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2010年7月20日

記者クラブ問題が進展しない理由

 私が「記者クラブは開放せよ」と公言を始めたのは、ずいぶん前のことだ。自身のブログに書き、シンポジウムで発言し、フリージャーナリスト寺澤有さんの「記者クラブ訴訟」において彼を支援する陳述書を裁判所に出すなど、あれやこれやと声を上げてきた。「記者会見が勝負だ」と書いたのは2003年のことだが、そのころから考えは変わっていない。
 世の中、そう簡単に変わるわけではない。それは分かっている。しかし、「記者クラブの閉鎖性」=「既存大手メディアによる記者会見・記者室の独占」の問題は、さすがにもう、それを声高に言うのも疲れてきた。それが正直な気持ちである。

 記者会見や記者室はいまなお、既存大手メディアに占有され、フリーランス記者や雑誌記者などはそこへの自由なアクセスができない。これだけ開放を求める声が高くなっても、既存大手メディアは開放に向けて自ら動く気配が全くない。その頑迷さは、記念碑的ですらある。昨年末ごろからは「記者会見と記者室の完全開放を求める会(会見開放の会)」の立ち上げに走り回り(旗揚げは今年4月)、その世話人としての活動も続けているが、もう何というか、「やれやれ」の連続だ。そのあたりの事情については、月刊誌「創」の最新号に掲載された神保さん、上杉隆さんとの対談でも少し話した。

 上杉さんはその座談会で「記者クラブ主催の会見はクラブ側が邪魔して、一向に開放されない。当局主催で会見参加が自由化されるなら、その方が良い」という趣旨の発言をしている。何年も前から開放を求めているのに、既存メディア側はまったく動こうとしない、と。だから、「諦めた」というのである。
 「会見の主催権」とは、突き詰めれば、会見参加者を誰が決めるか、という決定権のことだ。当局主催の場合は、参加者の資格基準は当局が決める。記者クラブ主催の場合は、記者クラブがそれを決める。

 今の記者クラブには問題がありすぎるので、なかなか理解されないかもしれないが、会見が当局主催になれば、「当局の記者会見=説明責任を果たす場」が当局の都合のいいように運用される可能性が十二分にある。だいたいにおいて、(官民を問わず)権力者はいつの時代にも、自らに都合の悪いことは隠す。そして、自らに都合のいい情報は、自らが発表したい時に発表したい方法で喧伝するものだ。そんな場に、うるさい記者には居て欲しくないだろうと思う。

 先に最高検は各地の高検・地検に対して、定例会見などをオープン化するよう通達を出し、実際各地でその運用が始まっている。一見、良い流れのように映るけれども、一部を除いて、会見への参加希望者を実際に参加させるかどうかの判断は、検察側が行っているようだ。さすがに、司法官僚は頭が良い。オープン化の流れが避けられないのであれば、それを先取りし、かつ、その主導権は自らが握ろうとしているのだ(と私には映る)。だから、記者会見の主催権がどこにあるのかは、実に重大な問題なのである。

 ところで、この7月に東京から札幌へ転勤する直前、ある同業者から送別会の席で、「記者会見や記者室の開放運動を始めるなんて、高田さんは新聞業界全体を敵にしましたね」と言われた。似たような質問は、今年4月19日に日本プレスセンターでこの会の記者会見を開いた際にも大手新聞の記者から飛び出した記憶がある。いやいや、冗談ではない。ちょっと待ってくださいよ、である。
 
 記者クラブ問題の論点は多岐にわたるが、われわれ既存メディア側にとって、この問題は「当事者」なのだ。数週間前、朝日新聞の「メディア欄」は会見開放の問題を取り上げていた。取り上げること自体は悪いくはないが、私に言わせれば、当事者意識がまったく感じられなかった。新聞「社」だけでなく、新聞「記者」にとっても、この問題は論評の対象ではなく、当事者の問題なのだ。第3者を装って、「客観的」に報道していれば済むというものでもあるまい。

 会見開放がまったく進まないことに関しては、この業界内部では、種々の理由がもっともらしく語られている。例えば、現場記者からの声でしばしば耳にするのは、こんな意見だ。

「記者クラブ所属の記者はそこに張り付いて継続的に取材しているが、フリーや雑誌記者は継続取材もしないし無責任だ、そんな人たちを相手に開放することはできない......」

「事務連絡などの幹事業務は煩雑で大変だ。フリーの人たちは、本当にそれをこなしてくれるのか」

 私に言わせれば、こうした論点は、いずれも排除のための理屈でしかない。

 当たり前の話だが、日本にも世界の大半の国にも職業選択の自由がある。それは同時に「働き方の自由」でもある。継続的に記者クラブに張り付いているか否かが、会見・記者室の自由参加への条件になると本気で判断している既存メディアの記者がいるとしたら、その人は中学校の社会科を勉強し直した方がよい。だいたいにおいて、世の中では「排除の理屈」は、いくらでも探すことができるものだ。しかし、たった1回の入社試験によって、たまたま既存メディア企業の組織人になったに過ぎない我々が、排除の理屈を振りかざして、他のジャーナリストの取材活動を妨害することのどこに正当性がどこにあるというのだろうか? そういう悪弊を助長・放置しつつ、一方で「報道の自由」を語ることの正当性がどこにあるのだろうか?

 「会見開放の会」は先に報道各社に対して、この問題をどう考えているか、どう取り組むつもりかを尋ねた。その回答は、すでに公表しているが、全体としての感想を言えば、「総論賛成・各論反対」である。あるいは「問題は認識しているが、実現はなかなか難しくて......」という「先送り型」だ。問題点がさんざん指摘されているのに、自らの手で改革に向かおうとしない組織の有り様は、日頃報道各社が叩きに叩く官僚機構とまさに瓜二つである。

 これも何度も言っていることだが、記者会見にしても記者室にしても、それへの参加は原則広く開かれるべきだとの見解は、業界団体の日本新聞協会自身が2002年に「見解」として示している。この見解(2006年に一部改訂)を取りまとめたのは、新聞協会の編集委員会であり、委員会は主要新聞社の編集幹部によって構成されている。

 会見開放の会に集った皆さんの考えの中核は、報道各社は自分たちで決めたルールをその通りに実行して下さい、という点にある。要は「協会のルールが現場できちんと運用できていないから、正しい方向に動かしましょうよ」ということなのだ。これ以上の大メディア不信を食い止めるためにも、「言ったことはやりましょう」である。
 だから、会見開放の会の微々たる活動もそれを後押ししよう、「見解」を少しでも早く実現させましょうという点に力点があるのであって、「新聞業界全体を敵に回す」といった類の話ではない。スタッフはみな、余暇を使い、交通費やらコピー代やらも個人で負担しているし、協会からは活動費用のカンパをもらってもいいくらいだと感じている(笑)。

 協会の「見解」はまだまだ不十分だし、問題点を多々含んでいると思うが、見解の内容が十分か不十分かの論議の前に、それが実行されないのであれば、「見解」をどう書き換えたとしても何の意味もない。

 ものごとを動かすには、多少の時間はかかる。一朝一夕には進まない。道も曲がりくねっているだろし、種々雑多な手間ひまもかかる。しかし、協会自らが発した「見解」から、もう8年になる。いくら何でも遅すぎだ。開放に伴っては多少の混乱や面倒も起きようが、それを理由に改革を遅らせるのであれば、本末転倒というほかはない。

2010年7月15日

北海道警裏金問題の報道をめぐる裁判とジャーナリズムのあり方〈3〉

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■『月刊マスコミ市民』ホームページ
http://masukomi-shimin.com/

(『月刊マスコミ市民』2010年4月号より転載)

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■社内の情報が道警に漏れた疑い

川﨑:甲84号証に話を戻しましょう。これが裁判に出された当時、週刊新潮や宝島など雑誌がいろいろ書きました。

高田:先ほど言いましたように、私と編集局幹部が夕食を一緒したのは、2005年9月初旬です。ところが、甲84号証によると、それ以前に、佐々木氏と新しく幹部になった編集局幹部が2人で会っているのです。記録によると、編集局幹部は、佐々木氏との最初の面談で、「とても上座に座れません」「2冊の本についての佐々木さんの指摘と、泳がせ捜査記事を車の両輪として解決していく」「私たちは社内では少数派ですが、これから少数派が実権を握ってやっていこうとしているのだから、交渉は内密にして欲しい。社内に交渉のことが漏れたら、動きは潰される」という趣旨の話をしています。さらに、「ご迷惑をかけました」と謝っている。「どうやったら許してくれるのですか」というのが、最初からの立脚点だったとしか、私には思えません。それに記録によると、この初回の面談で、編集局幹部は「道警の幹部に言われて、あなた(佐々木氏)に会いに来た」という趣旨のことを明かしています。佐々木氏はこの時点でOBですが、現職の道警幹部のアドバイスによって、佐々木氏に面会を求めたのだ、と。その会談後に、イタリア料理店で、私は編集局幹部から「道警と道新の関係修復には、けじめが必要だ」と言われたわけです。どう考えても、おかしくないですか。

