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大島楯臣:ことばを失った日本人(7)

 今年も「リポート笠間」が届いた。同冊子は日本文学研究と、日本語学研究の専門出版社の一つである笠間書院の宣伝紙で、年一回発行され、無料で届けられる。

 その記事中に、「『国文学』が休刊し」とあり、時代の変化に寂しさを感じる。(記事には「国文学」とあるが、正式名称は「國文學」)

 ことばとは、時代とともに変化するものだから、それを人為的に操作することは危険であると承知してはいるが、新聞、テレビに加え、ネット上の誤用や、不たしかな表現が「正」として通行する様を見ていると、「それでいいのかなぁ」と気がかりでもある。参考書として「かなしき日本語」(工藤力男著・笠間書院)があり、ご関心の向きには参照願いたい。

 その末尾に、(転載始め)「かかる時代だからこそ、感想や意見を発するには、最も適切なことばを探さなくてはならないはずである。しかるに、この国では、英語の学習には時間をかけるが、母語の教育に力を注ぐことは怠った。だが、英語力は予期したようには伸びず、片仮名英語ばかりが氾濫している。期待は裏をかかれたのである。

 今こそ、わたしたちは、母語をいつくしむ心を育て、日本語の力と豊かさを恢復させるべく努めなくてはならない、(転載終わり)と述べてあり、インターネット文体の問題点を縷々指摘している。

 敢えて、國語問題協議會の許諾を得て全文を転載するのは、45年前でありながら「今を予測する」記述が多々あり、より多くの人に「咀嚼」を試みて欲しいからである。
 たしかに、戦後教育の私たちには「正漢字・正かなづかひ」は読みにくいことも承知している。しかしそれは「場慣れ」の問題であり、意図して原文のままとした。

*  * 転載始め *  * 

同胞各位に訴へる

 國語と國字が一民族の文化の最も大切な要素の一つであることは皆樣御存知の通りです。

 さて、我々の祖先は、古事記や萬葉集などに見られる如く、千二、三百年の昔、すでにすぐれた言葉を持つてゐました。これは恐らく世界にも類の少い變化に富む日本の氣候風土と美しい自然が與へた纖細な感覺のお蔭であらうと思はれます。殊に微妙で深みのある美的感覺は世界一かも知れません。實際、我々の遠い祖先は今から八千年も前にあの見事な繩文式土器を作つたのです。

 しかし、幸か不幸か、大和民族は文字を持つてゐませんでした。ところが中國には極めて發達した文字が有つたので、奈良時代の祖先はこれを借りて國語を表記し、更に平安時代の初期には假名を發明し、又漢語も多く輸入して、それ以來この「漢字假名交り文」は九百年以上にわたつて、日本の文化を護り育てて來ました。これは直ちに眼に訴へて意味を表はす便利な「表意文字」と、日本語獨自の構文を表はす「表音文字」から成る優秀な表記法でありました。

 然るに、日本民族として最初の體驗である敗戰の衝撃と自信の喪失と、日々の食糧にも事缺く苦難の時期に當つて、以前から國語をローマ字、もしくはカナモジで記さうと主張して來た便宜主義、安易主義の一部の論者は、好機正に至れりとして、文部省の權力を利用し、新聞社、出版社などを動かして、敗戰後、わづか一年三ケ月、すなはち昭和二十一年十一月に内閣訓令告示で、漢字を制限し假名づかひを變革してしまひました。

 これは明治以來幾度か國語改革論者によつて提出され、その都度國民の嚴しい批判を受けて葬り去られた案を殆どそのままに踏襲したものです。のみならず、これ程重大な問題について信頼するに足る代表的文化人諸氏の意見を求めることもせず、國會の審議にかけることもしませんでした。これでは戰時中の軍部の獨裁といささかも變るところがありません。果してこれが戰後の日本の目標たる民主主義的文化國家のなすべきことであつたでせうか。國語審議會と文部省はこの後次々に「音訓表」とか、「字體表」とか、「送りがなのつけ方」とか、「外國の固有名詞の表記法」とか、何れも不合理にして實行不可能な變革を敢てしたのであります。それらが、今日實際に色々な混亂をひき起してゐるばかりでなく、青少年の學力を著しく低下させてゐることも各位は御承知でせう。以上が大體の經緯ですが、次にこの問題に關し、幾つかの項目に分けてやや詳しく所信を申し述べます。

