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2009年7月29日

豊後の小兵衛:総選挙に向けて

 昨夕(29日)、突然の来訪者があった。昭和53年生まれの31歳、北陸のI県で政治家を目指して頑張っているY君で、彼は小沢一郎政治塾の二期生でもあり、法学部卒の硬骨漢である。

 ちょうど夕食時でもあったことから、御多分に洩れず「まず飯を食え、話はそれから」と会話は始まったのだが、普段なら我が家の冷蔵庫をカラにするのに「今日は飲めません」という。

 こちらは当然のこととして「泊まり」を予定したのだが、この足で福岡に出て、明日一番の飛行機で帰るという。「ならば主な要件は?」と聞くと、年内に行われる地方議会選挙に無所属での立候補が決まり、その報告だという。「バカだなぁ、電話で済むことじゃないか」、「おおかたそういわれると思いましたから、アポも採らずこうして出向きました」とのたまう文字どおりの「馬鹿者」である。

 で始まった会話は「九州の選挙情勢は如何ですか?」と、やはり政治家の「ゆでたまご」だけに、並の31歳とは話題が違う。「よりも、地元の北陸はどうだ」と問うと「それがですね、私が関わる選挙事務所にかぎってのことですが、小兵衛さんならおそらく激怒するでしょうね」。

 「もう勝ったつもりのようですよ、自分も役目がら朝8時には事務所に入るのですが、責任者が来るのは早くて10時、時には昼過ぎに来て、さしたる指示も出さずに、事務所にある数紙の朝刊を読みふけっています。夕方になると勤め帰りの支援者の方がパラパラ出入りするのですが、それだけで、候補者一人があちこち走り回っているだけです」。選挙前のポスターは、しっかり貼り替えも終わり、ビラのポスティングも、全戸を対象に配布を終えたともいう。事前準備が長かっただけに「支援者カード」も相当数回収したそうな。

 経験則に従うと、支援者カードほど頼りにならないものはない。ある選挙で事前準備が整わず、重複やロスをみても最低20.000は必要な支援者カードが3.000ちょっとしかない。「よし、今からカードを回収しいていたら選挙が終わるから、それは止めて○○○○」と路線転換をして勝ち取った得票は、15.900で400ちょっとの差で負けだった。別の機会には有権者総数の二倍の支援者カードがあるという。これははっきり眉唾であり、「頼りにするな」との戦術で臨んでぶっちぎりの圧勝だった。

 この二回の選挙で実務を担当したのがY君で、以後、私のところに出入りするようになった。「これをやれ」と私が指示を出すと「公職選挙法第○条○項に引っかかりますからダメです」と、さすが法学部卒だけに隙がない。「ならばお前が右代表でしばらく泊まってこい」と、むちゃくちゃな選挙でもあった。
選挙とは法を犯してはならないが、候補者をどうアッピールするか、ギリギリの勝負が求められる。駅頭立ちもあり、ビラもポスターもありだろう。しかしそれらはどの候補者もやっていることであり、その違いから抜け出すことは至難である。

 「で、どう思う」、「やりかたによっては圧勝すると思うのですが、もう緩みが出ているのではないですかね」である。至極当たり前のことだが、選挙はこれが一番怖い。

 実は解散直後の土曜日(25日)に、某自民党候補者の政策担当秘書の来訪を受けた。「解散と同時に会館事務所を閉じ全員選挙区に張り付きました。わたしも安宿住まいでしばらく過ごします」。

 情況を問うと「従来の支援者は固め終わりました。地方議員の方々の目の色もこれまでとはまったく違い、あれこれお願いしなくても独自に動いていただき、選対本部は浮動票対策に集中できて、大変助かっています」とのこと。

 福岡の某自民党陣営では「悔しいけど今度は民主党で決まりです。だから、お宅の家族票だけはうちにくれませんか。負けても次に繋げるにはそれなりの票が欲しいのです」と今から泣きを入れているが、これは田舎の年寄りにはぞんがい有効であり、これをお盆を挟んでやられたらどうなるだろうか。

 以上、隔靴掻痒にひとしい選挙情勢報告ではあるが、解散直後に駆け足で北部九州を見て回ったことと大きな違いはなく、自民党の危機感に対する民主党の緩みとはいわないが、もう一つの物足りなさを感じている。ある大物事務所の担当は「小兵衛さんは政権交代派ですが、まぁ見ていてくださいよ」とうそぶいたが、はてどうなることやら・・・・・。

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2009年7月27日

意見募集! 配偶者控除の廃止に賛成? 反対?

