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vox populi :既存メディアとインターネットメディア

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【テーマ】
既存メディアはインターネットとどう向き合うべきか。或いは、インターネットは既存メディアとどのような関係に立つべきか

 紙の新聞・雑誌離れはインターネットの普及より以前から起こっていたのではないかと思われますが、しかし、インターネットの普及がそれに拍車をかけたことは疑いないでしょう。そして、私の見るところでは、紙の新聞・雑誌も、或いはテレビ・ラジオも、インターネットにどう向き合うべきかについて、確たる方針を獲得しているとは未だに思えません。また逆に、インターネットの側は、言論発信の場として自らには相当の実力があると思っているが、しかしなお、紙媒体に対して自らが二次的・日陰的存在であると思っているのではないかと思われます。このような状況は今後変わるのかどうか、そして変わるのならどのように変わるのか、或いはどのように変わるべきなのか。

 私自身は、現在のところ低落傾向にある紙媒体のメディア或いはテレビ・ラジオは、インターネット上で起こっていることをもっと取材すべきではないかと思っています。ブログ時評を行なうのはその一例ですが、それに限らず、例えば今どういうメールマガジンが大勢の人に読まれているかとか、インターネット上のWebサイト(或いはブログ)の創設の傾向は全体としてどのようになっているかとか、オンラインでのショッピングにはどういう傾向が見られるかとか、要するに一言で言えば、インターネットはもっと取材されるべきだと思います。これが、紙媒体等とインターネットとの新たな関係の第一歩たりうるのではないかと思われます。

 インターネットの側からは、アーカイブとしての紙媒体という側面がもっと注目されるべきではないかと思います。今英語その他の古書が例えば次のWebサイト
http://www.archive.org/advancedsearch.php
で大規模に公開されつつあることは、知る人ぞ知るところですが、それに限らず、新聞や雑誌の古い記事もインターネット上で閲覧可能とすることによって(有料とすべきか無料とするかという問題はありますが)、大げさに言えば人類の知的生活が大きく変わる可能性があります(フランスなどでは古い新聞・雑誌等もインターネットで閲覧できるようになってきていますので、事態は既に現に変わりつつあるのかもしれません)。

 アメリカでは、インターネットの普及に伴い、日本に先んじて既存メディアが存亡の危機に追い込まれつつあるとの報道もあります。インターネット上でまず考えるべき話題として好適なのではないかと思い、投稿する次第です。

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※《よろんず》は、《THE JOURNAL》の読者が主体となってつくり出す“しがらみゼロ”の究極メディアです。コラムの投稿や企画案は下記URLで受け付けています!
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コメント (13)

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以上になりますが、ご理解・ご協力のほど、よろしくお願いいたします。

「既存メディアはインターネットとどう向き合うべきか。或いは、インターネットは既存メディアとどのような関係に立つべきか」というタイトルそのものがなにか問題の本質を回避しているように思うのは、私だけでしょうか。
まずは、その前に既存メディアの問題点を議論すべきではないでしょうか。
テレビについていえば、NHKは視聴者(国民)の意向に沿って正しい、公正公平な報道を含めて運営をされるべきだが、現実的には政府が予算、受信料、周波数配分などの許認可権を把握しているので視聴者(国民)でなく政府を見ている。このような状況を打破するためには、国民から選挙で選ばれた委員による放送委員会を組織し、その委員会へ受信料を含めた運営方針についての権限をすべて付与することが急務だと考えます。
民間テレビ局は企業からの広告収入で経営を賄っている。番組編成件を握るのがスポンサーであることから視聴者(国民)でなく財界を見る。更にいえば、民間テレビ局は、政治権力にも支配をされている。政府の許認可権の下に置かれ統制を受けている。テレビキー局は全国紙新聞社と資本関係を有している。新聞社は再販価格維持制度を通じて公正取引委員会に生殺与奪の権を握られている。その公正取引委員会委員長は、財務省特権官僚の天下りポストとして掌握されている。
このように既存メディアは、このTHE JOURNALも含めて政、財、官のトライアングル構造の強い影響下にあることを認識することがスタートである。
だから高野氏が「かんぽの宿」についての的はずれな、まやかしの論文を出すのだ。
御用ジャーナリストの須藤氏とのラジオトークには呆れるばかりです。世論誘導の典型と断言できる。
例えば、政治権力にとってテレビ、メディアは、最重要ツールである。よって、権力側に有利な偏向報道、世論誘導が行われている。「テレビ、メディアの浅薄さが政治を覆っている」ということがいえるのでしょう。
よって、「ウェークアップ」「サンデープロジェクト」「TVタックル」のような番組が制作されるのです。
インターネット上でも従来のメディアと同等の偏向サイトや世論誘導サイトが増加をしているが、唯一異なることは、政府や財界などの圧力を受けない「真実」を発信する情報源が存在することでしょうか。一人でも多くの国民がメディアリテラシーを持ち、向上させることを心より願う一人です。
現在テレビなどに多く出演をするジャーナリスト達は、その殆どの本質が「フェイク=まがいもの」であると認識することが大前提です。
これ以上真面目に論ずるのが馬鹿らしくなってきました。

