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2007年11月23日

メタボ撲滅という厚生労働省の陰謀

●日本人の半分が“病人・半病人”にされてしまう!

 “分煙”という名の事実上の“禁煙”強制キャンペーンに続いて、いま厚生労働省が血道をあげているのがメタボリック・シンドローム(内臓脂肪症候群)撲滅大作戦である。

 メタボとは、内臓肥満・腹部肥満に高血糖・高血圧・高脂血症のうち2つ以上を合併した状態と定義される。これらはそれぞれ単独でも大いに健康を損なう要因だが、複合すればなおさら動脈硬化性の疾患に陥りやすいということで、予防と治療が急務とされている。06年5月に厚労省が発表した診断基準によれば、

▼ウェスト周囲径が男性85センチ以上、女性90センチ以上で、
▼さらに次のうち1つ以上に該当すれば予備軍、2つ以上に該当すればメタボとなる。
(1)血圧=最高血圧130mmHg以上または最低血圧85mmHg以上
(2)脂質=中性脂肪150mg/dl以上またはHDL40mg/dl未満
(3)血糖=空腹時血糖値110mg/dlまたはHbAlc5.5%以上

 ところがこの基準は、『メタボの罠/“病人”にされる健康な人々』(角川SSC新書、07年10月刊)の著者である大櫛陽一=東海大学医学部教授によれば、ほとんどデタラメに近いもので、これがそのまま適用されると40〜74歳の日本人の49.7%が病人もしくは半病人として病院での受診を勧奨されることになる(日本人間ドック診協会の分析)。

 これは、太りすぎあるいは太り気味だから「気をつけましょう」という健康指導のガイドラインではなくて、06年5月に審議不十分と言われながら衆院厚労委員会で強行採決(!)され6月に成立した医療制度改革法に基づいて、08年度から実施される「メタボ特定健診・特定保健指導」制度の下で、40〜74歳の被保険者は皆その健診を受けて、2人に1人は病院通いを勧められて検査を受けたり薬を投与されたりしなければならないことになるのである。

 厚労省の表向きの企図は、肥満を減らせば医療費が2兆円削減されるというにあるのだが、この基準では、行かなくてもいい人まで病院に行って診療費と薬代を払うことになり、大櫛教授によれば「医療費がさらに5〜6兆円増加し、そのしわ寄せとして必要な医療が削減されることになるだろう。この新しい健診は、日本の健診制度や医療制度を崩壊させる危険性があるのだ」。

●メタボって何だ?

 メタボは元々は、80年代末の米国で、米国人にありがちな豚か牛のように巨大な肥満者が、当然にもありとあらゆる病気、とりわけ高血圧、高脂血症、糖尿病などの生活習慣病や多くの心疾患に罹りやすいことが問題視され、スタンフォード大学のジェラルド・リーヴェンがこれを「シンドロームX」と名付けてアンチ肥満運動に火を着けたのが発端である。98年にWHOがこれを「メタボリック・シンドローム」と定義し、その頃から日本でも「皮下脂肪は良いが内臓脂肪は悪い」「生活習慣病は肥満が原因」などと議論されるようになり、05年には日本肥満学会はじめ8つの代表的な医学会の連名でメタボの基準が発表された。それに飛びついたのが厚労省で、06年に上述の公的基準が定式化された。

 これが一見して奇妙なのは、ウェストの基準が「男性85センチ・女性90センチ」と、女性が男性より大きな値となっていることである。国際糖尿病連合(IDF)の基準では、欧州人で男性94センチ・女性80センチ、南アジア人・中国人・日本人で男性90センチ・女性80センチ(http://www.idf.org/webdata/docs/IDF_Meta_def_final.pdf)、また全米コレステロール教育計画(NCEP)の基準では米国人で男性102センチ・女性88センチ(http://www.nhlbi.nih.gov/guidelines/cholesterol/atp3xsum.pdf)とされており、いずれも男性が女性より大きい。なぜそうなるかと言えば、世界では内臓脂肪を最も反映する位置として肋骨下と骨盤上の骨がなくくびれた部分でウェストを測るが、日本ではそのやや下の臍の位置で測るので、男性の場合は世界基準にほぼ近くなるが、女性の場合は骨盤上部に引っかかって内臓脂肪ではなしに骨盤の大きさを反映してしまうからである。これは、日本ではCTを用いて内臓脂肪面積を測る際に臍を位置決めに使っているという“慣習”があって、それを日本肥満学会が踏襲しているためで、大櫛に言わせれば医学的に無意味な「稚拙なミス」である。IDFは06年、「日本のウェスト基準は奇妙であり、男性90センチ・女性80センチに修正すべきだ」と勧告したが、厚労省はこれを受け入れていない。

 男性の場合、世界基準とほぼ等しい数値となるが、それにしては米国人102センチ、欧州人94センチ、アジア人90センチと比べて日本人だけ85センチというのは厳しすぎる。女性の場合は逆に、同じく88、80に対して90と緩すぎる。ということは、まず最初の関門となる腹囲の計測で、世界基準で測った場合と比べて日本基準では、男性はメタボでないない人までが病人もしくは半病人と判定され、女性は反対に該当者が見逃される可能性が高いということである。

 BMI(ボディ・マス・インデックス=体重(kg)÷身長(m)×身長(m))で言うと、欧米では肥満はBMI=30以上で、それが35以上の明らかな太りすぎになると死亡率が急激に上昇する。逆に18.5以下の痩せすぎになっても死亡率が増える。そして25〜29.9の小太り型が最も死亡率が低い。メタボ健診の基準とされている男性のウェスト85センチというのは、BMI=23.5に相当するので、これでは小太り型の健康者も異常と診断されることになる。米国では、BMI=35以上の明らかなデブが8.3%もいる反面、18.5以下の痩せすぎは2.2%しかおらず、肥満対策が中心となって当然である。ところが日本では、35以上はわずか0.3%しかおらず、反対に18.5以下が米国の3倍の6.7%もいる。特にダイエット指向の若い女性にそれが多く、日本ではむしろ痩せすぎ対策のほうが重要である。なのに厚労省は国民を「太りすぎだ、もっと痩せろ」と脅そうとしている。

●それぞれの数値も疑問

 大櫛は、ウェスト以外の数値基準についても次のように疑問点を挙げている。

(1)血圧——年齢を無視した一律の基準であるため、高齢者では異常値が5割を超え、受信勧奨率も3割を超える。

(2)中性脂肪——健康へのリスクとなるのは500mg/dl以上であり、特に中年男性に対して基準が低すぎる。

(3)HDL(善玉コレステロール)——女性に対する基準が低すぎるため、運動不足や栄養バランス不良などを見逃して、糖尿病の早期予防が出来ない。

(4)LDL(悪玉コレステロール)——中高年男性の6割、女性の7割前後が異常になる。

(5)肝機能検査——判定値を男女別に設定していないので、女性に対する判定が甘くなりすぎる。

(6)空腹時血糖——判定値が今回大幅に引き下げられたので、異常率が男性の6割近く、女性の4割以上となる。若い女性には適切だが、男性と中高年女性では偽陽性を3〜5倍に増やすことになる。

 総じて、根拠も統計手法も怪しく、年齢層や男女別による違いや、都市と農村など地域特性や職域集団の特質なども無視した一律の数値なので、実情とかけはなれた診断が下される危険が大きいということである。本来、メタボは新しい病気なのではなく、糖尿病や心血管系疾患を予防するための生活習慣の改善目標にすぎないのに、それが一人歩きして病人扱いされる人が激増するのである。

 例えば血圧の場合、高血圧に対する分類、診断基準、降圧目標が度々引き下げられてきて、08年度からのメタボ健診では、最高血圧140/最低血圧90mmHgを超えると受診勧奨され、130/85まで下げるよう指導される。すでに現在、成人の約20%が血圧を下げる薬を飲んでおり、その比率は年齢と共に上昇して70歳以上では46.5%、半分近い人が飲んでいる(03年の調査)。その結果、04年度に日本国内で生産された血圧降下剤と血管拡張剤は年間8000億円以上、医薬品全体の12.5%を占める巨大市場となっているが、今後はこれがさらに膨らむ可能性がある。ところが大櫛によれば、男女とも中高年になるにつれ血圧が上がるのは自然のことで、160/100の範囲であれば何の問題もない。逆に高齢者に強力な薬剤治療を施して血圧を無理に140以下に下げると脳梗塞の発症がむしろ増え、また日常生活能力が低下したり副作用が出たりするという報告もある。