 民主党が政策実現の財源の一つとして掲げた「配偶者控除」の廃止が、《THE JOURNAL》を含め、ネット上で議論となっている。

 そもそもこの議論の発端は、自民党による民主党批判のなかで「配偶者控除・扶養控除の廃止だけでは財源不足だ」と攻めていたものが、国民には「民主党が政権をとると、事実上の増税になる」と受け取られたことにあるようだ。

 だが、実際の経緯はもっと複雑で、配偶者控除は数ある税控除のなかでも廃止すべき項目として、与野党問わず長年にわたって議論されていた。しかし、控除の廃止によって影響を受ける世帯数が多く、これまで実現に至らなかったという事情がある。

 たとえば、首相の諮問機関である政府税制調査会は、07年にも配偶者控除の廃止を含めた見直しを提言している。そういった経緯からすると、仮に8月30日の総選挙で与党が勝利したとしても、将来的には配偶者控除が廃止される日が訪れる可能性は高い。

 一方、民主党はすでに2004年参院選のマニフェストから「配偶者控除の廃止」を主張しており、その後、代表が交代しても一貫して控除廃止を主張している。民主党案の特徴は、廃止の代わりに子育て世代に2万6000円の現金を給付する「子ども手当」や「高校の学費実質無償化」をセットに公約しているところにある。

 さて、あっという間に総選挙の争点の一つになってしまった配偶者控除廃止問題。読者の皆さんはこの政策についてどう思いますか?

 ぜひ、ご意見をお寄せください!

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配偶者控除廃止 賛成・反対の主な意見

■廃止反対派の意見
・なぜ、「子ども手当て」のために一部の世帯に増税するのか納得できない
・いきなり廃止すると、最大で10万円ほどの税負担になる(所得が900万〜1000万円の世帯)
・平均的な収入世帯(439万円)でも1万9000円の増税は納得できない
・一番お金がかかる子どもが大学のときに増税されるのはおかしい

■廃止賛成派の意見
・いわゆる「103万円の壁」があることから、女性の労働意欲を削いでいる
・結婚しているだけで控除されるのはおかしい。独身者差別だ
・子育ても親類の介護もしていない専業主婦に、税控除は必要ない。働けない理由があるのなら、それを理由に控除すべき
・子どもがいない夫婦も、年をとれば若い人の税金のお世話になる。そのためには、元気なときに未来世代のために税金を払うべき
・低所得者層はもともと税金を払っていないので、廃止になっても関係ない。もしくは廃止の影響が小さいので、格差解消になる

■参考資料
090724okada.gif
※画像をクリックすると拡大します


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2009年7月20日

野本祐治:地方分権は財源の分捕り合戦ではなく理念から

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 地方分権を語る時、避けては通れないのが首都「東京」であると思う。明治時代に国家の総力を結集して行われた中央集権化は「政治と行政」「経済」はおろか「皇室」「マスコミ」までも東京に集中させた。その時代には意味のあったことだろう(通信・移動手段等の時代背景)が、今となってはどう考えても一極に集中しすぎている。災害等の危機管理、また国防の観点からも問題は大きい。少なくとも「政治と行政」「皇室」は東京から切り離すべきであろう。

 まずは、(この国会決議が何故20年近くも放置されたままになっているのかが解らないが)1990年に衆参両院で国会決議された「国会等の移転に関する決議」を動かすべきだろう。東京都を「首都」ではなく、日本経済の中心を担う一地方都市にしなければならない。そもそも、ほとんど全てといってもいいくらいの大企業の本社が東京に集中していること自体が異常だが、それぞれの業界を監督・指導しているそれぞれの行政の中心が隣接して存在していて、重ねてその根拠となる法律を作る立法機関までもがそこに存在している。これではいくら国民が『政官業は癒着するな』と言ったとしても、囁くだけで聞こえてしまうような距離にお互いが居たのでは無理というものだ。

 そして「皇室」であるが、天皇陛下御一家はそもそものお住まいである京都御所に移っていただき、政治や経済から距離を置いて落ち着いたお暮らしをしていただくべきだと思う。

 国民の象徴がお暮らしになる京都、政治行政の中心になる新首都、そして経済の中心としての地方都市東京。と、現在東京に集中している機能を分散することから地方分権・地方主権を始めるべきだ。

《よろんず》投稿受付中!

