能世界への謙虚な対処法の習得、・・・などをさせるべきであると思う。

註:所謂「偏差値」=学力偏差値
 これは、学力相対評価指標中の一つに過ぎず、それなりの統計学基礎知識が無ければ正しい理解・使用は不可能。また、この指標評価には前提(分布が正規分布に近似していることなど)条件が必要で、模試などの問題の質や母集団の質にも課題があることを忘れてはならない。学習偏差値の正しい理解、正しい使用に必要な統計学的知識は、高校レベルの知識で十分だが、大学入試科目としての採用に偏りがあったこともあり、高校の授業で蔑ろにされがちな分野であった。しかし、自分の合格可能性を測る、受験生にとって唯一といって良い客観指標であることには今までもこれからも変わりは無く、これを一つの指標として学習の切磋琢磨(受験生同士の教え合いも含めて)、他受験生との争いがある(相対評価の意義)。

 日本のGDPが、今当に、第2位から転落しそうだと話題だが、何を今更・・・。既に、約10数年前に、国民一人当たりGDPは急坂を転げ落ちるように転落し、PPPベースでは既に10年前、2000年には17位になり、それ以後そこから上には行ってない。バブル崩壊が日本国心臓部病巣を露見させて以来、デフレーターはマイナスのまま、可処分所得は減少の一途、活力は失われ、昔の栄光、実態が在るのか否かさえ疑わしい「ものづくり、科学技術は優れている」神話にただただ縋るだけで次世代育成方策等閑の滑稽さ。

 製品開発には多くの外国人技術者・研究者が携わって支え、次世代ものづくり技術者育成が遅々として進まないまま中小企業内熟練技術者の高齢化、退職が進んでいる。第一ベビーブーマー世代終盤以後世代から「偏差値」競争活力、「詰め込み教育」学習能力開発機会を奪いはじめ、競争への、強いられることへの嫌悪、「偏差値教育」への、「詰め込み教育」への嫌悪を刷り込んでしまった失敗は、幾世代かを経なければ取り戻せないほど大きなダメージを日本国に植えつけたのだと思う。

 例え、今すぐ回復への方策を打って復活まで後2~3世代、50~60年の時間を要するしとても、かつての活き活きとして、眼差しの先に明るい未来を観、「きっと将来は幸せになれる」と信じて切磋琢磨出来た日本国を、その兆しだけでも得られるなら、早速、その方策を考え、実行するべきであると思う。

 一時期、同業種内競争の衰弱が国際競争力を阻害していると言われ、市場原理主義に基づく競争原理導入を謳って規制緩和が進められた。しかし、そこで働ける人々、耐競争ストレス能を有した人々を育てないままに、実態から乖離して空疎な理論だけが振り翳された結果、多くの人々には未経験のストレスが蓄積し、世代を跨いでストレスが伝染し、日本国には縮み思考、小幸せ嗜好、ドメスティック志向、・・・などが蔓延して、何がしたいか問われた子供が「チョット ゆっくりしたい」などと応え、外国駐在を嫌う外交官が生まれ、海外勤務を嫌う商社マンが生まれ、・・・など、笑うに笑えない現実が齎されたのだと思う。

 先ずは『人づくり』から。活力ある社会を希求したいのなら、幼い内から、人々は全て異なり、自分の意志を実現するためには他人を押しのけなければならないこと、つまり、競争しなければならないことを教え、競争しながらも他人と意思疎通を図る術があることを教え、その競争の中で勝ち抜いていく術を教え、その競争敗者の尊厳を保つ術を教え、自身の競争分野とは異なる様々な分野があることを教え、他分野にかかわる人々への尊敬を教え、未知の分野があることも教え、未知への謙遜を教え、・・・偏狭を生む不可知論的断定を退けることを教えなければならないと思うのです。

 別テーマへの投稿では「論理」の大切さを繰り返し訴えてきたが、勿論、情操の成熟も必要だ。「愛」をテーマとした投稿で、私は【OMOIYARI】(和語「おもい」から派生した、他者の心へ「おもいやる」の意)が、畏れ多くも「友愛」より優れた概念だと大言した(笑。その「おもいやり」の心が意味を持つためには、多様な学習・経験を経た「想像する力」が不可欠であると思う。未成熟なモラトリアム期にある者達に、無意味な大人擬似「権利」を付与して我侭を育てるのではなく、その者達の嗜好に拘らず大人が学習・経験を強いる事、そのことによってのみ得られる精神的体験が、集団学習の場におけるその精神的体験は殊更、重要であると思う。それは、大人擬似「権利」を振り翳して「自分らしさ」、自身の嗜好に縋り付いていたのでは絶対に体験できはしない。そこから未知への畏敬、他への謙虚、「おもいやり」の心、「想像する力」が生まれるのだと思う。

 日本国に活力を復活させるには、競争の意義を見直し、競争を厭わぬ『人づくり』をし、その人々がこの国を造っていかなければならないのだと思う。そのような『人づくり』が前提に無ければ、政治体制云々、産業構造云々、・・・などの議論は、ただ虚しい失敗体験の繰り返しを試みる自慰行為に過ぎないのではないかと思う。

 ところで、欧州や日本の精子の多くは競争力が貧弱で元気が無いらしい。一方、多夫婚世界に住む動物の精子は、子孫存続競争にされされていて非常に競争心旺盛で元気なのだそうだ。ひょっとしたら、一夫一婦制思想世界に住む我々人間、特に男子は、Y染色体劣化と相俟って、精子役割成就競争力の衰弱によって活性が失われ、ひいては、人間の活性が失われ、人間絶滅の危機に瀕しているのかもしれない。競争心や闘争心が失われた社会は、衰退するが必定であることは、歴史に学ぶまでも無い。(勿論、精子の劣化はホルモン様化学物質の摂取に原因があるのかもしれないが、米国ではどうか?)

 価値観の多様性は争いを生む。それぞれの価値観存続を懸けて闘争する。それこそが活力であり、未来を切り開く原動力になるはずである。「癒し」を求め、慰めあうだけの「愛」を求め、何とは無しの「優しさ」が相手を選ぶ基準になり、「やわらかぁ~い」が美味しさの形容になり、争い合うことがストレスになり、競争に疲れてその意義を忘れ、競争・闘争への忌避意識が蔓延した社会に、明るく輝く未来などあろう筈も無い。

ドラーチャさんこんばんは

新人離職率の高さ:親の責任

日本における大卒新人離職率の高さは確かに異常です。中卒、高卒でも同様の傾向が見られるようで、一例を挙げれば、都内の有名寿司店でアパート・食事付きで高卒男子を採用してマンツーマンで技術を教え込み、将来を半ば保証されているような人もうらやむ厚遇をしても、無断遅刻の罰として1回殴れば皆やめてしまうと言うのです。私なんか後輩が無断遅刻したら何年もネチネチ非難していた方ですから、優しいお寿司屋さんがかわいそうでなりません。家庭における子育てが無茶苦茶になってしまったと言えるでしょう。民主党支持者も自民党支持者も社民党支持者も共産党支持者も表ではそれなりの主張をしていても、家庭に帰れば全くの馬鹿親ばかりなのです。根っから子ども好きの親馬鹿じゃなく、厄介者の子どもを手なずけることに精を出すだけの馬鹿親が日本社会を席巻してしまったのです。公教育の責任もあるでしょうが、最大の戦犯は親だと思います。

自立型人間の育成:社会の責任

自立型人間が5%という説もまた納得のいくものです。これを私は「扶養する者」と名付けています。米軍の研究で指導力を発揮する兵士は15人に1人程度とされていることを考えると日米で大差はないかもしれません。問題は、自立型人間がどう評価されるかです。日本の場合モチベーションの高い子どもや若者の夢を育てるシステムが全く整っていません。明治から戦後しばらくまでの日本では、国を挙げての人材育成体制があったと思われますが、今では「個人で勝手に成功せよ」という潮流が支配的となり、倫理面においては社会貢献の意義を子どもに全く教えなくなりました。子どもたちの勉強の目的は自分一人の幸福だと親も教育者も教えるわけです。その結果金持ちの子どもだけがエリートコースを歩むという情けない国家と成り果てました。私学が勝手に受験エリートを集めるのは止めにくいとしても、公立学校すら機会均等という公教育の原理を忘れ去り、中高一貫教育という金持ち馬鹿親の欲望を刺激するシステムを信奉し始めています。小学校卒業時点で人生が分かれるなんて義務教育とは言えません。

モラルある起業家像を作れ

95%の「依存型人間」を私は「扶養される者」と呼んでいますが、西洋式2分法では不十分で、「金儲けに励む者」が若干いることも考慮すべきでしょう。この「金儲けに励む者」は企業家精神に富むと言えそうですが、私は必ずしも高く評価していません。起業家は詐欺師(最近の例では堀江貴文)であることも多いからです。まともな倫理観を持ち社会貢献を目指す起業家像を我が国は作り出さなくてはならないでしょう。エジソンやフォードの様な偉人伝の発掘を出版界はすべきです。

