高野孟の遊戯自在録031
8月10日(水)
9時から釜沼北の棚田クラブの草刈りということで、張り切って出掛けたが、集合場所に来ていたのは会員で東京からの移住者であるIさんだけで、指導者である4人の爺様方は誰もいない。2人で「あれ?日にちを間違えたかな」と言いながら連絡をとると、部落の婆様が昨日だかに亡くなって、葬儀社に頼らない昔ながらの村の葬式をやるのでてんやわんやになって、今日は出られない、昨日のうちに会員の皆さんに連絡するのを忘れていた、誠に申し訳ないとのこと。昔ながらの村の葬式って民俗学的に興味あるよね、とか言いながらIさんと2人で田んぼ周りの草刈りをした。まったく、村の暮らしには窺い知れぬ深いものがある。
8月11日(木)
近くのホームセンター=コメリで一寸角の木杭を長中短交えて買ってきて、既に敷設した新しい水源(8月9日付参照)からのパイプを支持するための杭打ちを開始。これはなかなか手間がかかりおいそれとはいかない。
8月12日(金)
午前中、東隣地斜面で前に草刈りしておいた部分の枯れ草を燃やす。膨大な量なので、山火事にならないよう風向きを考えながら火力をコントロールする。午後はパソコンに張り付いて仕事。
8月13日(土)
3分の1世紀を超える付き合いのジャーナリスト仲間とその奥様、計5人が鴨川来訪。元インサイダー同人で今はINSIDELINEを主宰している歳川隆雄夫妻、報道写真家の山本皓一夫妻、前日刊ゲンダイ記者で今はBS11の役員兼キャスター、鴨川の海辺に別荘マンションを

持っている二木啓孝で、16時頃に二木の車で我が家に到着、一服してから天津小湊の魚料理店「なが島」へ。ここは、前にも書いたことがあると思うが、外房随一の魚料理の名店で、皆さん大満足。車で5分の二木のマンションに移動して海の夜景を見ながらの2次会で日本酒を飲んでヘロヘロ。二木はそこに泊まり、歳川・山本両夫妻は我が家と近くの「青少年研修センター」に分宿した。
8月14日(日)
歳川・山本両夫妻と共に我が家のベランダで朝食を摂っているうちに二木が到着して合流、11:30に出て鴨川・曽呂地区にあるスペイン料理屋へ。前にも書いたと思うが、え!こん

なところに何が?と思うような田んぼの中にある一軒家で、立体造形アーティストの岡部さんご夫婦が金土日のみ予約制で開いている。地元の魚介類、自家栽培のトマトはじめ有機野菜を用いた本格スペイン料理で、特にお勧めはイカ墨のパエリア。皆さん大満足で、グルメ志向の歳川も「都内にいくつかスペイン料理屋があるが、こんなのは初めて」と絶賛してくれた。帰路途上にある故・水田三喜男元蔵相の生家に立ち寄り、昔の茅葺き日本家屋とはどういうものかというレクチャーを受けてすっかり感心して、そこで皆さんとお別れした。
8月15日(月)
南に面した庭にミニ小川を作る作業を開始した。これについては、ある程度完了したところで報告する。午前はその作業で、午後は読書と資料整理。
8月16日(火)
午前中、小川作りを続行。午後は原稿書きと読書。
8月17日(水)
今日も朝から小川作り。午後は原稿書き。
8月18日(木)
一念発起して、書斎の床に山積みになっている新聞・雑誌の切り抜きなど資料を抜本的に整理して、捨てるものが7割、残したものをきちんと分類してファイルするという、丸1日掛かり(朝5時から夜9時まで)の大作業に取り組んだ。3カ月に1度ほどこうやって身辺を整理すると、やらなければならないことが浮かび上がって来て、よーし、本でも1冊書こうかという気になってくる。
8月19日(金)
久々に雨が嬉しい。小川作りと原稿、読書。
8月20日(土)
終日、小川作りに没頭。
8月21日(日)
本日、7月半ばから断続的に続けてきた「第3水源」から約200メートルの配管工事と、それに伴う「ミニ小川」工事が一応完成した。