川﨑:手打ちの条件としては、おそらく「高田を外せ」という人事の取引でしょう。

高田:甲84号証によると、それに類するやり取りはあります。高田や佐藤を絶対に許さない、とか。でも、交渉が始まった時点では、私や佐藤はもう東京に転出していたわけですから...。

 記録では、裏交渉は7月の終わりに始まって翌年の5月頃まで30数回続いています。先ほども言いましたが、会社側からは裁判が起こるまで、2冊の記述の真偽についての問いかけは一度もありませんでした。これは大事なポイントだと思います。本の記述内容に対する問い掛けすらないまま、道新側は「内部調査の結果、書籍の記述はねつ造だと分かった」という趣旨のことを言っていたのです。佐々木氏はそうした部分を根拠にして、裁判で自らの主張の正しさを立証しようとしており、控訴理由書でもそこを強調しています。それに、裏金報道に限らず、どんな記事にも該当する話ですが、取材して記事を書いた記者が何も知らないところで、「うちの若い記者が誤報を書いて失礼しました」「どうやったら許してくれますか」と上司が勝手にお詫びの交渉を相手側と始めてしまうのは、どう考えてもおかしいでしょう。

川﨑:私の経験では、その類のことはよくあると思います。権力は何をしてくるか分かりません。

高田:イタリアンレストランに呼ばれた後に、「泳がせ捜査に関して編集局内部で調査をする」と言われました。先に言いましたように、その記事の組み立て自体はすでに説明済みでしたから、あらためて何が聞きたいのか不思議に思いました。一方、ちょうどその頃、道新の内部情報が警察経由で同業他社にボロボロ漏れていることが分かってきました。「高田や佐藤は社内の調査から逃げ回っているという話は本当か」と、他社の記者仲間から電話がかかってきたこともありました。

 そして後日、「本件原告の佐々木氏が道新にクレームをつけている本の記述、および『泳がせ捜査』の記事に関して、北海道新聞社が事の真実を明らかにするために内部で調査委員会を作ることが決まった」と、4〜5段くらいの記事が毎日新聞に載ったのです。当時(2005年11月初旬)、そんな話は全然聞いていませんでした。「調査委員会とは何ですか」「そもそも、どうしてこういう記事が他社から出るのですか」と聞きましたが、編集局の幹部は「そういう事実はない」「毎日新聞の誤報だ」と言うのみでした。「では毎日新聞に抗議してください」と言うと、「そこまでする必要はない。先走って書くようなことはお前らもあるだろう」と言われて終わりました。

 ところが、その後、佐藤が編集局幹部に呼ばれ、続いて私も呼ばれ、当時の取材班メンバーが次々と呼ばれて、「泳がせ捜査」に関する情報源を聞かれたのです。「階級は何だ」「せめて所属は言えないのか」と聞かれましたが、誰も言いませんでした。道新の内部情報が道警に漏れている疑いが濃厚なときに、「実はOO警部からの情報です」などと言えるはずがありません。甲84号証によると、道新側が佐々木氏に対し、「きょうは佐藤を呼んである」とか、「先日のヒアリングで彼らは何も答えなかった」とか、そういうやり取りがボロボロ出てきます。社内情報は、まさに湯水のように漏洩していたわけです。

川﨑:そして2006年1月の「お詫び」記事(註4)になるのですね。

高田:そうです。「道新は『道警は泳がせ捜査を失敗した』と書きましたが、それが事実だという最終的な確証が得られずに、読者に誤った印象を与えかねない記事になってしまったことをお詫びします」「しかし道警の『泳がせ捜査』の失敗を『なかった』という証明もできませんでした」という趣旨の記事です。社告は1面でした。誰のために何を書いているのかわからない中途半端な内容だとの批判も受けたようですが、それによって、編集局長以下、私も佐藤も含め8人が懲戒処分を受けました。

 処分自体はもう済んだことなので何も言うつもりはありません。しかし、甲84号証によると、それに至る過程では、裏側でずっと佐々木氏と交渉や相談が続いていたわけです。外部の人と相談しながら、もっと言えば外部の人から新聞社内部に手を突っ込まれた形で、ものごとが進んでいる。新聞協会が定めた新聞倫理綱領は「あらゆる勢力からの干渉を排し、利用されないよう自戒しなければならない」としていますが、裏交渉はその真逆のように思えます。

 そして懲戒処分の後も、佐々木氏と道新側の交渉は続いています。むしろ、その後にヒートアップした感じです。「高田たちを訴えてくれ、訴えたら佐々木さんに協力する」とか、「民事がだめなら刑事の名誉棄損もある」とか、「新聞協会賞を返上すべきだ」「自分もそう思う」とか。そんな趣旨のやり取りが頻出します。もうなんと言いますか、裏交渉の後半は、はちゃめちゃな感じですね。甲84号証でそれらを初めて知った時、私はロンドンに駐在していましたが、信じられない気持ちでした。

川﨑:朝日新聞の落合博実さんが、「警察に屈した日」という記事を「月刊文藝春秋」2005年10月号に書いていますね。

高田:落合さんが追いかけていたのは、漆間厳・前内閣官房副長官(元警察庁長官)の愛知県警本部長時代の裏金問題だったと思います。落合さんは裏帳簿を人手にしたのに、朝日新聞は活字にしないで「握り潰した」話ですね。

川﨑:そのとき朝日新聞が書いていれば、漆間氏は官房副長官にはなれなかったし、政治情況や権力とマスコミの関係も変わっていたと思います。

高田:そうかもしれません。ただ、何かの理由があって、権力監視型の報道を行うことに怯んでしまう人が幹部にいるということは、マスコミではよくある話かもしれません。落合さんの記事は、そのことを示しています。

川﨑:きょう語ってもらった道警との裁判の内容、とくに甲84号証に関する話は事実はまだ活字になっていませんね。

高田:民事訴訟の記録はだれでも閲覧できますし、札幌の司法記者は皆知っていると思いますが、新聞では活字にはなっていないと思います。各社がどういう判断をしているのか、それは分かりません。大谷さんは、ご自身のウェブサイトと平凡社の「月刊百科」に書いています。そのほかには、知っている限りでは、雑誌の宝島や週刊新潮などに関連の記事が出ました。

■意味もなく萎縮している現場の記者

川﨑:裁判の結果は各紙に載ったのですか。

高田:一審判決は昨年の4月27日にありました。各紙では、「報道の自由」「表現の自由」という観点から、それぞれ展開を見せました。裏金問題を同じように追及していた高知新聞は、判決のとき記者2人が札幌まで取材に来て、夕刊と翌日の朝刊に続けて大きく掲載しました。NHKも好意的に6時半のローカル・ニュースで10分間ほど取り上げてくれました。北海道新聞は2段見出しの小さな記事が夕刊に載って終わりました。

川﨑:一連の裁判が終わったら、出版の形でしっかり記録を残しておいたほうがいいと思います。

高田:それは私も考えています。

 一審判決の後、私は記者会見をしました。その後、報告集会も開きました。その合間、コピー機を貸してもらうために札幌の司法記者クラブに行ったとき、記者が群がってきたら面倒だと思っていたのですが、誰も何も聞きにこないのです。私がクラブに入ると、「モーゼの十戒」の如く海が割れるように、人混みが左右に割れ、コピー機に辿り着くまでの道ができました。コピーしている間も、若い記者やテレビ局の記者も黙っているのです。裁判の当事者がのこのこ現れたわけですから、'ふつうなら、会見で聞けなかったことを聞こうとするじゃないですか。あるいは、名刺だけでも交換しようとか。現場の記者が意味もなく委縮している、まさに今のムードを的確に表していると感じました。

川﨑:「道新が死んだ日」ではなく、「ジャーナリズムが死んだ日」だと思いますね。道新の取材記事は、菊池寛賞、新聞協会賞、JCJ大賞など各賞を総ナメにしましたが、社内ではそうした賞についての評価はなかったのですか。

