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土井敏喜:文明と森と里の現状回復論 ── 日本の農林業は超長期の成長産業だ(その1)

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●はじめに

父がある時、「高野孟」とはどんな人か、と唐突に聞いてきた。
それは、県信用農協連(JAの県段階の金融部門、農林中金が上部団体)の役員を辞職して間もない頃に、「週刊エコノミスト'87.1.27号」(毎日新聞社)で、大山義一というペンネームで、『国際化時代の農協改革を提言する---このままでは"農協離れ"を防げない』という「小論」に、最初に好意的な論評をしてくれたからだった。

『週刊エコノミスト』の本文では、1)資本と経営の分離、2)農協選択を自由に、3)三段階性の見直し、4)長期的な事業展開を主張して、「新しいタイプの農業の発掘と、これに対するファイナンス、流通問題など、新しい視点からの展望を明確化すること」を求めている。今読んでも、「平成の大合併」で問題の所在が隠されており、彼の「提言」を行おうとする「内発力」がないまま「展望」は逆行している。

22年前だった。彼に、高野孟(著)『世界地図の読み方』を持ちあわせていたので、それを渡すと、高野孟氏からの『エコノミスト原稿」への評価に素直に喜んでいたことを思い出す。この年の暮れ11ヶ月の闘病生活の末、「食道ガン」で死んだ(65歳)ので、高野氏の論評が「はなむけ」の言葉になった。
翌年、私も県経済農協連(現、JA全農、商社部門)を辞職して、広報・営農企画などの18年間の「農家・農村」の現場から離れた。私が彼の亡くなった年齢に近づいてきたことも、投稿の要因かもしれない。

第1章 戦後農協とは何か。日本農業の問題点。

ところで、父が常々言っていたのは、「農協の3つの顔」についてである。農村民主化の主要な柱として、「戦後」の具体的な最大の革命であった「地主制」の解体と、自主的な農民組織の結成を求めた連合軍GHQの占領政策の一環として、1947年に「農協法」が制定された。
すなわち、1945年12月、「農地改革についての連合軍最高司令官覚書」、俗にいう「農地解放令」の(5)により「非農民的勢力の支配を脱し、日本農民の経済的・文化的向上に資する農業協同組合運動を助成し奨励する計画」の提出を求められた。
じらい、国家=行政府とGHQの長い折衝を経て、1947年8月GHQの承認後「農業協同組合法」が国会に提出され、原案どおり可決された(私もこの年の3月に誕生)。

農協法が国会上程の際に当時の平野農相が主旨説明で、「農協4原則」を強調しているが「農協法」の性格が的確に表現されている。
「農協4原則」
 1)組合の設立、地区および組合加入・脱退の自由の原則
 2)農民の団体としての組合における農民の主体性の確立
 3)農民が農業生産協同体であるという趣旨に基づく生産に関する事業の強化
 4)自主性尊重の立場からする行政庁監督権の制限

「農協法」制定時には、これらの「農協4原則」の(1)しか考えていなかった筈である。これがいろいろな理由と経緯をたどって(2)、(3)が後から付加されたということだ。そうした原因により、ひいては、(4)による、農協の外からの官僚支配を受け入れざるをえなくなったのである。(よく似た例に、「教育委員会」の官僚支配がある--村井実・慶応義塾大学名誉教授、教育哲学)。


●「農協の3つの顔」への変容

このような民主的な組織として誕生した農協も、年とともに次第にその姿を変えた。それが「3つの顔」である。
 1)の顔  組合員農家の組織した協同経済組織体としての顔(営農と生活)。
 2)の顔  行政補完の顔(第2の村役場、町役場)。
 3)の顔  圧力団体としての顔(選挙の集票能力を武器とした米価値上げ運動)。

ここで結論じみたことを言えば、「農業協同組合」と言いながら、農家全員の内発的な意味での「多数決原理」で協同組織の運営がなされていなかったということだ。

「政治とは選挙であり、多数決を得ることだ」という小沢一郎の言葉が、「民主政体 デモクラ シー」を意味するとすれば、「農村民主化」および「自主的な農民組織の結成を求めた連合軍GHQの占領政策」から、大きく逸脱した農協組織になっている現状がある。