 コレステロールもまた誤解に満ちている。日本ではこれまで「総コレステロール220mg/dl」という日本動脈硬化学会の基準が普及し、そのため健診受診者の中高年女性の5割以上が高脂血症と診断されてコレステロール低下剤を投与されてきた。ところが欧米では総コレステロール基準は260〜270であり、また女性は皮下脂肪が発達していて脂質を貯めて利用する能力が高いため「女性にコレステロール低下薬は不要」というのが常識である。特に日本人の場合は、総コレステロールが低い方がガンなどによる死亡率が高く、220前後は最も死亡率が低い。このことはさんざん批判されてきたことで、そのため厚労省は今回のメタボ健診基準では「総コレステロール」の項目を外した。しかし、HDLもLDLも「低ければ低いほどよい」という発想は相変わらずで、“悪玉”と不当に呼ばれてきたLDLも体に不可欠のものであり少なすぎると細胞の補修が出来なくなるという事実を無視している。

●官学業の癒着

 なぜこんなデタラメがまかり通るのか。一言でいえば厚労省・医学界・製薬会社の癒着である。日本版メタボの基準を作った張本人は、日本肥満学会と日本動脈硬化学会を牛耳ってきた松澤祐次である。彼が03年度まで教授を務めた大阪大学医学部第2内科(現在の大学院医学研究科分子制御内科学)に対する奨学寄付金を調べると、00年度から05年度までの6年間で8億3808万円で、そのほとんどが製薬会社からの寄付金だった。ずば抜けて多いのは三共(現在の第一三共)の1億1600万円で、この会社は日本で最大シェアを持つコレステロール低下薬(メバロチン)の製造・販売で年間2000億円を売り上げている。

 臨床学会が診断基準を下げて厳しくすれば、病人と判定される人が増えて、製薬会社が儲かる。厚労省はそれをチェックすべき立場にあるが、実際には、製薬会社が金を出して研究させ学会に新基準を作らせて、それに基づいて製薬会社が申請をすればそれを医療保険適用医薬品として認可するだけである。製薬会社の業界団体である日本製薬団体連合会の代々の理事長は厚労省キャリアの天下りポストであるし、タミフル問題では同省で医薬品の認可を担当していた元課長が製薬会社に天下っていたことが表沙汰になったように、企業との直接の癒着も甚だしいので、チェックなど出来るわけがない。

 厚労省自身も年間400億円の「科学研究補助金」を握っていて、自分らの裁量で研究者にバラ撒くから、研究者もまた官僚が机上で描く健康運動に沿った研究を競って補助金を貰おうとする。

 さらにメディアにとっては製薬会社は重要なスポンサーであり、また厚労省は取材源であるから、こうしたデタラメを暴くどころか、おかしなところに目をつぶってキャンペーンを盛り上げたりする。

 図に乗った厚労省はこの11月、大人を“犠牲”にするだけでは気が済まなくなって、6歳から15歳の子供のメタボについても診断基準をまとめる方針を明らかにした。こうして、大人だけでなく子供までもが製薬会社の餌食にされようとしている。▲

2007年11月 7日

ありもしない「大連立」の幻影に惑った小沢一郎

民主党は改めて正々堂々の政権交代を目指せ!

 先の参院選の結果生じた衆参ねじれ国会の下で、かつてない緊迫したやり取りと駆け引きが展開され、それが次の総選挙での文字通り「政権選択」に繋がっていくことを誰もが期待しているというのに、そのねじれ状態の重圧に耐えかねて、まず与党の党首がプッツンし、続いて野党第一党の党首もプッツンしたのでは、話にも何もならない。

 6日夜になって小沢は辞意を撤回し「恥を晒すようだがもう一度頑張りたい」と表明、一連のドタバタは一段落したものの、彼の威信低下は避けられない。4日の辞意表明会見の際に彼が他人事のように言い放った、「民主党は様々な面で力量が不足しており、国民からも本当に政権担当能力があるのかという疑問が提起され続け、次期衆院選勝利は厳しい情勢にある」という問題を、自らの責任でどう克服していくのかの覚悟と具体的な方針を党内と国民に示すことなしには、求心力の回復は難しい。

●大連立という選択はあり得ない

 そもそも93年に、政治改革をめぐる自民党の分裂によって非自民・改革派8党派連合の細川政権が誕生し、同政権下で94年に小選挙区制が導入されたのは、他でもない、選挙を通じての正々堂々の政権交代が当たり前となるような政治風土を醸成することを通じて、政策と予算の官僚による実質的支配、それを前提とした政官業の癒着と政治の腐敗、密室での政局取り引きといった日本政治の発展途上国的属性を一掃していくことに狙いがあった。

 ところが、細川政権とその後継の羽田政権は、まさに政権中枢にあった小沢一郎=新生党代表(当時)の密室的運営が災いして合計わずか10カ月で瓦解し、それ以後は、何としても権力の座にあり続けたい自民党が、野党の四分五裂状態を利用して、社会党とさきがけ、公明党、自由党、保守党などを取っ替え引っ替え連立相手に引き入れて、それらを食いつぶしながら延命を図ってきた13年間であって、その間せっかくの小選挙区制も本格的に作動することを阻まれてきた。03年に小沢の自由党が民主党に合流して、ようやく2大政党制的な構図が出来上がり、さらにいくつかの偶然の重なりによって06年に小沢が民主党代表に就任したことで、政治における「空白の10年」から脱出する条件が整った。その意味で、小沢が代表に就任して以来言い続けてきた「07年参院選で与党を過半数割れさせ、衆院解散に追い込んで政権交代を実現する」というのは、時代の課題の核心をずばり射貫いたものであり、しかもその言葉通り小沢が参院選を勝って見せたことでその言葉はますますリアリティを増した。だからこそ、小沢嫌いの者も少なくない民主党も「小沢で政権を取りに行く」ことで一致結束し、また必ずしも民主党支持でない国民の間にも「何はともあれ選挙で政権が代わるのを見てみたい」という期待が広がったのである。

 その矢先に、大連立などという話がある訳がない。大連立は、参院選の敗北直後に森喜郎元首相、中川秀直元幹事長らが「安倍退陣→福田政権→行き詰まった場合の民主との大連立」というシナリオを描いた時に浮上したもので、中曽根康弘元首相、読売のナベツネらもこれをバックアップしていた。2回の首脳会談でどちらがそれを持ちかけたかは、双方の言い分が食い違っていて真相は未解明だが、本質的にはそれは、参院選大敗で自公協力の行方が怪しくなっている中で、自民党が最後の延命装置として民主党を抱き込もうとする「究極の抱きつき作戦」(読売)に他ならない。民主党がそれに乗る(そぶりでも見せる)のは戦略的な自殺行為であり、選択肢として検討することすら馬鹿げている。

●ドイツの例は全く参考にならない

 もちろん、一般論としては2大政党制の下での大連立はあり得ないことではない。一新聞の則を超えてこのプロットに首を突っ込んだ読売新聞は、5日付社説で「それでも大連立を目指すべきだ」と叫び、「大連立には、キリスト教民主・社会同盟と社会民主党が2005年11月に発足したドイツのメルケル政権の例がある」と述べているが、これは筋違いというもので、第1に、ドイツに限らず広く欧米では、2大政党制による政権交代可能な成熟した政治風土がすでに培われ、政党も国民もその経験を十分に積んでいて、その上で時々の事情で大連立が組まれることもある。それに対して日本は、選挙を通じての真正面からの政権交代の経験が(大正デモクラシー期を除いて)なく、その風土を培うこと自体が政治の先決課題であって、それ以前の大連立はその課題をブチ壊すだけである。

