「田中角栄」という宿題
戦後最大の政治スキャンダルである「ロッキード事件」は1976(昭和51)年、アメリカ議会の公聴会で突然発覚した。同年に逮捕された田中角栄は、この事件で「金権政治家」という烙印を押され、最後までそれを拭い去れないまま93(平成5)年に死去した。だが、この事件を取材したジャーナリストのなかには、「いまだ明らかになっていない真相がある」と語る人は多い。長年にわたって取材を続けてきた田原総一朗氏も、その一人だ。その田原氏が、朝日新聞出版社刊行の「どらく」でロッキード事件に残された「ある謎」について語った。
(文責:《THE JOURNAL》編集部)
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「田中角栄」という宿題(田原総一朗)
http://doraku.asahi.com/earth/showa/090707.html
田中角栄はオイルメジャー(国際石油資本)依存からの脱却を図って、積極的な資源外交を展開した。そのことがアメリカに睨まれて、アメリカ発の「ロッキード爆弾」に直撃された、という問題提起であった。
このレポートの取材をしたことで、毀誉褒貶の極端に激しい田中角栄という政治家に、それゆえに強い興味を覚え、田中がロッキード社から丸紅経由で5億円の賄賂を受け取ったというロッキード事件に注目せざるを得なくなった。
ロッキード事件は首相の犯罪として裁かれ、田中角栄の死をもって、平成5年(1993)12月、「被告人死亡につき公訴棄却」となって歴史の表舞台から消えた。
しかし、わたしにはいまだに釈然としない少なからぬ事柄がある。
ロッキード事件をあらためて点検するために、事件の捜査、そして裁判に関わった検事や弁護士たちに、ときには無理を承知で頼み込み、出来る限り直接会って話を聴いた。
すると、思いもかけない新事実や、定説を覆す証言が、少なからず出てきた。
田中角栄とロッキード裁判は、長い間わたしにとって解答の出せない重い宿題であった。
わたしは「中央公論」昭和51年(1976)7月号に「アメリカの虎の尾を踏んだ田中角栄」というレポートを書いた。これがフリージャーナリストとしてのスタートだった。
特に、事件の捜査を担当した東京地検特捜部検事の一人は、匿名を条件に田中角栄の有罪判決をひっくり返す驚くべき話をしたのである。
「丸紅の伊藤宏が、榎本敏夫(元首相秘書官)にダンボール箱に入った金を渡した4回の場所については、どうも辻褄が合わない。被疑者の一人が嘘を喋り、担当検事がそれに乗ってしまった。いままで誰にも言っていないけれど、そうとしか考えられない」
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