一、なぜ、歐米諸國は發音と異つた綴りを維持してゐるのか

 歴史的假名遣ひは現在の發音と異る故に變へるべきだ、と彼ら便宜主義者は言ひます。しかし、歐米各國の國語を考へてみますと、例へば英、米、佛、希の樣な國々では、綴りと發音の相違は吾が國の歴史的假名づかひとは比べものにならないくらゐ甚だしいものがあり、その他、ドイツ、イタリヤの樣に比較的その差の少い國々ですら、綴りと發音とは一致せず、歴史的假名づかひと大體同程度のものであります。それにもかかはらず、これら諸國はその綴りを決して變へようとはしません。これは何故でせうか。

 それは先づ第一に、此等の難しい綴りには、その依つて來る必然の歴史と論埋がある上に、若しこれを變へたならば、從來の綴りで書かれたすべての文化遺産が非常に讀みにくくなるからです。これらの國々には、過去から優秀な文學作品や哲學、自然科學の論文などが數多くあります。それらを國民から遠ざけることは當然自國の文化の衰退を招きます。

 第二に、綴りと發音が甚しく異つてゐても、これら諸國の少年少女は素質が良いために、教育によつて自然にそれを理解し辨別して、何らの支障も來さないからであります。

二、日本人は優れた民族的文化遺産を繼承し得ぬ程劣等か

 さて、眼を我國に轉じませう。英佛その他すぐれた西歐の國々のやうに秀でた過去の文化遺産を果して日本は持つてゐないといふのでせうか。斷じて否です。

 西歐の近代諸國がまだ殆ど蒙昧に近い状態に留つてゐた七、八世紀の頃、すでに我々の祖先は、古事記、日本書紀、風土記、萬葉集などすばらしいものを作り上げました。又、少し降つてフランス文學最初の作品である敍事詩が十一世紀末に現れたのに對し、その百年前に、日本では若い女性が今も世界的傑作である「源氏物語」を書いてゐたのです。その後、主なものだけを拾つても、「古今集」以下の八代和歌集、「平家物語」、道元や親鸞の著書や語録、「徒然草」、世阿彌の謠曲と能の美學、芭蕉の俳諧、西鶴の小説、近松の戲曲、荻生徂徠や本居宣長らの學問的業績を經て、明治に入つて後は、幸田露伴、樋口一葉、泉鏡花、正岡子規、夏目漱石、森鴎外、内村鑑三、寺田寅彦、柳田國男、萩原朔太郎、宮澤賢治、齋藤茂吉、數へ上げればきりがありませんが、いづれも貴重な勞作を生み出したのです。これらの業績が今後は讀み難くなつたり、從來の國民との閒の斷層を作るやうになつたりしたら、日本文化の損失は量り知れぬものがあります。我國は決して西歐諸國に劣るものではありません。

 殊に、最近、日本の古美術や禪や能樂や建築や庭園や書道や點茶や生花など深みのある美しい文化所産に歐米諸國民が眼を見はつてゐる事實をどう考へるべきでせう。フランスがルーヴル美術館門外不出の至寶「ミロのヴィーナス」をはるばる日本に送つてくれたのも、彼らが日本民族の文化的優秀性をどのくらゐ高く評價してゐるかの明かな證據であります。大正の大震災前後六年に亙つて日本に大使として駐在したフランスの大詩人ポール・クローデルは、第二次大戰中(昭和十八年の晩秋の一夜)日本が壞滅するのを虞れて、親友のやはり大詩人であるポール・ヴァレリーに次のやうに言つたのです。「私が亡びないやうに願ふ一つの民族がある。それは日本民族だ。これ程注目すべき太古からの文明を持つてゐる民族は他に知らない。......彼らは貧乏だ。しかし高貴だ。」と。さすがにクローデルは大詩人です。彼は日本の多くの文化人などと呼ばれる人々よりもはるかに日本の良さを知り、それを愛してゐたのです。日本の現状はクローデルに對して恥しいではありませんか。

 なほ、我が國語國字の重要さは、單に文章の上だけに止まりません。法隆寺、藥師寺、唐招提寺をはじめとする南都の諸寺や、鳥羽僧正の「鳥獸戲畫卷」その他日本獨特で世界に類のない繪卷物、運慶らの彫刻、雪舟らの水墨畫、能の舞樂、利休の茶、桂離宮の建築と庭、光悦の工藝、宗達や大雅らの繪畫、春信や北齋の浮世繪など、又は世界的に名高くなつてゐる生漉の日本紙とか、禮儀作法とか、これら直接には文字と開係なささうに見える諸々の傑作が實は國語國字と切つても切れぬ精神的紐帶を有してゐることは少しく考へてみれば誰にも解ります。