そもそも我が家の上水の水源は3つあって、元々のメインである第1水源は、ここへ引っ越して以来使っている近所の農家Sさん所有の西隣地の森の中の湧き水。これはなかなか優れた水源で、正常時には1分間1.5リットル以上の水量があるので、それを基準として砂による浄化装置を設け、それを貯水用の8トンタンクに導いて使っている。が、この水源は昨年夏の渇水時には枯れかけたし、今年も空梅雨のせいか水量が落ちるなど、水量にムラがあり、ヒヤヒヤさせられることも少なくない。そういう場合の補助的な第2水源として、第1水源近くの堰堤から漏れ出ている水があって、それをパイプで繋いで使うこともあるが、これは濁りがやや強くて、非常時以外は余り使いたくない。そこで今夏は、新たな第3水源として、東隣地の排水溝の脇から出ている水量豊富な湧水を引っ張ることにした。水源一帯の放置されて藪化した草地を草刈り機で切り開いて、次にその手前の荒れ果てた森に人の通れる道を作り、そこを通じて延々200メートル余りパイプを敷いて浄化装置にまで繋いだことは、本録7月24日、8月4日、同9日でも書いた。
それで様子を見ていたところ、最初のうちは第3水源の豊富な水量のおかげで8トンタンクはたちまち満水となりオーバーフローが勢いよく流れ出て、まことに満足すべき状態だったが、ふと気が付くとオーバーフローが止まっている。調べると、第3水源からのパイプの継ぎ手が途中で外れて漏れてしまっている。「あ、繋ぎ方が緩かったか」と繋ぎ直すが、また半日か1日の内に同じことが別の継ぎ手のところで起きる。それで気が付いたことは、第3水源の水量が多い上に、森の道を出て我が敷地内に入ってからの落差が大きいために水圧が高すぎて、浄化装置の適正処理能力(1.5リットル/分)に合わせてバルブを絞ると、どこかの継ぎ手が弾けるように外れてしまうのではないか、と。
200メートルすなわち4メートルの20ミリ水管を50本繋いでいて、ということは継ぎ手が50カ所あるので、どこが外れたか草地の斜面を登り森の道を抜けて東隣地の藪の中にある水源まで一々探査して繋ぎ直すのは容易なことではない。もちろん、全部のパイプの継ぎ手を接着剤で固定して地中に埋設してしまうという手もあるのだが、そうすると何か変更が生じて繋ぎ直す場合や事故が起きてメンテナンスが必要になった場合に、いちいちパイプを掘り起こして切断しなければならず、かえって不便になる。そこで、敷地内に入ってからしばらくのところに分岐を設けて、半分ないし3分の2に減水・減圧した分を上水タンクに流し、半分ないし3分の1を分岐に流して、それを主水源として南斜面にビオトープ小川を作ることを思い付いた。
ビオトープ風に池や川を作るには、下に遮水シートを敷いて上から土を被せ石を置くなどする方式と、手近に粘土があればそれを撞き叩いて固める叩き粘土方式とがある。我が敷地は、50年前までは棚田だったところで、初めから田んぼに適したこの地域特有の重粘土の土質だから、叩き粘土方式が合っている。
分岐から30メートルほどパイプを引っ張って、南の緩やか斜面の中程にある榎の根元あたりから水が流れ出るようにして、それを小川の起点とした。パイプから流れ落ちる水の勢いで地面に穴が開かないよう、石をいくつか置くと、翌日にはもうその石の下にサワガニの親子が棲み着いていた。そこから先は、鍬で掘ってチョロチョロ小川を作っていくのだが、ただ溝を掘っただけでは自然の起伏や穴ボコがあり、草や葛の根や石があちこちに突出したりもしていて、そこからたちまち水漏れしてしまうので、まずは大雑把にカケヤで地面の粘土を叩いて水の道筋をつけながら、底と縁の土を手作業で固めていく。これは根気の要る仕事で、指で水の流れる底や縁を1センチ刻みで探って、指先がブスッと潜ってしまう柔らかいところは上から粘土を詰めて、拳で叩いて締めて、根っこの切れ端や石が出ているところは取り除いて穴を粘土で埋めて、最終的には親指でどこを押してもほとんど凹まない程度にまで固めていく。一度や二度やっても、見落としがあるし、また時間の経過とともに水の流れで思わぬところに穴が開いたりするので、五度六度、十度とそれを繰り返して、次第に水漏れのない水路を作り上げていく。
パイプの出口をその榎の近くに持ってきたのは、理由があって、実はその榎の根元に元々からの自然の水源があって、昔はもっと豊富に出ていたのかもしれないが、今は雨が降った後にはチョロチョロ流れ出てその辺りがちょっとした湿地帯になるが、晴れが続くと出なくなってしまうというところがある。その湿地帯に傾斜を付けて水を導き、パイプから出た水による小川と合流させて水量を補うことができるのではないかと考えたからである。こういう自然の湧き水は、放っておいて出て来た水の行き場がないままにしておくと、だんだん枯れてしまう。行き場を作ってやって、常に水を一方向に引っ張るようにしてやると、地中の水の路がクセが付いて、いつも出るようになる。これは本当に面白い現象で、男女の仲に喩えるべきか、いつも引っ張ってやればこちらに向いてくるが、それを怠ると土中の水路が浮気を起こしてどこかに分散して思うところに集中しなくなる。巧く行くかどうか分からないが、これまで数日観察したと