 第2に、ドイツの場合は小選挙区比例代表併用制で、これは比例代表制を基本として小選挙区制の要素も付け加えた制度であり、第1党でも過半数の議席を取るのは難しい(ワイマール共和国時代の完全比例代表制がナチスの台頭を呼んだことの教訓に立って、敢えて圧倒的な第1党が生まれないよう小選挙区制で制約している)。そのため第1党は、単独で少数与党政権を作るか、他の小政党と連立を組んで過半数を制するか、大連立を組むかのいずれかで、メルケル政権以前にも66〜69年に大連立の例がある。それに対して日本は、小選挙区比例代表並立制で、これは小選挙区制を基本として比例代表制で余りに極端な結果となることを制御しようとする制度で、05年の郵政選挙で実証されているように、わずかな得票差でも大きな議席差が出る。ドイツとは逆にドラスティックな政権交代が起きやすいところに特徴がある(が、我々はまだそれを体験していない)。後房雄=名古屋大学教授が6日付朝日「疑問だらけの“大連立”」で述べているように、ドイツの大連立は「第1党でも過半数の議席が獲得できない比例代表制のもとでこそありうる選択肢であるが、ドイツにおいても、通常は第1党が第3党などとの間で連立を組んできた。いわんや、小選挙区制のもとでの大連立など、戦時などの非常時においてしかありえない」。

 第3に、現実問題として、大連立政権の下では小選挙区の選挙は戦いようがない。小選挙区では候補者は党代表として政策や政権構想の違いを訴えて他党候補者と論争しながら支持を競うのであって、その違いがないのであれば、有権者は昔通り、地元貢献度や風貌・人柄で選ぶしかなくなる。そういう風土を変えるために小選挙区制にしたのである。

●戦術のために戦略を殺す小沢の性癖

 小沢がそのことを認識していないはずはない。が、政局が行き詰まると政権の枠組みを壊して作り替えようとする過激戦術に一人で突っ込んでいって、結果的に戦略的大局を見失って失敗するというのは、小沢がさんざん繰り返してきたことである。

 彼のほとんど唯一の成功体験は、自らが羽田孜らと共に自民党を割って出ることによって93年7月に細川政権を作ったことで、それ以来、自民党を掻き割るような政界再編を仕掛けることが彼の基本的な手法となったのかもしれない。細川政権は与党の一角にあった社会党内の守旧派による抵抗を押し切るようにして94年1月に政治改革法案を成立させた後は、政権運営の中枢を握る小沢(新生党)・市川雄一(公明党)のイチイチ・コンビと武村正義官房長官(さきがけ)プラス社会党との対立によって行き詰まり、その時小沢はまずは内閣改造で武村を更迭しようとし、それに失敗すると細川をかついで日本新、新生、公明の3党で「新・新党」を結成して連立の枠組みから社会党とさきがけを追い出し、自民党から渡辺美智雄元蔵相のグループを引っ張り出して政権を組み替えるという成算のない試みに打って出て、そんなことで連立与党がドタバタしている内に自民党から細川スキャンダルの砲撃を食らって、為す術もなく同政権を崩壊させてしまった。この細川政権末期の状況を、当時本誌No.312(94年3月1日号)「“新・新党”に直進する小沢」は彼の「つんのめるような戦術的過激派ぶり」について次のように書いていたので、長くなるが一部を再録・紹介する。

--《参考1》------------------------------------------------------

■問題の3つの次元

 この問題がここまでこじれたのは、当面の政局運営、次の総選挙へ向けての選挙協力、さらにその先の政界再編成という、性格もタイミングも異なる3つの次元がゴチャゴチャに絡まってしまったためである。

 コメの部分開放、政治改革、税制、日米通商問題と、これまでならそのどれ1つでも内閣が潰れて不思議でないような課題を、スキーの大回転のようにしてすり抜けてきて、これからも同じようにいくつもの問題を突破していかなければならない、改革し続けることを運命づけられたこの政権としては、イチイチ・コンビの時として拙速気味とも言える“決断力”が必要であることは疑いない。そしてそのイチイチ・コンビが決断力を発揮しようというここぞという場面で、武村が撹乱的な役割を果たしてきたのも事実である。

 しかし、だからといってこれを官房長官の更迭といった強硬手段で片づけてしまおうとするのは、それこそ決断力のはき違え——というよりも、本来はお互いに腹を割ってとことん話し合うことを通じて、味方陣営の中の“内部矛盾”として処理されるべき問題を、簡単に“敵対矛盾”に転化してしまって、味方を減らし敵を増やす結果を招く一種の左翼日和見主義の誤りである。小沢の剛腕は、一歩間違えると、このようなすべてを死ぬか生きるか、取るか取られるかの権力闘争と捉えるニヒリズムないし人間不信に立って、そこで露悪的なまでの戦術的な過激派として振る舞うことに快感を感じるというサディスティックな歪みに陥る傾向がある。

 連立である以上、意見の違いがあるのは当たり前で、それを説得や妥協や教育などの方法を通じてお互いが自分を変革しながら、よりましな運営を目指していくという作法を、この政権はまだ作り出していない。更迭とか降格とかいった人事手段は、普通の社会では、取り返しのつかない不祥事を起こしたか、あるいは誤りを犯したにもかかわらず反省のかけらもなく、これ以上説得によって本人を立ち直らせることは不可能だと判断される場合に採られるものである。

■小沢の焦りの根源

 しかし、小沢が細川に武村更迭を求めた本当の動機は、当面の政局運営にとって武村が邪魔だというレベルにあるのではない。彼はもっと先を見て、二重の意味で焦っている。消息通はこう見ている。

▼イチイチ・コンビは昨年末の段階で、現在の連立与党5党が整然と選挙協力の態勢をとって次の総選挙に臨むことは到底不可能だと判断、選挙前に日本新党、新生党、公明党の3党が先行する形で“新・新党”の結成に踏み切る腹を固めた。その3党でそれぞれ100人ずつの候補者を立てて全選挙区で自民党と対抗する構えをとった上で、それを見て社会党のデモクラッツなど改革派や、さきがけの反武村派や、自民党の一部などが合流したいと言ってくれば、何ほどかの立候補シェアを与えるという考え方である。

▼12月26日にイチイチが細川と会談して、「新生・公明両党は解党して、細川さん、あなたを党首に新・新党を作る。だから武村は切れ」と迫り、細川は意外と簡単にこれに乗ってしまう。恐らく細川は、社会党執行部が党内をまとめきれないでゴタゴタが続いていることにうんざりしていたし、日本新党とさきがけの結婚話が進まないまま武村が地方への勢力拡大に力を入れていることに不快感も持っていたので、「こっちの御輿に乗ったほうが楽かな」くらいに思ったのではないか。

▼武村はやがてその細川・小沢密約を察知して、2人への不信感を強めた。さきがけの田中秀征が首相補佐官を辞して党務と党勢拡張に専念することになったのも、もちろんその不信感ゆえである……。

■強さより弱さの現れ

 小沢が武村を気に入らないのは、小沢のいう“普通の国”に“小さくてもキラリと光る国”を対置し、また“軍事貢献”に“環境貢献”を対置して路線の違いを押し出しているだけでなく、それを旗印に社会党デモクラッツから民社党、後藤田元副総理や北川正恭グループまでブリッジしたリベラル結集の核になろうとしていることである。

 実際にこのような結集が進んでいった場合、(1).細川自身も路線的=体質的にはそれに近く、また小池百合子はじめ日本新党内部には反小沢感情が根強くあることから、日本新党の大勢がリベラル側に傾く可能性が大きく、(2).新生党でさえも羽田は路線的には小沢より武村に近く、(3).さらに公明党も、市川は小沢と心中覚悟でも、もともと都市部の低所得層を基盤とする創価学会を母体に反腐敗・福祉・平和などを掲げて誕生したこの党の性格が小沢流の新保守主義と馴染むわけもなく、若手が市川に最後まで従って行くかどうか分からない。

 だとすると、イチイチにとって最悪のケースでは、武村・赤松・大内らが細川をかついでリベラル結集を図り、それに新生党の羽田グループや公明党の一部若手、それに自民党の北川グループなども合流してしまい、小沢と市川がほとんど裸同然で抱き合って、せいぜい民社党の米沢と自民党の渡辺ミッチー的勢力がうしろに付いているという、どうにもならない姿が露呈されることになる。