 次は子供の問題です。「行かう」と書いて「行こう」と讀み、「言ひました」と書いて「言いました」と讀むことを難しく思ふほど、彼らは劣等でせうか。とんでもないことです。兩親と共に歐米に在る日本の子供達が彼の地の學校で拔群の成績を示すことの多い事實はよく知られてゐるところです。又最近東京の四谷第七小學校や新潟龜田東小學校等で行はれてゐる教育に於て、低學年の兒童が喜んで多くの漢字を學び、三、四年で新聞も讀み得ることが識者の注意をひいてゐます。要するに日本人は優秀な民族であり、日本の文化は卓越してゐるのです。

三、明治以後、國語國字簡易化運動はどうして起つて來たのか

 ところが、明治初期から大正、昭和の時代に至るまで漢字排撃や假名づかひ改訂が數囘にわたつて試みられたのは何故でせうか。これは歐米の進んだ文化に驚き、恐れ、ひたすらそれに追附かうとした人たちの焦燥感と劣等意識の致すところでした。これ等の論者が彼らなりに愛國の至情からこの擧に出たことは諒とすべきですが、それは不幸にして西歐の文化に目がくらんだ故の性急な短見と、日本文化の優秀さに關する無自覺に依るものでありました。

 これらの愚かな變革の企てに對して、明治四十一年には森鴎外をはじめとする明星派、大正十四年には山田孝雄、芥川龍之介らが行つた強い反對は、高邁な識見と國文學、國語の傳統に對する深い敬愛に根ざす當然の行動でありました。今囘の愚擧に對しても、昭和二十三、四年まで、心ある幾多の人士は極力反對を表明してゐましたが、悲しいかな當時の社會的混亂と國民生活の窮迫はこの熱を實らせる餘裕を與へなかつたのであります。

四、「現代かなづかい」は果して合理的で便利であるか

 萬葉集などにあらはれてゐる良質な言語を有した我らの祖先が漢字を採用したことは、實に「鬼に金棒」でありました。而してやがて假名が發明されたことは、この「金棒」の質の向上であつたのです。日本語はその頃すでに動詞、助動詞、形容詞の活用や助詞の用法などすこぶる論理的に發達してをり、假名はこれらを遺憾なく表現することが出來ました。又その後、文語と口語の必然的連繋もこれで正確に示されてゐたのです。

 然るに「現代假名づかい」はこれらの論埋を無視し、文語と口語の聯關をも無殘に斷ち切つてしまひました。例へば、口語の「言はう」は文語の「言はむ」から來てゐることを示しますが、新假名の「言おう」ではその連絡が解りません。

 又、「ヂ」や「ヅ」を廢してほとんどすべてを「ジ」と「ズ」で表はし、「地震」や「地面」に振假名をつけるとき優秀な兒童が論理を考へて、「ぢしん」「ぢめん」と書けばそれは誤りであるとして先生は×をつけなくてはなりません。「望月」といふ姓にも「もちずき」と振らなくては閒違ひだといふのです。このやうな論理的關係を假名づかひについて教へることも戰前までは日本兒童の頭腦訓練に大切な恰好な手段の一つでありました。言葉をただ機械的に憶えるのは鸚鵡や九官鳥にも出來ることです。論理を無視したら頭腦は低下するにきまつてゐます。

(続く)

次回予告

五、當用漢字、その他、現行の表記法は如何にでたらめで矛盾が多いか
六、難しい國語國字は文化を遲らせるか
七、青少年の學力低下
八、國語の改惡は國を滅ぼす
結 論

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ご理解・ご協力のほどよろしくお願いいたします。

戦後教育の わたくしたちに 旧漢字・旧かなづかいが よみにくいのは「場慣れ」の問題だけでは ない。かりに「場慣れ」の問題だとしても,漢字の かずが おおければ おおいほど,そして現代語の発音と かけはなれた かなづかいが おおければ おおいほど,その「場慣れ」するための労力が ふえつづけることは あまりにも当然だ。

言文一致の運動は 表記システムの不合理性のなかから うまれてくるのであって,それを特殊な意図をもったイデオロギーとして とらえるのは まちがっている。それは,実は自国の文字文化のなかにも壮大な かな文字による文学作品が あることも,かなによる表記が つねに その時代や地域の発音によって変化をとげてきたという伝統的な事実をも無視するものである。それを「西欧かぶれ」と いうのは,論理構造において民主主義を「西欧かぶれ」として天皇親政の復活をとく かつての超国家主義者の思想とも かわらない没論理主義であることは あきらかだ。戦前においても 実際に そんな主張が おおでをふったのは軍国主義一色になった時期だけである。原敬首相が,戦後の改革をさきどりした かなづかいの合理化に熱心であったことは よく しられている。漢字制限は いうまでもなく,現代かなづかいへの改定は 戦前に 日本のなかで用意されていたことなのだ。