ではまた。試験頑張ってください。

非常に考えさせられました。

自分を重ね合わせながら日本の人達を見てみると,もともと台風や地震,火山噴火,津波,時には戦争により,もともと安定した営みを続けにくい土地柄で安定を求めて必死に頑張ってきた人達が,外的要因が安定した途端に満たされてやる気をなくしただけかなと思います。つまり,外的要因がなければ日本人はもともとやる気のない人達だったような気もします。

一回壊れないとだめなのかなあ。

さらには,日本人の外的環境に対するストレス耐性は割と高いですし,それほど豊かでなくても満足してしまうところがまずいんじゃないでしょうか。高度経済成長期からバブル崩壊までの期間って,受験から仕事,過密と過消費,ある意味狂気の沙汰でしたよね。でも,その競争のおかげで質も保たれたわけですしね。

内的モチベーションを大事にして教育する国も多いと思いますが,あまりきれいごとを言い過ぎてもねえ。ただ,今の日本は,中学校のガラスが全部割れて管理教育の弊害が叫ばれていた80年代よりはるかに元気がないのは確かですね。それと,今の無気力問題を見てみると,90年代の日本が意図した通りの若者が育った結果だ,ということも間違いない事実だと思います。

難しいです・・・。

地域主権が人々にモチベーション与える起爆剤になる
理由: 地域主権 → 問題解決型社会


ロバート・ドラーチャさんの投稿「モチベーションを持たせない日本での努力の価値」を踏まえて、
なおかつ そこに提起され課題をどう乗り越えるべきなのか、という点について、かなり粗いですが
雑駁な考えをまとめました。生煮えですが、ご容赦を

「日本人は、自分たちの足もとの経験、もしくは、もっと狭い経験を、非常に信頼する人々である。」
(日本文化論  川喜田二郎著)
これは、社会学者の宮台氏のいう 「日本人にとっては事実性が重要である」とも合致している。

それで、文化人類学者の川喜田氏も、 宮台氏も、この裏腹となる日本人の欠点として 次のことが導き出されることで一致している思う。

「日本人は論理的にものを考えることが不得意な国民である」

この点は、ロバート・ドラーチャさんの「日本人は目標と手段の設定力が弱い」→「動機の低さ」
という意見につながっていく。

日本人の論理性の弱さ について、さきの川喜田氏の著書から引用してみます。

「日本人たちは経験を第一に信頼し、出来あいの理論を第二に信頼しているが、この両者を状況に応じて
使い分けるのみで、両者の間の結合が甚だ弱体なのであろう。そして、それらの結合は、つろうじて「勘」に頼っているのであり、 1)経験の理論化、とか 2)理論の経験的テスト、とかを科学的自覚的に駆使してはいないのである」(日本文化論  川喜田二郎著)

出来あいの理論とは、この場合、欧米から輸入された理論を意味している。
自分たちで理論化するのが苦手だから、欧米から出来あいの理論を輸入しているとも言える。

で、これを乗り越えるにはどうしたらいいか、ということですね。

1) 長所 「日本人は、自分たちの足もとの経験、もしくは、もっと狭い経験を、非常に信頼する」
2) 短所 「日本人は論理的にものを考えることが不得意な国民である」

実は、1)と2)は裏表の関係にあるといいました。
これらの 1)と2)を踏まえたうえで、どう乗り越えていくのか。

今週 のNHKのクローズアップ現代を見ていて思ったことがあります。

日本人は、「問題解決」ということには卓抜した能力を発揮する民族ではないかということ。
この場合の「問題解決」というのは身近な目の前の問題解決ということで、それはそれで問題なしとしないですが、生活にかかわる目の前にある自明の問題については、その解決努力のためにみんなが力を結集し、協力しやい国民性ではないかということ。

仮説: 日本人は目の前の自明の問題の解決のためには能力を発揮しうる人々だ

NHKの番組で「ご近所の底力」というのがありますが、
ある自明の問題を提示して、それを共有する人たちが知恵を出しあって、解決に当たる、
というのは けっこう 日本人にとっては居心地がいいのではないか。
つまり、日本人の文化にあっているのではないか。

これも、ただ放っておけばそうなるということではなく、やはり仕掛けをしないと 人々が結集して
生活にかかわる問題を解決しようという動機付けは はかられないでしょう。

それと、
仮説: 「日本人は生活にかかわる目の前の自明の問題の解決のためには能力を発揮する」
の前提なるのが、 日本社会の地域共同体がきちんとしていること。
共同体が弱体化すると、この仮説も有効性を失うかもしれない。

というのは、人々の生活にかかわる目の前の自明の問題を解決しようとする動機は、近くの人々の間での共有感から生まれてくということがあると思うからです。
「みんなのために」「みんなが見てるから」「みんなに認めて欲しいから」という感覚をもたらす近くの人々の間の結合の度合いが弱まると、この問題解決への動機も薄れかもしれない。逆にこの結合の度合いが強いと、日本人は非常なエネルギーを発する可能性が高いと思う。
(ここで、高野さんの地域主権国家が関係してくる。地域主権国家というのは、問題解決型社会をつくり出す
可能性があるからだ。)

「問題解決」志向を養っていくことは、これからの日本人の文化的長所を能動的に引き出すための有効な方向性ではないかということ。
NHKのクローズアップ現代では、そういういき方が 海外での日本企業の国際競争力にも貢献している事例を
いくつか出していた。例として、日本の人口の老齢化問題を取り上げていた。人口の老齢化は、日本人にとってはまさに自明の問題です。これを地域や企業のレベルで問題設定化することで、そこから知恵が生まれ、
回りの人々の関係性が能動的に築かれていく。自明ではあるが漠とした不安を課題として把握し、そのための解決をどうすかるを思考することで、人々が協力しあたったりするようになる。日本人の文化的長所が活性化されるはずだ。

ここには、これからの日本を考えるとひじょうに重要な示唆がある。というのは、目の前の漠とした不安を問題意識化して、それを解決する努力するような姿勢をとるようになれば、不安の対象であった状況に対する認知が変わるからです。

あまり欧米だけを範として見ているだけでは見逃すものがあるかもしれない。
日本には日本なりの長所があり、それを文化的にきちんを把握して、引き出すことが必要だ。

それと、これは日本人の短所ですが、日本人は自分たちの長所をシステム化することにあまり意を用いないということ。日本人は自分たちの文化的特徴なり、長所を自覚的に把握して、それをシステム化することには
あまり関心がない。

社会学者の宮台氏によれば、これは
「日本人は自分たちの長所を自然に備わっているものととらえてしまうからだ」ということになる。

日本人は眼前の問題を解決しようとする場合に能力が発揮されると言いましたが、そのことと日本の論理的思考能力の低さというのは、どう把握したらいいのかという点について。
というのは、自明の問題を解決するにも論理的思考能力が必要とされるからだ。

この点については、日本人は
1)経験の理論化、とか 2)理論の経験的テスト、とかを科学的自覚的に駆使してはいない
という川喜田氏の指摘が重要だ。

私なりに解釈すれば、
日本人は目の前の問題を解決するには高い能力を発揮するが、その経験を蓄積して、
高度に理論化をすることが不得手だということになる。

日本人という語をとりはらえば御主旨にはうなずけます。

自分が若い頃の周囲やその後今日に至るまで自分が接した交流のあった異人種異民族異国家の老若男女の有様を思うと御主旨が現代日本人というくくりに特に当てはまりやすいかは疑問です。

人種でも民族でも国家でも男女でもない(幼児環境や老若や時代は効いてそう)くくりを持ち出さないと有意な差は説明できないんじゃないかと。単純に僕の経験値による仮想(仮説とはいえない)ですが教育・制度・言語・人生などの単語に接するたびに常々頭に去来することであります。

この世に偶然などなく全ては必然であるらしい物理学におけるスーパースターがなぜか社会科学でもスーパースターになってわけわからぬ内に(偶然にというとすればなんという皮肉)両科学の融合が起きてその結果サルにもわかるように新しいくくりを持ち出せば面白いだろうが僕には無理よねと結局現代日本人らしく情けなく〆てみます。

弟が、昔、文部省にいましたが、赴任して3ヶ月後、ここは鬼の棲家だと気付き、3年後にある大学に転出。

両祖父教員、父母教員、弟たちが大学の事務屋・教員、親戚の多数が教員、妻が高校の教員という、環境で育ち生活して来ました。

ペスタロチを知ったのは、小学生になる前、そして家では教育論争が絶えなかった。

皆さまの論評を読みながら、大方賛同します。

私も思いますのは、日本の家庭教育、学校の教育で論議する場、人の前で自分の意見を吐く場が少ない、大学では、理学部・工学部で哲学などを学ぶ時間が、欧米と比較して極端に少ない、また、入試で考えて解く問題が少ないと思います。