 そうなったら破滅だ——というイチイチの焦りが、細川を武村から切り離して新生・公明側に奪取し、裸同然の姿を隠すガウンに使おうという遮二無二の作戦となって現れた。その意味では小沢は、追い込まれて強行突破に出ているのであって、それは彼の強さよりもむしろ弱さの表現である。

 しかし、細川をしっかりと確保しさえすれば、民社の米沢は以前からイチイチの同伴者だし、赤松や園田も社会党やさきがけを割って合流してこないとは限らないのだから、自民党の一部も加えて“新・新党”のほうが主流になる。これがイチイチにとっての最善ケースで、まさに一か八かの勝負に出ているわけである。

■選挙協力か新党か

 このように、将来の政界再編を睨んで横路北海道知事の中央復帰も含めていろいろな動きが出てくるのは必然だが、だからといってイチイチが、次の総選挙をめざす選挙協力のための努力を飛び越えて、いきなり選挙前の新・新党結成に突き進もうとするのは、これまた焦りのもう1つの現れである。

 本誌が繰り返し述べてきたように、細川政権が誕生してから新制度で第1回の総選挙が行われるまでのひと連なりの政局過程では、「政治改革実現のための非自民結集」は引き続き有効であり、(1).政治改革法案の成立を受けてその区割りを含めた細部を仕上げるとともに、引き続き国会改革、参院改革などを進めつつ、(2).直間比率の見直しを含む税制の抜本改正や地方分権など次の大きな改革課題を準備し、(3).それと並行してゼネコン疑惑や農協体制など自民党の支配構造の岩盤部分にもつるはしを入れて、(4).次の選挙で2度と自民党の長期単独政権という化け物が蘇ることのないよう打撃を与える——ことが連立政権の任務である。

 しかしこの過程は矛盾に満ちていて、その選挙で勝利した瞬間に“非自民”という結集軸は無用になり、政策路線での再編が始まることが分かり切っているにもかかわらず、その選挙に向けて与党は結束して選挙協力の態勢をとらなければならない。

 どの党もその矛盾に耐えながら自制し、選挙協力の可能性をねばり強く追求することが、自民党を利さないための鍵であって、そのためにはまず各党の選挙担当者の協議機関を設けて半年以上かけて徹底的なすり合わせを行うのが筋だろう。ところがイチイチは、選挙協力はしょせん無理だと、協議もしないうちから勝手に決めつけて、選挙前に連立勢力を断ち割って新・新党結成という方向に踏み切り、細川もまた安易にそれを許容しようとしている。
 日本新、新生、公明の3党なら確かに選挙協力は達成しやすい。現状でも選挙区での競合が少ない上、公明の場合は命令ひとつで候補者を動かすことが出来る。細川はもともと日本新党の組織を大事に育てていこうなどというつもりはないから、どうにでも対応できる。ところがこれに社会党が加わった場合は、地方ではとりわけ左派色が残っており、例えばA区で新生党候補を引っ込めてB区で社会党を立てるという取り引きをしても、社会党支持者がA区で新生党に投票するかどうかはまったく分からない。

 従って、各党協議の結果、5党のままではどうしても選挙協力は成り立たないという結論に達し、合意の上で連立内部を2党もしくは2勢力に集約してその両者の間で可能な限りの選挙協力を行うといった選択はあり得よう。しかしその合意の努力を初めから放棄して、力の論理で新党結成を繰り上げようというのは、武村の言うとおり“帝国主義”的である。

 ここにも小沢のつんのめるような戦術的過激派ぶりが出ている。ところが、過去を見ても、彼がこのように強腕が高じてただの拙速に陥った場合はたいてい失敗に終わっている。
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 このような状況で、連立から社会党とさきがけが去って羽田少数与党内閣が出来たが、予想通り2カ月で立ち往生する。それを打開するには社会党とさきがけを連立に復帰させて第2次羽田政権を作って改革の旗を掲げ続けるしかないということで、羽田自身と社会党の久保亘書記長はじめ同党改革派との間で折衝が進んでいたにもかかわらず、小沢は社会党の連立復帰を嫌い、またもや自民党から海部俊樹元首相を引っ張り出そうとする工作に没入、その間に自民党が社会党長老・守旧派を抱き込んで自民党・社会党・さきがけのそれこそ大連立による村山政権を作ってしまう。その羽田政権末期の様子を本誌No.316(94年5月1日号)「小沢が羽田政権を潰す?」は次のように書いている。

--《参考2》--------------------------------------------------------

■小沢の認識の狂い

 なぜ、何もかもだいなしにするようなこんな馬鹿馬鹿しいことが起きるのか。答えは明らかで、連立政権のプロモーターを自認してきたイチイチ・コンビの戦略判断と局面認識が狂っているからである。

 およそ変革を導こうとする政治的指導者は、世界の動きや時代の流れを大きく見渡しながら、今がどういう戦略状況で、そこでの主要矛盾ないし対抗軸が何であるのか、そして1つの戦略状況の中でもこの瞬間がどういう局面ないし段階にあるのかを明確に捉える必要がある。

 本誌が昨年初め以来、執拗に書いてきたことを、またここで繰り返すのは気が引けるが、大事なことなので敢えてもう1度整理しておこう。

 第1に、金丸5億円事件と佐川スキャンダルの深刻さにもかかわらず自民党がもはや自浄能力を持たないことがさらけ出され、92年末には中核にあった竹下派がついに分裂して羽田・小沢グループが誕生した時点から、その羽田・小沢グループが離党したことをきっかけに自民党の融解が起こって細川連立政権が成立し、その手で政治改革が成し遂げられて、新しい選挙制度で第1回の総選挙が実施されて連立側が自民党の足腰が立たなくなるほどの勝利を収める時点までが、ひと連なりの戦略状況である。

 第2に、その戦略状況にあっては、主要な矛盾すなわち対抗軸は、腐敗して自らを改革できない自民党と、改革の実現で一致した非自民勢力との間に存在する。従って、攻める連立側から見れば、いかなる困難も乗り越えて自民vs非自民という戦略的枠組みを維持しながら、自民党体制をその社会的・経済的基盤のところまで掘り崩して、2度とあの恐竜のような長期単独政権が蘇ることのないようにすることが課題である。他方、守る自民党側は、再び単独政権が復活するかのような幻想を早く捨てて、同党に残っている最も良質な部分に依拠して健全なる保守党として再生を図り、連立政治という新しい時代の条件の下で政権を奪回することを目指さなければならない。

■4つの局面

 第3に、そのひと連なりの戦略状況の中にも段階性があって、

▼第一の局面は、自民vs非自民という矛盾の2つの側面のうち自民のほうが優勢で、自浄能力がないことをさらけ出しながらもまだ分裂を起こさずに政権に留まっていた段階、
▼第2の局面は、それが逆転して、非自民が優勢に転じて政権を握り、政治改革の実現を目指す段階、
▼第3の局面は、政治改革法案はともかくも成立したが、区割りを含めたその細部を仕上げながら、引き続き国会改革や参院改革など広い意味での政治改革を次々に提起し、並行してその先の税制、地方制度、規制緩和、安保・防衛など国家改造のプログラムについて広く論議を呼び起こしていく段階、
▼第4の局面は、いよいよ新制度での第1回総選挙を迎えて、連立側が可能な限りの選挙協力を通じて自民党に必勝する態勢を整え、実際に必勝して“55年体制”の葬式を出した上で、自民vs非自民の対抗軸を廃棄して、新保守vsリベラルvs旧保守となるのかどうか、政策路線の選択という新しい対抗軸による政界再編という別の戦略状況に入っていく段階、

 ——である。イチイチの誤りは、ようやく第3の局面に入ったところで、早くも政治改革という1つの戦略状況が終わって次の課題は税制や安保に移ったと錯覚して、その遂行のためには自民vs非自民の枠組みを崩しても構わないという判断を立てたことである。


 それが国民福祉税でのさきがけ・社会党それに民社党無視、それが失敗に終わった逆恨みとしてのさきがけ外し、守旧派の権化のような渡辺美智雄との幻の提携、そして今回の社会党外しという錯誤の連続を招いた。