「日本」だの「伝統」だのをお題目に復古主義をかかげる うえのような主張こそが ナショナリズムを刺激材料にして,煩雑なシステムを駆使できる知識と技量を獲得できる階級に属する人間が思想の内容に関係なく下位の階級を抑圧する権力構造を維持しようすとるイデオロギーに とらわれていることをしるべきだ。その結果が上記のような 戦後右翼の「押しつけ憲法廃棄派」とウリふたつのリクツを「國語學」の なのもとに無自覚に展開することとなって あらわれている。

文字を万人が自由につかえるようにするため,不合理にならない範囲で簡略化することは,民主主義をあたりまえのこととして うけいれることと おなじく,現代の ひとびとが あたりまえに選択することのできる権利である。その権利の行使を,「ことばをうしなった」だのと いわれる すじあいは ない。文字が合理化されることによって,おおくの ひとびとが ことばを うしなうのではなく,てに いれているのである。もともと はなしことばは だれでも つかうことが できる。それと おなじように かくことが できるようになって,だれもが かきことばに参加できるのである。これからの わたしたちの社会が,漢字が かけないからといって その ひとたちの主張が はじきとばされるような ものに なっては ならない。

誤解のないように いっておくが,日記ものなどを中心とする かな文字の文学作品群は,その かきてたちが,その当時の はなしことばをほぼ発音どおりに かなで かいたものである。

紫式部は『源氏物語』を,はなしことばで かいた。それを,いまの わたくしたちが そのまま よもうとするから,「古文」に なるのである。

いまの わたくしたちが『源氏物語』の かなづかいを まねして なにかをかこうとすることは,紫式部が かな文字をつかって ものがたりをかいたこととは まったく異質の作業である。紫式部は 自分が いきていたときより1000年も むかしの ことばの発音を文字で かこうとなど,しなかった。

もし,旧かなづかいを復活させたいと いうのなら,そんな中途半端な主張は せずに,いっそのこと,1000年まえの みやびな日本語の発音で はなすことを提唱したら どうだろうか。そうすれば,かなづかいも発音どおりになって とても やさしくなる。「うしなった」1000年まえの 発音をとりもどし,西欧かぶれの かたかなことばなどをつかわずに くらしてほしい。そういうことは だれも いわないし,しようとも しないのに,文字だけは むかしのままに しようというのは,なにか 別の意図が あることだと おもわざるをえない。

>それにもかかはらず、これら諸國はその綴りを決して變へようとはしません。これは何故でせうか。

この部分は西洋を買いかぶりすぎていると思うが。つづりを発音と一致させようという動きは、英仏独伊それぞれに見られる。

行き過ぎた簡略化は、かえって不便で味気なく、頭腦の低下に繋がる事は容易に想像できる。

GARDENER 様
せめて一つや二つの example があればありがたいのですが。

あきづき 様
私わあなたのいけんお興味深く読ませていただきました。あきづきわあきずきに統一されるべきでしょうか?

> これらの國々には、過去から優秀な文學作品や哲學、自然科學の論文などが
數多くあります。それらを國民から遠ざけることは當然自國の文化の衰退を招きます。

この指摘は全くそうだと思いますね。


西暦1850年頃の英文
The old lady pulled her spectacles down and looked over them about the
room; then she put them up and looked out under them. She seldom or
never looked THROUGH them for so small a thing as a boy;
(The Adventures of Tom Sawyer)

西暦1700年頃の英文
I was born in the Year 1632, in the City of York, of a good Family, tho' not of that Country, my Father being a Foreigner of Bremen, who settled first at Hull: He got a good Estate by Merchandise, and leaving off his Trade, lived afterward at York, (The Life and Adventures of Robinson Crusoe by Daniel Defoe)

西暦1600年頃の英文
Bernardo: Who's there?
Francisco: Nay, answer me: stand, and unfold yourself.(Hamlet, 第一幕)

西暦1400年頃の英文
WHEN that Aprilis, with his showers swoot,
The drought of March hath pierced to the root,
And bathed every vein in such licour,
Of which virtue engender'd is the flower;
When Zephyrus eke with his swoote breath
Inspired hath in every holt and heath
The tender croppes and the younge sun
Hath in the Ram his halfe course y-run,
And smalle fowles make melody,
That sleepen all the night with open eye,
(So pricketh them nature in their corages*);
(カンタベリー物語)

我々の高校卒業時の英語力でも、1600年ごろまでの英文はなんとか対応できるでしょう。
このシェークスピアの英語ならば、日本人の高校英語の読解力でも
40-50%はなんとか読みこなせるはずだと思いますね。

1400年前後のチョーサーになると、我々の英語では歯が立たなくなる。
というか、実際のイギリス人でも、普通の人は読めないという。
英語の場合は、このチョーサーあたりから言文一致運動が行われていて、その結果として
我々日本人の学校英語でも17世紀以降のは読めるようになっている。

