高野孟の遊戯自在録018
3月21日(月)
早稲田大学から、来年度の入学式はじめ入学ガイダンス、科目登録、前期授業期間を丸々1カ月延期して、授業は5月6日からとするとの知らせが届いた。素早く、かつ適切な決断だと思う。また、3月13日に予定されていて延期となった大隈塾の高野ゼミ・岸井ゼミ合同の謝恩会は、4月15日に行いたいと学生の幹事から言って来た。これもまた適切で、華やかなことをいつまで自粛していても社会生活は転がらない。
3月19日付の米紙ウォールストリート・ジャーナルの「全世界400基の原発のうち地震危険地帯に立地している原発のほとんどは日本と台湾にある」という調査結果を、WSJ日本語メルマガで知って、その要約だけではよく分からないので英語原文に当たり、さらにいくつかの資料と付き合わせて、自分なりに分かりやすい資料を作るのに半日を費やした。
3月22日(火)
朝、東海ラジオの電話出演を終えて高速バスで東京経由、大阪で「情報ライブ・ミヤネ屋」に。当然にも大震災のニュース分析が中心。実はこれが私の同番組出演=月2回レギュラーの最終回で、今後は政治ネ中心の臨時コメンテーターとして時に応じてナマもしくはVTRで出演することになった。
思えばこの番組も、05年11月に週1回の「激テレ★金曜日」として始まった時から縁あって出演し、半年後にそれが月〜金=週5回の帯の夕方ワイド「情報ライブ・ミヤネ屋」に昇格してからは火曜日のレギュラー・コメンテーターとしてずっと出演してきた。その後、司会の宮根誠司の軽妙な切り回しが評判となって、大阪発の全国ネット番組となったものの、テレビ局の経営ピンチは大阪読売TVも例外でなく、私の出演も毎週だったのが月2回になるなど、厳しい状態が続いてきた。今回は、番組自体を大改変するので非レギュラーになってほしいということなので、5年半経ってそろそろ潮時かという気持もあり、快く了承した。
同夜、「5年間お世話になりましたので」と、同番組のチーフプロデューサーはじめ宮根、レポーターの中山アナウンサーなどとの飲み会を開いてくれて、東心斎橋の「金目鯛と鯖のしゃぶしゃぶ」の店で痛飲した(写真は宮根、中山アナと)。
3月23日(水)
朝、大阪のホテルで原稿書き。午後帰宅して、前記ウォールストリートの調査結果についての精査を続行、原稿を執筆。
3月24日(木)
学生時代の友人から「東京に住んでいる娘が東京は大丈夫か?」と不安がっているが、どうこたえたらいいものかというボヤキのメールがあったので、次のように答えておいた。
「鴨川でも逃げ出す奴がいて、東京でも知り合いの社長とか金持ちが静岡、大阪、沖縄、ハワイに逃げている。私には、逃げようもない東北の被災者たちに背を向けて自分だけ助かろうという発想は全くない。東京都心まで福島原発から230キロ、鴨川の拙宅まで270キロ。天皇陛下と日本政府中枢が東京を離脱したら、それを見届けてから私も退避するかもしれないが、それまではここで頑張る。今夜も停電したが、薪ストーブがあるから大丈夫。今日、私が主宰する《ザ・ジャーナル》に論説を書いて、その中で、静岡に逃げるなんて愚の骨頂、浜岡原発は活断層の真上に乗っていて日本で一番地震に弱い原発として有名で、しかも余震で静岡沖地震が起きているというのに、無知のなせる業としか言いようがない、と書いた。乳幼児を抱えて、それを守るためにというなら分からなくもないが、大阪には、私の知り合いの社長が3人、女房だけ連れて、社員を放ったらかしにして逃げて、北新地で酒を飲んで遊んでいるが、指揮官は部下の安全を見極めて最後に退避するのが当たり前でしょう。人格が割れるよね。スイス地震局が指摘するように、日本列島が5メートルもズレて、日本周辺のすべての活断層が活発化しているから、何が起きてもおかしくない。大阪に逃げたって原発が14基も集中する福井が地震や津波でやられたら関西圏は全滅。沖縄ならいいだろうと言うが、台湾の原発が近くて、これも日本同様、海岸立地で危ない。日本では原発の恐怖から逃れられる場所はない。《ザ・ジャーナル》に書いたが、地震にも津波にも弱い世界の原発39基のうち35は日本に、残り4は台湾にある。そういうことを考えたこともなくて、オール電化とか、電気使いたい放題の暮らしをしてきた日本人が、今更逃げ惑っても始まらない」
3月25日(金)
