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« 北海道警裏金問題の報道をめぐる裁判とジャーナリズムのあり方〈3〉
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タコつぼ化したジャーナリズム ── 特定記者クラブへの過剰配置が取材態勢の硬直化を招く »

記者クラブ問題が進展しない理由

 私が「記者クラブは開放せよ」と公言を始めたのは、ずいぶん前のことだ。自身のブログに書き、シンポジウムで発言し、フリージャーナリスト寺澤有さんの「記者クラブ訴訟」において彼を支援する陳述書を裁判所に出すなど、あれやこれやと声を上げてきた。「記者会見が勝負だ」と書いたのは2003年のことだが、そのころから考えは変わっていない。
 世の中、そう簡単に変わるわけではない。それは分かっている。しかし、「記者クラブの閉鎖性」=「既存大手メディアによる記者会見・記者室の独占」の問題は、さすがにもう、それを声高に言うのも疲れてきた。それが正直な気持ちである。

 記者会見や記者室はいまなお、既存大手メディアに占有され、フリーランス記者や雑誌記者などはそこへの自由なアクセスができない。これだけ開放を求める声が高くなっても、既存大手メディアは開放に向けて自ら動く気配が全くない。その頑迷さは、記念碑的ですらある。昨年末ごろからは「記者会見と記者室の完全開放を求める会(会見開放の会)」の立ち上げに走り回り(旗揚げは今年4月)、その世話人としての活動も続けているが、もう何というか、「やれやれ」の連続だ。そのあたりの事情については、月刊誌「創」の最新号に掲載された神保さん、上杉隆さんとの対談でも少し話した。

 上杉さんはその座談会で「記者クラブ主催の会見はクラブ側が邪魔して、一向に開放されない。当局主催で会見参加が自由化されるなら、その方が良い」という趣旨の発言をしている。何年も前から開放を求めているのに、既存メディア側はまったく動こうとしない、と。だから、「諦めた」というのである。
 「会見の主催権」とは、突き詰めれば、会見参加者を誰が決めるか、という決定権のことだ。当局主催の場合は、参加者の資格基準は当局が決める。記者クラブ主催の場合は、記者クラブがそれを決める。

 今の記者クラブには問題がありすぎるので、なかなか理解されないかもしれないが、会見が当局主催になれば、「当局の記者会見=説明責任を果たす場」が当局の都合のいいように運用される可能性が十二分にある。だいたいにおいて、(官民を問わず)権力者はいつの時代にも、自らに都合の悪いことは隠す。そして、自らに都合のいい情報は、自らが発表したい時に発表したい方法で喧伝するものだ。そんな場に、うるさい記者には居て欲しくないだろうと思う。

 先に最高検は各地の高検・地検に対して、定例会見などをオープン化するよう通達を出し、実際各地でその運用が始まっている。一見、良い流れのように映るけれども、一部を除いて、会見への参加希望者を実際に参加させるかどうかの判断は、検察側が行っているようだ。さすがに、司法官僚は頭が良い。オープン化の流れが避けられないのであれば、それを先取りし、かつ、その主導権は自らが握ろうとしているのだ(と私には映る)。だから、記者会見の主催権がどこにあるのかは、実に重大な問題なのである。

 ところで、この7月に東京から札幌へ転勤する直前、ある同業者から送別会の席で、「記者会見や記者室の開放運動を始めるなんて、高田さんは新聞業界全体を敵にしましたね」と言われた。似たような質問は、今年4月19日に日本プレスセンターでこの会の記者会見を開いた際にも大手新聞の記者から飛び出した記憶がある。いやいや、冗談ではない。ちょっと待ってくださいよ、である。
 
 記者クラブ問題の論点は多岐にわたるが、われわれ既存メディア側にとって、この問題は「当事者」なのだ。数週間前、朝日新聞の「メディア欄」は会見開放の問題を取り上げていた。取り上げること自体は悪いくはないが、私に言わせれば、当事者意識がまったく感じられなかった。新聞「社」だけでなく、新聞「記者」にとっても、この問題は論評の対象ではなく、当事者の問題なのだ。第3者を装って、「客観的」に報道していれば済むというものでもあるまい。