高田:いろんな場面で「よくやった」「がんばった」と言われました。若い記者ほど誇りに思ってくれているようにも思います。ただ、最初にも言いましたけれど、裏金報道にしても、その他の報道にしても、自分たちの方法が最高だとは思っていないわけです。批判があるのは当然だから、批判や疑問はどんどん言って下さい、と。ただし、面と向かって直接。それが何より大事です。

 他社も含めて若い記者と話す機会も多いのですが、どこの新聞社も内部での議論が最近はどんどん少なくなっているようです。日本では職場、つまり組織内での言論が一番不自由なのです。大企業を見れば、一目瞭然でしょう。報道機関はそれでも、組織内言論が比較的自由だったのに、最近はそれがいよいよ少なくなってきたと思います。

 新聞の役割は権力監視だと言います。それはその通りです。また新しい時代には、新しい報道も必要です。このネット時代にあって、漫然と同じような報道を繰り返していたら、読者の支持を失うのは自明です。ただし、新しい試みはしばしば、組織内の古い価値観と衝突する。そのとき、記者1人1人がどうするかです。報道の古い体質は、日々の仕事においては「前例踏襲」「議論を避ける」「事なかれ主義」「萎縮」のような形で表れます。その壁を崩す気概を現場も幹部も持つことができるかどうか、それがポイントだと思うのです。

 実は、裏金報道のときは、裏金追及そのものというよりも、事件報道全体のあり方を見直すきっかけにしたいと考えていました。捜査当局と一緒になって「悪者」をつくり、叩く。「逮捕」時の報道に一番の力点が置かれてしまう...。挙げればきりがありません。事件報道の構造的欠陥は昔から何度も指摘されているのに、なかなか変革できない。それが実態です。裏金報道のときは、警察担当記者が真正面から警察組織と対峙する中で、そういう古い体質を変えたいと思っていたわけです。警察取材に限りません。古くさい構造は、どの取材部門にも残っています。青臭い理想論かもしれませんが、「変革」を常に考え、実践していかないと、取材力はさらに劣化し、新聞はますますダメになる。その分水嶺は、すぐそこに迫っている感じです。

川﨑:今日は、多岐にわたるお話をいただき、本当にありがとうございました。(了)

[註4]道新の「お詫び」記事
北海道新聞は2005年3月13日付朝刊で「北海道県警による『覚せい剤泳がせ捜査』が失敗し、北海道内に大量の麻薬と覚せい剤が流入した」と報じた。しかし翌2006年1月14日には、「裏づけ取材不足」「『組織的捜査』確証得られず」という見出しで、「泳がせ捜査失敗」報道に対する「お詫び」の社告記事を掲載した。直後の1月31日には' 編集局長のほか、北海道県警の裏金問題の記事を書いて日本ジャーナリスト会議(JCJ)大賞や新聞協会賞、菊池寛賞などの各賞を総なめした取材班のデスクとキャップら8人が処分された。

2010年7月14日

北海道警裏金問題の報道をめぐる裁判とジャーナリズムのあり方〈2〉

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■『月刊マスコミ市民』ホームページ
http://masukomi-shimin.com/

(『月刊マスコミ市民』2010年4月号より転載)

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■捜査費・報償費はほぼ100%裏金

川﨑:一般の人に「裏金」と言ってもよく分からないでしょうが、道新の記事を読んだ人は、皆分かるようになったでしょう。

高田:「裏金」の意味合いは、ほぼ分かってくれたのではないでしょうか。予算は、法律や条例その他の法的枠組みで使途が決められます。これに対して、裏金とは、決められた予算の使途通りに使ったと装って、実際には別の用途に使用することです。使途の縛りを自分たちで勝手に外すわけですから、一種のマネーロンダリングでもあります。その中には、私的な用途に使ったものもあるはずです。北海道では、警察の裏金問題が発生する7年〜8年前に、すでに北海道庁で裏金が大きな問題となっていました。当時、私はその取材チームにいて大々的に報道しましたので、北海道の人にとって裏金そのものは目新しいことではなかったでしょう。ただ、道警裏金報道での読者の反応はすさまじく、電話やメール、ファクス、手紙で激励が殺到しました。「道新を見直した」という声もずいぶんもらいました。あれはどの反響は、その前も後も経験したことがありません。入社試験の面接で「自分も調査報道をやりたい」という志望者が増えたとも聞きましたし、私に直接連絡を取ってくる若い学生が今もいます。うれしいことです。

川﨑:そして、問題は裏金だけに留まらず、稲葉事件(註3)にも及んできましたね。

高田:稲葉事件に関する「泳がせ捜査」の記事については、その後、道新がお詫びを出すに至りました。道警は、「泳がせ捜査」の記事がポイントとなり引くに引けなくなったというよりも、最初から反撃するきっかけを探していたのだと思います。実際、裏金問題の追及を開始した直後から、種々の記事について、口頭や文書での道警の抗議が何度もありました。「泳がせ捜査」の記事に抗議文が来たときも、現場では「また来た」という感覚でした。

川﨑:稲葉事件では、上層部が捜査に必要なお金を使いきってしまい、拳銃の摘発に際して正当な捜査費がなくなっていたので稲葉氏が金をつくった、という構造があるのでしょうか。

高田:警察の捜査費とは、例えば拳銃の密売にかかる情報を暴力団関係者から入手しようとしたとき、それにかかる部屋代や飲食費、謝礼などの必要経費です。国費の場合は「捜査費」、都道府県費の場合は「捜査用報償費」といいますが、両方とも同じような予算です。これらはほぼ100%が裏金になっており、真っ当に使われたことはほとんどなかったとされています。会計書類上の金の動きと実際のお金の動きが合致していないのです。

 当時は、拳銃を摘発するために各都道府県に銃器対策課銃器対策室ができていましたが、捜査費、捜査用報償費は本来の使途通りには使われていませんでしたから、稲葉元警部も含め、現場の捜査員は、自腹を切って捜査にかかるカネを捻出していたはずです。

川﨑:いわゆる「平成の刀狩り」といわれた拳銃の一斉摘発は、警察庁の指示で全国的に行われました。それに絡む組織的な裏金作りは道警に限りませんでしたが、メディアでは単に「悪徳刑事がやった」という報道しかされませんでした。

高田:似たような事件は、長崎や大阪や兵庫でも表面化しています。全国の警察における捜査費と捜査用報償費の大半は裏金になっていたはずです。長崎県警の場合は、県警元刑事が自ら公判で裏金作りを暴露してしまいました。

川﨑:北海道警元釧路方面本部長の原田宏二さんが「北海道新聞が警察に屈した日」(「明るい警察を実現する全国ネットワーク」ホームページ、http://www.geocities.jp/shimin_me/hokkaidou1.htm#15http://www.geocities.jp/shimin_me/hokkaidou1.htm#18)で指摘しているように、道警は道新の内部で起きた不祥事を摘発する中で、それとのバーターで裏金問題に関する道新の報道を抑えようとした疑いが濃厚です。しかし、メディアの中ではそうしたことは頻繁にあります。オウム真理教の事件に絡んでTBSが放送前のテープをオウム真理教側に見せていたことが発覚した際、故筑紫哲也さんは「TBSが死んだ日」と言いました。裏金問題の報道とその後の動きは、道新の歴史の中で最も大きかった出来事ではないでしょうか。

高田:社史を読むと、道新も遠い昔には様々な事件があったようです。権力と報道機関の関係は、非常に難しい。権力と報道機関のひどい事例は、どの新聞社にもテレビ局にもあると思います。ただ、裏金報道のその後については、なかなか自己評価はできません。自分も当の組織にいる以上、問題解決や組織改革に一定の責任を負っているわけですし。

川﨑:報道機関というのは、隙を見せるとどんどん追い込まれてしまいます。ところで、裁判はどうなっていますか。

高田:裁判は『追及・北海道警『裏金』疑惑』(北海道新聞取材班著、講談社)、『警察幹部を逮捕せよ!・泥沼の裏金づくり』(宮崎学・大谷昭宏・北海道新聞取材班著、旬報社)という2冊の書籍について、そのごく一部の記述について「事実と違う」として佐々木氏が訴えて、始まりました。被告は道新、講談社、旬報社と個人被告の高田と佐藤です。そして補助参加人の大谷さんと宮崎さんが一審の途中から加わっていますので、3社プラス4人が被告席に座っていることになります。

 一審札幌地裁の判決は昨年4月にあり、被告が敗訴しました。主文は「被告は連帯して合計72万円を原告に支払え」とした一方で、「訴訟費用の9割を原告が払え」という内容でした。