 6月25日の開設以来、《よろんず》にたくさんの投稿をいただき、ありがとうございます!
 
 みなさんからいただいたご意見やご感想は、スタッフがすべて目を通し、今後の運営の参考とさせていただいています。また、政策に関する記事を希望するコメントがたくさんありましたが、こちらは総選挙に向けて特設コーナーを新設し、議論していきたいと考えています。

 今後もコラムをもっとたくさん掲載し、議論の場として発展させていきたいと考えていますのでよろしくお願いします。

 前回の投稿欄はコメント数が100に近づきましたので、読者からの新しい投稿についてはこの記事のコメント欄にお願いします。

 なお、投稿文に関しましては、文面自体に変更を加えることはありませんが、レイアウトの都合上、「改行」「句読点」「文字詰め」「リンク」等を入れる場合がありますので、あらかじめご了承ください。

 みなさん、よろしくお願いいたします!!

【過去の読者投稿欄】
http://www.the-journal.jp/contents/yoronz/2009/06/the_journal.html

2009年7月15日

heizou:エネルギー問題を議論しよう!

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 21世紀の持続可能社会を構築する上で、いくつかの事例をもとに、意見を少し述べさせて頂きたい。

 現状のまま化石燃料を消費し続ければ、地球上の化石燃料文明はおおよそ100年(長く見て200年程度、大同小異)程度しか持続できないということである。他人事ではない。すでに子や孫以降の時代に重くのしかかる負の遺産の対処の道筋をつけることは現世代の喫緊の重大政策課題である。したがって、化石燃料代替なるものを今後100年の超長期計画で軌道にのせる詳細なロードマップ作成が必要となっている。特に日本は周知の通りエネルギー自給率は4%という異常な低さであり、より深刻な問題でもある。化石燃料代替の有力候補は、科学・技術の大きな進展があればまた変わり得ようが、現在のところ、太陽電池、太陽熱、風力、地熱、バイオマス、中小水力、潮汐、潮力等の再生可能エネルギーをおいて他にはない。

 もちろん、燃料電池はこれらの諸技術に続く重要な技術と位置づけられる。再生可能エネルギーによる産業は地球規模の21世紀のまさに産業革命になろう。いつの過渡期の時代にも共通していることであるが、しがらみの旧勢力(独占電力産業業界)は鎖国状態に近く、世界の俊敏な変化にまったく追随できていない状況である。まさに幕末から明治維新への変遷と酷似しているように見える。今の体たらくの自・公連立政権には国を託せないことはもはや周知の事実となった。最近の腰砕けの中途半端な固定価格買取制度導入を見れば、いかに信頼に値しない政府であるかが一目瞭然である。

 下記に述べるが、エネルギー自給率の低さおよび稼動時炭酸ガスを出さないことから代替は原子力発電という人もいる。これは今日までに国民の声を無視し、暴力的に築いた既得権益を守る政官業の癒着した原子力発電事業の関連組織に属する人たちである。ここは冷静になって、これまでの国民無視および原子力発電の本質的な経済的、技術的安全問題の分析が不可避である。

 政府はこれまで化石燃料代替には原子力発電という護送船団による偏重政策をとってきた。原子力発電事業に関しては、肝心の情報開示は十分でなく、データの隠蔽、捏造等は日常茶飯事で、国民の合意形成などあり得ず、政官業癒着のもとで力づくで進めてきた。原子力発電事業は実は本当のことを国民には知られたくないことがあまりにも多く、特に、経済性と安全性問題を隠し通してきたと言った方が正確である。原子力発電事業は21世紀の環境にやさしいエネルギー源としての適格性を根本的に欠いている。ましてや高速増殖炉の危険性と経済性問題は既存の原子力発電よりさらに深刻である。国民は原子力発電は頭から難しいと思い込み、政官業にお任せの状態であり、一方、政府や関連事業体は分かりやすく本当のことを説明すれば国民に反対されるから、決して本当のことは口外しないという悪循環に陥っている。この状況のもとで、意識の高い国会議員、県市町村議員、NPO団体、市民グループ等が危険性、経済性問題を指摘するが、総じて国民の関心は薄く、また官尊民卑が完全に抜け切らず、黙り続けているというのが実態である。これをいいことに、原子力発電事業の政官業一体の横暴ぶりは、さながら、暴力団組織そのものの行動をとってきた。とても民主主義社会に住んでいるとは思えない。ことエネルギー政策の根幹に関しては社会主義国家と同じと言った方がよいのであろう。自民党・公明党連立政権の醜態には反吐がでる思いであった。