「下町のクッキーこと暢朗」様の、『既存メディアの問題点を論議したい』というご提案に、期待を寄せています。
 私は、4年程前から、テレビとインターネットでニュースを得ることにして、数十年間続けた新聞購読をやめましたが、特に不都合なことはありませんでした。それだけでなく、インターネットからは、既存メディア(日刊紙を含む新聞・週刊誌・月刊誌・テレビ・ラジオなど)では得られなかった種々の情報に接することが出来て、それまで毎日いくつものメディアに目を通していたことが、何故かおかしく思い出されるこの頃です。
 先輩諸氏はすでに語りつくしたことなのかも知れませんが、私は、特に最近『既存メディア』について不信(例えば『世論調査の信憑性』、『テレビでのニュースの取り上げ方や伝え方の公平性』などの他、『取材する記者の資格やその管理者の責任者の不明確さ』などなど)を感じつつありますので、諸氏のご議論を伺って学べることを楽しみにしています。

<驕れるものは久しからず>
極論をいえば、すでにメディアの中心はウェブでありモバイルであるのだと考えています。
編集部からの「紙媒体はインターネットをうまく利用しているか?」
「もっとインターネットを取材したほうが良いのでは」との問題提起も、私は何をいまさら、という感想です。
私は広告会社にいますが、すでに企業は直接ウェブに予算を投下するか、雑誌に広告を出しても、雑誌から双方向のウェブサイトやモバイルに誘導できるかをテーマにしています。つまりは、本当の勝負の舞台はインターネットと位置づけているのです。
紙媒体の経営陣は、メディアの主役はもはや自分達ではないと気づくべきです。
雑誌でいえば、一般誌はよほど位置どりを鮮明にしないと生き残れないのではないでしょうか。可もなく不可もなく中庸路線の「週刊ポスト」は、ズタズタで、もはや出版社の意地で生き残っている状況です。山口編集長が思いきって反自民、反権力に舵をきった週刊朝日や朝日ジャーナル、アエラの朝日出版は好調です。
女性ファッション誌は、思いきってキャバ嬢にスポットを当てた小悪魔アゲハは一般女子も巻き込んで好調です。
いずれも、思いきって旗色を鮮明に打ち出した所が好調なのです。みんなに読まれる、みんな大好きな紙媒体は生き残れない。
そこで全国紙です。政治、経済、地域、生活、国際情勢なんでもござれ、だけど朝日でなければ、読売でなければ、毎日でなければ知る事のできない記事も論説もない。
役所や政府の発表を横並びに記事にしても、即時性の高いテレビやネットですでに知っている鮮度のない情報ばかり。おまけに社説は、政府や役所の顔色を気にするばかりで、まことに切れがない、時には屁理屈のオンパレードでもある。
新聞社の経営陣は、インターネットの脇役として、思いきって旗色を鮮明にして、他紙に抜かれて特オチしようが、互助会記者クラブなど、自らさっさとヤメて、総理のぶら下がりに論説クラスを投入、読者ファンを獲得できるなら自社以外の記者を登用すべきです。徹底的な紙面の絞り込みを行い、料理の作り方なんて載せない。親自民なのか、親民主なのか、新自由主義がいいのか、それとも修正資本主義か、社会民主主義なのか...、徹底的に旗色を鮮明にしてコアな記事で読者を引き付けるしかないのではないのではないか。
いまさらインターネットを研究するのではなく、負けたら負けたなりの新しい立ち位置を築くべきなのです。