 会見開放がまったく進まないことに関しては、この業界内部では、種々の理由がもっともらしく語られている。例えば、現場記者からの声でしばしば耳にするのは、こんな意見だ。

「記者クラブ所属の記者はそこに張り付いて継続的に取材しているが、フリーや雑誌記者は継続取材もしないし無責任だ、そんな人たちを相手に開放することはできない......」

「事務連絡などの幹事業務は煩雑で大変だ。フリーの人たちは、本当にそれをこなしてくれるのか」

 私に言わせれば、こうした論点は、いずれも排除のための理屈でしかない。

 当たり前の話だが、日本にも世界の大半の国にも職業選択の自由がある。それは同時に「働き方の自由」でもある。継続的に記者クラブに張り付いているか否かが、会見・記者室の自由参加への条件になると本気で判断している既存メディアの記者がいるとしたら、その人は中学校の社会科を勉強し直した方がよい。だいたいにおいて、世の中では「排除の理屈」は、いくらでも探すことができるものだ。しかし、たった1回の入社試験によって、たまたま既存メディア企業の組織人になったに過ぎない我々が、排除の理屈を振りかざして、他のジャーナリストの取材活動を妨害することのどこに正当性がどこにあるというのだろうか? そういう悪弊を助長・放置しつつ、一方で「報道の自由」を語ることの正当性がどこにあるのだろうか?

 「会見開放の会」は先に報道各社に対して、この問題をどう考えているか、どう取り組むつもりかを尋ねた。その回答は、すでに公表しているが、全体としての感想を言えば、「総論賛成・各論反対」である。あるいは「問題は認識しているが、実現はなかなか難しくて......」という「先送り型」だ。問題点がさんざん指摘されているのに、自らの手で改革に向かおうとしない組織の有り様は、日頃報道各社が叩きに叩く官僚機構とまさに瓜二つである。

 これも何度も言っていることだが、記者会見にしても記者室にしても、それへの参加は原則広く開かれるべきだとの見解は、業界団体の日本新聞協会自身が2002年に「見解」として示している。この見解(2006年に一部改訂)を取りまとめたのは、新聞協会の編集委員会であり、委員会は主要新聞社の編集幹部によって構成されている。

 会見開放の会に集った皆さんの考えの中核は、報道各社は自分たちで決めたルールをその通りに実行して下さい、という点にある。要は「協会のルールが現場できちんと運用できていないから、正しい方向に動かしましょうよ」ということなのだ。これ以上の大メディア不信を食い止めるためにも、「言ったことはやりましょう」である。
 だから、会見開放の会の微々たる活動もそれを後押ししよう、「見解」を少しでも早く実現させましょうという点に力点があるのであって、「新聞業界全体を敵に回す」といった類の話ではない。スタッフはみな、余暇を使い、交通費やらコピー代やらも個人で負担しているし、協会からは活動費用のカンパをもらってもいいくらいだと感じている(笑)。

 協会の「見解」はまだまだ不十分だし、問題点を多々含んでいると思うが、見解の内容が十分か不十分かの論議の前に、それが実行されないのであれば、「見解」をどう書き換えたとしても何の意味もない。

 ものごとを動かすには、多少の時間はかかる。一朝一夕には進まない。道も曲がりくねっているだろし、種々雑多な手間ひまもかかる。しかし、協会自らが発した「見解」から、もう8年になる。いくら何でも遅すぎだ。開放に伴っては多少の混乱や面倒も起きようが、それを理由に改革を遅らせるのであれば、本末転倒というほかはない。

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http://www.the-journal.jp/contents/info/2009/07/post_31.html