今日の午後予定されていた早稲田大学ジャーナリズム大学院の謝恩会とそれに引き続く高野講座の飲み会は中止。謝恩会そのものは中止になったのかどうか分からないが、高野講座の飲み会幹事をやっている仕切屋が、東北被災地に取材に入っていて帰って来られないから仕方がない。
3月26日(土)
高速バスで出て名古屋へ。中日新聞栄文化センターの講義。話は当然、大震災。終わって控え室で久しぶりに玉木正之さんと会った。私の講義は13時〜15時で、玉木さんは15時半からなので、その休み時間に時折顔を合わせることになる。私が神奈川県の大船に住んでいた時は、玉木さんがご近所で、彼が犬の散歩のついでに拙宅に寄ったり、共通の寿司屋で飲んだりしたが、この頃はこれくらいしか会う機会がない。綺麗に本が並べてある本棚は地震で崩れやすいが、我々のように無造作にギッチギチに本が詰め込んである本棚は余りに重量があるのでなかなか倒れにくいというような馬鹿話で盛り上がった。
3月27日(日)
昨日今日、ようやく少し暖かくて、我が家の大山桜が開花した。次に咲くのは陽光で、もう芽がプチンプチンに膨らんでいる。大島桜はまだ、山桜はまだまだ。土筆も一遍に伸び始めて、摘んで初物として食した。
仕事の合間に、ベランダの前の側溝に溜まった泥や落ち葉を掻き出して水の流れをよくした。上の方のクレソンが落ち葉に埋まって伸びられないのがかわいそうだし、この時期にはトウキョウサンショウウオやアオガエルが卵を産むのでそれも助けてやらねばならない。
3月28日(月)
娘と孫が来訪、対応に明け暮れる。孫と一緒に、やや開きすぎになった蕗の薹、今年は豊作の椎茸、出始めたばかりの土筆を収穫して、蕗の薹と椎茸は天麩羅に、土筆は煮付けにして夕食に出した。3歳7カ月の孫は「ジイジの家は広くて、いろんなものが生えてておもろいねえ」と言う。都会育ちの子にこういう経験をさせるのも田舎暮らしのジイジの役目である。
3月29日(火)
孫がやや風邪気味なので早朝から薪ストーブの具合を調整して暖を確保する。今年は寒くて、4月が近いと言うのに朝5時、6時に起きると室温は真冬と同じ14〜15度。それが、薪ストーブをボンボン焚くと30分ほどで18〜19度くらいまで上がる。やがて8時頃になると、南の森の上から太陽が覗いて室内にまで陽が差して、20度くらいになり、もう薪を継ぎ足さなくても夕方近くまでその温度が維持される。都会のマンション暮らしの孫らには少し寒く感じられるらしいが、カーディガン1枚羽織ればこれで十分である。
昼前から近所の農産物直売所「みんなみの里」で孫を連れてイチゴ狩り。大人どもは少し摘むとお腹が一杯になるが、孫は「おいしい、おいしい」と売っている1パック分ほども食べて、さらにイチゴソフトクリームも平らげていた。
3月30日(水)
朝8時に運転して家を出て羽田空港から福岡経由で五島列島の福江市に。同商工会議所で大震災の特に原発の何が問題か、その先にどう日本再建を図るのかというお話をした。懇親会の後、一部の方々と魚料理「奴」に行って刺身やオコゼの味噌汁を堪能した。懇親会の席でも二次会でも話が出たが、水産庁が推進する「人工海底山脈」という怪しい巨大海洋土木事業が五島沖でも行われようとしていることに福江商工会議所は環境保護の観点から反対したけれども、政治家・水産会社・水産庁の強固な政財官構造に蹴散らされ、来年度から本格工事が始まるという。電源開発が吐き出す石炭灰を巨大なブロックに整形して海底に投げ込んで人工的に山脈を作って海流の流れを操作すると、表層のプランクトンが増えて漁獲量が何倍にも増えるし、プランクトンによるCO2吸収効果も上がる、ハザマが開発した"環境に優しい技術"なのだという。私は初耳だったが、直感的に変だと感じる。人工的に海底の形状に大きな変更を加えて、確かに漁獲量はアップするかもしれないが、それが環境と生態系に与える長期的な影響は検証済みなのかどうか。また、投げ込むのが石炭灰ブロックである必然性はたぶん何もなく、そもそも電源開発の産廃処理というところから始まった話ではないのか。一度、調べてみる必要がある。