 私が書いたものをテーマとして取り上げていただいて恐縮しております。ただ、他の方々のコメントに私からお答えするのがこの 〈よろんず〉のあるべき姿だとは私は思っておりません。むしろ、私はただボールを最初に蹴り出しただけであり、そのボールを蹴りたくなる人が他にいれば、その方々がご随意に蹴っていかれる(或いはいなければ、自然にすたれていく)というのが、あるべき姿ではないかと思っております。ということで、私から一々ご返事するつもりはないことを予めお断りしておきます(実際そこまでの時間的余裕がないということもありますので)。


 その上で申し上げると、

>すでにメディアの中心はウェブであり

というのは、書いているご本人がおっしゃっているように極論であり、現実を正面から捉えた議論ではないと私は思います。何が言いたいのかということですが、今インターネットで飛び交っている情報の多くは依然として既存のメディアが発信したものである、ということはやはり大きいと思います。また、影響力ということで考えた場合、今でもなお既存メディアのほうがインターネットよりも影響力は大きいと思われます(例えば同種の店がテレビで紹介された場合とインターネットの何らかの媒体で紹介された場合を比較してみるとわかりやすいのではないでしょうか)。

 「既存メディアはインターネット上で起こっていることをもっと取材すべきではないか」と私が書いたのは、いったい今インターネット上で起こっていることを総覧ないし概観できている人がどれほどいるだろうか、という疑問を私が持っているからです。確かにこの点では、広告会社在籍というのは極めて良いポジションなのでしょうが、それでもご自身はインターネット上で起こっている様々な現象の主なものを把握し切れているとお思いなのでしょうか。私には、そのような人がいるとはまず思えません。だからこそ、それを取材して、紙面という限られたスペースで紹介することには、(それが限られた一覧可能なスペースでの紹介であるがゆえに)逆に意義があるのではないかと考えました。


 次に、既存メディアの問題点をこそ論じるべきとのご意見についてですが、無論、問題点はいろいろあろうかと思われます(例えば優等生が記者になるようになったこと、等)。ただ、だからといって既存メディアが一方的に衰退していくのが良いとは私自身は思っておりません。なぜなら、権力に対峙するためには、個々のジャーナリストには限界があり、やはり組織として向かっていく必要があると思うからです(なお、ここで言っている組織とは、例えばイコール記者クラブということではありません)。

 もう1つ、インターネットに対する肯定的な評価に対しては私は水を差しておきたいと思います。つまり、言うまでもなくインターネットというのは監視が非常に容易な媒体です。少なくとも、インターネットの場合、発信する個々人を把握して叩くことは、それ以外の手段(例えば文書送付というような方法)の場合よりも遥かに容易です。であってみれば、既存メディアが衰退してもインターネットがあれば良いなどという考えは、あえて激しい言葉を使うなら、実に能転気なおめでたい考えなのではないでしょうか。

 ともあれ、既存メディアの問題点を論じることは大いに結構だと思いますし、私自身もテーマ投稿で私なりにその問題点を論じようとしたつもりです。ただ、既存メディアが一方的に衰退していくのが良いことだという考えには、以上述べたような理由で、私自身は全く賛成できません。


 まとまっていませんが、以上のみにて。

webの力は、既存メディアに拮抗していると思っています。
>インターネットの側は、言論発信の場として自らには相当の実力があると思っているが、
>しかしなお、紙媒体に対して自らが二次的・日陰的存在であると思っているのではないかと思われます。
というのは、実感としてよくわかります。
ただ、興味の集中が国民的なものになった時に、webの力は、既存メディアに拮抗するまでになったと思います。

私は、小沢氏の秘書逮捕に対する疑問からwebsiteを見るようになった者なので、どうしてもここからの発言になってしまいますが、
東国春知事が、何度も何度もアドバルーンを上げては、風向きを見るというパフォーマンスを演じていますが、一向に風が吹かない。
彼は、マスコミに言わせると「人気者」と持ち上げられています。
きっと「俺が立ち上がれば旋風が吹き荒れるはずだ」と彼自身や取り巻き、マスコミも予想したのではないかと思います。
しかし、小泉旋風のような風は吹かず、アクションを起こすたびに賞味期限が短くなっている印象を受けています。

これがwebの力によるもので、反小沢、親自民の旗を掲げた人気者タレント議員の限界の姿だと思います。
ここまでweb側が団結することはめったの無いことだと思いますが、これから更にwebから情報入手をする人が増えれば、
将来はもっと大きな力になる可能性があると思います。