言いたいのは、考えるエリートはほんの一握りでよく、残りはあまり考える人間を意識的につくらないという国の方針が貫かれてきたように思います。

これからは、目先の利害にとらわれ過ぎない伸び伸びした、人間は考える葦の教育を100年の計で推し進めるべきでしょうね。

科学技術の道を歩んでおりますが、一般に一般教養のない大学人・研究者や技術者があまりにも多いです。人間が薄っぺら。欧米の研究者とお付き合いしますが、まともに日本の歴史・文学・芸術・歴史・伝統・文化・俳句・短歌など少しでも語れる方は少なく、たびたび日本人として恥ずかしく思うことがあります。

グローバル化した今日、日本が世界の中で生きていくには、日本の教育は、根底から見直す時期に来ていると思います。

本文の《原田教育研究所の原田隆史氏によれば、いわゆる「自立型人間」は全体の5%の人を占めており、圧倒的に多い95%の人が「依存型人間」だとのことである。》のご意見に賛同できます。
その中で、本文、及び投稿者のご意見以外に感じることがあります。
依存型の人間が模範とするものは、その組織のトップであろうと思う。
家であれば、親。
会社であれば、社長。
国であれば、政治家。
いつの間にか、そうしたトップのモラルが、崩壊していると感じています。
子は、親を見て育つと言います。

今話題の事柄を見ても、多くの依存型人間は、どう感じているのだろう。

与党・野党問わず、この近年政権という権力を取るためだけに、活動している。
「八ッ場ダム」・「八郎潟における減反推進派と反対派問題」対立軸を打ち出すことで、自分達の正当性を認めようとする動き、そのに住む住人を半分に割り、その禍根をあおるだけで、なんら解決する訳でない。
「冤罪問題」を初めとする司法・検察のやりよう。
「勝てば官軍」です。

密室で物事が決まっていく政策。
相反する意見は、暗黙のうちに封じ込められる。
仲間でない者は、つまはじきにされる。
まるで、現代社会の「いじめ問題」そのものである。

人の足を引っ張ることだけに専念する。
陰湿・ねたみの増長。

訳のわからない、某関係者からの証言報道。
報道の秘匿性があるというが、公開するといっせいにバッシング。
実名公開の勇気を評価もしない。
実名を公開すれば、今までの信頼感が失われる?
そんなものが、真の信頼関係であるはずがない。

数え上げたら、きりがない。

これがいい大人の行動、模範とする大人がこうしているから自分達もそうしているんだ!と言われて反論できる人がいるだろうか?

こうした大人が蔓延している世の中で、子供たちが世間を知るようになれば、モチベーションが下がったとしても当たり前でないだろうか。


ロバート・ドラーチャさま
初めまして。
私は日本人にモチベーションが無いのではなく、世界地図が塗り替えられつつある世界経済において、国内のシステム変更を迫られるに当たり、お手本が無く、単に右往左往しているだけだと思っています。鎖国後、明治の近代化政策には諸外国というがお手本にあり、敗戦後、システムの変更をするに当たり、アメリカをお手本にすることが出来ました。
朝鮮戦争、ベトナム戦争など冷戦構造が実にラッキー(?)に働き、持ち前の真面目さと小手先の器用さで、気がついたら世界第二位の経済大国になっていた....
というのが、日本の現実の姿のような気がします。しかし、バブル崩壊を経て日本はお手本がいない事に気づいてしまったと思うのです。それくらい夢から覚めたら世界の経済構造が激変していた、それだけだと思います。確かに日本の社会は生活習慣の面で激変しました。しかし、それは表層の問題で、日本人の意識は戦前からあまり改革されていないような気がします。それはリスクテイクをしたがらないという性質です。
いま、日本でモチベーションを語っても大方の人は反応しないように思います。何故なら、未来のマニュアルが無いからです。
未来のお手本やマニュアルがあると日本人はめっぽう強い。しかし、真っ白な紙を渡されるとどうしていいか判らなくなります。日本でハウツー本と占いが売れるのを見れば納得できませんか?
私は今の日本人に必要なのは、リスクテイクする勇気とリスクヘッジの技術だと思います。特にリスクヘッジの技術は資本主義のシステムで生き抜こうとするなら必要不可欠な物にも関わらず、リベンジを許さない完璧主義の日本では多く語られてきませんでした。経済活動だけでなく人生そのものに失敗を許さない、または文武両道などという考えは近代において狂気の沙汰だと私は思う。また、こんな考え方では自分自身で未来図を描くことなど、怖くて出来なくなるのは当たり前です。私は、日本人が失敗を嫌うのは、自信が無いからではないと思います。むしろプライドが高いから失敗してずたずたになるのが嫌なのではないでしょうか。
日本人は、過去の成功体験とプライドを捨て、リスクを極力回避しようという意識改変をし、リベンジを円滑にする社会構造を構築しない限り、日本においてどんなに声を大にして語っても、イノベーションは潰されるだけです。
いま、世界中、どの国でも白紙に未来を描く作業をしている真っ最中です。日本だけが苦しんでいる訳では無いと思います。
ただ、他国は白紙に未来図を書く作業を比較的自分たちで行ってきた経験があるからいくらか余裕もあるのでしょう。
日本にとっては未知の世界です。
いくらかもたもたはしていますけれど、他国に出来てやれない事などあるはずが無いと思っています。がむしゃらに経済大国でいる必要も無いけれど、世界から敬意は払われる国でありたいです。私もプライドの高い日本人ですからそう思う。だから、こんなままで日本は終わるもんかと思っています。


う〜ん。以下の部分、よく聞く話しですが、本当でしょうか?

「つまり、モチベーションの発達に最も必要なのは、明確かつ具体的な目標の設定である。明確な目標が無ければ、何のために努力しているのか全く解らず、真剣に努力したいという気持ちにはならない。努力の価値を理解するためには、明確な目標を設定する必要がある。」

50台の大学教授ですが、自分の人生を振返って、ようやくこの年になって目標がわかってきたかな、という気がします。これまでにいくつかの事に夢中になって、モチベーションは持てて、努力はしてきたと思います。ラジオ少年が電子工学科に入って、大学院から脳の研究をしてきましたが、自分の20台を振返って、明確な目標をもっていたとは言えません。当時あるいはそれ以前に、上のようなことを言われたら、全く困って途方にくれてしまったでしょう。20台で例えばどんな明確な目標を持てるんでしょうか?

遠くを見て、何かこんな方向へ行きたいという方向性は持っていたと思いますが、明確な目標は持っていなかったと断言できます。

目的とか目標ははある程度曖昧にしておいて、でも方向は持って、(この科目は目標には特に必要なさそうだから捨てて等と)むやみにオプションを消去してしまわないで、予測できない事を無理して予測しようとせず、その時々を生きるとしても、高いモチベーションは持てるはずですし、私は持てて来ました。

むしろ、こんなことを当然のことの様に若い人に言うから、ボクのような性格の人は真剣に困ってしまって、立ち止まってしまうか自分探しの無茶な試行錯誤で疲れてしまうのではないでしょうか?

明確な目標があれば喜ばしいけれど、無理して本心でない目標なんか持たなくてもいい、と敢えて私は強調したいと思います。

自ら新しく事業を起こそうとする若者が少なくなった原因は、個人事業主の急速な減少にあるのではないでしょうか。
ここで言う個人事業主とは、個人商店や町工場だけでなく、農林水産業・建設建築業・サービス業などを含めています。
農地解放で小作農から自作農になった農業者をはじめ、戦後の日本には個人事業主が まだ多かったはずです。
個人事業主の家庭では、労働(生産)の現場と生活(消費)の現場は近接(時には同居)しています。そこで両親や祖父母・兄姉たちの働く姿を見ながら子供は育ちます。
労働の苦労や厳しさと共に、その楽しさや喜びも肌に感じながら大人になっていきます。
さらに事業というもののギャンブル性を学ぶ機会もあります。賭けに勝って大儲けする快感も、失敗した時の挫折感も身近に感じて育っていきます。
そして重要なのは、事業というギャンブルは、一度失敗してもまた再挑戦することが出来るということを学ぶことです。

それに対して、戦後の復興期から高度成長の時代に急増した「勤め人」の家庭はどうでしょうか。そこでは労働(生産)の現場と生活(消費)の現場は離れています。特に都会では、遠く遠く離れています。勤め人の子供は、労働の内容も意味も知らず、ただ消費するだけの存在として育っていきます。事業の持つギャンブル性も、再挑戦が可能であるということもわかりません。
こうした問題が提起されると、すぐに学校教育が云々されますが、私は学校教育の持つ比重は子供の教育の中でそれほど大きくないと考えます。
いくら学校で議論の訓練を積んだところで、家に帰ればひたすら消費するだけなのです。
それまで労働の持つ意義を知らず、事業に対する理解の無い若者の目的が、会社や役所に「就職」することだけになってしまうのは当然だと思います。
──以上、長文 失礼しました。