 そのために、今の時点では、肝心の区割り法案が今国会で成立するかどうかの目途もまったく立たなくなったばかりか、中選挙区制のままもう1度総選挙をやらなければならないかもしれないという筋違いのリスクを背負い込み、結果として、第2の局面の政治改革法案の成立という成果さえ守れないかもしれないという出鱈目な混迷状態に日本政治を突き落としてしまったのである。

 手順前後は将棋のプロの世界なら即敗北であり、ということはイチイチは実はアマ並みだったということになる。

●対抗軸の二重化

 上述の第3の局面以降がそれ以前と違うのは、自民vs非自民という戦略的枠組みは引き続き有効であり維持されなければならないにもかかわらず、その背後から次の戦略状況の対抗軸である新保守vsリベラルそれに旧保守という2極ないし3極構図が次第に浮き出てくるのを避けられないことである。

 そこで連立側として肝心なことはその2つの対抗軸の主従関係を間違えないことである。自民vs非自民の軸は依然としてまだ主であり、政策路線をめぐる2極ないし3極構図はまだ従であって、そこでは前者を黒の実線でくっきりと描いている状態を保ちながら後者が灰色の点線で少しずつ浮き出てくる状態に抑制するといった、高度の運営が強いられていたはずである。ところがイチイチは短気にも、すでに政治改革は終わり、従って自民vs非自民の軸よりも政策路線の軸が優先される戦略状況に転換したと錯覚した。そこからありとあらゆる間違いが起きたのである。

 さらに、次の戦略状況における対抗軸を、新生・公明両党主軸の新保守と自民党の残党である旧保守とによる“保守2大政党制”と決め込んでいるのも、イチイチの性急さである。小選挙区制だからといって必ず2大政党で1つの議席を争わなければならないというものではなく、現に中央・地方選挙とも単純小選挙区制のイギリスでさえも第3党である自民党の増勢が目立っている。まして中選挙区制から比例代表制も加味した小選挙区制へと移行していく日本の場合、小選挙区の1議席を3〜5人で争ったり、少数党が比例代表制に的を絞って数議席確保をめざしたりして、少なくともある期間、かなり多党化する可能性もある。

 さらにそれがやがて2大政党的な形に収斂されていくことがあったとしても、その座標は新保守vs旧保守ではなく、新保守vsリベラルとなろう。その時に自民党がまだかなりの勢力を残していて、伝統を重んじる真正保守として何らかの意味ある政策路線を打ち出すことが出来れば3極になり、またリベラルがさきがけを中心とする米民主党型の穏健リベラルと、社会党改革派を中心とするドイツ社民党型のリベラル的社民とに分かれながら提携するということになれば4極になる。

 このあたりは、誰かがあらかじめ勝手に決めることの出来る筋合いのものでなく、時の流れの中で、基本的には国民の選択の結果として自ずと姿が定まってくるもので、イチイチの見通しのようになる保証はなにもない。

 こうしてイチイチは、局面の認識を間違えている上に、さらにその先の政界再編構図でもやや見当違いの思い込みが激しく、そのために簡単にさきがけや社会党など、今の局面ではあくまで味方として尊重して結束を図らなければならない相手を、まるで敵のように扱って外へ追いやる結果になるのである。
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 以上、長々引用したのは、他でもない、今回の事態についてメディアが「また小沢の悪い癖が出た」という具合に揶揄的に評しているけれども、これは癖というような生やさしいものでなく、戦略と戦術についての彼の思考パターンに根ざす事柄であることを理解してもらうためである。

 《参考2》が述べているように、「新しい選挙制度で第1回の総選挙が実施されて連立側が自民党の足腰が立たなくなるほどの勝利を収める時点までが、ひと連なりの戦略状況」であり、そこでは「主要な矛盾すなわち対抗軸は、腐敗して自らを改革できない自民党と、改革の実現で一致した非自民勢力との間に存在する」ことにあった。当時もその後も、その戦略状況を打ち抜くには非自民諸党による選挙協力が不可欠であったが、それはいかにも難しく、冒頭にも述べたように、その野党バラバラ状態を利用して自民党が政権に留まり続けてきた。自由党の民主党への合流でようやく非自民勢力が1つの政治的表現を持つことが可能となり、これで初めて、94年に始まって13年間も鬱屈したままだった戦略状況を打開することが可能になった。それを担う以外に小沢の歴史の中での役割はないはずなのである。

 民主党の幹部はもちろん末端党員も、どれほど明確にかは別として、94年以来の戦略次元が今も続いていて、そこで選挙を通じての正々堂々の政権交代を成し遂げることで初めて次の次元に移ることが出来ることを認識している。それを成し遂げるには小沢ほどふさわしい指導者はいない。なぜなら、その戦略次元を拓いた張本人は彼だからであり、同時に、《参考》に描いたような錯誤の連続によって村山政権とその後の連立の形を採った自民党政権の延命に道を開いたA級戦犯もまた彼だからである。

 本人は勘違いしているかもしれないが、小沢への求心力とは、彼への人間的信頼や思想的共鳴や政策的一致に支えられているのではない。単にこの戦略次元を打開するのにぴったりの役回りであることについての機能主義的な合意があるだけである。役員ばかりでなく議員のほとんども、大連立の迷妄をためらうことなく拒み、またそれでもなお小沢の留任を求めたのは、その合意の強さ、従ってまた民主党の意外なほどの健全さの現れであって、浅薄な解説が言うような「他に人がいない」「トップに閉じこめておかないと離党して新党に走る」などという事情によるのではない。とはいえ、留任した小沢が本当にその役回りを果たし切って歴史に名を留めるには、彼自身が94年以来の自分のありようを胸に手を当てて省みなければならない。「心の整理に時間が必要だ」と言った彼が、そこまで心が整理できたのかどうかが、これから問われることになる。▲
(i-NSDER No.419, 07-11-07)

Q&A:小沢のテロ特反対論への疑問に私が答えよう(1)

 小沢一郎民主党代表の、インド洋給油は違憲で地上部隊派遣は合憲という理屈が、どうもいまいちよく分からないという声がある。私は、細部はともかく、基本的には小沢と同じ意見なので、彼に成り代わってQ&Aスタイルで問題を整理してみよう。

Q1:小沢さんは、アフガン戦争は「米国の自衛権発動による戦争であって、国連にオーソライズされていない」という趣旨のことを言っていますが、01年9月12日に出された国連安保理決議1368[資料1]では「テロ活動によって引き起こされた国際の平和及び安全に対する脅威に対してあらゆる手段を用いて闘うことを決意し」と述べ、さらに「憲章に従って個別的又は集団的自衛の固有の権利を認識し」とも述べているので、テロの直接の被害者である米国が個別的自衛権を発動してアフガン戦争つまりOEF(不朽の自由作戦)を始めることを国連が予めオーソライズしていることになるのではないですか?