橋下知事においても、仮にメディア側の入れ知恵で、小沢には近づくなというようなスタンスになっていったとするなら
これも失敗に終わるのではないか、それほどインターネット側の力は大きなものになっていると思っています。
橋下知事がどう動いて、結果がどう出るのか、インターネットの力を見る上でも注目しているところです。

話は変わりますが、既存メディアの生き残る道はまだまだ沢山あると思います。
記者クラブの実態などを、具体的に報道するメディアがあれば是非見てみたい。
政府と記者の間に、或いは政府と新聞社の間に何があるのか、言われているように再販制度やTV局の許認可権で脅されているのか。
一番良くわかっている自分の業界の不透明な事を記事にすることだけで読みたい記事になる。
日本のメディアの場合は、読みたい記事などいくらでもあるのに書かないから売れないし、応援団もいなくなってしまうのでしょう。
興味がないのは、横並びのリーク報道です。

vox_populi様のご丁寧なご意見に感謝しつつ、二つ申し上げたくなりました。

(1)私も、既存メディアが一方的に衰退していくことが良いとは、決して思っている訳ではありません。権力に対峙するために組織力は不可欠であることもその通りだと思います。ただ、三権又は四権が、当初の理想を大きく逸脱しているかもしれないと思われるこの時、これを結果として擁護するような既存メディアの功罪を、不断に論じつつ、これを輿論に成長させるための世論喚起は必要ではないかと思うのです。なお、いわゆる健全なジャーナリズムには不要な“現記者クラブ制”も、既存メディアを論じる際の重要な要素であることも忘れてはならない気がしています。
 (2)『今インターネット上で起こっていることを総覧ないし概観できている人がどれほどいるだろうか』と言われると、確かに私もインターネットの何たるかも、システムそのものも殆ど分からずに、日々自分勝手に覗き見しているというのが実態です。
 とはいえ、毎日の出来事に関する国民の反応は、既存メディアが報ずる内容に比して、インターネットでの反応内容の方が、少なくとも私の感覚に近いことが圧倒的に多い現実に接すると、確かに、個で成り立ち、無防備になりがちなメディアではありますが、その使い方次第では、民主(=国民主権)国家の創設に有用な手段では?、と期待を寄せ始めているところです。
 
 こう考えてくると、【既存メディアとインターネットメディア】というテーマは、明治維新をもってしてもなお実現できなかった日本の市民革命的大変革を模索するような、幅の広い奥行きのある問題提起に思えてきました。
 失礼ながら、感想のみ述べました。

小沢秘書逮捕のあった、この三月から四月にかけて、マス・メディアに現われない情報を求めて、さまざまなブログやこのThe Journalに出会い、また掲示板に書き込みをはじめ、ネット世論をなんとか外にあらわしたいと、小沢激励書簡集を編むといったささやかな行動を続けてきました。
このような行動をしながら考えたこと、それはネット世論の限界です。沸騰するようだったネット世論であるにもかかわらず、あたかもネット内で自己完結しているかのように、わたしは痛感せざるを得なかった。一歩外に出ると、現実との乖離を思い知らされること、たびたびだったのです。また、ネット内においても、「受信するだけ」から「書き込みをする」のハードルを飛び越えた方々が、自分の意見を届けるべきところへ届けるためのささやかな行動、すなわち「実際に扉の外に出る」というハードルをなかなか越えようとしないというふうに見えました。ネット内での意見交換で腹を癒しているかのようにさえ見えました。
ネットの世論を有効な世論たらしめるためには、ネットの特性を生かした世論形成はどのようにあればよいか、考える必要がある。わたしは、以下のように考えます。
●ネット受信者(アクセス実数)の数と、デモなどでの現実行動者の数とは、比較できない。これは質の違う数字である。●質的違いの大きな原因は、ネットのアクセス実数は、現実には日本中(あるいは世界中)に砂粒をばらまいたように存在していることにある。●ネット内のある一定の場所に集まったときにだけ、そのアクセス実数はデモと同数の盛り上がりようを示すかも知れない。しかし、ネット内の盛り上がりはなお仮定形にすぎず、それぞれの個人が現実の場に戻るとき、砂粒一粒は一粒でしかない。その砂粒一粒が充分に起爆力をもったとき、そのときにこそネットは思いがけない爆発的な力を発揮していくだろう――。
考えておくべきは、インターネットというものは、発信力と受信力の双方をもっているが、かならずしもバランスよく使われるものではあるまい、ということです。発信するより、受信するだけであるほうがエネルギーをつかわず、楽であることはわかりきった事実です。とくに、「長いものにまかれ」て「和を尊ぶ」といわれる、われわれの国民性にあっては、発信するより受信中心に傾きがちなのではないか。
韓国やアメリカに起ったことが、はたして日本でも起きるかどうか――。