国家レベルの目標の喪失が個人レベルでもやる気を失わせとしたら、
そこに日本の問題の一つがあるんでしょう。
それこそ、明治以来の中央集権制度に原因がある。

中央集権だから、国家レベルの目標の喪失が個人レベルでも目標を喪失させる。
この連鎖を立つ必要があるんでしょう。

日本全体が一つの目標を共有するということは無理です。
地方分権して、地域ごとの目標を設定して、
それを共有していけばいいんです。

明確な目標を持たなかった大学教授さんへ

すばらしい方からコメントを頂いたのではないでしょうか。このサイトに出入りしていたかいがありました。

僕の大学時代の恩師は学生であった当時の僕に対し「別に勉強してなくても,バイタリティーのある学生,あるいは何かに打ち込んでいる学生は心配ない。しかし,それがない学生は非常に将来的にまずいんだ」と語ってくれました。おそらく,投稿頂いたこの教授の方は,明確な目標はなかったかも知れませんが,バイタリティーのある,前者に属するタイプの方だったのではないでしょうか。

問題は後者の部類に属する学生です。当時も日本の大学は遊んでばかりのバカ学生ばかりだとよく批判されていましたが,彼らは社会人になるやいなや24時間戦う企業戦士に豹変します。学生時代は勉強よりもバイタリティーを充電する期間として意味づけられていたことに,日本の大学に所属されていたみなさんは異論のないことと思います。

宿題をそつなくこなす人間ばかりが動かしているような国に将来がないことは誰でもわかるでしょう。教授をされているのであれば,この問題は絶対頭痛のタネのはずです。与えたテーマをそつなくやってくれる人間は有難い。しかし,テーマを与えた段階では優秀な人間も,テーマを自分で作り出さないといけない日が必ず来ます。そつのなさだけで乗り越えてきた人間はそこで必ず行き詰まります。しかも,トップが具体的なテーマを与えられないときたら・・・。それが今の日本でしょう。なぜプリウスが開発されたのか。当時のトヨタ社長が「今,業績がいいからといって満足するな。何が必要かもう一度考えろ。」とテーマを与えたのがきっかけ,と聞いています。運良く当時のトヨタはテーマを考えられる首脳陣とそれに答える技術陣がいたということです。

テーマが与えられないところでバイタリティーを発揮する人材,そしてテーマを与えられる人材がこれからの日本に求められていると思います。僕はどっちもだめで,さらに宿題をこなすのもだめと来て,もがいている最中ですけどね。

欧米では、将来的な目標を明確に解っており、その目標を達成するために大学で何を勉強するか自分で判断するのは、当然な事である

ロバート・ドラーチャさんの上記の文を読んだときに、つくづく日本との就職制度の違いを感じました。
欧米では、大学で 学生が学んできた専門内容を前提として、会社は雇うわけだし、また日本のように
一括採用ではない。

日本の会社は、特に文系については、「私はこういう専門を修得しました」みたいな学生はかえって煙たがる。
ということからすると、日本の学生はというのは、就職制度からして 目標を持ちにくい状態に置かれているのかもしれない。せっかく大学で学んだことが就職に際して評価されないわけだから。

冥王星 様 @ 2010年1月10日 08:23:

コメントありがとうございます。たしかに、教員として頭の痛い所はたくさんあり、下記の部分は共感します。

”僕の大学時代の恩師は学生であった当時の僕に対し「別に勉強してなくても,バイタリティーのある学生,あるいは何かに打ち込んでいる学生は心配ない。しかし,それがない学生は非常に将来的にまずいんだ」と語ってくれました。 .....
問題は後者の部類に属する学生です。当時も日本の大学は遊んでばかりのバカ学生ばかりだとよく批判されていましたが,彼らは社会人になるやいなや24時間戦う企業戦士に豹変します。学生時代は勉強よりもバイタリティーを充電する期間として意味づけられていた...”

確かに、バイタリティーのない学生が多くなっているという印象はありますが、なぜそれが起っているのかをよく考える必要があります。

「明確かつ具体的な目標を設定し、それに向かって努力しろ」とアドバイスするのがいいとは、やはり思えません。XX国家試験合格、とかTOEIC 900点を、とかいった当面の目標の話しではないですよね。そのレベルの目標のことであれば、何も異論はないのですが。

一つには、昔は当たり前のように周りを見てやっていれば、それなりに決まった定型路線の、皆と同じような人生になっていった。考える必要も大して無くすんでいった面が大きいと思います。それが、不確定で先の読めない時代になってくずれた。

でも、そういう時代に「明確かつ具体的な人生の目標を設定!」ということが、そもそも出来るのかというのが、私の疑問です。無理難題を吹っかけている事にならないか。

曖昧さ、不確定さをあまり気にせず許容できる能力、その場その場でベストにやっていく能力、先が読めない時にどうするかを考えられる能力、が減退して来ているのではないでしょうか?

グローバル化による雇用環境や経済環境変化と先行き不透明感だけが、そうした若者が増えた原因ではないと思います。学校の勉強以外で夢中になれる「遊び」や活動が貧困化してしまったことが、大きな原因ではないかと思っています。

遊びといえば、即ゲームという、その中で起る事の範囲が限定された人工環境。「ゆとり教育」の一環として取入れられた、大人がお膳立てした、学習指導要領にしたがったプログラムをこなして行く、「お勉強」以外の活動。要するにレールの敷き過ぎと、「きちんと目標が明確に設定された」プログラムのやり過ぎが関係しているのではないでしょうか?そうすることがいい事だという幻想にもとづいて。ノベール賞を30取れるような科学立国とか、大臣が間違った目標を設定するような国です。

子供たちが何でもありの実世界で本当に「遊んで」いれば、ここまでヒドい事にはならなかったのではないかと思います。残念ながら、遊ばなかった子供たちが大学生になってからでは遅いのでは? Damage controlとしての効果はある程度はあるでしょうが。


大学教授さん

「人生の目標」というのは、言葉がすりかえられていますよ。
ロバートさんは 「人生の目標」という言葉はどこにも使っていないでしょう。
「人生の目標」という言葉を
ロバートさんの論考におっ被せて論じることは、誤解のもとだ。


僕がときどき,いや,よく感じる「こんな仕事,頑張ったところで一体何になるんだ?」という気分がモチベーションの低下を意味するのであれば,ドラーチャ氏の文章は直接「人生の目標」を指していないかもしれませんが,それに近いものを指していると思います。

大学教授さんのコメントを読ませて頂きましたが,自分が大学生に舞い戻って恩師と話していたときの感覚が蘇ってきました。大学教授さんはきっと良きアカデミックを体現されている方だと察します。本来は,日本の大学は高等学校までの画一的な教育とはうって変わった存在で,何をやってもいい自由な場所だったはずです。このギャップに僕も含め学生はみんな夢中になっていたはずです。僕はこの感覚を忘れていたことに今,気付きました。すべてにおいてそうだとは言いませんが,大学は究極にはレールの上を走らせるところではないはずです。レールの上を走らせるのであればそれは専門学校と名前を変えるべきなのかも知れません。

それから,僕は大学教授さんのコメントの中で一見見逃しそうな「昔は当たり前のように周りを見てやっていれば、それなりに決まった定型路線の、皆と同じような人生になっていった。」の一文にドラーチャさんの問いに対する鍵が潜んでいると思います。日本は「まず回りを見て」,「みんながやっていることをやる」。すべてがこれに尽きます。「みんなが頑張っているから自分だけ乗り遅れるわけにはいかない」「みんなが頑張っているからもっと頑張る」という発展型も含め,今まで長きにわたって日本人の中心にこの集団心理がありました。みんなが並んでいるから自分も並ぶわけです。そこに目的はありません。これはなかなか外国の人には理解しにくい日本人の習性だと思っています。

目標を持たないで生きていける人は よほど恵まれた人でしょう。

まず ほとんどの人は生きるために働かなければならない。まず、それが
目標となるでしょう。
つまり、とにとかく「働いて食べていく。」これが まずは どの人にとっても
否応なく目標にならざるを得ない。

それがしないで済む人というのは、親からの財産があるとか、とにかく働かなくてもいい人です。
そういうひとは、まず目標なんて持つ必要がない。

まあ、わたしは、働かないで生活していけることを人生の目標していますが。(笑

日本の場合の教育制度の問題点があるとすれば、
「食べるために働く目標」と大学教育がうまく連結していないことです。

欧米では一括採用でなく、事業部ごとの採用だから、大学での専門性が考慮される。
日本では、むしろそういう専門性を会社側が煙たがるから、
大学に入っても、そこで学ぶことが 「食べるために働く目標」の手段としてうまく
連結しない。 
目標があっても、それに対する手段の有効性がなければ、その手段を身につけようとするモチベーション
が発生しない。つまり、大学で学ぶことが「食べるために働く目標」の有効でないのならば、
じゃ大学というのは何をやるところなのか。


大切なのは、人生のそれぞれの局面で、それにあった目標-手段の合理性を自分の頭でちゃんと考えることができるということです。ロバート・ドラーチャさんは、そのことをいっているのだと私は理解していますけどね。そうすれば、モチベーションが下がることはないだろう、ということです。
会社に入れば、入ったなりに その状況に応じて目標-手段を設定して、モチベーションを下げないようする。

