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赤虎頭巾:タイについて(7) ── タイの歴史3 アユタヤ王朝・前

 アユタヤはバンコクから北へ約150km、メナムデルタのほぼ真ん中にあり、タイ国を貫いて流れるメナム川(チャオプラヤー川)の下流域の始まりに位置しています。

 この地点は、ラオス、カンボジア北部と国境を接する広大な台地である東北地方(イサーン)から流れ下る川のメナム川への合流地点でもあり、川が主要な交通路であった時代においては、タイの農産物の一大集積地点でもあったのでしょう。

 タイの、ほぼ全域を支配していたクメール帝国が衰退し、北方にスコータイ王朝が覇を唱えたものの、それもまた衰え始めた、14世紀半ば頃、この地にアユタヤ王朝(AD1351年―1767年)が誕生します。

 創始者は、やはりタイ族で、ウートーン(金の揺り籠)王とも呼ばれるラーマーティボーディー1世です。

 クメール帝国が衰退して行ったあとのタイ中部にはいくつかの中小王朝が成立していたようで、そのうちの一つが出自といわれていますが、定説は今のところありません。

 「ターミーカーオ、ナームミープラー 田に米あり、水に魚あり」といわれ、農業王国であったスコータイ王朝とは違い、アユタヤ王朝は、タイ国内の物資集積点という利を活かし、貿易帝国であったクメール帝国と同様、中国、インドに加えて、さらに日本、中近東、ヨーロッパを含む大貿易帝国としておよそ400年にわたり繁栄を続けました。

 その貿易の中心商品となったのは、ほぼタイ全域で取れる米です。

 タイの歴史上初めてと思われる大掛かりな公共事業の灌漑用水路の整備と併せて、この頃、バングラデシュから渡来したといわれる浮稲も貿易用の稲の生産拡大を助けたようです。

 タイ農業の問題点のひとつは、豊か過ぎる水による冠水です。広く何処までも平らなメナム・デルタに降った雨は、山国日本のように、洪水となり海へと流れ落ちては行きません。ゆっくりと下流域へと流れてくるのですが、更にその下流域にも雨が降り、ナーム・トワムといわれる、じわじわと水位が上り続ける洪水となります。ついには見渡す限りの田んぼが水に浸かり、広大な湖となりその状態は1-2ヶ月ほども続きます。

 通常の稲では葉も稲穂も水に沈み腐ってしまいます。渡来した浮稲は、乾水期に直播され、雨季に水位が上るとそれに併せて茎の節間を伸ばします。常に葉の部分が水上にあり、稲穂を水上に出す稲です。硬くあまり味は良くなく、収穫量も少ないようですが、この導入が、冠水状態となった田んぼでの米の生産を可能としたわけです。稲刈りは、小船を浮かして、実った稲穂の部分を刈り取っていくという形で行われていました。

 現在では、整備された水路と、その末端の海に注ぐ堤防に大きな揚水ポンプが何台も並べられ溜まった水を海へとくみ出されているため、首都バンコク周辺では浮稲を見かけることは少ないのですが、15年前には、時々見かけた風景でした。

 米の増産とその貿易で栄えたアユタヤ王朝は、それまでのタイとは違った、社会的、政治的システムを生み出します。

 米の生産を支えるのは言う間でもなく、土地と人ですがこの二つについてアユタヤ時代に初めて土地所有権制度と身分制度が確立されます。

 サクディナーと呼ばれるこの制度は、アユタヤ王朝7代目の王インタララーチャー1世(1409年―1424年)によって始められ、9代目のボーロマトライローカナート王(1431年-1488年)によって確立されたとされています。

 制度の概略は、先ず全ての土地を王の所有物とする。次に国民を身分によって分ける。 分けられた国民はその身分毎に一定の面積の土地を王から借り、耕作を行うというものです。

 具体的には、国民は、大臣を最高位とする軍人、官僚(アマタヤー)、平民(プライ)、戦争捕虜(奴隷)(タート)に分けられました。

 アユタヤ王朝も、主体をなしたのは、移住してきたタイ族の末裔ですから、恐らく大臣以下の、軍人・官僚はタイ族、平民は原住者という仕分けがなされたのでしょう。

 借りられる土地の面積は、大臣が1万ライ(約160町)、平民25ライ(約4町)、奴隷が5ライ(約0.8町)とされていたようで、国土の広大さが伺われます。

 この制度は1932年の立憲革命まで続き、社会階層の分化を固定し、国民の自由な発展を阻害したのでしょう、現在でもタイの民主派の集会ではしばしば、アマタヤーへの非難が聞かれます。

 しかし制定時点においては、安定した土地の保有を全ての人々に保証したわけで、生産意欲の向上に資したものとおもわれます。

 このような、制度の整備と合わせて、アユタヤ王朝は貿易で得た豊かな富を使って積極的な領土の拡大を行いました。

 初代のウートン王は、国内に残存した、モン族、クメール人などの拠点を併合し、更には衰退するカンボジアのクメール帝国の首都アンコールまで攻め入りこれを陥落させています(1362年)。

 14世紀の末頃までには、マレー半島、ミャンマーのベンガル湾まで勢力を伸ばし、アユタヤはインドシナ半島の最大の勢力となります。

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ご理解・ご協力のほどよろしくお願いいたします。

昔の日本の農業を垣間見るようです。
農業問題で捉えていくと、日本のような近代農業が良いのか?
できれば、タイの方々にも考えていただきたいものです。

というのは、アメリカや中国のように広大な土地がある所と狭い国土しか持ち得ない国では、農業の考え方がある意味異なっているからです。

作物を長年、同じ場所に作るとその土地は次第にやせていきます(必要な養分が失われる)。
広大な土地があれば、渡り歩き次の土地でつくればいい。
何年後には、自然の自浄力で、荒れた土地もある程度元に戻る。