 日本の将来を支配するといっても過言でないエネルギー政策の閉塞状態を払拭するためにも、やっと好機到来である。断末魔の自民党と公明党がいよいよ表舞台から退場いただく日が刻々と近づいている。久しぶりにワクワク感を覚えるのは私だけではないと思う。政権交代により、国民主権のもとで、今のエネルギー問題を理解し、国民自身が何故、何を、どうしたいのか、そして、そうなればどう良くなるのかを自分の頭で実感できる喜びを体験したいものである。多少しんどいと思うが、みんなで力を出し合えば、それほどではないと思う。

 身近なところでは、全国津々浦々に数多ある自治会を、エネルギー問題をはじめ多くの日本の諸問題を自分の問題として議論できるような開かれたものに変えていく必要がある。さながら、現在の自治会運営状況は100年前の頃といったほうが的確かもしれない。地方分権が叫ばれる中で、一番変わらなければいけないのはボトムの市町村レベルの自治会組織ではないか。現在の多くの自治会では、極論すれば親睦事業を除けば、市町村からの交付金で縛られた上意下達の役割が殆どといっても過言ではないように思う。とにかく、わずらわしい問題はすべて役所にお任せの時代が明治以来今日まで続いてきた。それをいいことに、役所は政官業の癒着を起こし、自縄自縛の状況に陥り、各省庁は自分たちの権益のための政治にいつしか変貌し、国民のための政治から乖離したといえる。戦後、復興期の各省庁の官の役割は大きなものがあったことは認めるが、もはや、多様化、複雑化した今日の社会では、中央から地方へ権限を渡してこそ、正しい政治が行える時代になって久しいのである。

 地方分権はまさに再生可能エネルギーによる分散型発電ネットワーク構築と合致したものであり、非常に適した地方再生の切り札になり得るのではなかろうか。これからがおおいに楽しみである。

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2009年7月10日

豊後の小兵衛:ことばを失った日本人(3) 

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 引き続き、漢字制限問題について書こう。そもそも何故に漢字をなくそう、制限しようなどの発想が起きたか、その動機は単純であって、江戸末期から明治の初めにかけて、先進国と称された国々の文字数の少なさに驚いたというのが主たる要因である。

 前回紹介した新聞社説は、敗戦直後の狼狽ぶりを表出しているが、文化国家や民主政治がローマ字表記によって成るなら、テロも、戦争も起こりえずこんな簡単なことはない。

 「われわれの腦中に存在する封建意識の掃蕩」をローマ字表記で試そうとも思ったが、ばかばかしくなって止めた。皆さんでお試しあれ。意味を理解するのに数倍の脳力(誤植に非ず)が必要。

 一字、一字を拾って読まなくても、「見て分かる」それが日本語の特長でもある。

 「かなづかい」は別項で語るとして、漢字排斥、若しくは制限論で最初に登場するのは江戸時代中期の学者・新井白石である。無論その後に登場する単純廃止派のような浅薄な主張ではなかったが漢字の多さには異論も述べている。

 ここは学問の府でもないことから、あいだを端折って進めるが、明治に入って郵便制度を創ったことで知られている前島密が、慶応2年、時の将軍徳川慶喜に「漢字御廃止の議」を建白した。

 要約すると「漢字をまったくなくすことは容易ではない」、「文字を習うことに長時間を費やすことはよくない」、「従って仮名文字を用いる」べしと説いている。

 次の、薩摩出身で、初代の文部大臣を務めた森有礼は、「英語をもって日本語に変えるべし」とエール大学教授ホイットニーに書簡を送ったが、「一国の文化の発達は、必ずその国語に依らねばならぬ」と、逆に諭されている。