ご理解・ご協力のほどよろしくお願いいたします。

高田氏の投稿内容を、読みながら全くやるせない気持ちになりました。今、政治が遅れているとか、官僚機構が独断的であるとか、検察が問題だとか、マスコミは盛んに、国民をあおっています。しかし、高田氏のお話が事実であるとすると、一番体制が閉鎖的で、社会のスピードに乗り遅れているのは、ほかならぬマスコミだと、断定せざるを得ません。
この閉鎖性を打破するためには、時の政治家とマスコミの癒着の資金源である官房機密費の透明化を
声高く求めていかなければなりません。時の政治家の希望する方向のちょうちんもちを大マスコミにさせないことです。官房機密費の実態が明らかになれば、マスコミ開放、自由化の第一歩になるかもしれません。そんなことはわかっていることでしょうが。あえて投稿しました。


高田様

記者クラブを何故開放しないかを考えた方が、解決の道が見えてくると思います。

開放を拒むのは、官僚と財界とメディアトップが相互の既得権益を保持するのに都合が良いからです。

官僚・財界は、自分達の都合の良いことだけを、メディアから国民に流したいのです。

メディアは、官僚・財界の言うことを報道していると、官僚がメディアを庇ってくれます。

そのためには、閉鎖的な記者クラブが必要なのです。

これは崩すには、真実報道を志すジャーナリストと国民が一緒になって打ち破っていくしか手がないと思います。


ジャーナリストの皆様は、極端な虚報や偏向報道をするメディアや、官房機密費をもらっているメディアを国民に明らかにして下さい。

国民はそれらの新聞やテレビを排除していきます。

すでに、私達国民はその行動を起し始めました。

以下のブログ読んでください。

http://civilopinions.main.jp/2010/07/74.html

まずは、高田さんの孤軍奮闘に敬意を表します。
読ませていただき、すでに新聞協会が2002年に見解として記者会見にしても記者室にしても原則広く開かれるべきだと示している。とのこと驚きました。
率先垂範して社会を正すべきマスコミが、自らの言行不一致を恥じない姿勢に怒りを感じます。
本来世論は多様であるべきです。しかし、現在は大新聞の寡占化と談合体質、さらには自らの既得権益の維持のためには恫喝も辞さない姿勢がかいま見えます。
早急にクロスオーナー禁止措置や、電波のオークション制などを導入して新規参入しやすくすべきだと思います。
これらに取り組もうとしない政治家に苛立ちと失望を感じています。
民主党は、記者クラブ廃止や、取り調べの可視化など公約していましたが、実現が期待できない状態です。誠に残念です。

本当に現状は、村上春樹が用いる「やれやれ」の世界ですね。「Public」のない日本社会では、これからも既成メディアの情報アクセス権占有、情報操作が続くでしょう。もう諦め、規制メディアの購読・視聴をやめ、サイト接続も控えています。とは言え、業界内部から異を唱え続ける高田さんには敬意を表します。

「 ジャーナリスト 」 という言葉からは, 「 本田靖春 」 氏の事しか思い浮かばない。 このブログでも, 再三に渡って, 「 本田靖春 」 氏に触れてきたが, この七月に河出書房新社から, 「文芸別冊」 シリーズで, 「 本田靖春 」 が発行された。 ざっと目を通して, 「 本田靖春 」 氏の, 爪の垢でも, 煎じて飲ませたい 「 似非ジャーナリスト 」 が多すぎる, という, いつも抱く陳腐な感想に取りつかれた。 吉見俊哉氏との対談における佐野眞一氏の発言内容から, 高野孟氏まで, 「 本田靖春 」 氏の薫陶を受ける機会を持った, という事実を知って, ほんとかな, と思ったのは, 偽らざる感情である。 それはともかく, 「 本田靖春 」 氏の 『 村が消えた 』 を読むと, 戦後文学のフィクションで, このノンフィクションに匹敵する作品は何だろう, という考察に導かれてしまう。 勿論, フィクションとノンフィクションは, 言語表現の次元が違う訳だが。

記者クラブ問題は一段平易にしましょう
今のジャーナリズムの問題の全てにわたって又国家の種々の問題の半数以上が
記者クラブ完全解体によって解決が見込めるのでは
抵抗が強いは本質を突いているからです
再販指定解除、クロスオーナーシップ、電波オークション、押し紙これらの問題も記者クラブ完全解体で解決
記者クラブはマスコミの談合組織なのです
大手13社の強固な談合が捏造編集という武器の威力を倍加させているのです