ころでは、このところ断続的に雨が降っていることもあるが、この自然水源も水を出し続けている。写真左は「小川」のスタート地点で、中央上の榎の幹の手前に分岐されたパイプの出口があり左側を流れ落ちてくる。榎の幹の右下あたりに自然水源がありそこから引いた水が右側を流れて合流する。

小川の出口は、ベランダ横の側溝で、そこに竹の半割を伝った水が石の上に落ちて側溝に流れ込む「掛け流し」の仕掛けを作った。ご近所の皆さんが「庭先に水が掛け流しで出ているとは、これまた贅沢なことで」と羨ましがってくれるのが嬉しい。それはそうで、水源を見つける、そこからパイプを200メートルも引く、水が多すぎるから分岐して調節する、粘土を固めて小川を作る、それを掛け流しで側溝に落とす、その側溝をビオトープとして活用してクレソンを育てる----といったことは都会ではいくら金を出しても実現できない。金で買えない幸せがあるというのが里山である。
これから1カ月ほど経つ内に、パイプと天然の両水源からなる小川と掛け流しと側溝とを丁寧にメンテしていくと次第に落ち着いてきて、水漏れの心配も少なくなるだろうから、そうしたら途中に水生植物が付きやすい小さな池や、小鳥が好きな瀬や砂地の部分を作って変化をつけていくことにしよう。側溝には、毎年カエルやトウキョウサンショウウオが産卵するので、適度の水深と水質を確保しなければならない。
8月22日(月)
このところ新聞・雑誌などで熱中症対策で適度に塩を補給しろとか、そういう意味で塩入り飴が売れているとかいった記事が目につくので、「塩とは何か」について、従来から考えを積み重ねてきたことを書いておこうと思い立って、「塩と海と人」と題して明け方から書き始めたら、どんどん長くなって、夕方までかかってしまった。長いので3回に分けてINSIDER及びThe Journalに載せることにしたが、「総理大臣が交代しようかというこの時期に、こんな暢気なことを書いていていいのか!と言われそうなので、いや分かっているけど敢えてやってるんだという意味で「高野閑話」という冠を付けた。これまで「高野論説」(editorial)と「高野尖報」(flash)という冠があったが、これを付け加えて、私がINSIDER及びThe Journalに書く原稿はたぶんこの3つのどれかに分類されることになるだろう。閑話は英語ではidle talkかな。それ以外にThe Journal上の本稿「遊戯自在録」である。