最近では、天下りの弊害の象徴でもある「住専問題」への農水省の「税金による救済」や、今おきている「サブプライム問題」では、「農林中金」を「ファンド」と表現されるに至っている。

また、民主党の赤松農水大臣の、本誌での「大潟村訪問、謝罪記事」なども、「農協の3つの顔」から「自立して上部組織の指示に従わない選択」をして、稲作の減反をせず、全量を自主流通販売しているK氏などの「農家集団」は含まれていないはずだ。つまり、赤松大臣等は、大潟村の農民全体の「多数決原理」を機能させる「場づくり」ということにどのような努力をしているのだろうか。農協JA、村長に、赤松大臣や農水省官僚などは、誰にどのような内容で謝罪したのかが不明のままなのである。(本誌:2009年11月30日「赤松農水相らが大潟村を訪問 「この40年間国の政策のためにみなさんにご迷惑をかけた」と謝罪)。
http//www.the-journal.jp/contents/newsspiral/2009/11/40.html

留意したいことは、専業農家の人員と農協JA、村・市町村・県、農水省職員とはほぼ同数の人員を抱えていた時代があるはずだ。
つまり、彼らの生産を管理指導、代金決済などは「死んだ労働」(マルクス)であり、現場でのハンディ端末による生産データや経営コストのデータの電算端末への情報入力を現場で支援うべきである。それ以外には、労務による「賃労働」をすることによって「税金」の無駄を削減することだ。
そうすれば、今日的な必然性として、農の現場における「社会的な意味をもつ行政府・農家組織」としての「忠誠心」を認められるのではないだろうか。単純化出来るはずの「行政制度への報告や補償金決済」だけなら、平成の大合併以後は、「郵便局」の持つインフラこそ、過疎地における適応が可能な組織であるのが厳しい現実だろう。

農林業はそもそも「環境破壊」に属する。例えば、日本の代表的な土地利用の象徴である全国の「棚田」を、誰がどのように現状回復しつづけられるかは、そうした「現場」の多数決による内発力なしには、美しい修景も消えていくことだろう。
実例として、北米の鉱山業の採掘後の環境保全修復(ボンディング)という「義務」を学べば、何をすべきかがわかるであろう。
今や、「忠誠心」と「義務」のあり方の両方が、「近代以後・ポストモダン」=「日本型大衆社会」の協同化が、「縄文」から「弥生以後」への稲作の実態から見直されなければならないことと、同じ意味内容を持って来ている。敢えてここで付記すれば「天皇制」の祭事の基盤は稲作文化だということである。

しかしここでは、「農家所得戸別補償制度」のもつ現在的意味を述べるだけにとどめたい。ただし、生産者が何を生産するかは農家・農村の多数決に従い、行政府の打ち出している複雑な「制度設計」にはコストが掛かり過ぎるので「シンプル・イズ・ベスト」主義で実行すべきである。むしろ、内発的な経済成長に欠かせないのは、地味だが着実な創意工夫とか、努力を惜しまない勤勉さといった資質が不可欠である。行政府等のエリートがいないほうが、日本の大衆にとって、内発的な経済成長には好適な環境づくりなのだ、という単純なことが優先度が高いのではないだろうか。

この「農家所得戸別補償金」は、「農協」を経由しないで、言い換えれば、農協への資材費、過剰な共済(保険金)などの返済金として、農協口座からの相殺なしに直接農家に補償することだ。つまり、経営のコスト意識に目覚め、農家・農村における「多数決」意識による「内発力」の育成という目的に叶う、といった「大衆思想」に繋がることが望ましい。

おそらく、あと10から20年の内に、日本の農家も、私の周囲を観察すれば、いずれは「農地」の「耕作放棄」を選択することになるのは必然だろう。

以後の「章立て」の中で詳細するが、日本の農業は、決して米国などの「大規模化」のような形式にはなり得ないが、どういう経営形態になるのであれ、民主党の打ち出した「農家所得戸別補償制度」が、農家の自立心を育て、FTAという二国間交渉にも大きな意味をもつことになろう。