官情報の独占仕入権 → 談合捏造編集による権力の獲得 → 獲得権力での利権による高収益経営モデル確立 → 厚待遇故の記者の保身
以上から記者クラブ完全解体(本筋)か新聞不購読(ボディブロー)をする事による13社会に打撃を与える以外方法はないか?
種々の利権に基づいたビジネスモデル故、記者クラブ解体は明治以来のマスコミの利権ビジネスの終焉を意味する故、抵抗も激しい


排除の論理は人が何名か集まれば必ず起こる極めて人間的な理屈だと思います。
古き時代の小学幼年代の虐めは懐かしく、今の時代は少年期の被排除の精神のトラウマはモンスターを誕生させます。選別試験に受かり高級待遇を勝ち取るのは他人の世界でいささかも気にすることではないと思いますが。しかし他人を排除することで利益を独占誘導できるとすれば世間から、損を被る多くの庶民から非難反発が出ることは当然でしょう。

競争の無い取材は報道記事が画一化され、競合の無い入札は高止まりし、凌ぎの無い会社は沈滞する例えで排除の論理は少人数の少数組織の利益確保に行き着く、長い年月で構築された組織温存の守旧の価値観だと思います。
個々人から判断するとフリーか、組織か、いずれに属するかで価値基準が決まってくるのでしょうか。
国民は本物の真実を語る情報が開示されることを望んでいるが、横並び画一化された仕組みの中からどの程度の割合で国民側に利する情報になっているのか確認は難しい。

メディアの世界でもフリージャーナリストが国民から高く評価され、オリジナルの取材記事に見合う高所得が確保され、競争の勝者の論理が通用すれば、記者クラブの存在を縮小へ少しは影響を及ぼすかもしれない。情報と改革への知識が確認しやすいであろう新聞社の組織で、総論賛成で各論反対の、先送りがお家芸の政治家並みの話では、やはり新聞社も退化していく印象があります。
高田氏に続くジャーナリストが多人数なるように、応援しています。

高田昌幸のご意見等ごもっともです。しかしながらここで一言。大手ディアと言えども国家による許認可の許可がなければ公に情報を伝えることは出来ません。許認可権は官僚の手に有ります。記者クラブも然り、総てはこの国の法に基づく許認可権が大きな壁に成っています。その法を作っているのが国会ですがいかんせん強権のあるそうさけんを持っているのは裁判所、検察庁、警察庁、国税庁の官僚サイドの権力です。国会議員も逮捕し取調べ等が出来るのです。(民主党への期待は官僚にとっては危険そのものです。特に小沢前幹事長については非常に危険な存在です。排除に掛かるのは常套手段です。)官僚が手をこまねいて見ている訳がありません。マスメデイアもそのような危険な報道をする訳がありません。ましてや社会民主主義の根幹になっている天皇陛下を頂点とする皇室等神道に関わる組織の僕である明治維新以来の官僚公務員等公務員組織とマスメディアの癒着がそう簡単に崩壊しようが無いではありませんか。権力とはそういうものではありませんか。本当に平成維新庶民(税金で飯を食っていない国民と法律で守られた報酬で飯を食っていない国民並びに自由主義国家において自由競争という荒波にもまれて食うや食わずで戦っている国民)による庶民のための庶民による革命をするなら腹を割って戦国時代のように血で血を洗う戦いをする以外にはありません。

やはり「記者クラブ問題」をいかに多くの国民に認知させるかが最大の問題なのだと思います。

こうしてネットや一部週刊誌等に取り上げられてきてはいるものの、そもそも記者クラブそのものを知らない、聞いたことはあっても何が問題なのか理解していないという国民が未だ大多数なのが現状ではないでしょうか?