講演の前に時間があったので、ホテルの目の前の城跡にある「五島観光歴史資料館」を覗く(写真の、ちょっとやりすぎじゃないのと思えるお城風の建物、手前が図書館、億が歴史資料館)。大した展示ではなかったが、遣唐使の国内最終基地として栄えた独特の歴史を伺うことが出来た。栄えた----というのは、最初は1隻=150人、後には4隻=600人もの団が往復に寄港して様々な交流が生まれたというだけでなく、嵐で遭難した船(ほぼ半分は沈んだそうだ)の宝物をちゃっかり頂戴したり、海への恐怖にかられた乗組員が脱走して五島の山中に逃げ込んで住み着いたりして、そういうことがいろいろミックスして面白い文化が生まれたのだいう。キリシタンの島で今も教会がたくさん残っているとは知っていたが、もっと奥深い歴史があることが分かった。
3月31日(木)
朝9時過ぎに福江空港を出ると、福井岡経由、11時45分に羽田に着く。遠いようで近い。五島特産の飛魚を干した食用の「塩あご」と出汁用の「焼きあご」を土産に買った。
二木啓孝が「ちょっと相談事が」と言うので、彼の記者仲間のOと3人で品川駅近くでお茶を飲んだ。面白いプロジェクトを立ち上げつつあって、私にも協力してほしいと。快諾した。
明るいうちに帰宅。孫らは昨日のうちに東京に戻っていて、孫専用のお絵かきボードに傑作が残されていた。子どもはみな生まれながらアーティストなのだと分かる。
早稲田大学から、来年度の入学式はじめ入学ガイダンス、科目登録、前期授業期間を丸々1カ月延期して、授業は5月6日からとするとの知らせが届いた。素早く、かつ適切な決断だと思う。また、3月13日に予定されていて延期となった大隈塾の高野ゼミ・岸井ゼミ合同の謝恩会は、4月15日に行いたいと学生の幹事から言って来た。これもまた適切で、華やかなことをいつまで自粛していても社会生活は転がらない。
3月19日付の米紙ウォールストリート・ジャーナルの「全世界400基の原発のうち地震危険地帯に立地している原発のほとんどは日本と台湾にある」という調査結果を、WSJ日本語メルマガで知って、その要約だけではよく分からないので英語原文に当たり、さらにいくつかの資料と付き合わせて、自分なりに分かりやすい資料を作るのに半日を費やした。
3月22日(火)
朝、東海ラジオの電話出演を終えて高速バスで東京経由、大阪で「情報ライブ・ミヤネ屋」に。当然にも大震災のニュース分析が中心。実はこれが私の同番組出演=月2回レギュラーの最終回で、今後は政治ネ中心の臨時コメンテーターとして時に応じてナマもしくはVTRで出演することになった。

同夜、「5年間お世話になりましたので」と、同番組のチーフプロデューサーはじめ宮根、レポーターの中山アナウンサーなどとの飲み会を開いてくれて、東心斎橋の「金目鯛と鯖のしゃぶしゃぶ」の店で痛飲した(写真は宮根、中山アナと)。
3月23日(水)
朝、大阪のホテルで原稿書き。午後帰宅して、前記ウォールストリートの調査結果についての精査を続行、原稿を執筆。
3月24日(木)
学生時代の友人から「東京に住んでいる娘が東京は大丈夫か?」と不安がっているが、どうこたえたらいいものかというボヤキのメールがあったので、次のように答えておいた。
「鴨川でも逃げ出す奴がいて、東京でも知り合いの社長とか金持ちが静岡、大阪、沖縄、ハワイに逃げている。私には、逃げようもない東北の被災者たちに背を向けて自分だけ助かろうという発想は全くない。東京都心まで福島原発から230キロ、鴨川の拙宅まで270キロ。天皇陛下と日本政府中枢が東京を離脱したら、それを見届けてから私も退避するかもしれないが、それまではここで頑張る。今夜も停電したが、薪ストーブがあるから大丈夫。今日、私が主宰する《ザ・ジャーナル》に論説を書いて、その中で、静岡に逃げるなんて愚の骨頂、浜岡原発は活断層の真上に乗っていて日本で一番地震に弱い原発として有名で、しかも余震で静岡沖地震が起きているというのに、無知のなせる業としか言いようがない、と書いた。乳幼児を抱えて、それを守るためにというなら分からなくもないが、大阪には、私の知り合いの社長が3人、女房だけ連れて、社員を放ったらかしにして逃げて、北新地で酒を飲んで遊んでいるが、指揮官は部下の安全を見極めて最後に退避するのが当たり前でしょう。人格が割れるよね。スイス地震局が指摘するように、日本列島が5メートルもズレて、日本周辺のすべての活断層が活発化しているから、何が起きてもおかしくない。大阪に逃げたって原発が14基も集中する福井が地震や津波でやられたら関西圏は全滅。沖縄ならいいだろうと言うが、台湾の原発が近くて、これも日本同様、海岸立地で危ない。日本では原発の恐怖から逃れられる場所はない。《ザ・ジャーナル》に書いたが、地震にも津波にも弱い世界の原発39基のうち35は日本に、残り4は台湾にある。そういうことを考えたこともなくて、オール電化とか、電気使いたい放題の暮らしをしてきた日本人が、今更逃げ惑っても始まらない」