A1:問題の焦点は、安保理決議が「明示的に」米国の具体的な行動すなわちOEFを支持しているかどうかです。決議1368は、9・11の翌日に取り敢えず国連安保理として犠牲者への哀悼の意を表し、一般論として、国連がテロとの戦いを一層強化する決意を示したもので、まだ犯人像が皆目分かっておらず、従って米国が具体的にアフガニスタンのタリバン政権を相手に戦争を起こして攻め込むという作戦を決めているわけでもなく、またそれについて国連が支持するよう要請しているわけでもない段階です。大体において趣旨が合っているからいいじゃないかと思うかもしれませんが、そういうものではないのであって、この決議でも触れているように過去に国連は国際テロ防止条約やテロ防止の安保理決議をいくつも採択していて、それと趣旨が合うなら加盟国が何をやっても構わないということになってしまい、国連憲章の紛争の平和的解決の大原則はたちまち崩壊することになります。史上初の米国主導の多国籍軍と言えた1950年の「朝鮮国連軍」の場合は、安保理は北朝鮮の武力攻撃を撃退する軍事行動のイニシアティブを米国に委ねることにし、米軍が国連軍の統一司令部の司令官を任命し、その下に各国がその軍隊を提供するよう決議しました。1990年の湾岸戦争の場合は、米軍主導の多国籍軍の軍事行動を安保理決議でオーソライズはしたものの、指揮関係は複雑で、米中央軍司令部が英国はじめ他の西欧諸国の軍をも事実上指揮したが、フランスは必ずしもその指揮下に入らず、またアラブ・イスラム諸国はサウジアラビア主導の統合軍司令部が指揮し、作戦全体を統御する司令官は存在しないままでした。また95年のボスニア内戦への介入の場合は、NATO主導の多国籍軍(平和執行軍)に安保理が「あらゆる手段をとる権限」を付与し、さらにそれ以前に現地に存在したPKO(国連防護軍)の権限も平和執行軍に統合することを決定しましたが、このように指揮権限まで含めて明示的にオーソライズしました。99年の東ティモールの場合は、インドネシアやアジア諸国は国連指揮下のPKOを望み、英国やオーストラリアはオーストラリアが指揮権を持つ多国籍軍を提案し、結局安保理が後者を容認しました。このように、明白な国連軍を編成することが出来ない現状で、PKOという国連憲章には規定のない形で対処するか、加盟国のどこかが主導する多国籍軍を容認するか、またその場合の指揮権をどう定義するかなどは、まったくケース・バイ・ケースに任されていて、単に大国が自分の都合のいいように国連を利用したり裏を掻いたりしているだけのこともあります。03年イラク戦争の場合は、それまで安保理がサダム・フセインを非難する17もの決議を発していたにもかかわらず、米国はそれだけでは不足と判断して、当時のパウエル国務長官が国連の場で世界を説得して明示的な支持を取り付けようとさんざん努力しましたが報われず、結局は、以前の決議があるからそれでいいのだと弁解しながら戦争を始めることになりました。アフガン戦争の場合も、米英中心の多国籍軍を国連が明示的にオーソライズしたことはなく、従って、国際法および国連憲章から見れば、これは国連による「公的」な戦争でなく、米英の「私的」な戦争ということになるのです。

Q2:国連の大原則とは何ですか?

A2:国連の目的の第1は「国際の平和及び安全を維持すること」で、そのために「平和に対する脅威の防止及び除去と侵略行為その他の平和の破壊の鎮圧とのため有効な集団的措置をとること」、そして「平和を破壊するに至る虞のある国際的の紛争又は事態の調整又は解決を平和的手段によって…実現すること」に置いています(憲章第1条)。その目的を達成するための原則は「すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決しなければならない」こと、そして
「すべての加盟国は、その国際関係において、武力よる威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも、慎まなければならない」ことです(第2条)。簡単に言って、国際紛争を可能な限り平和的に解決しようというのが根本精神で、第6章「紛争の平和的解決」で第33条から第38条までそのための手続きを定め、さらに第7章「平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に対する行動」で、第39条から第51条まで、国連による制裁措置について定めています。そのうち第41条は経済制裁、運輸通信手段の中断、外交関係の断絶など「非軍事的措置」で、第42条では、それで不十分な場合に「国際の平和及び安全の維持又は回復に必要な空軍、海軍又は陸軍の行動をとることができる。この行動は、国際連合加盟国の空軍、海軍又は陸軍による示威、封鎖その他の行動を含むことができる」と、「軍事的措置」を規定しています。つまり、あくまでも平和的解決を徹底的に追求するけれども、それで間に合わなくなった場合には、武力による制裁的な軍事行動も辞さず、その場合には(憲章にはっきり書いてあるわけではないが解釈すれば)、理想的には「国連常備軍」、それが無理でも臨時の「国連軍」、あるいは国連が明白にその権限を「授権」した加盟国の軍隊による(典型的には)「多国籍軍」がそれを担うことになります。その上でさらに、51条では、そのような国連による軍事的措置が行われるまで時間がかかる時は、侵略を受けた当事国が「個別的または集団的自衛の固有の権利」を発動することを認めています。つまり、国連による公的な「制裁戦争」と個別国による私的な「自衛戦争」をはっきり区別した上で、前者の優位を規定しているのです。

Q3:だとしても、そもそも国連憲章が「個別的・集団的自衛権」の発動を認めていて、決議1368でもわざわざそれを再確認しているのだから、米国が個別的自衛権の名によってアフガン戦争を仕掛け、同盟国である英国が集団的自衛権を発動してそれに協力し参戦したのは正当で、何も非難される筋合いはないはずですね。

A3:まず、国連との関係は別として、テロという見えない敵による(どれほど被害が大きかったとしても)国際犯罪に対しては、まず警察的に対処するのが妥当であって、それを飛び越えていきなり国家間戦争という形で軍事的に対処しようとするのはいかがなものかという問題があります。米国は、9月20日には9・11の背後にはウサマ・ビンラーディンがいたと断定、アフガンのタリバン政権に対して「すべてのアル・カイーダ幹部の引き渡し」など5項目の最後通牒を突きつけます。それに対してタリバンは、ビンラーディンの事件への関わりについて証拠を示せば第三国に引き渡して裁判にかけるにやぶさかではないという態度を示しますが、米国はそれについて交渉するでもなく、「ふざけるな」と言って10月7日には英国と共にタリバン軍基地及びアル・カイーダ訓練所に対する大規模空爆を開始しました。結果、確かにタリバン政権は崩壊・逃走しましたが、アフガンは国家崩壊を起こして収拾のつかない混乱に陥り、ビンラーディンは行方知れず、アル・カイーダ幹部は全世界に拡散して各地でテロが激発、米本土に対する再テロの危険もむしろ増大しているわけで、このやり方が失敗だったことは明白です。それについては私の『アメリカ帝国の崩壊』に詳しく書いていますので参照して下さい。さて、国連との関係に戻ると、確かに国連憲章は「個別的・集団的自衛権」の発動を認めていますが、かと言って野放しで認めているのではなく、平和的解決の努力が破綻し、非軍事的強制措置も効力がなく、では国連としての軍事的措置をとるかということになったとしてもまだその合意は形成されていないという場合の、あくまで「例外的」なこととして、条件付きで、つまり国連が必要な措置をとるまでの間に期間を限定し、またその国がとった措置について安保理に報告する義務を課すという形で、認めているにすぎません。その意味合いを理解するには、国際法の領域における「戦争の違法化」の歴史を少し振り返る必要があります。19世紀から第1次世界大戦前までは、戦争や武力行使は国家の自由な権利とされ、まったく禁止されていませんでした。第1次大戦後に国際連盟が出来て、その規約である範囲で戦争や武力行使を禁止したが、規定があいまいだったので、1928年にパリに当時のほぼすべてに当たる63カ国の代表が集まって「不戦条約」を締結し、その第1条で「締約国は、国際紛争の解決のために戦争に訴えることを不法とし、かつその相互の関係において、国家的政策の手段としての戦争を放棄する」と、第2条で「締約国は、相互間に起こることがあるべき一切の紛争や紛議は、その性質や起因のいかんを問わず、平和的手段によるのでなければ、その処理または解決を求めない」と宣言しました。国際紛争解決のための戦争と国家的政策の手段としての戦争、ということは、すべての「侵略戦争」が禁止され、さらに第2条では戦争に至る以前の「武力の行使」も禁止されたわけですが、この議論の過程で、しかし、にもかかわらず他国から侵略や武力攻撃を受けた場合に自衛のための戦争ないし武力の行使を行うことは当然で、そこで「自衛権」という概念が浮上することになりました。侵略戦争はダメだが自衛戦争はOKということです。ところが、このせっかくのパリ不戦条約も役には立たず、11年後には第2次世界大戦が勃発、人類は一層悲惨な戦禍に喘ぐことになりますが、そうなってしまった国際法の面から見た要因は、大戦当時の英外相ジョージ・ロイドが喝破したように「戦争や武力行使をした国で、自衛権を援用しなかった者は、未だかつてなかった」——すなわち「自衛の名による侵略戦争」が横行する状態に歯止めがかからなかったからです。日本の満州事変はその典型で、日本は自衛のためやむを得なかったと主張したが、国際社会は侵略だと断定しました。米国の日本への原爆投下も自衛の名による過剰な侵略行為でしょう。そこで、第2次大戦の反省の上に立って出来た国連(国際連合)では、パリ不戦条約の趣旨を引き継ぎつつ、個別国の戦争と武力の行使を禁止し、国際の平和と安全のための軍事的制裁措置が必要な場合はすべて安保理事会の決定ないし許可に基づいて行うこととし、それが間に合わない場合に限って例外的に一定の制限の下で個別的・集団的自衛権の発動を認めることとなったのです。話が長くなりましたが、そういうわけなので、米英のアフガン戦争=OEFは、国連憲章が一般論として限定的に認めている個別的・集団的自衛権の発動には違いありませんが、だからと言って、このような戦争を仕掛けることを国連として決定も許可も授権もしていない以上、それは実質的には米英が勝手に始めたまさしく「自衛の名による侵略戦争」にほかなりません。(続く)