洪水などの冠水により、実は失われた養分を地面は、取り戻しているのです。

近代の日本の農業は、洪水の作用が働かないため、強制的に化学肥料で不足になった養分を補った形で成り立っています。
このことが、高コスト体質の要因の一つでもある。

タイの方から見れば、効率的な機械があり、洪水の心配も無いと見えるでしょう。
でも、それは高コストの生産体制になることも知っておいて頂きたい。

 本田様
 コメント有難うございます。
 農業を行ううえでの、日本とタイの自然条件の違いと、それが日本の人々とタイの人々に与えた影響については、或いはその推測については、この連載の1と2で考えました。
 農業にお詳しい本田様に読んでいただき、もしコメントでもいただけましたら幸いです。
 この面の左側の、Categoryの赤虎頭巾をキックしていただければ、お読みいただけます。
 もし既に見ておられましたら、ご海容ください。

「アリとキリギリス論」大いに賛同です。
私も詳しくありませんが、熱帯系の民族は、どちらかと言えばのんびりしていると聞いています。
私論ですが、寒いと体を動かし汗を流すか、別の方法(例えばアルコール等)で、体温を暖めないといけないのかもしれませんね(笑)
タイの歴史を詳しく、述べられていますが、タイには年貢のような制度はあったのでしょうか?
全文を読み終えていないので、何処かに記述があれば、大変失礼な質問です。
日本は、搾取の歴史が長い。
このことが、蓄える行為に繋がっていると思っています。
横暴な時は、一揆か、離散の繰り返しでなかったかと・・・。
この先、日本でこのような事態が起こらないことも願っています。

追記:一揆は先ごろあったかな。


本田様
 タイでは、苛斂誅求という、記録或いは話は、見かけません。
 国家が成立するのが、13世紀のスコータイ王朝と遅く、その政治も、ポークン(父殿下)の政治と伝えられているように、クメール帝国を追い出した後は、各地の小王国との、談合で、領域拡大を行ったようで、緩やかな国家であったのではないでしょうか。
 この時代、年貢は勿論あったでしょうが、戦争、大規模な土木工事、飢饉に備えての備蓄という要請は少なかったのでしょう。
 更に、少数の流入民族による国家ということで、あまり強権的な支配は行われなかったようです。

 定期的な公共工事が行われたのは、貿易国家アユタヤ王朝に入ってからで、米の増産とその運送のために、広大なメナムデルタに、縦横に用水路が張り巡らされました。国家の金儲けのための工事ですが、反面人々の生活改善にも貢献しています。
 更に、サクディナーの、土地の所有権と身分に関する制度が確立された時点では、それに併せて罰則を伴う税制度ができたようです。

 タート(戦争捕虜)及びプライ(平民)はアマタヤー(貴族)の下に属するナーイ(村落単位での村長)に監督され、役務と納税の義務を負うとされています。

 支配がきつく、プライやタートが逃げ出した場合は、ナーイが罰金を払わなければならないという制度も出来ています。

 ただこの逃散は、殆ど家族単位或いは集落単位の小規模なものであったようで、大規模なものは記録には残っていません。

 恐らく何かの個人的事情による夜逃げのようなものだったのではないでしょうか。

 自然と、広い土地に恵まれたタイの人は、土地を離れると食っていけなくなるということはありませんので、今でも上手く行かない事があると簡単に会社を変わります。

 現在のタイの税金は、所得税は会社部長クラスの月収15万円で9000円(6%)と低いのですが、消費税は7%としっかりとっています。

 支配層は、長年、税の形ではなく主要産物である米を農民(15年前で国民の75%、現在でも45%)から安く買ってその貿易で儲ける、或いは所有する土地、建物を高く貸し付けて儲けるというシステムをとったようです。
 今でも、土地建物の賃借料は非常に高く、外国人への販売は、特別な許可がない限り出来ません。

 最近では、外国人が、タイ人と偽装結婚をしタイの農地を買ったケースが多いと問題になっています。近代的所有権は1800年代後期のチャクリー改革(奴隷制の廃止を含む)と1932年の立憲革命(身分制度の全面廃止)で一応成立しているはずなのですが、タイの支配階級は今でも基本的にはタイの土地は王様のものとの意識が残っているのかもしれません。

こうしてお話を窺っていると、どこの国でも同じような歴史変遷を辿っていると、感じさせられます。
日本は、海に囲まれ外圧や民族の移動が少なかった分、国内での勢力争いが顕著であったと思えます。

農業で言えば、荘園制度から庄屋制度で地域の農業を取りまとめていた。
農地そのものは、小作人のものでなく、取りまとめ役の所有であった。
先に述べたように、何年も作り続けると、収量は下がっていきます。新田開発は、そうした面もあったと考えています。
そのなかで、小作人の移動が多少あったと思います。

実は、我が家も新田開発に伴う、移動小作人であったらしい。
江戸末期にこの地に流れてきたと伝え聞いています。
檀家のお寺が火災で焼けて、昔の人別帳がなくなり、それ以上のルーツは不明です。

農地解放以後、少しずつ農地を増やして現在に至っています。
今は、自己所有以外に近隣の非農家になりつつある方の農地を預かる形で行っています。
農地解放には、それなりの意味はあったのですが、今は、農地の集約化という、逆行現象が進んでいるのはなんとも皮肉な話です。


赤虎頭巾様

タイの工芸など伝統的な文化について書かれる機会があるとうれしいですね。

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