テレビ・新聞といった「記者クラブメディア」にしか目を通さない人たちにこの問題を伝えるのは本当に困難なことだと思います。

今日(21日)、毎日新聞に佐藤優氏の異論反論の記事があった。
そこに国家と民族のことが出ているが、その伝達機関として、マスコミを考えると、記者クラブの異常性を説明できる。また怖さも実感できるだろう。
マスコミは、アンケートなど誘導的質問によって、国民の民意を自由に操作できるし、政府の政策を意図的に大きくしたり、小さくしたりして、国民の目をごまかすことなど簡単である。国民の意思、或いは政府の政策が、自由に、マスコミによって操作される異常性である。従って、その報道は、国民の代表によって、オープンな場で、自由に討議されなければならないものである。マスコミはすぐ国家検閲だとわめくであろうが、そのありかたは、常に問われなければならない。何とかできないだろうか。国家の危機である。
最近気になっているのは、小沢氏の単なる誤記載に対する異常報道である。法治国家にあっての正式な捜査機関の不起訴にたいする異常対応である。私たちには全く不明な11名の国民の代表というかたがたが、秘密裏に勧善懲悪主義なる浪花節的方法で、起訴、不起訴の判断をして、その異常性を自覚しないことである。わが国は、民主主義法治国家ではなくて、倫理的勧善懲悪主義国家であるといえる。他の人格をお互いに認める宗教性の全く認められない閉鎖的な国家である。この異常性を公明党は理解できるはずである。声を上げるべきであり、強く期待したい。このまま反省なく推移すると、、また、あの戦争に類する悪夢が現実問題になる恐ろしさがある。
マッカーサーの言葉を、今一度噛みしめるべきです。

当局が主催すると、都合の良い時だけ会見が開催されるようになるとの意見だが、週に1,2回定期的に開催することにすれば恣意的な会見運用にならないのではないか。
記者クラブを相手にしていてはオープンな記者会見など100年たっても実現しない、当局主催でも運用を定期的にすれば問題ないのではないか。
当局による情報隠しを防止するのは、会見に出席して質問や確認を行うメディア側の取材能力にかかっているのではないだろうか。

マスコミ業界の視点で考えるとややこしくなる。例えば、銀行だと、三井住友、三菱、みずほ、りそな、新生銀行しか、個人向け口座を受け付けないと考えればよい。いかに異常か。それに近いことをキー局と全国紙はやっている。銀行ですら、自由化したのに、マスコミは今でも護送船団方式である。

マスコミの影響力が過大で、国民はその情報操作に乗せられやすいことは自明だ。

民主党はその被害を一番多く受けている被害者ではないか?
それが全く他人事のように振る舞っているのは驚きだ。

まだ痛みを感じていないようだ。権力を握っているのだから如何様にもできる筈なのに---。

自己防衛ができない組織は「無気力・無関心・無防備」の死んだ組織としか思えない。
民主党のほっぺたを思い切り張り飛ばしてやりたい。

高田昌幸さんのご苦労はよくわかる。矛先をもっと徹底して民主党に向けたら如何だろうか?

昨年の総選挙で、民主党党首の鳩山氏は官邸記者会見のオープン化を約束していたが、約9か月の間に、一回もオープン記者会見を開かずに政権を下りた。総理を補佐する平野元官房長官に抑えられていたようだ。民主党はガラス張り政治を前面に押し出していたが肝心の総理大臣自ら約束を破ってしまった。次期の菅総理は鳩山さん以上に、言っていることがブレまくり、ガラス張り政治から程遠いように思われる。幸いにも、1年ほど民主党政権を見てくると、オープン化が出来る人と出来ない人の選別が我々国民にも出来るようになったことである。つまり、半小沢の対応をとる人達は物事を隠そうとする人達であり、自民党よりも閉鎖的な人達であろう。こういう人達に改革など出来るはずもなく、改革の足を引っ張る人達であり、次の選挙ではレッドカードを突きつけなければならない。特に菅政権には金と地位に連綿とする人達が余りにも多いように思う。

