沈没する日本とトヨタの大政奉還
「無借金経営」と「雇用死守」という文化の源
1月20日、トヨタ自動車は渡辺捷昭社長にかわり、豊田章男副社長が6月末に社長へ昇格する人事を発表した。14年ぶりに創業家出身社長が誕生する。
トヨタ自動車工業の経営危機
一般的には社長の姓が「豊田」に戻ることにさしたる意味は見出せまい。しかしトヨタの歴史に思いをはせれば、豊田家直系の章男氏が社長に就任することの格別な意義が見えてくる。
そもそもトヨタの歴史は1867年に誕生した豊田佐吉翁に始まる。豊田自動織機製作所(現在の豊田自動織機)の創業者である佐吉は、早くから自動車産業の行く末に注目していたという。同社は1933年に自動車部を創設する。その中心となったのが佐吉の長男、喜一郎だった。
4年後の1937年、トヨタ自動車工業が誕生。形式上、初代社長には喜一郎の義兄、豊田利三郎が就任したが、太平洋戦争が勃発した1941年には会長に退き、喜一郎が社長に昇格した。もっともトヨタ自動車では、豊田織機自動車部を創業の原点と考えてのことか、「創業者は豊田喜一郎」というのがコンセンサスだ。
だが喜一郎の社長人生は悲運に満ちたものだった。
敗戦の焦土のなかで、トヨタは生産を再開したが、1950年には深刻な経営危機に陥ってしまった。戦後のハイパーインフレの抑制を企図した金融引き締め政策(ドッジライン)はインフレ抑制にとどまらず、デフレを招きこみ、企業の倒産、失業が急増した。
誕生間もないトヨタ自動車も例外ではなく、経営不安が一気に高まったが、喜一郎はいかなる事態を迎えようが「従業員のクビには手をつけない」と終始、言い続けた。
ところが資金繰りに詰まり、倒産の危機に瀕したトヨタに対して大手銀行は融資継続の条件として、過酷な融資条件を喜一郎に押し付けた。
ひとつは経営効率アップと販売力強化のために、トヨタを自動車製造と自動車販売専門会社とに分割せよという「工販分離」。そしてもうひとつは、喜一郎が最後まで抵抗した人員整理だった。
日経BPnetにも原稿アップしました。どうぞご覧ください。
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20090129/128294/?P=2
コメント (1)
「トヨタの大政奉還は全く興味が無いが」
都合の良い時はジャスト・いん・タイム。では、悪くなったらどうなるか…。嘘か本当かまだ判らないが、今日のインチキ新聞に、「トヨタがグループ企業の手形を買い取っている」と出ていた。
http://gendai.net/?m=view&g=syakai&c=020&no=40012
これが本当なら、まだ10年後のトヨタも希望無しでは無くなった。昨年の年初から、何でこんなに強気なんだよと見ていたから、自分のミスをどの様に対応するかは注目していた。トヨタ型の強気は、トヨタだけでなく他の日本の輸出企業に多く見られ危ないなあと見ていたから、彼らの使う「100年に1回云々」という言葉が情けないというか、そこまでご都合主義で社員はついてこないよ…と思ってただけにトヨタは流石に最低線だけは守ったんだと…。東芝のNANDフラッシュ、エルピーダの坂本さん、好きな経営者だったけど、前の台湾?最後は悪魔の水、MSCBに手をつけ、日立は、HDSTから手が付けられない。日立なんて、自動車メーカー以外で初めて電気自動車を量産販売したっておかしくない企業なのに…。会社の能力はまだまだある筈なのに変な経営者が多くなったのか?
投稿者: おumaちゃん | 2009年2月 3日 23:54