さて、塩の話だが、要点は、塩を摂ることは塩化ナトリウムを摂ることと同義ではなく、生命の母である海水の組成に出来るだけ近い多様なミネラル類を塩化ナトリウムと共に摂ることでなければならないはずで、それには私の知る限り、沖縄の「ぬちまーす」が世界で一番だという
にある。
★ぬちまーす:http://www.nutima-su.jp/
8月23日(火)
朝の東海ラジオは、なぜ菅直人首相が辞めなければならないのか、私は理解不能であるという話をした。菅がいいというのではなく、立候補者が菅よりマシだという理由が分からないということである。
Ko君が草刈りの手伝いに来てくれて、敷地上半分が綺麗になったので、水パイプのラインの要所に杭を打ち込んでパイプを固定する作業を行った。
8月24日(水)
元大阪読売社会部の大記者=斎藤喬さんが昨日亡くなったという報せが届いた。肝不全だった。元々底なしの酒飲みで、10年前に読売を定年退職後、立命館大学などで若いジャーナリストの育成に情熱を傾けていたが、その間にどんどん酒量が増えて、休みの日など朝から飲んで明るいうちにウィスキーを1本空けてしまうほどで、夕方会った時にはすでに泥酔に近い状態ということもあり、「こんな飲み
方をしていたら、いずれ...」と覚悟をしてはいたが、ショックが大きい。
紛らわすためもあって、20日付日経土曜版の「家族で一日楽しめる道の駅」人気ランキングで東日本第3位に館山市の「南房パラダイス」が挙げられていたのを思い出して、もっと手近な道の駅はいくつか常用しているが「ここは行ったことなかったねえ。近くにこんな素晴らしいところがあったとは」と、家内と出かけた。が、嘘ばっかり。「国内最大級の屋内型動植物園を併設、熱帯の草花や鳥を観賞できる。レストラン、売店は海鮮料理や南国フルーツのスイーツが充実」という日経の宣伝文句も、確かに熱帯・亜熱帯植物を集めた温室の数々は大したものだけれども暑くて夏に行くものではないし、海鮮料理のはずのレストランは週末のみ営業で閉まっていて、喫茶部のまずいカレーを食う羽目に。このくらいの"外れ"も珍しいというくらいの最低の体験で、マスコミのランキングなど信じてはいけないことを思い知った。
8月25日(木)

夕方から、三浦半島の乗馬クラブ「クリエ三浦」で、私が代表を務めるNPO神奈川馬の道ネットワークの幹事会が開かれるので、家から車で出て、20分ほどで金谷港着、14:20発の東京湾フェリーに乗って40分で久里浜へ。時間が余るので、港の脇のカインズでしばらく時間を過ごして現地へ向かう。帰りは久里浜19:10発の最終フェリーに間に合って20:15帰宅。久々にこのフェリーに乗った。横浜に住んで鴨川に通っている頃はしょっちゅうで、車の誘導係のおじさんと顔馴染みになるほどだったが、今は東京へ出ると言えばアクアライン経由なので、すっかりご無沙汰になってしまった。写真は久里浜港に入る「かなや丸」。この超アナログ感がいいですね。
8月26日(金)