まあ、日本の場合は、言文一致は明治になってからですからね。
英語の場合と比較すると、その差はひじょうに大きい。

英語の場合は、
2000-1600 = 400年くらいが 今の英文と基本的に同じ英文で書かれている
日本の場合は、
2000-1890 = 110年  言文一致の文章


<大島様>
こんにちは、ご苦労様です。
さて、私はちゃらい奴らと付き合っているからか、ラヌキ言葉や美味しさを表すヤバいなどを頻繁に耳にしています。それについて別に違和感もありません。
なので、大島さんの論は、成る程とは思うけれど、何処か遠い存在、身近な話ではありません。
ただ、イギリスのエスタブリッシュメントの子弟が通う学校では、ラテン語が必修で、ラテン語を理解することでインテリジェンスを身につけると何かの本で読んだ記憶があります。
私自身、文学部の国文出身なのに恥ずかしい限りですが、正しい日本語が理解できなければ、インテリジェンスが得られないと理解しました。
私は、新語を創ったり、造語をコピーライティングする分野の人間ですので、真逆なフィールドにいるのですが、真逆だからこそ、インターネットの恩恵で、普段出逢う事のない論に出会えるのだと感謝しています。
次回作も読ませて頂きます。

> Hirofumi さま

将来,よつがなを「じ」「ず」に統一するときが きたら,別に「あきずき」でも かまわないと おもっています。

現代かなづかいにおける よつがなの区別は,歴史的かなづかいに おけるものとは ちがいます。語根意識が のこっているものに かぎって「ぢ」「づ」をつかいます。「あきづき」と かくのは,「あき」の「つき」という 語根意識が あるためです。人名に 語根意識をかきこんだり よみこんだり するのは その ひとしだいでしょうが,「みかづき」のような ことばは あきらかに「つき」のことをいっているのだから,「づ」で表記するということが演繹的に わかります。

助詞の「を」も,それが助詞であることが 日本語をはなしている ひとには容易に わかることだから,演繹的に「お」と区別することができます。

はるか むかしの日本語に さかのぼって,その単語が どう表記されていたかをしらなければ 判断のしようがない旧かなづかいの原理と,いまの日本語の しくみや意味から かなづかいを判断できる現代かなづかいの原理とは まったく ちがいます。(正確には,現代かなづかいにも オ列長音のような 旧かなづかいの原理が のこっていて,そのことについては残念ですが…。)ですから,わたしは しばらくは「あきづき」で よいと おもっています。

> 浅山 in 武蔵野の大地さま

表記システムが わたくしたちを古典から とおざけているわけではありません。わたくしは これでも,日本文学科の博士課程というところに属しているので,語学専攻ではあっても すこしは古典を写本で よむということも いたしますが,国文学は学部からの専門ではないために江戸時代の文字など,かな文字さえも まともに よめません。ましてや,平安時代のものなど まったく はが たちません。

てがきのテクストをいまの標準的な字体に なおす段階で,すでに,専門家の“よみ”や推定が はいっています。電子化されたものは 漢字の字体や かなづかいに関係なく,すでに だれかによって解釈されたものなのです。

専門家や研究者は ふるい字体や かなづかいをしらなければなりません。かなづかい以前に さまざまな変体がなを認識できなければなりません。また,さまざまな あて字を解読しなければならないし,漢字ひとつひとつをどう よませるつもりで かいたのかを意味がとおるように推測しなければなりません。それをするのが専門家です。しかし,そんな専門家になるための教育をし,それが できなければ古典に ふれられなくなるのであれば,古典教育が かえって すたれるのは あまりにも あきらかではありませんか。

こどものころから,たくさんの古典を新かな新漢字で よめることのほうが よほど大切です。アマチュアであれプロであれ,そして,本格的に やりたい ひとは,みずから変体がなや旧かなづかい,旧漢字をまなべばいい。逆に,日本の ふるいものよりも外国のものに興味が わいた ひとは,現代生活に不必要な漢字や かなづかいや変体がなをおぼえる 労力を外国語のほうへ ついやせば いいし,現代文が得意な ひとは,もっと わかりやすく かいたり はなしたりする技術をみにつけるのに時間をつかえばいい。

伝統の継承というのは,ふるいものをまなばせるためを全員に強制することではありません。最小の努力で最大のアクセスが できるような工夫をしておいて,それぞれ ひとりひとりが興味のもてる分野で ふかいところに はいっていけるように準備しておくことが大切なのです。