ロバート・ドラーチャさんはまっとうなこと言っています。
批判的思考による判断力が無いと、将来的な目標の設定が非常に困難になる。従って、判断力の育成は、教育体制の役割の一つである。

全く、その通りです。批判的思考とか判断力というのは、
何か固定的な人生の目標を設定して なんとかするとのとは違います。

つまり、状況というのは、どんなに予測しても、長期の人生設計しても変化するものです。だから
目標を立てても無意味なのか。
そうではないでしょう。その状況に応じて、目標-手段を設定していけるような判断力が必要であると
言っているのです。
じゃ 長期の目標を立てても無意味なのか。そうではないでしょ。その長期目標を持った上で、状況に応じて改変していけばいいのです。

目標というものを、人生の目標というように、ロバート・ドラーチャさんは固定的なものとして言っているのではない。

「欧米では一括採用でなく、事業部ごとの採用だから、大学での専門性が考慮される。日本では、むしろそういう専門性を会社側が煙たがるから、大学に入っても、そこで学ぶことが「食べるために働く目標」の手段としてうまく連結しない。」

上記、浅山さんのおっしゃる通りなのですが、なぜ、煙たがられるのでしょうね。「煙たがられる」と考えたことはありませんでしたが、確かに私の勤め先でも、大学で何を専攻してきたかは採用に対してほとんど関係ないのです。

ひょっとして、大学は勉学ではなく、人生経験を積むところ、くらいにしか採用担当も考えていないということではないでしょうか。あるいは、大学時代に学業に打ち込んだ学生は逆に社会経験を積んでいないというように、真逆の評価を受けてしまうのでしょうか。

米国では自分の部下は自分で雇います。人事課が雇ってくれるわけではありません。それ故、上司は自分で責任を持たなければなりません。しかし日本ではそういうことは人事課がやってくれます。上司としてはとてもラクなことでしょうが、別の角度から見れば、上司は好き勝手に責任逃れできます。「人事課に不良人材を押し付けられた」で済んでしまいます。

こういう形式が日本的と言ってしまうとそれまでなのですが、その日本的雇用形態も社会の変遷にともなって、役に立たなくなってきている、それどころか社会の停滞や絶望感を誘引する要因に成り果てている、のかもしれません。

教え子の将来をある意味決定付けるかもしれない教育者である大学教授さんの意見を聞いてみたいところです。社会、あるいは大学はどう変わるべきなのでしょう。大学教授さんが語るべきなのは、ロバートさんの言葉尻をとらえることなどではなく、教え子の将来を考えたとき、何をどうするべきか、という前向きな議論なのではないでしょうか。

「明確な目標」という言葉にこだわる必要はないでしょう。些末なことです。ドラーチャさんの提言の心意気が私は気に入りました。社会を上げての人材育成、自分の頭で考える人間づくり、こういった気運を作ろうではありませんか。

天の川様のお話をもう少し詳しく教えていただける機会をお待ちしています。

山和さん

> なぜ、煙たがられるのでしょうね。「煙たがられる」と考えたことはありませんでしたが、確かに私の勤め先でも、大学で何を専攻してきたかは採用に対してほとんど関係ないのです。

この部分は、社会学者の宮台さんの言ったことを参考にさせていただきました。
宮台さんは昨年まで大学の就職支援部長というのかな、なんかそういう役職にあったようですね。
そのときの体験を発言されている。それによると
「就職で受かるやつというのは、会社に入ったら何でやります、というタイプだ。逆に、自己実現とか、大学で学んできた専門に拘るやつは受からない」というようなことを言っていた。
ですから、「大学でこういうことを学んできたので、わたしは会社でこの知識を活かせます」みたいなことをいう奴は、就職ではうまくいかないということなんでしょう。

私は、日本の大学の数を半分にすればいいという主義です。
そのかわりに、高校の充実をはかったほうがいいと思っています。
もっと、高校の多様化を図る。高校の教育内容をさらに充実させる。
あるいは、高校の通学年数を3年から4年とか、5年にする。

今でも高校でやっている教育内容というのは、けっこう高度だと思うんですけどね。
一般人の教養ということからすると、高校の教科書や参考書にある内容はかなり程度が高いと思います。
大学でちゃらんぽらんに学生が学ぶ教養課程よりも、高校の教科書をみっちりやった高卒のほうが、
もしかしたら 知識レベルは高いかもしれない。

わたしは、いまでも 高校で使った英文法の参考書を手元においています。
それ以外にも英文法書は何冊もあるんですが、高校の英文法の参考書で足りることが多いです。

ですから、一般の教養レベルということからすると、高校で習う知識のレベルは決しては低くない。
むしろ 高い。

それと、実業高校をもっと強化すべき。工業高校、商業高校、農業高校、こういうものを地位をもっと
上げるべきです。

社会学者の 本田由紀 さんが 
「日本では、普通高校が実業高校よりも上に見られていて、それは世界的に見て不自然だと」と言われるのを聞いて、「あっ」と思ったことがあります。
日本の将来を考えると、 普通高校と実業高校が 同等か、ある場合には むしろ上に見られるようになったほうがいいような気がしますね。
そのためには、大学の数を半分に減らすことです。

昨年の成人式で、旋盤工として実際に働いている女性がテレビに出ていて、ひじょうにしっかりしているのに驚きました。つまり、おとなんですね。 これはですね、同じ年代の大学の若者に比べると、すでに旋盤工として技術の修得に励んでいる若者のほうが 言動がひじょぅにおとなだ。
その差は大きいと感じました。

本田由紀 さんによれば、たとえば 農業高校などで農業実習している若者たちの人間的結びつきは
強くなる傾向があるといっている。そういう訓練を通じての仲間意志が醸成される。
それは、普通高校にはないものだ。


日本が内需経済で地域密着型に進むということならば、 人々が実業高校にたいする先入観を捨てて、
それらの高校を充実させることが役立つような感じがします。 それは、あくまで私の直感ですけど。

 おはようございます。

 前回の投稿から少しだけ考察を進め、ミクロな事象に拘らず、マクロな現象のトレンドに意識を措いて考察してみました。かなりの長文になりますが、お許しを請うばかりです。


★努力評価の放棄と自律的な動機付け不能★

~~ のっけからお断り(笑 ~~~~~~~~

 以下に述べる私の主張は、幾つかの調査に基づく一定の客観指標に拠りますが、ここでその出典をいちいち明示することはしません。私の主張に興味を持つ、疑念を抱く、批判感情が高まる、・・・などの内発的動機付けをお感じの方は(何故か興奮し、発汗し、のどが渇いて水分が欲しくなり、冷蔵庫内の冷えたビールを取りに立ち上がるような生理的動機付けは除外して(笑 )、各人、自己責任にて、その内発的動機付けの強さに応じて調査して下さい。その調査努力の客観評価は、ここへの投稿に対する評価の形でしか反映され(達成動機付け)ませんが、自己評価はご自由です。自己満足の度合いに応じて、更なる好奇心・興味(内発的動機付け)が強化され、新たな努力意欲も湧きましょう。批判に晒され、具体的反論と質問が寄せられれば、それが強制観念を生み、それによって更なる努力意欲(外発的動機付け)を生むかもしれませんし、意欲が萎え、動機付けが衰弱し、中にはキレキレで不可知論的断定による無自覚能動動機付け遮断という不慮の事故に遭う(笑)方がいるかもしれませんが、それも自己責任でお願いします。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

初中等教育における動機付けの実態

 小学生に対する学習意欲に関する最近の調査によれば、理科や算数、社会への学習意欲が最も高い。それに比べて国語に対するものはそれほど高いとはいえない。更に、中学生に対するその調査では、数学や理科に対するものが激減し、国語に対するものが増える(小学生に比較して)。一方、習熟度に関する国際比較調査によると、各学年・教科とも順位が下がったとはいえ、国際的には高位にあるが、経年変化が無いのは理系科目の読解力に関わる能力の低さである。

 学習意欲と努力の結果評価のあり方について、日本国では個人の意欲の問題として捉える傾向が強く(儒教的精神生活を背景とする説がある)、結果評価は先天的資質に拠るのではなく専ら個人の努力に拠るとする、つまり、「努力すれば報われる」という考え方が多かった。一部の者が為に曲解し、「家庭に問題を抱えていようが、身体容姿がどうあろうが、好き嫌いがあろうが、向き不向きがあろうが努力によって克服すべき、克服できるはずだ、克服するほどの努力をすれば必ず報われるのであり、報われないのはその個人の努力が足りないのだ。」という(これは明らかに似非儒教的精神というべき)ものを悪用することで、様々な悪弊を生んだ。しかし、学習意欲と努力の結果評価を個人の意欲に還元する傾向は、初中等教育における努力結果の社会的経済的背景による説明率の調査をみれば、日本国は他の諸外国中その相関が最も低いことからも、現在でも活きていると判る。