13:00過ぎに車で出て品川経由、大阪へ。18:00から高槻市の葬儀場で斎藤喬さんの通夜。焼香が終わった後のお経が続いている間にチョロッと抜け出して、大阪ミナミ・法善寺横丁の「美加佐」へ。ここは大阪随一だと言って斎藤記者が十数年前に私を連れて行ってくれて、以来私が、自分はもちろん家内や友人まで連れて、通ってきた店。斎藤さんの通夜に飲むところはここしかない。8時過ぎに店に行くと、おかみさんも親父もも、「どうしたんですか、こんな時間にお一人で?」と。大体は5時か6時に誰かと一緒に行くから、そう言われても仕方ない。「いや、今日は斎藤記者のお通夜だったのよ」「えっ!亡くなったの?」ということで、親父と献杯を重ねた。大阪泊。
8月27日(土)
朝5時起き。ジャーナル原稿、今日午後の名古屋「栄中日文化センター」講座のレジュメを執筆・送信。さらに今日の斎藤記者の告別式に出られないので、求められていた弔辞を手持ちのデジカメ=CANON G9のビデオ機能で4分半ほどのメッセージにして撮ってMacに落として、DVDにコピーして、それを高槻市の葬儀場に届けてから名古屋に向かった。ビデオ弔辞の内容はおよそ次の通り。
▼もう3分の1世紀を超えていますよね、最初に斎藤さんと知り合ってから。私が週刊誌の取材で大阪の闇社会を探るといった仕事で大阪に来ていて、「そういう話は読売の斎藤記者だよ」と紹介されたのでした。それから、まあよく飲みましたね。......最後は1年ちょっと前、法善寺横丁だったと思います。でも、飲み始めてから15分もしたら、もう椅子の上で眠ってしまって。それを見て、「ああ、誘わないほうがよかったのかな」と。私と会えば酒になってしまう。まさか斎藤さんとコーヒーかクリームパフェでしゃべってるなんて考えられませんから。その頃は毎週、大阪に来ていたんですが、何となく誘いそびれて...。それっきりになってしまいました。コーヒーでもいいから会えばよかったのか。今は何とも複雑な気持ちです。
▼私もジャーナリスト生活を40数年続けてきて、この世界にたくさんの知人や仲間がいますが、その中で特
別な存在が2人いて、1人は師匠と呼べる人、これももう亡くなりましたが。もう1人が兄貴と呼べる、3歳上の斎藤さんでした。この2人に共通するのは、ジャーナリストの心意気----「全世界を、1人で引き受ける」という気概です。世界のどこで何が起きても、日本のどこで何が起きても、自分の目でそれを見極めて、その意味を問い詰めて、そしてジャーナリストと出来ること、書けることは何かを決める。そのことを2人から学びました。しかし、毎日毎日をそのように張り詰めて生きるのはしんどいことで、だからその神経の緊張を一時ほぐすために少々の酒が必要だったのでしょう。
▼もうそちらに行ったんですから、2度と死ぬことはない訳ですから、好きなだけ酒を飲んで下さい。...いずれ私もそちらに行きます。...そうしたら、斎藤さんは、天国の入り口で私を迎えて、「おお、よく来たね。待ってたよ」と言うんでしょう。...「天国にも提灯横丁があってねえ。いい店があるんだよ」てなことを言うんでしょうね。...それまでしばらくのお別れです。さようなら。
名古屋の講座は、何で菅ではダメなのか。今出ている候補者で官僚体制と戦えるのか、脱原発路線は後退しないのかなど、この代表選それ自体のバカラしさについて語った。
18:30過ぎ帰宅。前日から孫が来ていて「ジイジ〜、待ってたよ〜」とか言われてメロメロ。
8月28日(日)

孫を含め家族3世代で参加している「釜沼北棚田」の稲刈り。今年は空梅雨が祟って生育期に水が不足気味で、作柄が心配されたが、まあまあ昨年並みの収量にはなりそうだし、放射能は心配ないという検査結果が出ている。27組の家族連れ約50人と言っても幼児もいるので実働40人ほどで9時半から手刈りで刈り始めて、13時までかかって予定の4枚の田んぼのうち3枚とちょっとくらい。数日前に雨が降って田がぬかるんでいるので効率が悪い。後は爺様たちが機械で刈ることになる。村の公民館に移ってバア様たち手作りの鶏の混ぜ御飯で昼食。8月15日に4歳の誕生日を迎えたばかりの孫は張り切っていたのだが、前夜から風邪っぽく微熱があるので早期リタイアして家で昼寝していた。しかし、「晩ご飯はどこへ行こうか」と言うと即座に「池田。お魚と白いご飯」と、ハッキリしている。池田は、本録には何も出て来るが、鴨川市内にある魚料理の名店で、ご飯はもちろん地元の長狭米を使っているので、魚もご飯もおいしい。アジの塩焼き、イクラ、タコの唐揚げでご飯も茶碗一杯平らげたので、これなら風邪も治るだろう。「また来るからねー」と去って行った。
8月29日(月)
朝、涼しい内から、まずは昨日、私、家内、婿が使った稲刈鎌3本や地下足袋の手入れ。鎌はもう1度洗って研いで油を塗ってケースに収める。もっと大型の草刈鎌は雑草刈りにしょっちゅう使うが、小型でシャープな稲刈鎌は年に1度、私専用のは9月に入って自然王国の稲刈もあるので2〜3度使って1年間お休みだから、来年取り出した時に「あれ?錆びてしまった」というのではお話にならないので、丁寧にケアする。
次にベランダ脇の側溝の泥を渫って水の流れをよくする作業。8月21日の項で述べた、ビオトープ小川の出口の掛け流しがこの側溝に流れ込む。これまでは、雨が多いと水が溜まり、そうでないとカラカラに