また、農家同士、相手国との「共生」も可能である。なぜなら、日本の大衆の要求・義務水準は世界一であり、「個別補償」制度のもとでも、相手国以上に「信頼」を勝ち得る能力があるだろう。米国自体が「約束」を簡単に破棄する国柄だと言うことは、この度の「時価会計」制度の勝手な解釈でもあきらかである。

(小括)
日本における国土における「近代的変化」が見られたのは、徳川時代の世界一の江戸(人口50万などの「都市化」であり、その中心的な特徴は、「協同農耕」から「個人農耕」への推移に、その「内発性」が見られる。

徳川末期までには、「協同関係」は大部分が消滅した。ほとんどの各地で「個別家族」が生産組織や経済的利害の中心として明確に姿を表すようになる。

それが、当時の人間関係や思考方式における「内発的な変化」までを含めた、「市場経済」の成長だった。ひいては、それが身分の差を超えた「明治維新」の内発的な変化をもたらした主たる要因にも繋がった。

そして今、更なる「都市化」への非効率的な無駄な公共事業などのエネルギー利用は、平成の「政権交代」に際しても手付かずのままであり、むしろ経済成長を疎外しており、あるべき「文明と森と里」の「協同関係」をも崩壊させているのだ。


●日本農業の現在の問題点と言われていること。

今の日本の農家の実態は、「大規模、専業農家」といわれる「経済合理性」を追求した篤農家ほど「危機」に瀕している。また、経営能力も未熟であることが、あまり知られていない。
兼業農家ほど賃金収入により生活が安定しているが、彼らの高齢化により「耕作放棄」の激増による交渉相手は、同地区に見当たらず他県に譲渡している場合を見聞している。果たして、農協JAや行政の机上のプランで、現場での「土地利用」への対応が文明的な思考を加味して出来るのだろうか。

1)農業は「贈与経済」(自然・文化への人間の栄養と健康を得るための喜捨)でしか成り立たないこと。それが「兼業」という他の仕事とのコラボレーションが出来れば、それも受身の「贈与」の一種である。(例えは悪いが、「タバコ」や「酒」の税率増を考えれば、「食」への贈与は許容できるものではないか、と個人的には思う)。

2)食べものが無くなったら、誰でも「買出し」に行くしかないこと。「食糧自給率40%」という「食料安保論」も洗脳プロパガンダにすぎない。
なぜなら、少食・粗(菜)食・咀嚼で「食」に対応することの方が「健康」にもいいし、実現可性が高い。自給率を怖がることは、今の日本では現実的ではない。「1日3食の習慣」は、そんなに古い過去からではない。

だから、穀物や野菜を主体にすれば、「朝食を抜く」ことだけで、国家=政府が本気になれば「自給率100%」は解決可能なことなのだ。また、食後の「宿便」が「酸性腐敗便」になり、それから発する波動により、くも膜下出血、ぽっくり病死、心筋梗塞や脳梗塞などの突然死と関連があるとの「研究」もある。
しかし、現代医学では、それらの「原因」を「栄養学的」にな観点から解明することを避けつづけている。日本の昔からの「食養」に学んだ米国の「マクガバン・レポート」の日本版さえないのが不思議である。

以上の考え方をもとに、最善をつくせば、「食糧自給率」は100%可能になる。しかし、今のままでは高額な医療器械、世界一種類の多い薬の開発販売など、政府=国家は、医薬・官僚利権を縮小できず、医療費の増加が年々続いているのが現状である。
一番大事なのは、植物を摂取することを主体にして、「肉食」を限りなく少なくすることである。(16歳から18歳までの成長期に肉食するのを止めることは非合理であるが・・・)。

3)ネイション・スティツ=国民国家の歴史は、まだ数百年にも関わらず、実物資産の裏付けのない「貨幣の過剰流動性サープラス」が暴走するペパー・マネー(死んだ労働)となり、今後のいつか、果たして現物の「供給」(生きた労働)を実現できるかどうかは、ロシアに移行した時の「ダーチャ」(下賜された)別荘を見ればよく分る。彼らはハイパーインフレの中で、「自給自足」で乗り越えたのであり、最近のロシア危機も、今度もまた「ダーチャ」に依存して生きる道を選択するしかないだろう。