 このように日本国の初中等教育では、行動意欲の喚起、始発させ、目標(能動的なものとは限らない)に向かって維持、調整する過程、機能としての動機付けの内、とりわけ外発的動機付け、社会的動機付け(達成動機付け)が薄弱で、内発的動機付けに偏っている。それは、小学生への「勉強意欲が湧くのは?」という調査で、「授業がわかりやすい」が1位、かなり間を置いて「争い合うライバルがいるから」が2位、「先生に褒めてもらう」が3位、「先生を選べる」が4位、中学生へのそれでは1位は変わらないものの、2位にはやはりかなり間を置いて「先生を選べる」、3位には「クラスが選べる」、4位は「争い合うライバルがいるから」となっていることからも判る。多分、ロバート・ドラーチャさんが指摘している「モチベーション(動機付け)を持たせない日本での努力の価値」とは、このこと、つまり、努力結果評価を社会的・経済的背景による説明によって行う能力、機能(外発的動機付け、社会的動機付け(達成動機付け)などの要素として)が、日本国では極端に欠如しているというものではないのか。

「競争」・「強制」から「ゆとり」へ、動機付けの失敗

 最近顕著なのは、いくら努力しても所得が増えない、いくら努力しても就職できない、・・・と感じている人々が極端に増えているということである。直近の社会情勢を省みれば、グローバル化に伴う競争の激化、不況に伴う雇用側の財政逼迫、・・などが起業環境悪化や就職状況悪化を齎し、努力結果評価の社会的・経済的背景による説明がし難くなっているのだが、バブル期に至る狂騒の中で、努力しなくとも大金が手に入る、大して努力しなくてもそれなりの給料の就職が出来る、多少不法行為をしても儲けた者勝ち、・・などといった、規範意識低下、努力結果評価の社会的・経済的背景による説明の崩壊とも言える時代があったことも、そう感じる人々が増加する遠因かもしれない。

 前投稿で象徴的に用いた「偏差値」は、日本国の受験生全体(偏差値算出統計上の母集団の意味)という一種の社会の中にあって、ある意味で努力結果評価の社会的背景説明(学習努力結果の相対評価)であった。学校・学級崩壊が顕著で所謂「偏差値教育」批判、「詰め込み教育」批判が極まった頃、努力結果評価の社会的背景説明(学習努力結果の相対評価)としての「偏差値」(「争うこと」)への忌避意識や、「詰め込み」(「強いること」)嫌悪意識、つまり、外発的動機付け、社会的動機付け(達成動機付け)の起因となるべき「競争」と「強制」への忌避・嫌悪意識刷り込みが盛んに為されたが、「個人の意欲」に還元して学習意欲・努力を評価しようという“「努力すれば報われる」⇔「努力しないから報われない」”といった家庭・学校などの躾・教育担当者側の能力不足の言い訳に使われがちで、「虐め」や「落ちこぼれ」生む素地となった似非儒教的精神風土(?)への批判と相俟って、学習意欲を内発的動機付けに偏って求めるような所謂「ゆとり教育」を生むに至った。

 「競争」や「強制」は、所謂「ゆとり教育」導入に際して、初中等教育段階以下にある未成熟な者の意欲、独創などを阻害するものとして、その意義の検証を十分に為されること無く排除された。しかし、「競争」は順位付けという努力結果評価が伴うだけでなく、自らの能力を相対化する役割も担い、内発的動機付けを再生産する。更に、討論など「競争」要素を含む場では、自己主張技術、説明・説得技術の鍛錬の場としても有効で、自律・自立に不可欠な能力を養成する役割を担っていたはずである。また、「強制」は規律に付随する一つの観念で、モラトリアム期を過ぎて、一定の規律の下で成り立つ社会(世界、日本国、地域自治体、隣接人間関係、家庭など)への調和認識を導引する役割を担っていたはずである。既存の秩序維持と新たな秩序創出のバランス感覚を習得させ、延いては、規律などによる「強制」圧迫意識に対する情動を自己抑制する術を身に付けさせる役割も担っていたはずだ。

 初中等教育段階以下にある未成熟な者に「自分らしく生きること」、「自由な発想をすること」を無秩序に与えるような誤解を生む内発的動機付け偏重の所謂「ゆとり教育」では、自己相対化して自発的行動をする能力や、規律秩序社会で自立・自律行動をする能力は身に付き難い。意欲と抑制、独創と遵守は、それぞれ複合的に内在していなければならず、上手く生活するためにはそれぞれの双方が適切な調和を保って身に付き、発揮出来なければならない。

 前述のバブル期から現在に至る社会状況としての「努力結果と評価の不一致」実態は、初中等教育段階における外発的動機付け、社会的動機付け(達成動機付け)の起因となるべき「競争」と「強制」への忌避・嫌悪意識蔓延と伴に、内発的動機付け偏重が進んだ結果、外発的動機付け、社会的動機付け(達成動機付け)が希薄になった頃から始まったと思うが、これは現在顕著な、自律的な動機付けが弱い、出来ない、社会規範や規律、法律を蔑ろする傾向とも一致しているように見える。

話し言葉 と 書き言葉

 さて、先に示した「小学生の理科・算数好きが、中学生には減退し、国語好きは増えるが理系教科における読解力不足が目立つ」という調査結果は、小学生段階では有った内発的動機付けを、中学生段階の外発的動機付けや社会的動機付け(達成動機付け)に結び付けられなかった教育力の貧弱に直接の原因があるが、その根幹は日本語が独自に備えた特質に拠ると思う。

 日本人の論理理解資質を問題にした他の方の投稿もあるが、私は他テーマへの幾つかの投稿で、それとは別の視点で指摘してきた。そもそも、日本語が話し言葉としてだけあった時代から、漢字が渡来して書き言葉として定着し、書き言葉としての日本語をある程度駆使できるようになってから、未だ日は浅い。しかも、話し言葉(口語)と書き言葉(文語)を別にしていた時期が長く、書き言葉(文語)を駆使できるのは一部の日本人に限られていた。つい最近、先の大戦直後もローマ字表記などの課題克服の過程で「文言一致」(話し言葉(口語)と書き言葉(文語)を一致させる)の試みがあり、所謂「旧仮名遣い」の廃止などがあったばかりだし、明治維新直後にも盛んに「文言一致」運動があった。

 他の主要言語に比べて、日本語では品詞に占める名詞の割合が圧倒的に多く、動詞や、形容詞・副詞などの修飾語の割合が極端に少ない。恐らく、日本語は、元々話し言葉であり、名詞に拠った直接対面意思疎通で十分にその役割が果たせたといったような日本国独特の閉鎖的風土が在ったからではないのかと思う。名詞に格助詞をつけて修飾語の役割を付与して文句が成り立ち、従って、英語などにある主語の存在が曖昧になりがちである(日本語文に主語は無いという主張もある)。東南アジア言語や、中国語の一部見られる題述構造など、文構造(語順など)・文法的にも独特の特徴がある。

 調査によれば日本人の読書量・読書時間が減少の一途である。活字離れが出版社や大手新聞社の経営を難しくしていることも盛んに報じられ、一方で、インターネット利用者が増え、様々な分野でインターネット依存度が増している。紙に書かれた活字を離れても、インターネット上、PCなどで読書や書くことは出来る。インターネット大国の韓国が、読書時間で日本国と最下位付近で争っているのは面白い。しかし、PCなどで文章を読んだり書いたりするのと、紙書物を読んだりペンで文章を書くのとでは、必要とされる能力に大きな差異がある。ページを跨いでパターン認識するとか、俯瞰知覚するなどは、紙書物の方が優っていると思う。また、文章を書く際に、漢字変換はもとより、文節句ごとの意味並びによっては不的確な変換が起こるワープロ機能とは異なり、直筆による文筆は、より大きな労力、知識を要する複合的知的作業である。

 インターネット上で書き込まれる文章は、所謂「書き言葉」とは異質な、どちらといえば所謂「話し言葉」に近似したものが多く、紙書物や直筆をインターネットやPCで代替しているように見えても、書き言葉離れ傾向は否めない。論理性の原点は命題

命題(proposition):
(文 (sentence)、言明 (statement)とも言う)
 判断を言語で表したもので、真または偽という性質をもつもの

の成立にあると思うが、前述したように話し言葉では、慣用文の構成が命題作成にそぐわないことが多い。したがって、話し言葉に偏る生活を送る現代日本人は、総じて論理理解能力が劣化しつつある。或いは、元の日本人に戻りつつある?(笑