 福沢諭吉はこの二人のような極論ではなく「ムツカシキ漢字ヲバ成ル丈用ヒザルヤウ心掛ケルコトガ緊要」と説いている。

 江戸末期から明治初期にかけては国語問題に多くの人が発言し、明治35年3月24日、文部省は国語調査委員会を設置した。同委員会は、同年4月から6月まで9回の会議を開き、

1、 文字ハ音韻文字(フォノグラム)ヲ採用スルコトヽシ假名羅馬字等ノ得失ヲ調査スルコト
(漢字は廃止するが、かなにするか、ローマ字にするかを調査する)
2、文章ハ言文一致體ヲ採用スルコヽトシ是ニ關スル調査ヲ為スコト
3、國語ノ音韻組織を調査スルコト
4、方言ヲ調査シテ標準語ヲ選定スルコト

 という四つの調査方針を決定したが、わずか3ヶ月の短期間に、国の根幹ともいうべき課題に「漢字全廃に異論なし」としているが、ことの是非は別にして、どこかの国の総理には「ちっと」は見習って欲しい気もする。

 プロローグで「たかだか10人前後の米国派遣による教育使節団」の仕業とも書いたが、その実はこの「国語調査委員会」が、すでにその基礎はしっかりつくっていたのであり、連中が占領政策に便乗したに過ぎない。これはりっぱな「売国奴」でもある。

 さても、長々と漢字制限、廃止論の背景を端折って書いてきたが、その全貌は「知的生産の文化史―ワープロがもたらす世界」(阿辻哲次書・丸善ライブラリー)に見える。要するに、諸外国との交渉や貿易に伴う文書作成に、ちんたら毛筆で書いていても話にならぬ、しかも数千はある漢字を学ぶなど、非効率このうえない、しかも諸外国は「タイプライター」という便利な筆記具を駆使し、機関銃のように文書を作成するのだから、「めんたま」を白黒したであろうことは想像のうちにある。

 私の友人である金文学先生(北京大学・放送大学客員教授、広島文化学園講師)によると、現在の中国で政治、経済に使われている用語のほとんどは、明治期につくられた「和製漢語」だそうな。

 いま私たちが使っている「国」という漢字は、漢字の歴史には登場しない。正漢字は「國」だが、略字をえらぶ時、中国で使われたことのある國がまえの中に王を書く漢字を転用して、我が国には王がいないことから、1点を付記して玉として国字をつくった、とその真偽のほども分からぬほど、いい加減な漢字を私たちは「正しい漢字」として、戦後の教育をうけた。

 それらの漢字について、先に登場した阿辻哲次先生は、

引用始め(月刊・書法H12年9月号・書法研究會発行)
 『(前段略)しかしはっきりいって、「涜」や「祷」などは明らかに誤字です。私のように漢字の研究を本職とする者から見れば、いったいどこの機関で、どのような議論の結果、このような字体がJISに採用されたのか、いちどじっくりと聞いてみたいところです。しかしいくら誤字であっても、それがやがて習慣として使われ続けると、いつの間にかその形が社会に定着してしまいます。
 この問題についてはちょうど今、国語審議会が審議しているところであり、そして私自身が国語審議会のメンバーとして、まさにこの問題にかかわっていますので、正規の答申が出る前にここで個人的な見解を出すことを避けておきます。
 ただこの問題については、第21期国語審議会(清水司会長)が文部大臣に報告した試案で、「鴎」とか「涜」のように常用漢字表に収録されていない漢字(「表外字」という)については、できるだけ中国の規範的な字書に載っている伝統的な字体(康煕字典体)にするという方針を確定し、ただ社会的に定着している簡略体39字についてのみ「簡易慣用字体」として、略字体を許容する、との方針を引き継いでいる、とだけ申しておきます。伝統的な文化遺産の継承という面から考えて、私個人としても、前期の国語審議会が表外字についてはいわゆる「康煕字典体」を標準とする方針を決定したことを歓迎しています。』                                     
引用終わり

 「明らかに誤字」と断定しながら、「個人的な見解を出すことを避ける」と書かれたことに、当時は大笑いだったが、戦後の漢字問題は「制限」のみならず、いい加減なものであったといえる。