*参考:かつてソ連崩壊後のモスクワ市民の生活を支えたのが菜園付住居「(直訳)下賜された土地=ダーチャ」(シベリアなどのユーラシア大陸の放牧の民を調査した栗本慎一郎や、彼の運営するの」「世田谷自由大学という私塾」の参加者である友人に言わせれば、そこらじゅう「ダーチャ」だらけだったそうだ)。
ソ連時代に都市住民の要求を満たす為に生まれた制度と農業生産の形態が「ダーチャ」の起源であり、新生ロシア時代になっての「経済の混乱」でその価値が再認識されている。しかし、遊牧民の夏の耕作地ダーチャの直接的な関係についての研究は無く、何も言及できる実証はまだない。
おそらく、かつて遊牧民と接したルス族(ロシアの前身のバイキングの一部分)が、遊牧民の夏の耕作地を見た体験が、彼らの血筋の中にあるのかも知れないということらしい。         
http://homepage2.nifty.com/enisei2580/dacha1.html

4)普通の野菜やおコメは、農薬漬けなのは変わらない。農薬の種類が限定されてきたのは事実であるが、「低農薬」という表示の誤魔化しに過ぎない。土壌殺菌剤しかり。
また、野菜が農家から出荷されて、通常はスーパーでに届くのが5日かかる(地元産でも2日から3日)。農家の手取りはこの「流通経費」で、わずかな収入しかない(「スーパー」では、野菜を蘇生させる装置を使う経費もかかる)。

5)戦後農業は、「農地開放」という大革命があったが、それは実は「アメリカ式農法」へ移行させるためだったことを再考すべきとして、最近では多くの農法が試されているが、いたずらな「許認可制」をとれば、それこそ農家の「内発性」を疎外することになる。

農家の経営に負担が大きい、「農薬、殺菌剤、肥料、飼料、農業機械」の価格決定権を、農協(全国農業組合連合会=全農)に委ねさせられており、農政官僚、農業関連産業の「利権」や、天下り先になっているところから、今の「農業」を観察すれば、農協、農水省の人員の「無駄」は明確である。

ちなみに、農業経済の血液たるファイナンスは、農林業に流れていないことがあげられる。農協の金融部門の全国団体である農林中央金庫に集められた資金は、微々たる程度しか農林業には投資されていない。そのほとんどが「ファンド」へ回っている。先の「住専問題」で、財務省(旧大蔵省)でなく、農水省が救ったのは、記憶に新しい(参照:農林中金-- 「農」衰退でファンド化: 『FACTA』誌を参照)。

6)ゆえに、日本農業・農家攻撃をするなら、上記の事実を指摘して、アメリカ金融資本、日本の政・官・財、さらに農協JAの「無駄」を解明することだ。それを情報公開して、初めて消費者側が農家を攻められるのだという認識が重要なのだ。

そもそも、コスト管理が出来る農家は専業農家以外はいない(しかも不十分)。それが出来る数少ない専業農家も、効率的なコスト志向の養鶏農家でさえ「生産経費」の向上で全滅しかけている。
極端な例では、これしか方法がないとは思えないが、今後は「工業的農業」に頼るしかない。しかし、その「安全性」を、ノウハウが無いために誰も検証できていないことも事実なのだ。

---(例))モンサントの「遺伝子融合」の「種」を使わなければ、デリバリー輸送してくれないために、アメリカの中堅農家が全滅した道を歩むだろう。そして、「温暖化」から「寒冷化」に向かう時代の、中世の欧州に起きた「魔女狩り」による「食の争奪戦」の再現が懸念される。
また、科学肥料や農薬、遺伝子融合の「種」などの人工工学的な思想による、天然・自然との戦いに勝てるとも思われず、農地の「砂漠化」が広がり、低所得層は、マクドナルドでコカコーラと不健康なハンバーグを食べて、「太ったインディアン」(=生活習慣病)になるのを「可」とするだけでいいのだろうか。