> 旁葉 烏さま

単純なものを複雑に かくのと,複雑なものを単純に かくのとをくらべたら,後者のほうが はるかに あたまのいい表記システムだと おもいます。

文字をみなければ 意味が とおらないような かきことばを かく ひとより,おなじ意味のことを,きいているだけでも わかるように かける ひとのほうが,はるかに あたまが よいと おもいます。

漢字をなるべく つかわずに かこうとすれば,表現の しかたや わかちがきの しかたに 気をつかうように なります。その訓練は,はなしことばをすじみちの とおったものに するのにも やくだちます。いままで 国語の点数が よくても なにかが かけていた ひとたちに必要な能力が やしなわれるだろうと おもいます。

もちろん,そういう技術をもちながら,漢字をたくさん しっていたり,ふるい かなづかいも つかえたりするのは りっぱなことでしょう。なんでも,できないより できたほうが いいし,しらないより しっていたほうが いいですからね。でも,ふるい ひとのように表記できたとしても,ふるい ひとたちの かんがえたことが わかったことには なりませんよね。そこのところをかんちがいしている ひとが おおいような気がするのですが,おもいすごしでしょうか。

投稿者: あきづき やすお | 2009年12月28日 21:43 様

“単純なものを複雑に かくのと,複雑なものを単純に かくのとをくらべたら,”

なにゆえ上の両者を較べるのかは判りませんが、私が言いたいのは簡略化により、複雑なものを短いセンテンスで表現できることの利便性が失われないかといった意味合いです。ですから、“行き過ぎた”と文中に入れました。言葉の選択次第で、行間を汲み取って貰ったり、背景を事細かに説明する事無く伝えられれば非常に便利な事だと考えます。漢字自体は増えても、文章を圧縮する事で、より多くの内容が伝えられるのではないかとの視点に立った発言だとご理解下さい。

> 旁葉 烏 さま

ご返事ありがとうございます。ご返事のほうの趣旨は よく理解できます。漢字は1字の情報量が おおい文字です。それだけ字形も複雑なものが できてしまいますが,とりわけ日本語のなかで漢字が つかわれるときには,おおくの同音の語や形態素のみならず,日本語としては ひとつの語の こまかい意味や用法の ちがいまでも あらわそうと します。ですから,漢字の使用で,字数という尺度で みたときに文章が圧縮されるというのは,そのとおりだと おもいます。

一方,わたくしが「単純に かく」と いったのは,すくない種類の記号で おおくの ことばを かきわけるという技術的な効率性のことをさしていました。

極端な はなし,すべての語の意味に ちがう文字をあてはめれば,語の かずたけ字の種類が必要になります。しかし,人間の言語の特徴は,すくない要素をくみあわせて 非常に おおくの ちがいをうみだすところに あるのだと おもいます。言語学の教科書の最初に かいてあるようなことですが,すくなくとも音声言語では それが 動物の言語と人間の言語を区別する点だと いわれています。その伝で いくと,区別したい語の かずだけの種類の文字をつかうというのは,まるで動物の ことばの原理で文字をつかっているように おもえます。

さて,ご発言のうち,わたくしがコメントしようとしたのは,「頭腦の低下に繋がる事は容易に想像できる」という部分についてでした。わたくしから みると,情報量のおおい漢字を多用するということは,たしかに意味をはっきりさせるという効果が あるように おもいます。その漢字の意味を よく しっていて,かつ,その漢字が よめさえすれば,「あなたが よんだ その ことばの意味は,この漢字の意味なんだよ」というふうに,その「よみ」に対する“こたえ”に あたる意味をおしえているのが漢字です。親切だとも いえますが,おせっかいだとも いえます。
 一方,表音文字だけで文章をよみかきしていくと,文字をオトにして よみながら,よむ ひとは その意味をオトから自分で変換していかなければ なりません。そこに“こたえ”は文字情報としては しるされていません。ちょうど音声言語だけで会話をするときに つかえる手段しか,つかえず,音声言語で つたえられる情報以外の解釈の てがかりは あたえられないということに なります。

 で,わたくしが いいたいことは なにかというと,どちらが「頭腦の低下に繋がる」かということなんです。あるいは,どちらが「行間をよむ」という作業をすることに つながるかと いっても いいです。わたくしの かんがえでは,あきらかに漢字が すくないほうが,行間をよまなければならないし,自分で意味をかんがえなければならない。そして,ことばの意味に敏感になると,おもうんです。自分が もっている“ことば”の なかから,“こたえ”を自分で さがさなければならないからです。