 次回は、WindowsXPからVistaに変わるなかで、字体が変わるものが多くあることを確かめよう。PCのOSを変更することで字体が変わるなど、あってはならないとも思うのだが、やっぱり日本はアメリカの最後の州なのかなぁ、困ったもんだ。

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2009年7月 8日

kita:《THE JOURNAL》を読んで思うこと

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 《THE JOURNAL》のいいところは、

 第一に、「玄人」の論考とそれに対する「素人」の批評が同時に読めることである。特に読み手としての「素人」の「玄人」の論考に対する「批評」は、時に「絶賛」となって「玄人」を励ますこともあるし、時に辛らつな言辞となって「玄人」たる筆者を戸惑わせることもある。この相互性こそが 《THE JOURNAL》の真骨頂というべきであろう。当然のことながら、「玄人」の立場はアプリオリに「優越」してるわけではない。その「論考」の質が常に問われているのである。特に「記者クラブ」という閉鎖的な「護送船団」システムのなかでのうのうと「終身雇用」というぬるま湯に浸ってきたであろう「マスゴミ」出身者にとっては、その戸惑いはよほど大きいのではと推察できる。ここでは肩書きは通用しない。如何にその文章に説得力があるか、文章の質だけが「勝負」を決するのである。その意味で、ここでは「玄人」と「素人」は対等・平等である。

 第二に、さまざまな「玄人」の論考を「比較」できることの「利便性」がある。それは「論考」そのものの比較から、「玄人」たる筆者の立ち位置の比較にまで及ぶことがある。時には、「論考」よりもその背景にある筆者の立ち位置そのものが「素人」の「批評」の対象になることもあるから「玄人」もうかうかできないだろう。ここでは「御用性」がいつでも槍玉にあがってしまが、その点で「素人」の嗅覚はすこぶる鋭い。しかし、逆に「御用性」を持った「玄人」の論考が存在することにも、皮肉だが、一定の意味があるかもしれないとも考える。「比較」できることの効用である。「素人」の目を肥やすことに貢献するであろう。「素人」の「批評」にもめげず、「御用」マスゴミの一員の方にも大いに「論考」をお寄せいただきたい。お願いしておきます。

 第三に、「素人」の「批評」どうしの切磋琢磨という意味での相互作用が「素人」自身を磨くということがあるだろう。「素人」の「批評」を読むこともこの《THE JOURNAL》を読む楽しみの重要な要素である。その「相互作用」を通じて、《THE JOURNAL》という場が一つの「共同体」的な連帯感情の醸成に寄与しているという気がする。意見の違いは大いに結構。日本人はとかくに「議論」に不慣れというところがある。「荒らし」という事態が頻々と発生するのもその一つの現れといえよう。ネットの「匿名性」が拍車を掛けている面も否定できない。しかし、その弊害にもかかわらず、《THE JOURNAL》という場で、健全な議論が活発に行なわれる効用ははかりしれない。みんなでこの議論の場を育てていきたいと切に願う。「玄人」と「素人」の壁を越えて意見の違いを愉しみたいと思うのである。

 最後にひとつ、こうあって欲しいという「素人」としての願望をあげてみると、何故「玄人」が「玄人」の論考に対して「批評」をしないのだろうか。ひょっとして、暗黙の了解としてお互いの「批評」はしないという取り決めでもあるのだろうか。相互批判はしないという。「素人」としては、「玄人」同士の相互批評を読みたいという密かな願望を禁じ得ない。「玄人」と「素人」入り乱れて論争が起こるという「夢」をみることがあるのだが。

 いずれにしても、私が《THE JOURNAL》を発見した意味は大きく、毎日新たな「論考」とコメントを読ませていただき、偶には自分でも投稿してみるという愉しみを皆さんと共有しているということが正直愉快だと感じている次第である。

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2009年7月 6日

鈴木太郎:児童ポルノ法改正に関する問題点について

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 今、考えていただきたい案件があります。

 皆様、「児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律(児童ポルノ法)」という法律が現在、改正されようとしていることはご存知でしょうか?