 佐々木氏は、勝訴したのに訴訟費用の9割を払うことを不服として控訴し、また被告側も全員が控訴しました。控訴審は札幌高裁です。道新の顧問弁護士のほか、高田と佐藤は個人として、札幌の市川守弘弁護士、東京の清水勉、安田好弘、喜田村洋一の3弁護士と代理人契約を結んでいます。控訴審の初弁論が昨年12月にあって、互いの立証予定を示したところです。一審では予想もしない形で負けているので、控訴審で新たな証拠を出して様々な立証をしようとしています。次回は4月16日です。

川﨑:今回、われわれは、佐々木氏が一審の途中で提出した証拠「甲84号証」を入手し、目を通しました。これは、提訴前に、佐々木氏と道新幹部らが裏金報道をめぐって密かに交渉していた内容を、佐々木氏が密かに録音記録したものです。全体を通して読むと、信じがたいやり取りが延々と続いています。日本のジャーナリズム史上に残る汚点ではないでしょうか。このようなことがなぜ起きるのか。その道新の内部事情について、あなた方取材班は知っていたのですか。

高田:道新内部では裏金報道が続いていた2004年に室蘭支社の営業部員が使い込みをして逮捕され、有罪判決を受けました。2005年10月には、東京支社の広告社員が約500万円を使い込んでいたことも対外的に発覚しました。こうした問題は、もちろん知っていました。

 しかし、「甲84号証」に記された交渉は、まったく知りませんでした。私は便宜的にこれを「裏交渉」と呼んでいますが、甲84号証を読むと、2005年7月末から翌06年5月にかけ、編集局の幹部らが佐々木友善氏と30数回も話し合いを持っています。そこで話し合われているのは、簡単に言えば、「どうやったら許してくれるのか」という内容です。ひたすら媚びていく。裁判では、講談社と旬報社から出した2冊の書籍の記述が争点になっているのですが、その箇所について、当時社内では何も問題にされておらず、「高田、この本の記述は間違いか?」とか、一度も聞かれたことはありません。それなのに、裏交渉の中では、「本の記述はうそだと分かった」などと、それこそ、佐々木氏に向かって嘘をついている場面もある。そういう交渉です。

 当時から、「会社は何か変だな、何か裏でやっているのではないか」と感じてはいましたが、私をはじめとする取材班はここまで卑屈になって交渉しているとは、全く思いもしませんでした。甲84号証が裁判に出された後、私や佐藤は、この交渉が行われた理由などを会社に何度も尋ねました。当事者だから、当然、相対で聞く権利はあると思っていたのですが。

川﨑:あなたからすれば、甲84号証が示す交渉は、会社の裏切りに映るのですか。

高田:誤解を招くと困りますので、説明しておきますが、甲84号証はあくまで佐々木氏による記録です。

 私と佐藤、道新は連名で書面を裁判所に提出し、証拠採用すべきではないという趣旨の反論をしています。当時の編集局長も「提訴させないための交渉だった」という趣旨の反論の文書を出しました。30数回に及ぶ交渉の記録は、録音だけでなく、佐々木氏のメモに基づくものも含まれています。裁判所に提出した書面でも書いていますが、録音を文字に起こした中身は、必ずしも録音を正確に反映していません。佐々木氏が都合良く解釈した部分もあります。裁判では、佐々木氏に勝つことが最大の目的ですから、そうした反論は当然必要です。

 ただ、訴訟進行に限定せずに物事を考えた場合、権力とメディアの関係を考えるうえでも、一連の交渉は実に大きな問題を孕んでいます。仮に録音の文字起こしが細かな部分で正確ではなかったとしても、交渉があったこと自体は事実ですし、大筋は記録通りでしょう。こんな交渉がなぜ行われたのか、きちんと検証すべきだと、私は思ってきました。権力監視型報道の根幹にかかわる問題が、そこには横たわっているからです。

 例えば、一連の交渉では、道新側が佐々木氏に対し、「裁判を起こすなら起こしてください。その代わり、最初に道新がいくつまで負けを認めるか決めておきましょう。4つの事実のうち3つだったら納得しますか、2つだったらどうですか」という趣旨のやり取りが出てきます。さっきも言いましたが、訴訟で争点となっている書籍の記述について、提訴前に「本の記述に問題はなかったか」と会社から聞かれたことは、一度たりともありません。この交渉が行われている期間中、そんなことは一度も聞かれていない。それなのに、幹部が勝手に「誤りを一部認めましょう」と言い、こういう交渉をしてしまう。この部分は当時、週刊新潮に「道新が出来レース裁判を持ち掛けた」として記事にされました。

 佐々木氏との交渉は事実の検証プロセスではなく、どうしたら佐々木氏が納得するか、ひたすらひれ伏していく交渉でした。甲84号証を読む限り、誰でもそう判断するでしょう。記録の中には、提訴するなら被告に高田や佐藤を入れるな、道新だけを被告にしてくれと頼むシーンも出てきます。「高田たちを個人で被告にすると独自に動くから、会社が裁判をコントロールできなくなる」といったことを言うのです。一体何なのか、と思います。

■イタリアンレストランで知った「裏取引の始まり」

川﨑:高田さんが最初にデスクをされたときは、何歳でしたか。

高田:報道本部のデスクになった2003年3月です。当時は42歳で、部内では一番若いデスクだったと思います。部下の佐藤一は39歳でした。その下には佐藤とほぼ同じ年の中原洋之輔サブ・キャップがいましたが、あとの者は皆20代だったと思います。

 道警クラブには、佐藤をキャップとして常に7人〜8人の態勢でした。本部担当が3人、残りは札幌市内署担当です。報道本部は、社会部と政治部を合体させた組織です。私は警察担当デスクをやりたかったわけではないのですが、警察担当は忙しくて体力も必要なので、若い人がやるものだなと理解していました。

川﨑:会社側と道警の、衝撃的な「取引」を初めて知ったのはいつですか。

高田:裏金報道は2003年の11月から始まり、2005年6月まで行われました。道新の場合、定期的な人事異動は3月と7月です。私は2005年3月1日の人事異動に合わせて道警担当を外れて、同じ報道本部の「遊軍担当デスク」になりました。そして4ヶ月後の7月1日の人事異動で東京の国際部に移りました。佐藤も同じ7月に東京に社会部に異動しました。そして私は翌2006年3月にはロンドンに行くことになります。

 「変だな」と感じたのは、2005年9月初旬です。その年の9月は小泉郵政選挙があり、本社のデスクに応援が必要ということで、私は東京の国際部から2週間ほど札幌に応援に行きました。その最中の9月4日か5日の夜、編集局幹部数人に札幌・大通公園沿いのビルの地下あったイタリアンレストランヘタ食に誘われました。そして食事の途中に、ある幹部から「実は、あなたに考えてもらいたいことがある。このままでは道警と道新の関係がもたない」と言われました。「『もたない』とはどういうことですか」と聞くと、「取材の現場、道内のサツ回りは大変苦労している。何とか関係を改善しなくてはならない」と応えました。

 大変なのは今に始まったことではなく、裏金報道が始まった時からずっと続いていることですので、どういう意味なのかを聞きました。すると、「道警も道新とは仲良くしたいが、このまま仲良くなったのでは道警内部の組織に示しがつかない。道警は裏金を認めて億単位の巨額の金を国や道に返してけじめをつけた。道新もけじめをつけるためには、『この記事は行き過ぎでした』と示さなければならない。そう道警が求めている」と言うのです。そして、「道警が覚せい剤の『泳がせ捜査』に失敗して、北海道内に大量の麻薬が流人した」と書いた2005年3月の記事について、道警が「お詫び」を求めてきているので、道新としてそれに応じて関係を正常化したい、というのです。

 泳がせ捜査の記事が出た直後に道警から抗議がきた際には、当時の幹部に取材経緯等を説明してありました。そして「問題ない」という判断になっていたのに、なぜ今になって謝らなければいけないかを問うたのですが、明確な答えはありませんでした。そして、11月末までに回答しなくてはならないという話を、一生懸命するのです。その後もいろんなやり取りがあって、散会しました。

 私は北海道庁の不正事件を一年近く取材したとき、来る日も来る日同じような取材を続け、心底疲れた経験があります。道警担当デスクを外れるときも、何か特別の意図を感じたわけではありません。夜も昼もないような生活が続いていましたから、正直、ほっとした気持ちもありました。それに読者には申し訳ないですが、私自身、警察の裏金だけでなく、いろんな分野に関心がありましたから、いつまでも同じことをやることに疲れていました。しかし、イタリアンレストランでの一件から如実に疑問をもつようになりました。