論理能力欠如を生む自律的な動機付け能力欠如

 日本人の書き言葉離れは一層進み、書き言葉への必要性認識も低下している。近くの者との意思疎通には、擬*語を頻繁に使い、もともと名詞が圧倒的に多い日本語で、名詞単語に適当な語尾を付与したり、抑揚を付けてやり取りすれば事足りる。そこに論理的構造を持った文章作成は不要である。その論理性を持った文章の作成能力は、日常語としての話し言葉とは異なり、学習努力と使用継続によってしか、自由な使用能力が身に付かないものだと思う。その学習教育を担う大人達(親や教師など)は、「競争」や「強制」への忌避意識によって外発的動機付け、社会的動機付け(達成動機付け)が蔑ろにされていた最中に教育を受けていて、その多くが学習努力と使用継続への動機付け方法を習得しているとは思えない。つまり、日本国には、外発的動機付け、社会的動機付け(達成動機付け)訓練経験不充分な、自律的な動機付け能力不足、延いては、論理的文章作成能力不足の、拡大再生産が起こっていると思う。その点に措いて、当に、私は、ロバート・ドラーチャさんの「日本は現在、危急存亡の秋を迎えている」という危惧と同様の、或いは、それ以上の危惧を抱いている。

 日本人がその器質・機能に由来して論理的思考に劣っているわけではない。それは、別テーマの投稿でも述べたが、例えば、江戸時代から明治時代にかけての「数学(算学)」への取り組む姿勢・意欲と成果、侍身分の藩財政担当者が必要に迫られ乍日本独特の和算体系を構築し、その自発的発展過程で様々な幾何学、代数学の問題を創出し、解決し、一部当時の西欧数学界レベルを凌駕するほどの成果を上げていたことや、農・商身分の庶民が好奇心(内的動機付け)と向学心(達成動機付け)に駆り立てられて数学創作問題・解答を作り出し、世界中の数学者が驚嘆するほどの質と量で、絵馬に描いて神社に奉納していたことなどを見れば、資質として論理的思考を、ひょっとすると他地域の人達より優れているのではないかと思えるほど、有していることは明らかだ。明治維新以後に怒涛の如く流入した西欧文化を学び取り、多くの数学・物理学・化学・医学・・・哲学の分野で世界的評価を得るに至った学者などを次々生み出したことは、指摘するまでも無い。また、最初のノーベル賞受賞者が理論物理学者であったことも、数学ではフィールズ賞・ガウス賞などの受賞者を幾人も出していることなども思い出すべきである。

努力の価値、意義の評価を放棄した日本国

 つまり、日本人は論理的思考に不向きとも思える日本語を主な思索活動、精神生活の道具として用いている。日本人は資質としては論理的思考能力を(他地域の人々より優れていると思えるほど)有している。しかし、現在の話し言葉への偏重、依存傾向増加の日常生活を通して、日本人の論理的思考能力、論理的表現能力、論理読解能力は、総じて劣ってきつつあり、更に劣っていくように見える。そこで私は、言葉を以って主張を訴える政治や、報道に対して「日本語の使用に際しては、特に論理性を注意しなければならない」と幾度も別テーマへの投稿を通して主張し、「そこへの注意力を意識付けするのは躾であり教育なのだ」と主張してきた。

 躾や教育は、未成熟段階にあってその者には未だ具わっていない、或いは、未熟な能力を、諭し、導き出し、成熟させることだから、それを受けるその未成熟な、ある者は好奇心を示し(内発的動機付け)、また別のある者は忌避感情を覚える。好奇心を示した者への躾や教育は容易(その時点では)だが、そうでない者への躾や教育は難しい。しかし、それこそが親の、専門職としての教師の役割なのだ。その際は、別角度から課題を提示し直して新たな好奇心喚起を試したり、競争や協同を意識させたり、賞罰などを与えて更なる意欲を喚起(外発的動機付け)したり、軽い目標を提示して完遂させ満足感・達成感を覚えさせて新たな意欲を喚起(達成動機付け)し、様々な動機付けを駆使して意欲を持続させるよう仕向ける努力をし続ける必要がある。

 外発的動機付けや社会的動機付け(達成動機付け)などの起因となるべき「競争」や「強制」を試みるに際して、躾や教育を受けている者の傾注する努力に対する正当、的確な価値、意義の評価をしなければ、それが成功体験として身に付いて、自律的な動機付けとして自己再現されることにはならないはずである。現状(先に例示した初中等教育段階の者への調査結果など)をみれば、それが出来ているとは思えない。前述したように、その評価を下すべき側の者が既にその経験が希薄なのであるから、努力に対する正当、的確な価値、意義の評価をすることなど期待すべくも無い。また、日本国を主導するその上の世代は、そもそもそれを忌避、嫌悪した世代であり、その世代が組み立てた社会構成要素に、その努力に対する正当、的確な価値、意義の評価を下すシステムなど有ろう筈も無いと思う。

 高等教育の段階やモラトリアム期以後にある者へは、上述のような手取り足取りするシステムは、日本国社会に限らず無いし、自我が確立していると看做される(制度的に、社会通念的に)者にとっては、この種の過干渉・過保護は生理的な忌避意識を喚起する。この段階で動機付けを得るのは専ら自発的にする以外は殆ど無い(所謂「偶然の出会い」などがあれば別だが)。であるからこそ、この段階迄には自律的な動機付け方法を身につけていなければならないのである。それには初中等教育段階での様々な動機付け成功体験が不可欠であるが、前述の通り、日本国ではある時期以降、家庭や学校から「競争」や「強制」による外発的動機付けや社会的動機付け(達成動機付け)への取り組みが遠避けられ、それらの体験が希薄な大人が生産され、今当に、そのようにして自律的な動機付け不能な、努力価値評価判断不能な大人の拡大再生産スパイラルの淵に至っている。・・・と、思う。


終わりに

 勿論、一般的な家庭や学校で、躾や教育に携わる方々の中には、既に危機感をお持ちになってそれぞれに対処を試みている方々や、それを感知せずとも危機状況に陥らない方々も多くいらっしゃると思います。しかし、私には、その危機的状況の表出とでも言うべき社会現象や事件(社会規範や法律を蔑ろにする者、自律的に行動目的を発想する能力が貧弱な者などが関わった)が異常に頻発していると感じ、日本国国民の統計学的モードはそこにあると確信して、この投稿をしました。

 不慣れなこともあり、浅学故の誤りなどには、寛容を以って対応されることをここにお願いして、今回の投稿を終わりにします。
 ・・・・ つづく。 

(“え~っ?! まだつづくのぉ?”
 ハイ! 何時の日かまた(笑。 )


 この投稿に対するご批判などへの返答は、何時になるか判りませんので、何卒ご容赦下さい。

書き言葉と話し言葉に加えて考え言葉も別個に変数になるのではないかと思います。もし多数の人間の考え言葉のログを可視化できたら知能の差戦闘力の差あげくは運の差に効いてる要素というのかベクトルというのかその強弱濃淡時宜の組み合わせというのか、そのあたりがグリッと如実に浮かび上がるのではないかと妄想します。

この件は、モチベーションの低い人間の方が、支配階級にとってコントロールしやすい、また、多数の労働者の能力を低めることによって、低コストの使い捨て労働力を確保できる、と言う、経団連の民僚と一部の官僚の合作が成功していると考えれは良いと思います。

ばろんでっせ様

中学生の理科離れですが、今の教科書を見ればその原因が何となくわかるかと思います。理科が身の回りの自然界を読み解く道具ではなく、ただの暗記物になっているのです。発明発見物語のワクワクする世界に子どもを連れて行ってはくれずに、「どうでもいいことだけどテストに出すから覚えろよ」式になってます。もちろん全部ではないですが。わかる喜びを取り去った理科ってすごいものです。わかりにくく面白くない理科というものを日本の教育界は確立しました。国策として行ったものでしょう。私は塾をやってますが、教科書の図表、写真、説明がひどいので子どもの前でけなしてばかりいます。子どもは笑ってます。

国語教育は今も昔も最低でしょう。選択肢を5つほど並べ「最も適当なものはどれか」と問いながら、ずばり適当なものは1つもないなんてザラにあることです。こういう問題ばかり解かされた子どもは、「国語とは意地悪問題の世界だ」と知るのです。作文では主観ばかり述べさせ、描写・説明の訓練は全くおろそかにされています。意見を述べさせることが知能と論理的思考力の訓練になると思われがちですが、実際には感想や意見は1行で終わってしまうため、子どもにとって作文は無理に長く書かされる苦役に他なりません。

描写・説明こそ腕の見せ所であって、短く小気味よく書けたときの喜びは子どもにとっても最高のものです。下調べや論理構成の工夫を通じて本格的な思考力が鍛えられるのです。私が「それで読んだ人はわかるのか?退屈しないか?読者への気配りは十分かい?オチは付いてる?」とやりますとどんどんうまくなっていきます。もっとも語彙が極端に少ないことばかりにはあきれかえります。まあ、2歳児と2年生の会話力が同レベルの時代ですから、困ったものです。国の滅亡を本気で心配する次第です。

かくして、クソみたいな教育が流行り、ドラーチャさんを初めとする留学生の方が日本の大学生より余程まともな文章を書く時代となりました。

 こんにちは。

 ちゅうがくいちねんぼうず さん
 莫郎(本名伊藤兼吾) さん
コメントをありがとうございます。現在の教育にある個々の問題点については他所に譲ることにさせて下さい。ここでは、前回の投稿の生理学的検証みたいなことを試みたいと思います(笑。ご容赦下さい。


考え言葉は脳の右?左?