 一方,漢字をつかうことが頭脳をきたえるという面も たしかに あります。それは,まず漢字そのものをおぼえていなければならないし,日本語の ばあい,文脈のなかで その“よみ”を確定するというパズルのような能力も必要と されるからです。でも,それは あまり生産的な頭脳の つかいかたでは なくて,いわば,老化防止のためにパズルをするというのに にています。極端に いえば,日本語を暗号で かくことにし,つねに その暗号を解読しながら よむことにすれば,その分,日本人の頭脳は きたえられるだろうけど,そんなことをして きたえることに あまり生産的な意味をみいだすことは できませんよね。

投稿者: あきづき やすお | 2009年12月29日 01:23 様

ご返事感謝致します。お説はよく理解出来ました。では、論点を変えてお聞きしたいのですが、漢字を減らし効率性を求めた筈が実用性を阻害する事になり、その意味でかえって頭脳の低下に繋がりはしないかとの疑問が出てまいります。そういった懸念をどうすれば払拭できるのでしょうか?現在の日本で使われている単語には、漢字由来のものが少なくないと思いますし、それを壊す事の弊害も少なくはないと感じています。というのも、既に多少の漢字を覚えてしまった私には、耳で聞いた言葉も自然に漢字変換されて理解してしまっています。疑問の数々はその事から感じるに過ぎない事なのですが…。と、まあここまで書いて少し最初の理解が少しは深まったように感じました。この投稿では質問の形を採りましたが、下らない質問だったかもしれません。とすれば、貴重な時間を取らせてしまうのも偲びなく、ご返事は辞退させて頂きたく思います。後は自身で考えてみたいと思います。どうも有り難う御座いました。

わたしが日本語を壊したものとして、明治期に粗製濫造された新訳語があるとおもいますね。
たとえば、社会、個人、自由、理性、哲学
こういうものはその頃に造語された用語ですが、
基本的には 元になった西洋語の単語の意味を汲み取っていない。
というか、これらの新訳語は意味を発生させていない。単なる記号を作って、当てはめたに過ぎない。

たとえば、哲学ですね。
これの元は philosophyですが、 これを意味としてしっかり汲み取るのならば、
「愛知学」とすべきなんですよ。
哲学 などという、おそらく漢籍から取り出してきた、一般の人には分けの分からない
言葉は意味を発生させていない。それは、単なる記号です。

「愛知学」は少なくとも意味を発生させています。

この頃に作られた造語は、その言葉自体が意味を発生させていないので、その後の長い年月
日本人は後から意味を付加させる作業をやらなければならなかった。
そのために「理性」とはなんだったかなと思いながら、そのつど腑に落ちずに使用する羽目になった。

 私が「ことばを失った」と冠したのは、まったく同列で、「礼節を失った」との意味も含まれているが、「あきづきやすお」なる人は、ものの見事に自らの無節操ぶりを証明してくれている。

 この人は、権利を主張することはあっても、義務という単語を知らないのだろう。

 そしてまた、国語問題に警鐘を発し続けている、丸谷才一氏さえも「右翼」として一括りにするのだろう。御歳を存じ上げないが、かわいそうだな。

「権利」に対する「義務」ですか。何となく大島さんの意図がみえてきた気がする。「天皇の気持ち」が「大御心」なんぞに直されたらやってられんわ。

コメント欄の議論を興味深く拝見しておりまして、投稿者の方々の豊かな知識と真摯な態度とに感服しておりましたが、大島様も、「礼節」「御歳」などとおっしゃらずに真正面からの議論をなさってください。

大島さん、また気に入らない意見には、その意見にでなく人に対して誹謗中傷ですか。いいかげんにして下さい。なにが「かわいそう」ですか!失礼にもほどがあります。

「大島楯臣様」へ。
貴兄の連載、興味深く拝読しております。久し振りに「頑固者の硬骨漢登場!」って心中で拍手喝采いたしております。久し振りにって言いますのは、福田恒在氏の「私の国語教室」以来のオブジェクション!だと思われるからです。
福田恒在氏も貴兄もオブジェクションの矛先ははあくまでも、文部省やその傘下の国語審議会に向けられています。要は、国がエラソー二、言葉を制限するなってことですよね。

言葉は時代と共に変化してゆく…こんなことは当たり前のことです。方言に関しては制御不能でしょう?
…であれば、変わり行くままに任せればいいのです。表音仮名遣いにしろ送り仮名遣いにしろ常用漢字の制限にしろ…そんなことは「ホットキナハレ」ってこと。一々偉そうにそんなこと言ってたら、明治期以前の「古典」はダーレも読めなくなりまっせ?
国が「言葉」に口出しする、悪しき「国家主義」の最たるものです。

で、表音一つを取り上げても、例えば「…いう」と「…いふ」「…ゆふ」って違いが皆様は分かりますでしょうか?これは新しい順に「…言う」を表音化したものです。現実に皆様が発音されているのは「…ゆふ」です。ご自分でお試しになって下さい。
送り仮名は漢字との優劣(使用頻度)によって時代時代で大きく変遷し、まぁ、スタンダードなんかありません。ですから、今でもどっちでもいいんです。
常用漢字なるものも、守ってたら碌な文章は書けません。敷衍すれば、日本人の言語・認識中枢にとって「漢字=象形文字」は抜き差し難く植え込まれている…と私は考えています。
…というように考えてくると、日本と中国との彼岸の距離はもっと縮まるんじゃないのかなぁ…って思うんですよねぇ?