川﨑:主要メンバーの異動が始まり取材班が解散となったとき、不信に思いませんでしたか。

高田:裏金報道や権力監視は、当時の取材班メンバーの専売特許ではありません。次の人にちゃんと引き継ぎ、裏金や不正を許さないという気持ちを記者の誰もが持ち、内部で広げて、記事という形にしていく。そういうことが何より大事だと思っていました。それが、新聞社という組織の有り様じゃないですか。それにさっきも言ったように、「これで少しゆっくりできる」という思いもありました。

川﨑:道新が海外にもっているポストはそれほど多くないと思いますが、そこに裏金問題を追及したデスクを回すことは、論功行賞だと思われたのではないでしょうか。

高田:当時、海外支局は10ヶ所だったと思います。人事は自分で決めることができませんし、その評価も難しい。いろいろな見方はあるでしょう。申し訳ないですが、今はこれ以上のことは言えません。(続く)

[註3]稲葉事件
2002年7月、北海道警生活安全特別捜査隊班長であった稲葉圭昭警部が、覚醒剤取締法違反の容疑で逮捕された。必要な捜査資金を捻出するため、押収した覚せい剤を自ら暴力団関係者に密売するに至った事件。裏金の発覚前に明らかになり、道警を揺るがす大事件となった。北海道新聞が報じた「泳がせ捜査」(拳銃を摘発するために覚せい剤の密輸をわざと見逃して行った捜査)を稲葉元警部は認めているが、道管は稲葉事件は稲葉個人の問題だったとして、組織的関与を認めず、闇に葬ろうとしている。

2010年7月13日

北海道警裏金問題の報道をめぐる裁判とジャーナリズムのあり方〈1〉

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 『月刊マスコミ市民』2010年4月号に掲載されたインタビュー「北海道警裏金問題の報道をめぐる裁判とジャーナリズムのあり方」がメディア関係者の間で話題を集めている。語り手は本誌執筆陣の一人でもあるジャーナリストの高田昌幸氏で、北海道警の裏金問題を追及していた北海道新聞が、現場記者の知らないところで道警幹部と「手打ち交渉」を持ちかけていたことを明らかにしている。今回は「月刊マスコミ市民」編集部から特別に許可をいただき、3回にわたって本誌に全文掲載する。まさに、権力と癒着する現代のマスコミの本当の姿がここにある。

■『月刊マスコミ市民』ホームページ
http://masukomi-shimin.com/

(以下、『月刊マスコミ市民』2010年4月号より転載)

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 北海道新聞は2003年11月下旬から05年6月にかけて、北海道警察の裏金問題を追及した。一連の報道からは相当の年月が過ぎたが、実は北海道新聞取材班が記した2冊の書籍をめぐって、札幌で裁判が続いている。原告は、裏金問題が沸騰していた際、道警最高幹部の1人だった佐々木友善・元総務部長。被告は、取材班の責任者だった高田昌幸氏、道警キャップだった佐藤一氏、そして北海道新聞社、出版元の講談社、旬報社である。さらに、ジャーナリストの大谷昭宏氏、作家の宮崎学氏も補助参加人として訴訟に加わっている。裏金報道はその後、北海道新聞と北海道警が「手打ち」して終わったとも言われたが、一連の報道とは何だったのか。そこからメディアが汲み取るべき教訓は何か。当時、北海道新聞の本社報道本部次長(デスク)だった高田さんに、事件や裁判に関する経緯、裁判で輪郭が見えてきた「手打ち」の実態などについて、率直に語っていただいた。聞き手は、マスコミ市民フォーラムの川﨑泰資理事長。

★   ★   ★

■他社より遅れて報じた道警裏金事件

川﨑:北海道警察(以下「道警」という)の裏金問題(註1)が起きてから、かなりの月日が経ちましたね。

高田:裏金問題の報道は2005年夏に事実上終わっています。もっと追及しろという声を今も時々聞きますが、私自身は、いつまでも道警裏金問題でもあるまい、という気持ちがあります。ただ、北海警の佐々木友善元総務部長が私や会社、出版社を提訴したため(註2)、この問題は続くことになりました。提訴が「道警裏金報道のその後」というタイトルの「芝居」のスタートだとすると、まだ真ん中を過ぎたくらいでしょう。それと、最初にお断りしておきますが、きょうは、裁判の被告として、ここに来ました。答えられないことは答えられません。内容は、一審判決後の記者会見、その後の支援集会などで話したことばかりになりますが、構いませんか。

川﨑:はい。結構です。前半戦の裏金報道では北海道新聞(以下「道新」という)は快勝しました。ところが、その事件報道をきちんと追う社がなかったことが、今の事態を招いていると思うのです。

高田:本格的に追う社がなかったのは事実ですが、もともとは我々も「追った立場」でした。2003年の11月23日の夕方に、鳥越俊太郎さんがキャスターをしていた「ザ・スクープ」(テレビ朝日系)が、旭川中央署で捜査用報償費が裏金になっていたのではないかとの疑惑を見事にスクープしました。裏付けとなる内部資料も放映されました。それがすべての始まりです。その時点で、私たちは内部資料すら手に入ってなかった。翌朝、朝日新聞と毎日新聞の朝刊が報じ、道新は2日遅れて紙面化しましたので、3番手くらいでのスタートでした。

 旭川中央警察署の不正経理問題が発覚してから10日も経っていない2003年12月2日〜3日の段階で、我々は「裏金作りは全道警ぐるみで行われている」と、先に結論を書きました。その後の道新の報道は、この結論をどうやって道警に公式に認めさせるか、という内容だったのです。書きっぱなしにはしませんよ、ということです。あっちの警察署でも、こっちの警察署でも、と積み上げ方式で取材するのがふつうのパターンかもしれませんが、そうやって時間をかけていると道警内部で口裏合わせなどが進み、本格的な解明はできないと思いました。だから、最初に結論を書こうと。道警も他社も、そこまでやるとは考えていなかったでしょう。遅れてスタートしたものが、あっという間に何段跳びかで前に行ってしまい、他社は事件を追うこともしませんでした。

川﨑:道新の記事は、通常は北海道に居住していなければ見られませんね。

高田:この問題を、道新だけがガンガンやれば必ず孤立して「一人旅になってしまう」と、最初から思っていました。そこで、当時は珍しい試みでしたが、早い段階で社のホームページに道警の裏金関連の記事をすべてアップしたのです。それを見た全国各地の新聞社や市民から、問い合わせが寄せられました。警察問題に詳しいノンフィクション作家の小林道雄さんは、「毎朝、東京の自宅で道新のホームページをチェックするのが楽しみだった」とおっしゃっています。

川﨑:道新が快勝していた段階で、会社の上層部から「もういい加減にしてくれないか」という話があったのでしょうか。

高田:私かデスクとして采配をふるっている最中には、「書くのをやめろ」という圧力は一切ありませんでした。うわさの類は別にして、「やり過ぎだ」「道警との関係をどうするつもりだ」などと直接言ってくる人は、一人もいませんでした。編集局幹部もそろって「頑張れ」と言ってくれていましたし、ある地方の若い記者1人を除いて、直接疑問をぶつけてきた人はいません。その若い記者とは、いい議論ができました。

川﨑:そうだとしたら、道新の幹部は「何とかして高田さんを降ろしたい」と密かに考えたのでしょうか。

高田:それは分かりません。裏金報道が続いている間は、社内の圧力のようなものは本当に何もありませんでした。道新では、夕刊から朝刊への引き継ぎの午後2時前後に報道本部のデスクが集まる会議があります。その場で、「自分のやり方が100%正しいとは思っていないので、疑問や提案があればどんどん平場で言ってください」と、しょっちゅう言っていました。(続く)

[註1]北海道警裏金事問題
2003年11月に北海道警察旭川中央警察署が不正経理を行なっていたことが発覚、後に各部署、各課、ほとんどの警察署でも同様なことが判明して、関係幹部が大量に処分された。日本の警察史上初の大規模な不祥事。北海道新聞の警察担当デスクだった高田昌幸氏は、道警キャップの佐藤一氏ら道警記者クラブ所属の警察担当記者を取材に当たらせ、記者クラブに陣取ったまま、長期に渡ってキャンペーンを張った。