 言葉の中枢は、大脳皮質の前頭葉にあり下前頭回の弁蓋部と三角部に位置するブローカの運動性言語野(ブローカ野)、大脳皮質の上側頭回の後部に位置する聴覚野を囲むように存在する感覚性言語野(ウェルニッケ野)であるが、それぞれに隣接する、発声器官の運動野、一次聴覚野、後頭葉 (後頭葉は視覚刺激の処理を担っている) の後頭極に位置している一次視覚野、頭頂葉最前位にある一次体性感覚野、側頭葉下部の視覚対象特徴(色や形状)認識機能、頭頂葉に存在して多数の言語、認知に関連する処理に関わって感覚性言語野に隣接する角回、・・・など、言語処理機能に関わる部分は多くある。

 言語野中枢である運動性言語野、感覚性言語野は左右にあるが、それも含めて脳機能局在が判っていて、一般に、左半球が論理処理活動を、右半球はイメージ処理活動を主にしていると語られることが多いが、未だ明確な実証は無い。しかし、脳機能の活動度については、生得的な普遍文法や後得的な生成文法の処理能力機能など、知覚から言語処理に至る脳機能の研究などを通して一定の傾向(優位性)が判っていて、その一般的結果は

左半球優位機能:
言語、算術、部分的、理論、観念的
 
右半球優位機能:
音楽、幾何学・空間的、全体的、発想、唯物的
(感覚と分析、運動と制御)

であるが、これは言語野が左半球に優位性を持つことを示している。 また、運動性言語野と感覚性言語野の情報伝導を担う弓状繊維束の存在が判っている。失語症原因による機能別障害の研究で、一般的に判明していることを示すと

       発話 書字 聴理解 読解 復唱
運動失語  ×   ×   ○   ○   ×
感覚失語  △   △   ×   ×   ×
伝導失語  ○   ○   ○   ○   ×
(運動失語は運動性言語野、感覚失語は感覚性言語野、伝導失語は弓状繊維束にだけ障害を持つ)

 
 思考過程とは、結論を得ようとする観念の過程であり、分析、総合、比較、抽象、概括などの段階をもつ。また、概念、判断、推論などの思考形式に具現され、概念は分析、総合、比較、抽象、概括などの思考過程を経て形成された、物事の本質的な性質をとらえようとする思考形式、判断は物事の属性判定する思考形式であって大まかに「感覚、知覚や感情に基づいた判断」と「より高次な思考に基づいた判断」とに分けられ、推論は既知の判断から新しい判断を導き出す思考形式で演繹、帰納、仮説形成の三つの種類がある。更に、概念と判断と推論の間には密接な相互関係がある。つまり、概念の形成にはしばしば判断と推論を通す必要があり、判断は概念を対象とする判定であって、しばしば推論を通す必要もある。感情の情動を齎す大脳皮質、辺縁系など(や、身体知覚、特に、皮膚知覚は発生由来が脳組織と同一)の活動を含めた脳の総合的過程で思考過程が成り立つ。

 日本人の脳の機能研究によれば、 日本人の脳機能には他地域の多くの人々の脳機能と異なったものかあるという指摘がある。聴覚に関わる特徴的な違いの部分だけを示すと

    日本人          日本人以外
左半球  右半球     左半球  右半球
言語              言語   韻律
韻律    機械音            動物音
動物音                   機械音
風雨音   楽器音           楽器音
邦楽器                   雑音

これは、日本人以外の殆どが言語とそれ以外を分離しているのに対して、日本人は言語と自然音(とそれに近似した音)が非分離なことを示している。日本語には表音文字(ひらがな、カタカナ)と表意文字(漢字など)が混在し、擬*音言葉が非常に多く、複数の読みを持つ表意文字が多くあることが関係しているのかもしれない。前記した失語の機能別障害では詳述しなかったが、表音文字(ひらがなやカタカナ)は理解出来無くとも表意文字(漢字など)は理解できる事例があることなどから

表音文字理解:
1. 視覚野 → 角回 → 感覚性言語野
 
表意文字理解:
2. 視覚野 → 側頭葉下部 → 感覚性言語野
 
(角回は多数の言語、認知に関連する処理に関わり音韻として、側頭葉下部は視覚対象特徴(色や形状)認識機能を持ち意味として、それぞれ感覚性言語野に情報伝達する。)

と考えられ、日本人の言語処理ルートがルート 2. 選択特徴を持つと言われている。話し言葉に偏った生活が多くなる、表意文字を音韻に変えて話し言葉として発話し、表音文字化された言葉を聴いて意味理解するということが多くなると、日本人の言語処理機能の特徴である 2. のルートによって理解する、つまり、生成文法化されて思考過程に組み込まれるべき表意文字語彙や様々な論理構造文脈が、再体験・再具現する機会が減少するように思う。

 つまり、表音文字と表意文字の混在している日本語風土の歴史の中で、表意文字言葉の意味を表音文字言葉化して意味を多重的に生成(定義)する日常的で緩やかな言語変革(「川 [kaφa]」→「川 かは」→「川 かわ」、「かわ」に「川」・「皮」・「側」を定義など)や、劇的な変革「文言一致」運動(「ゑ」:[we]→[je]→[e]を廃止して「え[e]」に統一など)などの生成文法変遷を貫いて獲得し蓄積してきた、表意文字語彙を含んで表現、具現される様々な論理構造文脈や直近獲得生成文法は、表意文字理解ルート 2. 無しには思考過程に組み込まれる機会が減少する、と思う。

 このように、日本人の考え言葉は、左右どちらかに偏在するものでは無さそうだが、少なくとも日本人の言語理解に特徴的な仮名・漢字混在文によって構成された論理を理解・再構築する思考過程において、他地域の他言語圏の人たちとは異なる、前記のルート2.に偏在、依存する傾向がありそうだ。ひょっとしたら、他地域にあって他言語圏で歴史を重ねた人々と、日本語で歴史を重ねて先のような特徴を獲得してきた日本人とでは、生得的普遍文法そのものが・・・異なる?知りません。ゴメンナサイ(笑。しかし、虫の音・・・などを聞き分ける、風鈴の音に冷涼を感じる、静けさを音として捉えるなどの聴覚的特長もある。音と意味の関係を指摘する研究もある。

 さて、書き言葉は、日本語で蓄積された表意文字語彙を含んで表現、具現される(主な考え言葉の獲得)様々な論理構造文脈は、表意文字理解ルート 2. 無しには成立困難で、獲得生成文法に則した論理的思考はし難い。また、思考過程を踏む論理能力(考え言葉)は生得的なものではなく、敢えて訓練継続をしなければ身に付くものではない。つまり、書き言葉や論理能力(考え言葉)を習得・活用出来るようになるには、外発的動機付け、社会的動機付け(達成動機付け)を、内発的動機付けに優ってしてやらなければならないし、自発的な動機付けが自立・自律的に出来ようにならなければならないのだと思う。


 素人理解の範囲で縷々書いてきましたが、今回はここまでとします。
・・・未だつづく かも?(笑

ばろんでっせ殿

続編を無期限で楽しみにお待ちします。

僕のしょぼい頭が考える時のことをイメージすると、つかってる単語は、あれ、これ、なんでや、だから、おいといて、なんでかいうたら、なるへそ、よっしゃ、ぐらいなもんです(あー恥ずかし)。情報・データを体外から仕入れてくるときは五感で光・風・絵・字・音・声・表情・香・味・触・心地、あたりをとってくるわけですが体内(脳内)に入ってしばらく滞在させたあとは自作語というか記号をそれも自分なりに忘れにくいやつを概念(データ・情報)に割り振っているように思います。その概念を使い慣れてくると自作語・記号さえうすぼんやりとしてきて概念そのものを(絵とか無音の音みたいなもの)思い浮かべて思考しているように思います。暗算するときにエンジンがあったまってくると脳のROMに浮かんでいる数字を仕訳しないでいきなりガチンと鋳型にはめる感じで答えが浮かぶというようなイメージでしょうか。

ご紹介のあった表音文字・表意文字with日本人脳の思考モデルを自分のそれと照らし合わせるのはめちゃややこしそうですが『滞在』させて『待って』みます。

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日本語の「ヨロン」という言葉には「世論」と「輿論」という2種類の漢字があります。実は、この2つの言葉は大きく意味が異なっていて、「世論(セロンとも読みます)」とは「感情的な世間の空気」のことで、「輿論」とは「議論を積み重ねてできあがった公的意見」のことを指します。《よろんず》が目指すものは後者の「ヨロン=輿論」をつくることであり、そのために、《よろんず》では情報のプロ・アマに関係なく自由闊達に議論を交わすための場所を提供します。メディアの調査で発表される「ヨロン=世論」とは違う真の「ヨロン」をつくるため、執筆者・出演者・読者のみなさんに、この新しい“知の共有空間”に参加いただけるよう呼びかけます。

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