 もともとは児童の保護を名目とした法律で、現在その名目を大きく逸脱する改正がされようとしています。

 そもそもの児童ポルノ法は1998年 橋本政権下で成立、1度改正されてます。
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H11/H11HO052.html

 本年6月26日より2度目の改正のため審議が始まり2つの案があがっています、是非御一読ください。

■与党案
http://www.shugiin.go.jp/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/youkou/g16901032.htm?OpenDocument
■民主党案
http://www.shugiin.go.jp/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/youkou/g17101012.htm?OpenDocument

 与党案では、単純所持禁止 および・社会法益 を中心となっており将来的な創作物表現規制(映像・絵など)に対する付則が含まれております。

 他方野党案では複数回取得禁止及び保護法益を個人法益(「実在」児童の保護)に定義し創作物表現に関しては規制に繋がる部分を排除されております。

 共に児童の保護には問題ない法案に見えますが現在有力視されている与党案には大きな問題があります。

 端的に言いますと、規制の定義に不透明な点があり、「18歳未満に見えるもの」かつ、それが実在のものでないものにまで適用される疑いがあることです。

 また表現物にまで規制が及ぶと、書籍・映像作品のみならず最悪個人的な写真にまで適用される危険があり(審議会でも指摘されております)

 これらが運用するものの意思や能力によっては、冤罪問題が叫ばれる中、言われ無き被害者を増やす可能性があり、肝心な児童の保護については、ほとんど手付かずのまま放置されるという本末転倒な事態となり、結果、「誰のためかわからない」法律が生まれようとしています。

 また、野党案においては収得罪の定義による冤罪や個人法益の保護の難しさも指摘されていることを付け足しておきます。

 この提案は特定の政党を貶したり褒めるものではありません。ぜひ議事録や審議会の動画がありますのでご覧の上で考えてください。

 しかし安易かつ不明瞭な規制は萎縮と衰退を生むことを 児童だけでなく今ここにいる私たちや現実・創作問わない表現までが被害者ともなりえることをこれを期にこの問題を真剣に考えてみてください。

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2009年7月 2日

豊後の小兵衛:ことばを失った日本人(2)

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 さて本論に入る前に、西松問題に隠れてしまったが、件の漢字検定協会理事長親子の逮捕・立件には胸のすく思いであった。それは、その稼ぎぶりは羨ましくもあり、かつ、にがにがしく思っていた。
 実用のモノから遙かに縁遠い出題が多く、クイズ感覚の漢字問題に文科省がお墨付きを与えたことがそもそもの間違いである。
 さても、Mehrlichtさんの「大学の講堂で聴講するような内容」には該当しないが、昔の銭湯あがりのよもやま話ほどに読み取っていただけば当方も気が軽い。

 雑音はこれほどにして、今回は少し皆さんを試させて頂く。それは難しいことではなく、漢字の筆順に関することで「右」と「左」という漢字を手書きする時、みなさんはどう書かれますか。
 正しくは、右の場合は一画目は縦から書き、次に横画を書く、左の場合は、横画が先で、次が縦となる。もしかしたらエッと思われる方、常識じゃんといわれる方、二通りに割れるとは思うが、多くは同じ筆順で書かれているのではと推測するが、如何・・・・。
 この左右文字の一、二画は漢和字典を繙くときの部首にはなく、それぞれ「口」と「工」を部首として探すことになる。ほんじゃぁこの二画は何者となるが、これは「手」の象形であり、右のそれは右手の象形、左のそれは左手の象形が変化したものである。部首としては「てへん」に変化して、字義は同じである。
 それで「口」はそのまま、「工」は一説には大工道具の「鑿」、また一説には「定規」の象形という。これからの推論で、漢字が生まれた3.500年前から、右手で食材を口に移す、鑿や定規は左手で押さえる、つまりは右利きが多数であったことを窺い知ることができる。右手の象形を一部としている漢字は「事」「書」「筆」などがあり、やはり右利きが通常だった。はて、どの点画が右手の象形かな?。