ー[資料1]安保理決議1368 2001年9月12日 (外務省訳)ーーーーーーーー

安全保障理事会は、

 国際連合憲章の原則及び目的を再確認し、

 テロ活動によって引き起こされた国際の平和及び安全に対する脅威に対してあらゆる手段を用いて闘うことを決意し、

 憲章に従って、個別的又は集団的自衛の固有の権利を認識し、

(1)2001年9月11日にニューヨーク、ワシントンD.C.、及びペンシルバニアで発生した恐怖のテロ攻撃を最も強い表現で明確に非難し、そのような行為が、国際テロリズムのあらゆる行為と同様に、国際の平和及び安全に対する脅威であると認める。

(2)犠牲者及びその家族並びにアメリカ合衆国の国民及び政府に対して、深甚なる同情及び哀悼の意を表明する。

(3)すべての国に対して、これらテロ攻撃の実行者、組織者及び支援者を法に照らして裁くために緊急に共同して取り組むことを求めるとともに、これらの行為の実行者、組織者及び支援者を援助し、支持し又はかくまう者は、その責任が問われることを強調する。

(4)また、更なる協力並びに関連する国際テロ対策条約及び特に1999年10月19日に採択された安全保障理事会決議第1269号をはじめとする同理事会諸決議の完全な実施によって、テロ行為を防止し抑止するため一層の努力をするよう国際社会に求める。

(5)2001年9月11日のテロ攻撃に対応するため、またあらゆる形態のテロリズムと闘うため、国連憲章のもとでの同理事会の責任に従い、あらゆる必要な手順をとる用意があることを表明する。

この問題に引き続き関与することを決定する。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

A1:問題の焦点は、安保理決議が「明示的に」米国の具体的な行動すなわちOEFを支持しているかどうかです。決議1368は、9・11の翌日に取り敢えず国連安保理として犠牲者への哀悼の意を表し、一般論として、国連がテロとの戦いを一層強化する決意を示したもので、まだ犯人像が皆目分かっておらず、従って米国が具体的にアフガニスタンのタリバン政権を相手に戦争を起こして攻め込むという作戦を決めているわけでもなく、またそれについて国連が支持するよう要請しているわけでもない段階です。大体において趣旨が合っているからいいじゃないかと思うかもしれませんが、そういうものではないのであって、この決議でも触れているように過去に国連は国際テロ防止条約やテロ防止の安保理決議をいくつも採択していて、それと趣旨が合うなら加盟国が何をやっても構わないということになってしまい、国連憲章の紛争の平和的解決の大原則はたちまち崩壊することになります。史上初の米国主導の多国籍軍と言えた1950年の「朝鮮国連軍」の場合は、安保理は北朝鮮の武力攻撃を撃退する軍事行動のイニシアティブを米国に委ねることにし、米軍が国連軍の統一司令部の司令官を任命し、その下に各国がその軍隊を提供するよう決議しました。1990年の湾岸戦争の場合は、米軍主導の多国籍軍の軍事行動を安保理決議でオーソライズはしたものの、指揮関係は複雑で、米中央軍司令部が英国はじめ他の西欧諸国の軍をも事実上指揮したが、フランスは必ずしもその指揮下に入らず、またアラブ・イスラム諸国はサウジアラビア主導の統合軍司令部が指揮し、作戦全体を統御する司令官は存在しないままでした。また95年のボスニア内戦への介入の場合は、NATO主導の多国籍軍(平和執行軍)に安保理が「あらゆる手段をとる権限」を付与し、さらにそれ以前に現地に存在したPKO(国連防護軍)の権限も平和執行軍に統合することを決定しましたが、このように指揮権限まで含めて明示的にオーソライズしました。99年の東ティモールの場合は、インドネシアやアジア諸国は国連指揮下のPKOを望み、英国やオーストラリアはオーストラリアが指揮権を持つ多国籍軍を提案し、結局安保理が後者を容認しました。このように、明白な国連軍を編成することが出来ない現状で、PKOという国連憲章には規定のない形で対処するか、加盟国のどこかが主導する多国籍軍を容認するか、またその場合の指揮権をどう定義するかなどは、まったくケース・バイ・ケースに任されていて、単に大国が自分の都合のいいように国連を利用したり裏を掻いたりしているだけのこともあります。03年イラク戦争の場合は、それまで安保理がサダム・フセインを非難する17もの決議を発していたにもかかわらず、米国はそれだけでは不足と判断して、当時のパウエル国務長官が国連の場で世界を説得して明示的な支持を取り付けようとさんざん努力しましたが報われず、結局は、以前の決議があるからそれでいいのだと弁解しながら戦争を始めることになりました。アフガン戦争の場合も、米英中心の多国籍軍を国連が明示的にオーソライズしたことはなく、従って、国際法および国連憲章から見れば、これは国連による「公的」な戦争でなく、米英の「私的」な戦争ということになるのです。

Q2:国連の大原則とは何ですか?

A2:国連の目的の第1は「国際の平和及び安全を維持すること」で、そのために「平和に対する脅威の防止及び除去と侵略行為その他の平和の破壊の鎮圧とのため有効な集団的措置をとること」、そして「平和を破壊するに至る虞のある国際的の紛争又は事態の調整又は解決を平和的手段によって…実現すること」に置いています(憲章第1条)。その目的を達成するための原則は「すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決しなければならない」こと、そして
「すべての加盟国は、その国際関係において、武力よる威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも、慎まなければならない」ことです(第2条)。簡単に言って、国際紛争を可能な限り平和的に解決しようというのが根本精神で、第6章「紛争の平和的解決」で第33条から第38条までそのための手続きを定め、さらに第7章「平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に対する行動」で、第39条から第51条まで、国連による制裁措置について定めています。そのうち第41条は経済制裁、運輸通信手段の中断、外交関係の断絶など「非軍事的措置」で、第42条では、それで不十分な場合に「国際の平和及び安全の維持又は回復に必要な空軍、海軍又は陸軍の行動をとることができる。この行動は、国際連合加盟国の空軍、海軍又は陸軍による示威、封鎖その他の行動を含むことができる」と、「軍事的措置」を規定しています。つまり、あくまでも平和的解決を徹底的に追求するけれども、それで間に合わなくなった場合には、武力による制裁的な軍事行動も辞さず、その場合には(憲章にはっきり書いてあるわけではないが解釈すれば)、理想的には「国連常備軍」、それが無理でも臨時の「国連軍」、あるいは国連が明白にその権限を「授権」した加盟国の軍隊による(典型的には)「多国籍軍」がそれを担うことになります。その上でさらに、51条では、そのような国連による軍事的措置が行われるまで時間がかかる時は、侵略を受けた当事国が「個別的または集団的自衛の固有の権利」を発動することを認めています。つまり、国連による公的な「制裁戦争」と個別国による私的な「自衛戦争」をはっきり区別した上で、前者の優位を規定しているのです。

Q3:だとしても、そもそも国連憲章が「個別的・集団的自衛権」の発動を認めていて、決議1368でもわざわざそれを再確認しているのだから、米国が個別的自衛権の名によってアフガン戦争を仕掛け、同盟国である英国が集団的自衛権を発動してそれに協力し参戦したのは正当で、何も非難される筋合いはないはずですね。