[註2]北海道警元総務部長の提訴
2006年5月31日、元道警本部総務部長の佐々木友善氏は、北海道新聞社、旬報社、講談社、北海道新聞記者高田昌幸氏と佐藤一氏の5者を相手取り、出版によって名誉を毀損されたなどとして、600万円の慰謝科の支払いと書籍の回収などを請求する民事訴訟を札幌地裁に起こした。また、旬報社から出版された「警察幹部を逮捕せよ!」の共著者である大谷昭宏氏と宮崎学氏は、内容に責任があるとして被告側の補助参加をしている。裁判の経緯は、「市民の目フォーラム北海道」のホームページ内の「道警vs道新訴訟」(http://www.geocities.jp/shimin_me/hokkaidou.htm)が詳しい。初回から傍聴を続けている元道警釧路方面本部長・原田宏二氏が記録を綴っている。

2010年7月12日

運命が引き起こす奇跡

 過日、ロンドン在住の作家・黒木亮さんからメールが届いた。自著「冬の喝采」が、近く文庫本になるという。

 黒木さんは、大手邦銀をはじめ、総合商社や証券会社などで国際プロジェクト金融を手掛け、アフリカから中東、アジアなどを縦横に駆け巡った経験を持つ。それに裏打ちされた「巨大投資銀行」「エネルギー」といった作品は、多くの読者を魅了してきた。

 英国に住んでいた数年前、黒木さんの仕事場を訪れたことがある。ロンドン北部の住宅街。いかにも作家らしく、仕事部屋は資料や本であふれ、どこに腰を下ろそうかと迷うほどだった。

 そして、その部屋で、まさに運命の奇跡とでも言うべき、「あの話」を黒木さんから聞いたのである。古いスクラップ・ブックやアルバムを眺めながら。

 私と同世代の方は、マラソンの瀬古利彦選手を覚えていると思う。

 早稲田大学在学中に華々しくデビューし、五輪にも2度出場した。その瀬古選手と同じ時期に、早大競走部に在籍したのが、金山雅之選手(黒木さんの本名)である。金山選手は箱根駅伝も走った。「花の2区」を走った瀬古選手からタスキを受け取って3区を走り、4区へタスキを引き継ぐ。翌年は8区を走った。エンジ色のランニング・シャツに、白字で大きな「W」。それが、若き日の黒木さんだった。

 自伝小説「冬の喝采」は、そんなランナー・金山の物語だ。北海道の田舎町で本格的に走り始めた高校時代から早大時代まで、金山選手は来る日も来る日も走る。ケガで走れなくても、頭の中にあるのは、走ることだけである。単調でもあるけれど、その凡庸たる日々を積み重ねた者だけが非凡さを獲得し、道を切り開くのだ。それを痛感させられるような日々が、ページをめくるたび、これもかこれでもかと続いていく。

 北海道の高校を卒業した金山選手は、早大へ進学した。
 その入学手続きの際、実の両親と信じて疑わなかった父母は、実は養父母だったことを知った。生後7カ月のとき、養子に出されたのだという。上京してきた養父に真実を聞かされた金山選手は、少し外出し、気分を鎮めてアパートに戻った。すると、養父はシュークリームの箱を差し出す。それを見た金山選手は箱を部屋の隅に叩きつけた。

 自分はこれからも何も変わらないと思っているのに、父が自分に媚びようとする。それに腹が立った。人生はもう戻らないのだ。自分が前向きになっているのに、父さん、あなたが変わってどうするのだ?

 やがて、金山選手はアパートの部屋で48歳の養父に向かって、こう言った。

「これからも僕の親は、父さんと母さんだけだから......よろしくお願いします」

 大学卒業後、大手邦銀に入った金山さんは1988年、ロンドン支店に赴任した。日本から遠く離れた異国で万が一のことがあったら、実の父母も悲しむかもしれない。そんなことを考えながら、金山さんは戸籍を手掛かりにして、実の両親に初めて手紙を書く。あて先は「北海道岩見沢市」だった。

 すぐに母から返事が届いた。封を開けると、ランナーのモノクロ写真が何枚も入っている。自分を写したものではない。一番大きな写真は、昭和20年代の箱根駅伝の写真だった。「M」の文字の入ったランニング・シャツを着た若者が、懸命に走っている。
それこそが、金山選手の父の、若き日の姿だった。金山選手の父も、箱根駅伝の選手だったのである。

 明治大学の選手として、父は4年間に4度出場した。金山選手が走った3区と8区は、父も走っている。しかも大学4年のときは、2人とも8区を走り、ともに区間6位・チーム3位だったというのだ。

 それを知った瞬間、私は震えた。

 それからしばらくが過ぎた1996年。英国の永住権を取った金山さんは久々に郷里、北海道を訪れた。そして、初めて両親に会いに行く。迷った末、岩見沢駅から電話をかけた。やがて、69歳になっていた実父が車で迎えに来た。母はちょうど外出しているという。

 自宅に着いた2人は、あぐらをかいて向かい合った。互いに話題を探しながら、話を繋ぐ。生後7カ月で別れた父子に親子の歴史はなく、陸上競技だけが共通の話題だった。半世紀近くを経て、顔を合わせた2人の箱根駅伝ランナー。ともに中村清氏(故人)に師事した経験もあった。それでも、会話はぎこちなく、言葉は時に途切れがちだったという。

 そこへ電話が鳴った。立ち上がった実父は受話器を取るなり、たんたんとした口調を一変させ、急に大声になった。そして、電話の向こうの母に言った。

「おい、今、雅之がきてるんだわ! 早くタクシーに乗って帰って来い!」

 小説「冬の喝采」は、その場面で終わる。息子を手放すとき、布団をかぶり、声を押し殺して泣き続けたという母とは、その日、どんな話をしたのだろう。

 「運命が引き起こす奇跡と、努力は無限の力を生み出すこと。その2つを書きたかった」と言う黒木さんは、母とのその後を尋ねる私に、その様子を丁寧に教えてくれた。

 小説には出てこない、その後の場面を知って、不覚にも私は再び泣いた。

2010年7月10日

官房機密費とメディア ── 連綿と続く癒着の構造

 「官房機密費が代々、報道各社の政治担当記者たちに流れていたのではないか」。そういった批判がいま、週刊誌やネット上で渦巻いている。野中広務元官房長官ら、機密費を渡した側の人々が次々とそうした証言を行っているからだ。むろん、大手新聞はこうした問題をほとんど報じていない。

 そんな最中、この問題の追及に熱心な週刊ポストが7月2日号で、「怒りの告発キャンペーン第6弾 元NHK官邸キャップが実名告白 『私はこうして官房機密費を手渡された』」と題する記事を掲載した。元NHKの川崎泰資氏が1967年、時の佐藤栄作首相に同行して台湾を訪問した際、秘書官から現地で「ご苦労さんです。これをどうぞ」と封筒を差し出されたことを綴った内容だ。封筒には100ドル札が入っていたという。驚いた川崎氏が封筒を突き返すと、首相秘書官は「そんなことをしたら仕事が出来なくなるよ。あなたの先輩もみんな受け取っているんだから」と言ったのだという。当時の100ドルは3万6000円。大卒初任給が2万円台の時代だったから、その金額の大きさが分かる。

 その週刊ポストが店頭に並んだ日、私はある小宴に顔を出していた。そこに、たまたま川崎氏も出席していて、雑誌記事のことを知らずにいた私は、記事のコピーを見せられ、大いに驚いたのである。そして川崎氏はこんなことを言った。

 「ポストに話した官房機密費のこと、私自身は10年以上も前に、とっくに明らかにしているんです。今になって初めて話したわけじゃない。こうした問題(政治記者と政治家の癒着)は、ずっと指摘されているのに、こんなにも長い間、放置されている。それこそが問題なんですよ」

 川崎氏は実は、雑誌「世界」(岩波書店)の1994年1月号に「政治記者はこうして堕ちていった」というタイトルの論文を発表し、その中で、上記の金銭問題を詳述している。そのほかのエピソードも実に凄まじい内容だ。

 田中角栄、福田赳夫の両氏が自民党総裁選を戦った1972年の「角福決戦」の際のエピソードも登場する。

 それによると、田中派は当時、記者にカネを渡し、田中氏に有利な記事を書かせていると言われていた。困った福田派幹部の有田喜一氏は、官邸詰め記者だった川崎氏に対し、「田中派は担当記者に10万円渡している。(福田派担当もそれを真似たいが)誰に渡したらいいのか、信頼できる記者を教えて欲しい」と懇願したというのである。

 また田中氏は首相就任時、番記者たちを軽井沢の料亭に招き、こんなことを言ったのだという。「マスコミ各社の内情は全部知っているからやれないことはない」「一番こわいのは一線記者の君たちだけだが、社長や部長はどうにでもなる」「君たちもつまらん事は追いかけず、危ない橋を渡らなければ私も助かるし、君たちも助かる」