7)それに対抗する「自然農法」は、消費者と生産者を繋げることが難しく、また価格も高くなる。消費者の都合で、買わないということが出来ないという隘路がある。「畑買い」「圃場買い」が出来るか、困難な事実がある。
その理由は、「寒暖の歴史」や、自然の変化次第で、過剰にも不作にもなること。ここでも「贈与」という概念が理解されないと継続性は絶たれるのである。しかし、、「贈与」により、内発的に創意工夫された農法の定義やマニュアルも期待できよう、というものだ。

または、自給自足的な「日本版ダーチャ」を楽しみながら、自らが確認出来る栄養素満点の「食」を週末農業で供給することが可能だろうか。言い換えれば、自らが求める「生産物」は、自らが「生産者」を育てる「自立心」が必要である。

以上の観点から、ちなみに、「いのち自衛」という「安価な医・食・住」を目指した、『文明と森と里の現状修復論--日本の農林業は超長期の成長産業だ』の連載を、「ささやかに」試みてみたい。

(小括)
世界をおおうエリート主義の跳梁跋扈の中で、日本の知識人が畏怖し、見習うべきは欧米知的エリートの偽善・欺瞞でもなければ、新興ゴロツキ国家BRICsの知的エリートの強権でもなく、日本の大衆なのだという考え方を、日本の「行政府」に受け入れられるような議論の余地があるだろうか。

1929年からの先の大不況の震源地となったアメリカは、同時にクルマ社会化のまっただ中にあった。そして、クルマ社会化による「近隣共同体の崩壊」、働く者のあいだでの「連帯感や仲間意識の希薄化が相互扶助」をむずかしくしたために、1930年代大不況時の失業者の生活が1720年代や1870年代よりはるかに悲惨なものになってしまったのではないだろうか。

今後の課題は、上記のような「連帯感、相互扶助」というものの「具体的な政策」を打ち出そうとしない「新政権」だろう。応えようとしているのは、亀井静香・大臣くらいだ。「行政刷新」という、自・公の使用した「旧・通帳」をベースにした「節約パーフォーマンス」は問題外である。メンバーの事務局長は、米国の属国論者との関係性を指摘されていたのだから。

正しくは、平野貞夫氏が指摘しているように、国政レベルでの「行政刷新」は自・公の「旧・通帳」さらに「埋蔵金通帳」は、それだけ単独で整理していくこと。「新政権がつくる、新・通帳」から始めるべきで、セイフティネット対策や、意味のある公共事業への「資金」導入にためらうべきではない、ということであろう。

有為な人材が、今の政権にいないことが、そのうちに明確になることであろう。
西洋エリートや日本の高級官僚が述べる「経済学」が、大衆のための「経済学」ではないことを、本当の意味で理解させてくれる人材に不足するのは、世界中の先進国の全てでもあるが・・・。それが、「ノーベル経済学賞」の無効性を問われている原因でもある。


●農業問題(など第一次産業)は、強欲な「経済合理主義」では解決しないという認識の整理

1)「農業も市場開放」をしても、資本主義であろうと、共産主義の集団農場やキブツであろうと、産業主義に立つ限り「解決不可能」であることを前提として認識できるかどうかで、「結論」は大きくかけ離れたものになる。 

2)マルクスの『資本論』などの経済「共同幻想」は、間違いだらけを証明された。
しかし、彼の基本思想である、「生産・分配の場は、生きた労働と死んだ労働(すなわち金融資本)とで労働の成果を分捕りあう闘争過程であり、生きた労働の取り分が多くなればなるほど、平和で豊かな社会を築くことがができる」という「思想」は、現代に必要な「生産・分配の場(公共空間)」として新鮮にさえ見えてくる。

3)「私的空間」の「土地」は、「個人幻想(観念)」の場であり、上意下達的ではなく、多数決主義が「日本の農林業」を改めて「現状修復」として育くむことが大切だろう。
これまでの行政府や農協の実行てしきたことは「戦術」なので、受け入れ難いモノが多い。戦略と戦術を英語で意味を追えば、「軍隊用語」なので、高度さがない「政策」なら、当然、末端での犠牲者が増えるばかりであろう。