午後は、寝室南面の窓の外に置いてあるゴーヤの緑のカーテンの
蔓が伸びすぎて垂れ下がって絡み合ってしまっているのを、上に竹棒を継ぎ足して、もつれを解いて伸びやすいようにしてやるのに2時間を費やした。さらに夕方は、今春に高田造園が植えた野芝が伸び放題になっているので、まずベランダ東側のメイン芝庭の部分の刈り込みに着手。結局、終日外にいて、民主党代表選の様子は居間から聞こえるテレビの音声でフォローした。結果? まあ「海江田にならなくてよかった」のひと言に尽きる。
8月30日(火)
Ko君が手伝いに来てくれる日なので、今日は、敷地の柿の木が榎と抱き合ってしまって昨年も一昨年も実りが悪かったので、榎を切り倒して柿を解放する作業に取り組む。柿と言っても渋柿だが、「柿酢」を作るにはたくさん実らないと困るのだ。榎は多分25〜30年もので直径30センチほどの中くらいの太さで、根元から切り倒してしまえば簡単だが、それでは柿の枝が折れてしまう。長いはしごをかけてノコギリで丁寧に榎の枝を切り落として、幹だけにしてからチェーンソーで幹を倒した。落とした枝の葉先を払って薪になりやすいよう始末して、2人で2時間の作業だった。昼食前に、チェーンソーの分解掃除と刃の目立て。心を込めてやると30分ほどかかるが、これをやっておくと次に使う時に気持ちよく作業できる。
午後はKo君は奥の方の草刈、私は芝刈を続行。芝面の地形が

入り組んでいる上、周りに微細な植栽もあるので、大型の手押し芝刈機でバーッと刈る訳にはいかず、手持ちの電動バリカンと手動バリカンで刈りながら、雑草を除いていくので時間がかかる。除草剤を使わないので、雑草を1本1本抜くのは手間だが、このメイン芝面に関しては、ずっと手入れしてしてきたので、ほとんど雑草も生えない。端の方に行くと雑草が少し進出してくるが、高田造園の高田さんによると、「ゴルフ場じゃないから、適度に雑草が混じっていいんですよ」とのことだから、選択的に雑草を残しながら刈り上げる。刈り終わると、大小2つのクマデを使い分けてサッチ(芝の枯葉の堆積)を掻き出して、根の方まで酸素と日光が届くようにしてやる。写真左は東側から見た芝面とその向こうのベランダ。芝面の右は前からあった高麗芝、左はそれを半分剥がして高田造園が植えた野芝。
8月31日(水)
台風の影響で雨のはずが、なかなか降りそうにないので、午前中に芝刈りを続行。これでベランダ東側のメイン芝庭については一応(第1回の)作業を終えた。まだ台所口前、門からのアプローチ脇、風呂場前、浄化槽周りの4カ所の芝生が手入れを待っている。
昨日の「東京新聞」によると、海江田が第1回投票で1位となる公算が大きくなったことで仙谷由人が危機感を持ち、28日夜に鹿野と密かに接触、鹿野が第2回投票で前原に投票することには抵抗があると言ったのに対して、仙谷は「分かった。野田を2位にするよう、前原の票を野田に回してもいい」と言ったという。ホホーッ、なかなかの駆け引きをやるもんじゃないかと思い、仙谷本人に聞くと、何と、「全くの出鱈目、創作です。この間のマスコミ記事はリークと揣摩憶測とフィクションが殆どです。小沢史観のうえに、仙谷由人ミニ史観で書いています。マスコミの劣化はひどいものです。私は鹿野道彦さんには会っていません」だと。ひえーっ、聞いてみなければ分からないものだ。新聞を真に受けて、「東京新聞によれば、仙谷もなかなかしたたかで...」とか論評したりすれば大恥をかいてしまう。▲