 なんとも、すさまじい内容である。こうした行動は田中氏などに限らなかったであろうし、形を変えながら、その後も続いていたとしても何の不思議もない。要するに、彼ら(=権力)は「おれたちの仲間になれ」と言っているのだ。そして少なくないサラリーマン(=記者)たちは、仲間になってしまったのだろうと思う。私は東京での政治取材はほとんど経験していないから、「官房機密費」には縁がなかった。ただし、金銭が絡みそうになった、幾ばくかの経験はある。

 10数年前のことだ。経済記者だった私は、ある企業の幹部を取材した際、「お車代」を手渡されそうになった経験がある。封筒に入った現金は5万円だった。電車どころか、歩いて訪問が可能な距離だった。ところが、訪問先のエレベーターホールで秘書氏と問答を続けていた際、「これくらい問題ないですよ」「みんな受け取ってますよ」と彼は繰り返した。

 これも10数年前のことだが、ある有力な取材先が「お仕立て券付きワイシャツ」を送ってきたことがある。送り返すと、その年配の男性からは怒りに満ちた内容証明が届いた。自分に恥をかかせてどういうつもりか、みんな受け取っている、返却したことを詫びないと過去の諸先輩の行状を明らかにする......。そんなことを連綿と記しているのである。内容証明は放置していたら、その後は何も言って来なかったが。

 話は少し変わるが、何年か前まで「記者クラブ」制度が機能していていた韓国でも、金銭を媒介にした凄まじい癒着の構造があったことが分かっている。そのことは、筆者の個人ブログ「ニュースの現場で考えること」の中で、「役所や業者から記者クラブの記者へ現金が」でも紹介した。

 よく知られたように、韓国の記者クラブ制度は、日本の植民地時代に日本が根付かせたと言われているが、幸いなことにというべきか、韓国ではそうした癒着が白日の下に明らかとなり、有力紙などが厳しく自己批判した。新聞の1面で読者・国民に「癒着」を詫び、二度とこうしたことはしない、と誓ったそうだ。ただし、韓国の有力紙は、ある日突然、自らを顧みたのではない。私の知る限り、有力紙がそこまで追い込まれたのは、新興の「ハンギョレ新聞」が、大手紙と権力との癒着を厳しく追及したことが大きく影響している。つまり、「外圧」である。

 川崎氏は「世界」の論文の末尾で、記者会見のオープン化の流れ等にも言及し、「記者は権力に対してアウトサイダーでなければならない。とくに政治記者は権力、インサイダーと決別することから全てが始まる。記者が権力に愛されることがあってはならない」と記している。

 問題は、それをどう実践するか、にある。
 川崎氏は先の小宴で、報道各社の組織劣化は、過去から連綿と続いてきたのであり、各社幹部は真摯に反省などしたことはないだろう、と語った。何とかしなければならないけれども、何ともならないだろう、ということだ。

 古びてしまい、保守化・官僚化が極まった今の報道各社に、内部改革は可能だろうか? 無責任かもしれないが、私自身は五里霧中である。

2010年7月 6日

事件報道の書き方を変えよ(2)

 日本の事件報道は過去、捜査当局の言い分を信頼しすぎてきた。起訴前の捜査は元来、見込みと不確実さを多分に含んでいるにもかかわらず、日本の報道界は、「捜査情報のスクープ」こそが本当のスクープであるとの認識に立ち、捜査当局と同じ目線で情報を拡散させてきた。
 なんだかんだと言っても、それが現実である。だから、警察・検察担当記者と捜査当局は、だいたいにおいて、同じ方向を向いている。捜査当局と一体になった激しい容疑者バッシング、「推定無罪の原則」など完全に忘れたかのような「犯人視報道」・・・。こうした例は枚挙にいとまがない。
 捜査当局を常に「正義」として捉え、当局と一緒になって「勧善懲悪」式の報道を繰り返す日本のメディアは、ほんとうに何というか、ウブだなと思う。

 捜査当局と報道各社の関係は、いまや「構造」である。
 前回の「事件原稿の書き方を変えよ(1)」で、筆者は、3つの要因がその構造を支えていると書いた。すなわち、記者の配置の問題(警察・検察記者クラブへの人員の過剰配置)、記者の目線問題(捜査当局と二人三脚になった犯人捜し・容疑者バッシング)、原稿の書き方、の3点である。このうち、改革が最も手っ取り早いのは、「原稿の書き方」だろう。「構造」は簡単には変革できないが、「書き方」の改善は、やろうと思えばすぐにでも可能だ。

 ところで、日本新聞協会は2008年1月の「裁判員制度開始にあたっての取材・報道指針」の中で、「捜査段階の供述の報道にあたっては、供述とは、多くの場合、その一部が捜査当局や弁護士等を通じて間接的に伝えられるものであり、情報提供者の立場によって力点の置き方やニュアンスが異なること、時を追って変遷する例があることなどを念頭に、内容のすべてがそのまま真実であるとの印象を読者・視聴者に与えることのないよう記事の書き方等に十分配慮する」と明示している。それに沿って、多くの新聞社が独自にガイドラインなどを設けた。

 ただし、多少のガイドラインを設けはしたが、それ以降も容疑者を「犯人視」する風潮など、実態は何も変わっていない。ひどいものである。新聞協会の指針や自社の取り決めなど、早くも忘れ去ってしまったかのようだ。
 一例を挙げよう。実際の事件原稿をもとにした、あくまでもモデル原稿である。まず、現在、通常に使用されている形式で、この事件を読んでもらいたい。下敷きにした原稿は、通信社のものである(もちろん、内容は少し変えてある)。

 他人名義のクレジットカード情報を悪用し、公演チケットをだまし取ったとして、警視庁銀座署は5日までに、電子計算機使用詐欺の疑いで、東京都港区、会社役員X容疑者(34)を逮捕した。銀座署によると、X容疑者は複数人のカード情報を使い、昨年4月以降、約180件の詐取を繰り返しており、被害総額は約3400万円に上るとみられる。
 X容疑者は「盗まれたカード番号を使った」と供述しているが、被害者の一人は「カードを盗まれたり、人に貸したりしたことはない」と話しており、銀座署は、カード情報のみを不正に入手したとみて調べている。
 逮捕容疑は昨年11月7日、チケット販売会社のサイトに、別人の名義のカード番号や有効期限などを入力し、劇団の公演のチケット2枚(2万円相当)をだまし取った疑い。X容疑者は「チケットはインターネット掲示板で転売し、約2千万円の利益を得た。ぜいたくな暮らしがしたかった」と容疑を認めている。

 読んでみて、どうだろう。実際の逮捕容疑は「2万円の詐欺」なのに、「数千万円の詐欺」が確定的事実のように伝わってくる。そう感じるのは、私だけではあるまい。この記事が仮に、他社の知らない「スクープ」だったとすると、この程度の内容でも社会面の2番手くらいの扱いになるかもしれない。その場合はたぶん、「他人になりすまし 34歳男 電気計算機使用詐欺で逮捕 3000万円超を荒稼ぎか」といった感じの見出しも付くに違いない。

 では、この原稿を以下のように改訂してみよう。ポイントは「情報の出所をできるだけ明示する」ことにある。

 警視庁銀座署は5日、電子計算機使用詐欺の疑いで、東京都港区、会社役員X容疑者(34)を逮捕したと発表した。銀座署の広報担当である山田タロウ副署長によると、X容疑者は複数人のカード情報を使い、昨年4月以降、約180件の詐取(被害総額は約3400万円)を繰り返していたとの情報を警察はつかんでいるという。ただし、当新聞は警察側からの情報以外に、この事件に関する情報は得ていない。
 報道発表文によると、X容疑者の逮捕容疑は昨年11月7日、チケット販売会社のサイトに、別人の名義のカード番号や有効期限などを入力し、劇団の公演のチケット2枚(2万円相当)をだまし取った、という内容。逮捕状は今月4日夜に執行された山田副署長によると、X容疑者は「チケットはインターネット掲示板で転売し、約2千万円の利益を得た。ぜいたくな暮らしがしたかった」と供述しているという。
 しかし、X容疑者が関与したと警察が判断している「約180件」について、どのような形で関与を特定したのか、という記者の質問には、副署長は回答しなかった。「約180件」のうち被害届が出ている件数についても回答しなかった。
 山田副署長によると、X容疑者は逮捕された後、弁護士を呼んでいない。

