昭和天皇が「A級戦犯合祀」に怒っていたというのは本当だった!
20日付の『日本経済新聞』が一面トップで報じ、他紙が同日夕刊で一斉に追随した「A級戦犯の靖国合祀に昭和天皇は不快感を抱いていて、それを理由に以後は靖国参拝を中止した」という報道は、私にとってなかなか感慨深い。このことを私は宮内庁筋への取材を通じてとっくの昔に知っていて、何年も前の「朝まで生TV」や「サンデー・プロジェクト」でその趣旨のことを発言したのだが、岡崎久彦らから「そんな事実はない」と反論を受け、また右翼や一部遺族会の皆さんから抗議のメールが殺到したり、2チャンネルなどでの書き込みで攻撃された。この人たちは今回の報道をどう受け止めたのだろうか。
日経によると、昭和天皇は1988年4月、当時の宮内庁長官、故・富田朝彦氏に対して、靖国神社によるA級戦犯合祀に強い不快感を示し、「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と語った。富田氏が昭和天皇との会話を日記や手帳に克明に書き留めており、その中からこの発言が見つかった。該当個所は次の通り。
「私は、或る時に、A級が合祀され、その上、松岡、白鳥までもが。筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」「松平の子の今の宮司がどう考えたのか、易々と。松平は平和に強い考えがあったと思うのに、親の心子知らずと思っている。だから、私はあれ以来参拝をしていない。それが私の心だ」
翻訳すればこうだ。私は、78年にA級戦犯が靖国神社に合祀され、その上、日独伊同盟の推進者である松岡洋右元外相や白鳥敏夫元駐伊大使までもが合祀されたことをおかしいと思っている。前の宮司である筑波藤麿は、66年に厚生省からA級戦犯の祭神名票を受け取っても、それを合祀するのに慎重に対処してくれたと聞いた。ところが、次の松平永芳宮司は、終戦直後に最後の宮内大臣を務めた松平慶民の長男でありながら、易々と合祀に踏み切った。松平慶民は平和に強い考えがあったと思うのに、親の心子知らずと思っている。だから、私はあれ以来参拝をしていない。それが私の本心だ。
昭和天皇は戦後、3〜4年に1回の割で計8回、靖国に参拝しており、最後は75年11月。78年に松永が宮司になりすぐに合祀を強行したので、それ以来行っていない。現天皇も89年に即位して以来、一度も行っていない。天皇が行きたくない靖国神社なんて自己矛盾の極み。遊就館で上映している戦史ドキュメンタリー「私たちは忘れない」は「内閣総理大臣ならびに全閣僚、三権の長、そして天皇陛下がご参拝になられて、英霊の御霊は鎮まり、全国のご遺族のお気持ちは休まるのです」と言うけれども、天皇が参拝できないようにしたのは靖国側なのである。▲