4)「文明と森と里の現状修復論--日本の農林業こそ超長期の成長産業だ」の拙論のキィワードは、江戸時代から近代を経た、都市化と移動エネルギーや協同体の崩壊から、近代化後の、現代日本型大衆による人間力(理想)への、「夢と勇気とサム・マネーがあれば、生きられる」(C・チャップリン)といった「心の運用法」の創意工夫・訓練の仕方を探求することになるであろう。

5)つまり、「人・土地・労働・組織・市場・技術・集団・政治」の、明治維新・戦後・平成維新の課題であるポストモダンの、現代日本大衆像から、<生きた労働>の「文明と森と里の現状修復論」への展望を連載してみたい。更に、読者の建設的な意見を加味して、論理を追ってみようと思う。


(つづく)


第2章 日本の「近代化」の基礎としての「江戸時代」と明治維新の背景を探る

第3章 GDPに占める70%近い「第3次産業」従事者構成のに伴なう「都市化」と、
     「こころの病」の意味とは何か

第4章 文明と森と里山の現状維持の背景と課題とは何か

第5章 日本の農林業は超長期の成長産業だ---人・モノ・カネへの展望

(おわりに)

*「参考文献」は、(おわりに)に記載する。

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ご理解・ご協力のほどよろしくお願いいたします。

<土井様>
久々に接するゴリゴリした骨っぽい論でした。
キブツなど学生時代以来の用語も登場して、少しドキドキしました。
さて、私の理解力では、半分も読み解いてはいないのでしょうが、感想なりを書かせて頂きます。
「生きた労働」「死んだ労働」があり、「死んだ労働」が支配する世の中です。ファンドなど人の借金を売り買いするのは、真っ当な人間のやる事ではありません。
所謂エリートが頭デッカチに采配を振るっても、決して民は幸せにならないのだと思うのです。
そういった意味で、鳩山官邸は失格です。平野貞夫さんが選挙応援で「民主党は脱官僚というが、一番官僚的な政党は民主党だ」と語っていた意味を今は実感しています。
自民公明の通帳は、それはそれで整理して、一方、民主党は新しい通帳を作り思いきった予算投下を躊躇すべきではない。
それを期待していた私は、脱力感というか、何故?という思いで一杯です。
臨時予算の執行停止や事業仕分けなどにかまける鳩山官邸は、見事に官僚的です。藤井氏が各大臣に査定大臣になれ!と檄を飛ばしたのも不愉快でなりません。
「財源なき所に政策なし」は財務省主計の発想で、財源を作る事は、財務官僚に任せておけばいいのです。
政治家は亀井大臣の様に、実現したい政策を打ち上げて優先順位をつけて役人に指示すれば良く、役人のレクチャーを聞いてヘトヘトになり、気づけば、政策の優先順位は消えて、できない言い訳を役人と共有する事態に…。
小沢さんが、農家への戸別補償を満額要求したのは当然で、これこそが、農業政策の要諦だからです。
マスコミがバラマキだといい、財務・農水の振り付けだと気づかぬ官邸は相当鈍感です。
野菜中心の食卓は経済的に成り立つ工夫が必要です。
農協に頼らず、または多数決による農協の運営によって行われる流通革命が欠かせないと考えます。
我が家には農家から直接地産地消の野菜が届きます。太さも姿もバラバラなキュウリは曲がり棘は痛い位、トマトは熟したものをもいで翌日に届きます。私が住む渋谷の洒落たスーパーの野菜たちは、高い上に味が抜けているのが良く判りました。
これからは私たち消費者と農家が共闘すべきです。採れたて野菜が比較的高値で売れ比較的安値で買えます。
変わりに消費者は、気候などによる野菜の出来不出来を受け入れなければなりません。
先日、東京から栃木に野菜を食べに行きました。次回作をお待ちしています。

農業を、成長産業と位置付けて、本気で啓蒙を図るつもりなら、こんなわかりづらい長々とした文章を書いても無駄だと思います。
もっと、簡潔で、解りやすい言葉を使い、読む気になれる書き方をしない事には、意味がないと、せっかくの文章を残念に思います。

農業を、国の根幹事業としてとらえていかねばいけないと思う一人として、失礼を省みず、申し上げます。

難しいけれど、読み応えのある文章だと思います。今年夏から、半農半ITの生活にチャレンジした、団塊世代夫婦です。何よりの励みとなりました。ありがとうございます。続きを楽しみにしております。