3月25日(金)
今日の午後予定されていた早稲田大学ジャーナリズム大学院の謝恩会とそれに引き続く高野講座の飲み会は中止。謝恩会そのものは中止になったのかどうか分からないが、高野講座の飲み会幹事をやっている仕切屋が、東北被災地に取材に入っていて帰って来られないから仕方がない。
3月26日(土)
高速バスで出て名古屋へ。中日新聞栄文化センターの講義。話は当然、大震災。終わって控え室で久しぶりに玉木正之さんと会った。私の講義は13時〜15時で、玉木さんは15時半からなので、その休み時間に時折顔を合わせることになる。私が神奈川県の大船に住んでいた時は、玉木さんがご近所で、彼が犬の散歩のついでに拙宅に寄ったり、共通の寿司屋で飲んだりしたが、この頃はこれくらいしか会う機会がない。綺麗に本が並べてある本棚は地震で崩れやすいが、我々のように無造作にギッチギチに本が詰め込んである本棚は余りに重量があるのでなかなか倒れにくいというような馬鹿話で盛り上がった。
3月27日(日)

仕事の合間に、ベランダの前の側溝に溜まった泥や落ち葉を掻き出して水の流れをよくした。上の方のクレソンが落ち葉に埋まって伸びられないのがかわいそうだし、この時期にはトウキョウサンショウウオやアオガエルが卵を産むのでそれも助けてやらねばならない。
3月28日(月)

3月29日(火)
孫がやや風邪気味なので早朝から薪ストーブの具合を調整して暖を確保する。今年は寒くて、4月が近いと言うのに朝5時、6時に起きると室温は真冬と同じ14〜15度。それが、薪ストーブをボンボン焚くと30分ほどで18〜19度くらいまで上がる。やがて8時頃になると、南の森の上から太陽が覗いて室内にまで陽が差して、20度くらいになり、もう薪を継ぎ足さなくても夕方近くまでその温度が維持される。都会のマンション暮らしの孫らには少し寒く感じられるらしいが、カーディガン1枚羽織ればこれで十分である。
昼前から近所の農産物直売所「みんなみの里」で孫を連れてイチゴ狩り。大人どもは少し摘むとお腹が一杯になるが、孫は「おいしい、おいしい」と売っている1パック分ほども食べて、さらにイチゴソフトクリームも平らげていた。
3月30日(水)
朝8時に運転して家を出て羽田空港から福岡経由で五島列島の福江市に。同商工会議所で大震災の特に原発の何が問題か、その先にどう日本再建を図るのかというお話をした。懇親会の後、一部の方々と魚料理「奴」に行って刺身やオコゼの味噌汁を堪能した。懇親会の席でも二次会でも話が出たが、水産庁が推進する「人工海底山脈」という怪しい巨大海洋土木事業が五島沖でも行われようとしていることに福江商工会議所は環境保護の観点から反対したけれども、政治家・水産会社・水産庁の強固な政財官構造に蹴散らされ、来年度から本格工事が始まるという。電源開発が吐き出す石炭灰を巨大なブロックに整形して海底に投げ込んで人工的に山脈を作って海流の流れを操作すると、表層のプランクトンが増えて漁獲量が何倍にも増えるし、プランクトンによるCO2吸収効果も上がる、ハザマが開発した"環境に優しい技術"なのだという。私は初耳だったが、直感的に変だと感じる。人工的に海底の形状に大きな変更を加えて、確かに漁獲量はアップするかもしれないが、それが環境と生態系に与える長期的な影響は検証済みなのかどうか。また、投げ込むのが石炭灰ブロックである必然性はたぶん何もなく、そもそも電源開発の産廃処理というところから始まった話ではないのか。一度、調べてみる必要がある。

3月31日(木)

二木啓孝が「ちょっと相談事が」と言うので、彼の記者仲間のOと3人で品川駅近くでお茶を飲んだ。面白いプロジェクトを立ち上げつつあって、私にも協力してほしいと。快諾した。
明るいうちに帰宅。孫らは昨日のうちに東京に戻っていて、孫専用のお絵かきボードに傑作が残されていた。子どもはみな生まれながらアーティストなのだと分かる。