エリック・レイモンドの「伽藍とバザール」という論文があります。そこで描かれているのは、オープンソースソフトウェアの開発手法を論じているのですが、この議論を読んでいるとそれを思い出しました。

既存メディアを「伽藍」、インターネットメディアを「バザール」と置き換えて考えることが出来ます。

エリックレイモンドの論文から離れますが、伽藍とは「Cathedral」つまりキリスト教の巨大な教会・聖堂などの荘厳な建物を指していますね。そこに存在するのは絶対叡智としての神です。
バザール「Bazaar」は市場、もう少し書くと砂漠などでの隊商が東西の商品を交換するための場所「キャラバンサライ」とも書かれます。
そこは伽藍と異なり、喧噪と猥雑さに満たされているけど、交換されているのは東西の商品だけでなくお互い見知らぬ土地の情報。

叡智の神は全てを見通していると信じられていたけど、バザールから持たされた未知の情報が、伽藍の権威を打ち壊してしまう。

それでも伽藍に礼拝する民は大量にいるわけだし、バザールで商品と一緒に未知の情報に接する人も沢山いる。
むしろ一人の人が朝、伽藍で礼拝をし、昼バザールで未知の商品と情報を入手する。

と、勝手な解釈で「伽藍とバザール」を熟読された方からは怒られるかも知れませんが、今の「既存メディアとインターネットメディア」はこんな関係ではないでしょうか?

そう考えると、両者は両立するのでは?

勿論、今の状態の既存メディアのままでは、廃墟と化してしまうでしょう。
それでも伽藍は今でも輝いている。そうなるには伽藍を維持する人々が新しい時代に合わせてきたからでしょう。

両者は両立するが、そうなるように既存メディアは今のように「権力」の方にのみ顔を向けるのではなく、膨大な情報が渦巻いているインターネットとそれを支えている人々に目を向けることが求められます。

目黒まりあ様へ

 ご投稿を編集部が既に別のスレッド(と言うとありきたりにすぎるでしょうか)として立ち上げておられるようですが、私はこちらで、ご投稿に接して思ったことを書かせていただきます。

 インターネットの「世論」に限界があるというのは、私自身も痛切に思ったことがあります。2007年の参議院選挙の際、舌鋒鋭いブログで注目を集めており、世間的にも無名でないある方が出馬され、その応援(私自身が応援したわけではないのですが)を非常に近いところで見聞きしたことがありますが、ブログ界とでも言うべき世界での同氏の人気は相当なものだったのに、実際の選挙の結果は惨敗でした。インターネット上の反応と実際の選挙の結果との乖離はあまりに大きなものでした。

 他の方も書いておられたと思いますが、インターネット上では思想傾向が比較的はっきり分かれやすく、その両者(例えば、右派と左派)が交わることはなかなかありません。ですからインターネットの「世論」は、もしそういうものがあるとしても、存外狭隘なものなのではないかと思います。私自身も、自分の思想傾向にそぐわないブログをいわゆるRSSリーダーに少数リストアップして、更新状況をチェックするようにしてはいますが、そうしていても、ふだん自分から進んで見る気にはなかなかなれません。

 ただ、私自身の場合で言うと、インターネットの登場によって、自分自身が何か行動する際の敷居は多少とも低くなったような気がしています。例えば、或る議員のブログをふだんから読んでいるうちに、その議員の集会の告知が出ていたりすると、ああ参加してみようかな、と思うようになったりします。