[マルクスの『資本論』などの「共同幻想(観念)」は、間違いだらけを証明された]

こういうでたらめな文章は書かないで,「あと10から20年の内に、日本の農家も、私の周囲を観察すれば、いずれは「農地」の「耕作放棄」を選択することになるだろう」という事実に基づいた結論だけを述べたらいい。

あとは日本の農業壊滅までの約三世代間の暫定措置として,[民主党の打ち出した「農家所得戸別補償制度」は、農家の自立心を育て、FTAという二国間交渉にも大きな意味をもつことになろう]という説を,データを示して,理論付けるだけで十分だろう。

農協批判を遣るんだったら,ごちゃごちゃ知ったかぶりの間違いだらけの浅薄な思想めいた用語を振り回さないほうが,信じて貰えるよ。

昨日から、今日の午前中に回線状態が悪かったのか。なかなか接続できず、御前に投稿した内容も投稿されていないようですので、再度投稿します。
コピーを取っていないので、同じ内容になるか判りません。

農林漁業問題は、多岐に渡っていますので、あれもこれもと唱えると論点がぼやけてしまいます。

前置きはこれくらいにして、私がまず思ったのは、この「コラム」の表題です。
「文明と森と里の現状回復」この意見には、賛同できます。
けれど、農林漁業は成長経済との考え方には、賛同しかねるところがあります。

というのは、農業は産業と捉えることができない面があるからです。
「曲がったきゅうり」のお話がありましたが、それを生産している農家は、真っ直ぐなきゅうりを作りたいと努力しているのです。
とはいえ、「曲がったきゅうり」も大切なわが子なんです。
種を撒き、美味しく食べてもらえる、その感謝の気持ちがないとできないのです。

私は、よく農業も経済感覚が必要といっていますが、それは、利益を追求する経営感覚でないのです。
とはいえ、これまでの農林漁業はほとんどが「どんぶり勘定」であった。
苦しくなれば、お上に直訴すればいい。
自立する意識を持ってこなかった。
最低継続するには、どうすればいいのか?
そのことだけでも、考えてこなかった。
今は、色々自分で考える機運がありますが、まだ多くは自立する意識すらないところが多い。
そういう意味で、経営感覚が必要と唱えています。
儲からないから、辞めるでは、ますます農林漁業は衰退します。
そういう意味でも、単に産業と捉えていただきたくないのです。

問題点は沢山あります。
全農・農協組織にも、問題ある。
その点の私の意見は、その2でも投稿したいと思っています。

誤字を発見、恥ずかしい限りです。「御前に投稿した内容も」
「午前に投稿した内容も」
です。

全農・農協組織の問題点の私的意見を投稿する前に、農業の変革点を知っていただきたい。

戦後農業の変革点は、私は2つあったと思っています。
その1つは、ここでも述べられている財閥解体に合わせた、「農地解放」である。
もう1つは、故池田首相が唱えた「所得倍増計画」である。

「農地解放」については、いくつかの別の「コラム」でも投稿しているが、これと「農協組織」も関わっている。
自立を促された小作人は地主と言う指導者を失った、最小単位の村落集落において取りまとめ役、その地区の代表者を決める必要があった。
私達は、その代表者を総代と呼んでいる。
その総代の集約が、各都道府県市町村単位のJA(農協)である。
各JAは、独立採算制を基本とし、理事は、いくつかの集落の集合体、地区で更に代表総代を選出し、その代表総代の中で選任される。
農家は、各JAの組合員として構成員となり、ある意味JAの小作人という立場ともいえる。
小作人といえ、JAに意見は言える立場でもある。
こうしたことが、「農地開放」が農業にもたらした変革の1つ「農家とJAの関係」です。
構成員農家を指導し、サポートする体制が、JA組織であった。