 つぎに「上」と言う漢字はどうだろうか?。歴史的筆順は横・縦・横であるが、今の学校では、縦・横・横と教え、試験に歴史的筆順で回答すると×である。
 先に、飯間浩明さんが「現場の教師がフレキシブルに対応する余裕」と指摘されたが、実は文科省も「筆順指導の手引き」として「学習指導上の混乱を来さないようにとの配慮から定められたものであって、そのことはここに取りあげなかった筆順についても、これを誤りとするものでもなく、また否定しようとものでもない」とはっきりと示してはいるが、教育現場では全く守られてはいない。
 この原因は、教員養成過程で使用される唯一の統一テキストである「書写指導の12ヶ月」(美術新聞社刊・久米公監修)に次のように明記され「学校教育の場では、教育的見地から、合理的な原則によって一通りの筆順に整理されていることはきわめて大切である」と縛りを掛けている。監修者の久米公氏は元文部省視学官であり、法を遵守する立場にいながら、この体たらくである。

 同じく、元文部省視学官であった某氏との会話を採録する。(書道教室・指導者研修時)

小兵衛「文部省の筆順指導は許容を認めているが、教育現場で歴史的筆順を誤りとする根拠は如何・・・」
某氏「複数の正解を有することは、学校現場に混乱を来し、好ましくない」
小兵衛「ならば、歴史的筆順に依らず草書で書いた時、その判読は不可となるが、その点如何に」
某氏「小中で草書を学ぶことは学習指導要領にはなく、現実ではありえない」
小兵衛「ならば、その昔に書かれた草書体の判読に障碍は・・・・・」
某氏「仮定の質問には答えられない。何れにしても、当方が示した筆順指導(文部省指針に非ず)に従わない書道教室はじゃまだと申し上げておく」

 官僚支配の弊害は政治や経済問題、そして医療問題のみではないことはご理解願えたろうか。次の世代を担うべき教育の世界で横行する数々の悪弊、これを払底せねばこの国の行く末は危うい。
 因みに、麻生総理が書き初めとしてテレビカメラの前でパフォーマンスをやらかしたが、あの毛筆書の一部は誤字だった。理由は、行草書には紙面に書かれていない点画があり、それを「筆意」という。つまりは、筆意が読み取れない文字は判読不能となり、それを誤字という。

 旧師範学校では上記に書いたことは常識であり、幅広い見識を、厳しさの中にあっても真の「ゆとり教育」が行われていた。しかもその大半は全寮制で学費のみならず生活費も支給された。学業の機会均等が保証され、所得格差による弊害を除去した人材育成の枢要な仕組みでもあった。
 それを、こともあろうに「軍国主義を助長した」として、これも米駐留軍の命令で、普通課程の大学に統一再編され、現在に至っている。(http://ja.wikipedia.org/wiki/師範学校を参照)
 要は制度に問題があったのではなく、その運用を間違ったのであり、ここでも日本特有のすばらしい仕組みの命を奪った。分かりやすく例えれば、皆さんのおうちにある「包丁」、これは殺傷の用具ともなるが、その責任は包丁にはない。

 参考までに漢字制限に至る経緯が見える当時の新聞社説を紹介する。

引用始め(國語問題論争史・土屋道雄著 玉川大学出版部より)
 昭和20年11月12日、讀賣報知新聞の社説は「漢字を廢止せよ」と掲げ「新日本建設のための文化政策はいろいろと提示されてゐる」が「ここに民主主義の發達と密接に結ついた問題で、いまだに忘れられてゐる重要なものがある。それは國字問題だ」として、「階級的な敬語その他の封建的傳習の色濃い日本の國語が大いに民主化されねばならぬのはいふまでもない」「かつてレーニンは『ローマ字の採用は東洋民族の一革命であり民主主義革命の一構成分子』といふ意味を述べたといふことである」「漢字を廢止するとき、われわれの腦中に存在する封建意識の掃蕩が促進されあのてきぱきしたアメリカ式能率にはじめて追随しうるのである。文化國家の建設も民主政治の確立も漢字の廢止と簡單な音標文字(ローマ字)の採用に基づく國民知的水準の昂揚によつて促進されねばならぬ」と論じてゐる。これは敗戦に伴ふ物心兩面の混亂した當時の病的な世相を代表する記念碑のやうなものである。(ママ)
引用終わり

 資料収集時には、朝日、毎日にもほぼ同じ内容の社説があったと記憶しているが、膨大な資料に紛れて所在不明となっていることから、どなたかご提供を願えれば幸甚である。
 上の新聞社説に明確に記されている通り、当時の文部省の方針が「漢字廃止、ローマ字採用」であったことは十分に読み取れる。 (以下次回)

豊後の小兵衛


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