 「捜査情報の出所の明示」を記事の基本に据える場合は、単なる「関係者によると」という表記は使用しない。どのような関係者か、を極力具体的に書く。捜査に関わる人が情報源の場合は、「県警捜査2課の捜査員によれば」「県警の捜査員によれば」などのように、必要に応じて明示の度合いを考えていけばよい。
 その際も、広報担当の「副署長」「次席検事」などは実名で表記すべきだ。
 強大な権力の行使者だから、例えば、被疑者を起訴した際の検察官の名前、起訴時に報道向けにそれを説明した人物(通常は次席検事)なども実名で記述していくべきであろう。

2010年7月 5日

事件報道の書き方を変えよ(1)

 大相撲の不祥事やサッカーW杯の陰に隠れている感じがあるが、参院選の投票が刻々と迫っている。それにしても、だ。世の移ろいの、何と凄まじきことか。昨年の今ごろは自民党の麻生太郎政権だった。それが民主党の鳩山由紀夫政権を経て、今は菅直人氏が首相である。
 報道の景色も目まぐるしく変化した。ほんの数カ月前まで、新聞の1面や社会面を埋め尽くしていた感のある「小沢一郎資金疑惑」や「普天間問題」は、めっきり影が薄くなった。問題そのものが消えて無くなったわけでもあるまいに。

 民主党の小沢一郎・前幹事長の資金疑惑問題については、それが沸騰していたころ、何度か自分のブログでも「報道のおかしさ」を軸に記事を書いてきた。「リーク批判に対する新聞の言い分」「事件報道自体の量的抑制が必要だ」「報道とは結局、何なのか」などが、それである。

 そのころ、書こう、書こうと考えながら、忘れていた事柄がある。それに触れておこうと思う。もちろん、一連の資金疑惑問題をほじくり返すことが目的ではない。私自身は資金疑惑を直接取材もしていないから、以下の文章はある意味、「感想」の域を出ていない。それを最初にお断りしておく。

 小沢氏は2007年2月、自ら記者会見を開いた。問題となった東京都世田谷区の土地購入に関連して、資料も公開。土地の所有者は、登記上の名義人である小沢氏ではなく、「陸山会」であることを示す「確認書」も示した。
 一連の怒濤のような小沢疑惑報道の中で、今年1月下旬、ある全国紙に「世田谷の土地購入に関する小沢氏の説明が二転三転している」という趣旨の大きな記事が掲載された。その中に、上記の記者会見時に示された「確認書」をめぐって、こんなくだりが出てくる。

「......(確認書の)日付は不動産登記をした05年1月7日になっていたが、特捜部の捜査で、確認書が会見直前に作成されたことが判明している。」

 さて、問題はここからである。ペーパー上の日付と実際の書類作成時の日付が違うことを、この新聞社はどうやって確認したのだろうか。記事によると、それを確認したのは、「特捜部の捜査」である。
 しかし、特捜部側の情報しか無いのであれば、この場合は、「確認書は会見直前に作成されたと、特捜部は言っている」と表現するのが正しい。「捜査で判明した」と「捜査で判明したと言っている」には、雲泥の差がある。前者の例だと、日付の違いはいわば確定的事実だ。後者の例だと、「特捜部が『言っている』としか書いていませんよ、捜査側の一方的な情報ですよ」という内容になる。

 その後、この記事作成に関わった記者と話す機会があったので、率直に聞いてみた。検察情報しかないのであれば、「コレコレと検察は言っている」と書くべきではないか、検察が言っているだけのことだ、というニュアンスを強調すべきではないか。そんな疑問をぶつけたのである。私はてっきり、「検察情報しか無かったけれども、こういう書き方をしました」という答えが返ってくるものだと思っていた。
 しかし、違った。捜査情報だけでなく、独自に確認したのだという。取材方法や取材源は言えないけれども(それは当然だ)、ある方法で確認したと強調するのである。実は、この時点で、確認書作成に使用されたパソコンは、検察側に押収されていた。そうなると、日付違いの確認方法は、2つくらいしかない。

<A>押収済みのパソコン内の文書ファイルを(検察官らと一緒に)開き、プロパティの作成日時を記者自身の目で確認した。

<B>小沢事務所の職員など、実際に文書を作成した人に会い、作成日時を確認した。
 
 この2つのいずれかを実行していたとしても、確認作業としてはパーフェクトではない。<A>の場合、ファイルをコピーするなどした場合、プロパティの日付が変わる可能性がある。<B>についても、職員の記憶違いなどの可能性が残るからだ。

 当たり前の話だが、取材とは「聞いて、書く」ではなく、「聞いて、確認して、書く」である。

 記者になると、ふつうは最初に「反対側の意見も聞いて書け」と教わる。一部例外もあるが(話がややこしくなるので何が「一部」かの議論は省く)、それが当たり前だ。「する側」と「される側」。その双方の言い分を書くのが当然なのである。
 ところが、事件報道はその例外として放置されてきた。警察や検察の言い分を一方的に書くことを習い性としてきたのである。現在の刑事司法の仕組みの下では、身柄を拘束された起訴前の容疑者に対し、記者が直接取材することは事実上不可能だ。容疑者に接見した弁護士への取材は可能だが、容疑者がすべて弁護士を付けているわけでもない。だから、捜査段階で「事件の筋」(=捜査当局がどのような見通しを持って捜査しているか)を追うような記事を書こうとすれば、ネタ元は事実上、捜査当局に限られてくる。だから、その土俵の上で報道を続けようとする限り、報道側は「捜査情報をいかに早く入手するか」に傾注することになる。

 しかも、各社は裁判担当よりも、はるかに多くの記者を警察・検察に張り付けている。それが「捜査情報のネタの奪い合い」に拍車を掛け、捜査側と報道側は同じ方向を向き、そして両者は二人三脚で「正義」の名の下に活動を続けていく素地になっているのだ。

 最近、冤罪として鹿児島県の志布志事件が脚光を浴びた。粘り強く報道した朝日新聞鹿児島総局の、大きな成果でもあったと思う。しかし、事件のおかしさが大きな問題となったのは、裁判になってからである。栃木の幼女殺害事件も同じく、裁判になってから、だ。
 志布志事件の報道に力を入れたのは朝日新聞であり、確かにとても良い仕事だったと思う。ただ、その関連本を読むと、あれほどのおかしな捜査に対し、なぜ報道各社は捜査段階で疑問を感じなかったのか、との疑問も拭いきれない。

 捜査段階で記者たちは、本当に何も「異常」に気付かなかったのか。鹿児島に限ったことではないが、ずさん捜査や違法捜査に、仮に気付かなかったのだとしたら、警察に大量の記者を張り付けている意味はどこにあるのだろうか。

 日本の事件報道は過去、捜査当局の言い分を信頼しすぎてきた。そのうえ、事件取材はあらゆる分野の取材の基礎だと言われ、大勢の記者がその洗礼を受けてきた。当局にすり寄り、おもねる記者の心理は、こうした「警察取材」によって醸成されていると言っても過言ではあるまい。

 記者の配置の問題(警察・検察記者クラブへの人員の過剰配置)、記者の目線問題(捜査当局と二人三脚になった犯人捜し・容疑者バッシング)、そして原稿の書き方。こうした構造を解きほぐさない限り、異様な事件報道は解消できない。このうち、最も手っ取り早いのは、「原稿の書き方」の問題である。容疑者に直接取材できないなどの「構造」は簡単には変革できないが、「書き方」の改善は、やろうと思えばすぐにでも可能だ。
 では、実際には、記事のどこをどう変えていくのか。それはまた、おいおい書いていきたいと思う。

Profile

高田昌幸(たかだ・まさゆき )

-----<経歴>-----

1960年、高知県生まれ。
1986年、北海道の地方紙入社。経済部、社会部、東京政治経済部、ロンドン支局などで取材。
1996年、取材班の一員として「北海道庁公費乱用の一連の報道」で新聞協会賞、日本ジャーナリスト会議(JCJ)奨励賞を受賞。
2004年、取材班代表として「北海道警の裏金問題取材」で新聞協会賞、JCJ大賞、菊池寛賞、新聞労連ジャーナリスト大賞を受賞。「記者会見・記者室の完全開放を求める会」世話人。

-----<リンク>-----

■ニュースの現場で考えること

■「ニュースの現場で考えること」の書棚

■記者会見・記者室の完全開放を求める会

■市民の目フォーラム北海道「北海道警察VS北海道新聞」

■木をみて森もみる(エッセイ)

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