もう1つの「所得倍増計画」が、農業にもたらした変革は、いくつかある。
1、農村部から都市への人口流失。
2、農家そのものの「所得の倍増」

1については、日本経済が商工業中心と経済をめざし、容易に所得を得られる中央都市に集中した。
この現象は、中国でも問題視されている。

2については、いくつかの手法が採られる。
私は、米作農家ですので、その点を中心に述べたい(他の業態、畜産、野菜、林業、漁業等は詳しくない)。
①米価(お米の値段)そのものを上げる。
②単位面積当りの米の収穫量を上げる。
③生産効率を上げる。

①は、食管法が廃止(米の自由化)まで、物価指数とか、買い取り価格の値上げ陳情と言う形で、値上げされてきた。
その陳情の役割を果たしたのが、農協組織であり、全農組織である。
②は、昭和30年代から見ると現在は、3倍近く単位面積当りの収量が上がっているはずである。
その背景には、米の研究が盛んになされたことによる。
東北地方などは毎年冷害被害があり、ほとんど収穫できなかった。
今や、北海道が一大産地になっている。
また、お米の生育過程で、必要な養分をどの時期にどれだけ与えればいいのかがわかってきた。
有機農法による、自然堆肥は、その養分効果は満遍なくあり、またどの時期に分解され、養分となるのか不特定であった、
それを解消したのが、化学肥料である。
必要な時期に大量に与えて、必要としない時期は、逆に減らす。
このことの指導に農協が関わり、化学肥料の生産に関わったのが全農組織である。
③は、1の人口流失とも関わる。
この説明をする前に、田んぼの大きさを表す単位について、話しておきたい。
田んぼの大きさを表す最小単位は「畝」(セ)と表します。
1畝は、10m×10m(33坪)の大きさで、その10倍が1反(タン)、更に10倍が1町(チョウ)と表しています。
前述と同様に昭和30年以前は、農作業はすべて、人力(一部馬や牛)で行われていた。
人口流失による人手不足解消のためと経済産業の農業機械の導入が、このニーズと合致していくのである。
ここで、また農業機械の導入が農協・全農組織の関与を強めていくことになる。

更に、すべての作業を人力で行っていく場合の適正な田んぼの大きさは、2~3畝であろうと思う。
それから、小型機械の導入により、効率的な田んぼの大きさが5~10畝に変わる。
更に中型機械で、1~3反になり、今大型機械の導入による効率化という観点から5反から1町が適正な田んぼの大きさとなるのです。
農業機械の発達が、経済産業を支え、農協・全農が農業機械分野にも農家との係わり合いを持つことになる。

付け加えて今、少し話題の「土地区画整備」(土地区画整備団体)が、田んぼの大きさの変遷と関わっているのです。

大雑把な、農業の変遷を知っておいていただいた方が、「農協・全農」組織の問題点を、私なりの私見を述べる前に重要と考え、今回の投稿になりました。

本田勉さん

 貴方の記述から、農業に対する愛情がふつふつと湧いて出るさまが見えるようです。

 首題を書いた土井さんも、理屈っぽいところはありますが、貴方とおなじで「くそ」を冠する「まじめ人間」ですから、同じ実践者として実りある議論の展開を期待します。私の場合はやぶにらみで、農業に興味関心はありますが、当事者でないだけに「ヘボ評論」に終わります。

 貴方の投げかけられた問題にも次回以降書いてくれると思いますので、それぞれの思いが進化することを望みます。

 私は、同じ町内に住む人がつくっている「家庭菜園」から「畑」にお礼をいいながら酒の肴を調達します。無論、無農薬ですから「虫」はありで、嫁はいやがりますが「虫が生きとることは人間、就中、孫にはゼッタイ安心。虫はタンパク源」と意に介しません。孫たちも真似て「キュウリ、人参の丸かじり」など、縄文人を再現しています。

 キュウリやナス、トマトは我が家の庭にも植え、庭先に下りずとも窓から収穫できる「棚」をしつらえて収穫します。二見伸明氏の家庭菜園は「ねこのヒタイ」に非ず、「ねずみのヒタイ」だそうですが、我が家のそれは一段と狭く、形容の術がありませんが、これも「農業」と息巻いています。

 食糧は弾薬を超える「安全保障」問題であるとも愚考しますので、今のままで良いとは思いません。

大島 楯臣 | 2009年12月22日 18:00様
拙い文章にコメントありがとうございます。

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