あきづきさんの文章、読んでいて気持ちがいい。
論理が平明でかつリズムがいい。
(あるいは、論理的だからリズムよく感じるのか?)
頭のいい人だということが分かります。頭の中が「平明」なんでしょうね。

初投稿でした。

大島氏の前回記事にコメントしましたが、この原文はインターネット上にあり、リンクを貼っておくだけで原文を読んでもらうようにもできたはずです。わざわざ転載する意味を感じません。転載でなく大島氏自身の意見を書いてほしいというコメントがいくつもありましたが、結局、予定どおり転載の記事を書かれました。しかも編集部と話がついているのか、予定どおり記事は採用されました。

さて、あきづき やすお さんが復古主義だと指摘されていますが、大島氏の過去の記事をみると、大島氏は漢字だけでなく教育そのものを明治のものにしたいようですね。これについては私が、当時の教育は日本人全体に行われたものではないし、日本人全体を対象に作られていないものだろうから、その辺を認識されているかという意味で、難しい漢字を日本人の何割が読み書きできたと思っているのか質問したのですが、大島氏の回答は以下のものでした。気に入らない人間は誹謗中傷して切り捨てです。
-----以下引用-----
M. Suzukiが「何割?、何時の時代」と詰問していますが、これが「戦後教育」の結果であり、憂うべきことです。
------------------
「ことばを失った日本人」のタイトルで連載されていますが、大島氏の明治の日本人は教育を受けた一部の指導的立場の人だけであり、教育を受けられなかった人は無視されているように思えます。それと現在の日本人全体を比較して「ことばを失った」と言われても同意できません。せいぜい、ゆとり教育の前くらいになら戻してもいいですけど。NHKで坂の上の雲をやってますけど、一般庶民の話じゃないですよ、あれは。

もちづき様の真摯で卓越した論説を読ませて頂きありがとうございます。大変勉強になりました。
さて大島氏が紹介している本論ですが、私も日本語の乱れは気になっています。
また最近の若い人たちは夏目漱石の小説も読めなくなっていると聞き及びます。明治期に書かれたものが
古典の範疇に入っているようです。
しかし45年前に國語問題協議會が提起した日本語表記の諸問題 のその後はどうなっているのでしょうか。
大島氏も一員として活動されていると考えますが、本来はイデオロギーとは別次元で学問的に議論され国民に訴えて行くべきものが、そうでない方向(国粋的方向)に行っているのではないかと危惧しています。
運動は広がっているのでしょうか。
また本論の中に「青少年の学力低下云々」の記述が見られますが、学力の定義が曖昧です。
多分、この学力は戦前から連綿と続く暗記力を中心とする能力(現在に至るまで続いている)であって、本論で言う戦前の素晴らしい国語教育の精華がやがて軍人官僚を生み、国家を破滅させました。
戦後も同じような学力競争に打ち勝った官僚がいつしかその志を忘れ国家の資産をしゃぶり尽くしてしまいました。
日本の教育は戦前(どの位前に遡るか不明だが)も戦後もいわゆる良くできる子を育ててきたが、合理的な思考能力や構想力や自立力を育てる事を怠ってきたのではないでしょうか。
狭い視野の人間を生みだすが、幅広い視野(世界まで含めた)を持った人間が育たない事が国語教育だけの問題では語れない重大な欠陥だったのではないでしょうか?
戦前の旧制高校の制度はそれなりに良かったと思いますが、限界があったのでしょうね。
処で国語教育の中で漢文教育の現状はどうなっているのでしょうか。
50年以上前になりますが、漢文の授業が好きで良く勉強しました。その知識が結構いまでも役にたっています。
漢文のエピソードですが昔、安部氏と麻生氏が南米のどこかの国へ視察旅行に立ち寄った先に吉田総理の次のような揮毫が掲げてあったそうです。
「桃李不言下自成蹊」
麻生氏は自分の祖父の書を読むことができず、安部氏も自分の出身大学の校名の由来となる有名な漢詩が分からなかったようです。
お粗末なふたりが総理大臣になる国の国民は幸せですかね。
それでも安部氏は戦後レジームからの脱却をつんのめるように叫んでいた人ですよ。
面白い国ですね。

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