 最後は「世論」からややずれてしまいましたが、とりあえずこのくらいにて。

 既存メディアが現在の姿勢を踏襲した場合徐々に衰退に向うであろうし、最終的に電子新聞化され読者は(詳しい情報が欲しい場合)必要な記事のみを代金を支払い購入すると言う形になるのではと思う。紙面で読まれるたい方は駅売りコンビニ売りが主になり宅配は料金を次第でということになりそうです。
 取材記者もフリー記者が徐々に増えるのではないか。但し取材能力や事象のとらえかた等の内容でその差(購買数)が端的に現れるのではないか。
 読者からの意見も現在の新聞への投稿からネットでの書き込みが主になり世論の喚起にも影響力を与えるようになるのではと思う。
 ネット読者は関係者かよほどの知識を持っているものは別にして一般的には取材され加工された記事を読み多くの方の方の意見等を参考に自分の主体を確立すると言う形態になるのではと思う。
 ネット読者は最初は記事に対し受動的であるが一定の意見が集約された場合受動的な立場から世論の中で能動的になり(自己主張を行い)行動面でも変化する可能性があるのではないか。

追伸
 この本質を書き込むことを忘れ反省しています。
 
 既存メディアとネットとの関係がどうであるかは最終決定権者は読者(ネットを含み)が決めることです。

 発言するにはやはり自分のささやかな経験、というよりむしろ「管見」に基づいて言うほかないわけですが、ともあれ私自身は、紙の新聞も読みはするものの(テレビニュースは、自ら進んで見ることは今やほとんどありません)、それより遥かに長い時間を使ってインターネットから情報を得ようとしています。

 その際当然、紙の新聞のWebサイトはよく見るわけですが、それだけでは物足りないので、ふつうのメディアからは得られないような情報をも得ようと努めます。この観点から見て、独自情報を発信していることが多いのは、私の印象では、政治家のブログと法律家(弁護士)のブログです。また、経済関係のブログ(サイト)も若干ありますが、これはどうも裏世界の話とか、人の不安を煽るようなたぐいの話が多いようです。

 こういった発信をインターネットメディアの一部だとすると、ここで既に、インターネットメディアは既存メディアにできないことを現にやっている、と言うことができます。つまり情報量の点でインターネットメディアは、独自情報を有する個々人の発信のゆえに、既存メディアをしのぐものを持っている、と。(言うまでもなく、既存メディアのサイトでは、紙の新聞に載るすべての情報が公開されているわけでは必ずしもないのですが、しかしそれを考慮しても、全体としてはこのように言って誤りでないでしょう。)

 インターネットメディアの優位性はもちろんこれにとどまりません。すなわち、紙の新聞の場合の紙面の制約、或いはテレビニュースの場合の時間の制約といったものが、インターネットでの情報発信には存在しないので(例えば記事はいくらでも長く書くことが可能)、インターネットのほうが詳報が得られることが多い、ということがあります。また、紙の新聞であれテレビニュースであれ、いったん報じられたものを再度見ようとする場合には、当の報道に行き着くことは容易でありません(紙の新聞なら、過去の新聞紙をひっくり返して探すとか。テレビニュースの場合には事実上探索は不可能)。しかしインターネット上でなら、探索(検索)は無論遥かに容易です。これらのことは結局、インターネットのほうが情報を収納する容量が遥かに大きい、ということに由来すると言えましょう。

 ただ、よく言われることですが、毎日の新聞は新書一冊分ぐらいの分量になるのだとか。そうだとすれば、紙の新聞とて、決して情報量が少ないわけではないことになります。ではなぜ紙の新聞が低落傾向にあるのかと言えば、思うに、紙の新聞では読者にとってあまり関心のない情報も抱き合わせで売られており、そういう関心外の情報を除外すると、毎日の新聞が伝える情報量はあまり多くないことになり、したがって新聞は割高だ、ということになっているのではないかと思われます。

 いささか眠くなってきたので、またの機会にもう少し書き足してみたいと思います。

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日本語の「ヨロン」という言葉には「世論」と「輿論」という2種類の漢字があります。実は、この2つの言葉は大きく意味が異なっていて、「世論(セロンとも読みます)」とは「感情的な世間の空気」のことで、「輿論」とは「議論を積み重ねてできあがった公的意見」のことを指します。《よろんず》が目指すものは後者の「ヨロン=輿論」をつくることであり、そのために、《よろんず》では情報のプロ・アマに関係なく自由闊達に議論を交わすための場所を提供します。メディアの調査で発表される「ヨロン=世論」とは違う真の「ヨロン」をつくるため、執筆者・出演者・読者のみなさんに、この新しい“知の共有空間”に参加いただけるよう呼びかけます。

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