A3:まず、国連との関係は別として、テロという見えない敵による(どれほど被害が大きかったとしても)国際犯罪に対しては、まず警察的に対処するのが妥当であって、それを飛び越えていきなり国家間戦争という形で軍事的に対処しようとするのはいかがなものかという問題があります。米国は、9月20日には9・11の背後にはウサマ・ビンラーディンがいたと断定、アフガンのタリバン政権に対して「すべてのアル・カイーダ幹部の引き渡し」など5項目の最後通牒を突きつけます。それに対してタリバンは、ビンラーディンの事件への関わりについて証拠を示せば第三国に引き渡して裁判にかけるにやぶさかではないという態度を示しますが、米国はそれについて交渉するでもなく、「ふざけるな」と言って10月7日には英国と共にタリバン軍基地及びアル・カイーダ訓練所に対する大規模空爆を開始しました。結果、確かにタリバン政権は崩壊・逃走しましたが、アフガンは国家崩壊を起こして収拾のつかない混乱に陥り、ビンラーディンは行方知れず、アル・カイーダ幹部は全世界に拡散して各地でテロが激発、米本土に対する再テロの危険もむしろ増大しているわけで、このやり方が失敗だったことは明白です。それについては私の『アメリカ帝国の崩壊』に詳しく書いていますので参照して下さい。さて、国連との関係に戻ると、確かに国連憲章は「個別的・集団的自衛権」の発動を認めていますが、かと言って野放しで認めているのではなく、平和的解決の努力が破綻し、非軍事的強制措置も効力がなく、では国連としての軍事的措置をとるかということになったとしてもまだその合意は形成されていないという場合の、あくまで「例外的」なこととして、条件付きで、つまり国連が必要な措置をとるまでの間に期間を限定し、またその国がとった措置について安保理に報告する義務を課すという形で、認めているにすぎません。その意味合いを理解するには、国際法の領域における「戦争の違法化」の歴史を少し振り返る必要があります。19世紀から第1次世界大戦前までは、戦争や武力行使は国家の自由な権利とされ、まったく禁止されていませんでした。第1次大戦後に国際連盟が出来て、その規約である範囲で戦争や武力行使を禁止したが、規定があいまいだったので、1928年にパリに当時のほぼすべてに当たる63カ国の代表が集まって「不戦条約」を締結し、その第1条で「締約国は、国際紛争の解決のために戦争に訴えることを不法とし、かつその相互の関係において、国家的政策の手段としての戦争を放棄する」と、第2条で「締約国は、相互間に起こることがあるべき一切の紛争や紛議は、その性質や起因のいかんを問わず、平和的手段によるのでなければ、その処理または解決を求めない」と宣言しました。国際紛争解決のための戦争と国家的政策の手段としての戦争、ということは、すべての「侵略戦争」が禁止され、さらに第2条では戦争に至る以前の「武力の行使」も禁止されたわけですが、この議論の過程で、しかし、にもかかわらず他国から侵略や武力攻撃を受けた場合に自衛のための戦争ないし武力の行使を行うことは当然で、そこで「自衛権」という概念が浮上することになりました。侵略戦争はダメだが自衛戦争はOKということです。ところが、このせっかくのパリ不戦条約も役には立たず、11年後には第2次世界大戦が勃発、人類は一層悲惨な戦禍に喘ぐことになりますが、そうなってしまった国際法の面から見た要因は、大戦当時の英外相ジョージ・ロイドが喝破したように「戦争や武力行使をした国で、自衛権を援用しなかった者は、未だかつてなかった」——すなわち「自衛の名による侵略戦争」が横行する状態に歯止めがかからなかったからです。日本の満州事変はその典型で、日本は自衛のためやむを得なかったと主張したが、国際社会は侵略だと断定しました。米国の日本への原爆投下も自衛の名による過剰な侵略行為でしょう。そこで、第2次大戦の反省の上に立って出来た国連(国際連合)では、パリ不戦条約の趣旨を引き継ぎつつ、個別国の戦争と武力の行使を禁止し、国際の平和と安全のための軍事的制裁措置が必要な場合はすべて安保理事会の決定ないし許可に基づいて行うこととし、それが間に合わない場合に限って例外的に一定の制限の下で個別的・集団的自衛権の発動を認めることとなったのです。話が長くなりましたが、そういうわけなので、米英のアフガン戦争=OEFは、国連憲章が一般論として限定的に認めている個別的・集団的自衛権の発動には違いありませんが、だからと言って、このような戦争を仕掛けることを国連として決定も許可も授権もしていない以上、それは実質的には米英が勝手に始めたまさしく「自衛の名による侵略戦争」にほかなりません。(続く)

ー[資料1]安保理決議1368 2001年9月12日 (外務省訳)ーーーーーーーー

安全保障理事会は、

 国際連合憲章の原則及び目的を再確認し、

 テロ活動によって引き起こされた国際の平和及び安全に対する脅威に対してあらゆる手段を用いて闘うことを決意し、

 憲章に従って、個別的又は集団的自衛の固有の権利を認識し、

(1)2001年9月11日にニューヨーク、ワシントンD.C.、及びペンシルバニアで発生した恐怖のテロ攻撃を最も強い表現で明確に非難し、そのような行為が、国際テロリズムのあらゆる行為と同様に、国際の平和及び安全に対する脅威であると認める。

(2)犠牲者及びその家族並びにアメリカ合衆国の国民及び政府に対して、深甚なる同情及び哀悼の意を表明する。

(3)すべての国に対して、これらテロ攻撃の実行者、組織者及び支援者を法に照らして裁くために緊急に共同して取り組むことを求めるとともに、これらの行為の実行者、組織者及び支援者を援助し、支持し又はかくまう者は、その責任が問われることを強調する。

(4)また、更なる協力並びに関連する国際テロ対策条約及び特に1999年10月19日に採択された安全保障理事会決議第1269号をはじめとする同理事会諸決議の完全な実施によって、テロ行為を防止し抑止するため一層の努力をするよう国際社会に求める。

(5)2001年9月11日のテロ攻撃に対応するため、またあらゆる形態のテロリズムと闘うため、国連憲章のもとでの同理事会の責任に従い、あらゆる必要な手順をとる用意があることを表明する。

この問題に引き続き関与することを決定する。
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(i-NSIDER No.418, 07-10-31)

Profile

高野 孟(たかの・はじめ)

-----<経歴>-----

1944年東京生まれ。
1968年早稲田大学文学部西洋哲学科卒。
通信社、広告会社勤務の後、1975年からフリー・ジャーナリストに。
同時に内外政経ニュースレター『インサイダー』の創刊に参加。
80年に(株)インサイダーを設立し、代表取締役兼編集長に就任し現在に至る。
94年に故・島桂次=元NHK会長と共に(株)ウェブキャスターを設立、日本初のインターネットによる日英両文のオンライン週刊誌『東京万華鏡』を創刊したほか、PC-VAN・NIFTY-Serve・MSN、富士通ブロードキャストその他電子メディアのコンテンツ創造、講談社・小学館・集英社その他出版社のウェブサイト開設、『インサイダー』のメルマガ化、などを次々に手掛け、インターネット・ジャーナリズムの先駆的開拓者と呼ばれた。
現在、それらの経験を活かして、独立系メディアの総合サイト《THE JOURNAL》に取り組んでいる。
2002年に早稲田大学客員教授に就任、「大隈塾」の授業「21世紀日本の構想」、ゼミ「インテリジェンスの技法」、社会人ゼミ「ネクスト・リーダーズ・プログラム」を担当している。

-----<出演>-----

『サンデープロジェクト』
(TV朝日系、日曜10:00~)

『朝まで生テレビ!』
(TV朝日系、最終金曜25時頃~)

『たけしのTVタックル』
(TV朝日系、月曜日21:00~)

『情報ライブ ミヤネ屋』
(読売TV系、月~金曜21時~)

BookMarks

東京万華鏡:TOKYO KALEIDO SCOOP
http://www.smn.co.jp/

INSIDER:インサイダー
http://www.smn.co.jp/insider/

大阪高野塾
http://www.osaka-takano.com/

-----<著書>-----


『滅びゆくアメリカ帝国』
2006年9月、にんげん出版


『ニュースがすぐにわかる世界地図(2006年版)』
2005年、ポスト・サピオムック


『最新・世界地図の読み方』
1999年、講談社現代新書

『情報世界地図 98』
1997年、国際地学協会

『地球市民革命』
1993年、学研

『21世紀への世界時計』
1991年、集英社

『入門世界地図の読み方』
1982年、日本実業出版社

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