記者クラブ問題を解決するためには、まずは徹底的に記者クラブ制度そのものを報道したらどうでしょうか。記者クラブといわれても、国民のほとんどは何のことだかわかっていません。今はどうか知りませんが、クラブのために税金が使われている事実はありました。今も現に役所の中にスペースをクラブだけが確保できます。この事実はどこから来ているのか?癒着以外にはありません。これまでももちろん、クラブのことは書かれているとは思いますが、もっと素朴に、繰り返し、伝えていくことが肝要なのではないでしょうか。また、そもそもフリーランスはこれまでも鋭い記事は書いています。クラブに入ったらさらによくなるということはあるのでしょうか?クラブそのものが官房機密費の流入先だったことを考えると、そんなところにありがたがって入るのもどうなんでしょうか、と思ってしまいます。

新聞やテレビの情報を見聞きしている多くの国民は、
小沢一郎さんは、自民党の旧体制を体現している
「古い政治家」と洗脳されているでしょう。

小沢一郎さんは、民主主義の将来を憂慮し、
司法改革と「記者クラブ」の開放を口にしてました。
自民党政権がタブーとしてきた司法改革に手をつけようとしていた。
これこそ民主主義の利益にかなった方向。
古いどころか、新しい小沢改革に私は共感しました。
えん罪、誤報、を生む要因を(裏ガネ問題も)
小沢さんは憂慮していたのでしょう。
幹事長を退き、小沢さんの影響力が弱まると、
検察取り調べ「可視化」法案も遠のきました。
民主党はこれらの「小沢改革」の旗を降ろした?
のでしょうか。

<ジャーナリスト個人として>
詰まる所、記者クラブの問題は記者個人の問題ではなく、会社を背負っていることが、問題を硬直化させていると考えています。
もはや、マスメディア側の自主的な改善は諦めました。当局側からの改善を期待するしかありません。
記者証の発行を思い切ってジャーナリスト個人への配布に変えるべきと考えます。所属社に関係なく、個人の登録・配布制度に改めるだけで景色が変るのではないでしょうか?各官庁への出入りや官邸への出入りは記者クラブに所属しているから・・・というだけではNGにし、個人認証がなければ出入り不可にすべきです。会見の主催者はジャーナリストクラブ(個人の認証がある人々)にしてもかまいません。質疑も全て社名は名乗らず個人名を名乗っての質問に限るべきです。
「〇〇新聞の〇〇です」と名乗ると、その途端にヒエラルキーが顔を出します。「フリーの〇〇です」と名乗るジャーナリストの質疑など歯牙にもかけない、一段下に見る空気感・・・です。

こと恵美さんの提案に賛成です。

”記者クラブ開放”は、マスメデイア任せでは、進展しません。

 権力側主催にすると、権力に都合のいい人選がなされる可能性があります。

 こと恵美さんが言うように官主導であっても、参加する記者の個人資格だけを条件にすればいい。

 民主党政権の最大の功績は、政治や官僚の腐敗よりも、マスコミの腐敗のほうが遥かにひどいことが(結果的にですが)明らかになったことだと思います。

 記者クラブによるマスコミの緩やかな自殺の被害は、民主主義のコストでしょうか?
 それともただのとばっちりなんでしょうか?
 私はただのとばっちりだと思います。

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Profile

高田昌幸(たかだ・まさゆき )

-----<経歴>-----

1960年、高知県生まれ。
1986年、北海道の地方紙入社。経済部、社会部、東京政治経済部、ロンドン支局などで取材。
1996年、取材班の一員として「北海道庁公費乱用の一連の報道」で新聞協会賞、日本ジャーナリスト会議(JCJ)奨励賞を受賞。
2004年、取材班代表として「北海道警の裏金問題取材」で新聞協会賞、JCJ大賞、菊池寛賞、新聞労連ジャーナリスト大賞を受賞。「記者会見・記者室の完全開放を求める会」世話人。

-----<リンク>-----

■ニュースの現場で考えること

■「ニュースの現場で考えること」の書棚

■記者会見・記者室の完全開放を求める会

■市民の目フォーラム北海道「北海道警察VS北海道新聞」

■木をみて森もみる(エッセイ)

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