■The Commons × JFN 合同企画!
TOKYO FM・JFN系でオンエア中の「PEOPLE ~高野孟のラジオ万華鏡~」。
今回はゲストに田原総一朗さんを迎え、田原さんが少年時代に経験した8月15日について語っていただきました。本放送は26日の予定ですが、今回の「タハラ・インタラクティブ」では終戦記念日の特別特集として、高野編集長との対談を特別公開します。
田原さんの人生に大きな影響を与えたという「昭和20年8月15日」
その日、小学5年生だった田原少年は何を考え、何を見たのでしょうか・・・
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┃8月15日は“解放”の日
高野:今年で62回目を迎える終戦記念日。田原総一朗さんにとっての8月15日とは何ですか?
田原:まずは、玉音放送。敗戦のとき僕は小学5年で、今日は天皇の玉音放送があるというので、近所の人たちの何人かが僕の家でラジオを聞こうということで集まった。
ところが、放送は雑音が多くてうまく聞き取れない。天皇の声が聞こえてきて、「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ・・」と言うから、僕は「戦争は続くんだなあ」と思った(笑)。そこにいた人たちもみんなそう捉えた。そしたら、午後になって市役所の人たちが「戦争が終わった」というふうに知らせてきた。
高野:じゃあ、玉音放送では終戦だとわからなかったのですか?
田原:雑音も多かったし、「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」だから我慢して戦争を続けるんだと思った。だから戦争が終わったと聞いて、僕はガックリときた。絶望的になって、自宅の離れの2階へ上がって1人で泣いた。
なんでかというと、当時、僕らの将来は2つしかなくて「陸軍に行くか、海軍に行くか」だった。いずれにしても軍隊ですね。僕は海軍兵学校に入るつもりだった。というのは、陸軍は歩かないといけないから(笑)。海軍は甲板の上だからたいして歩かなくていいと思った。だから、敗戦で前途を全く断たれてしまった。
高野:ということは、田原さんはまるっきり軍国少年だったんですか?
田原:まるっきりの軍国少年。というよりそれ以外の少年はいないし、選択肢もなかった。学校では「君らは20歳が寿命、天皇のために死ね。大東亜共栄圏の捨石になるんだ」と教えられてきた。
だから8月15日は泣き寝入りしたんです。それで目が覚めたら夜になってた。ところが、夜になって街を見てみると、街が明るい。前の晩まで爆撃を避けるための灯火管制で真っ黒だったのが、明るい。だから、僕は反射的に「あ、解放されたんだ・・・」と思いました。どの家も明るく、夏だから窓も開けていて、とっても解放感があった。絶望の中に泣いていたのが急に解放された。
それからも敗戦後はいいことばかりあった。まず、それまで軍隊が持っていた鮭缶なんかの缶詰が配給されるようになった。
それから、進駐軍が来た。僕は滋賀県彦根の生まれですが、彦根には大蔵省の印刷局があった。進駐軍はそこを占領して、ガードマンの兵隊が何人かいた。これがまた陽気な男で、行くとガムとかチョコレートをくれたりして仲良くなった。占領って言うのもなかなか悪くないなあなんて思った(笑)。
だから、僕はあまり占領について悪い感情を持ってないんですよね。
その意味で、僕にとっての8月15日を一言で言えば“解放”です。今でもとても重要な日だと思っている。
┃疑り深さが基本の基本
高野:陸軍か海軍かという選択肢しかなかったのに、そこから立ち直って“次に何になろうか”という再設定、もしくは“リセット”はすぐにできたんですか?。
田原:それは簡単でした。8月は学校は夏休みだから、2学期になって学校に行った。
そしたら、学校の先生が「戦争をおこすなんてヤツは人間的じゃない、非人間、人非人だ」と言う。先生はサラッと変わった。もちろん校長も。「君らは戦争を仕掛けるヤツらがいたら命をはって闘え」と。急に反戦になった。
その後もずっと「反戦、反戦」で、高校に入った。ところが、高校1年のときに朝鮮戦争が始まった。そしたら、反戦なんて言うと「あいつはアカだ!」と言われるようになった。
僕はステージが変わるたびに上の人間の言う事がコロッと変わってきた。
だからこういう商売(=ジャーナリスト)をやってるんだろうね。
高野:疑い深い。
田原:そう。だいたい偉い人が大きな声で言ってることはだいたい怪しいと思うし、それを信じたら間違っている。これはもう僕の中で基本の基本になってるね。
高野:1945年~50年までは「反戦!」と言われていたのに、朝鮮戦争が始まると・・
田原:アカだと言われてしまう。敗戦から数年間は共産党はとても素晴らしかった。ところが高校に入ってから悪い党になってしまった。
┃一番大変だったのは貧乏だったこと
田原:ただ、それよりも一番大変だったのは、食べるものもない、着るものもない、僕には家があったけど、多くの人は住む場所もなかったこと。ゼロからの出発だった。いま、食べるものがないなんて信じられないでしょ?
野原や畑に行って雑草をとってきて、おひたしにしてこの雑草は食える、これは食えないとやる。下手な雑草をおひたしにすると下痢をしたりする。とにかく何にもない。貧しい。それが一番基本にあった。
高野:僕なんかは10年年下だからそんなことはなかったけど、戦時中は大豆の皮ばっかりを食べて下痢をよくしてたなんて話をオフクロから聞かされたことがありましたよ。
田原:米の配給がなかったから、親父がオフクロの着物を持って農家に米と物々交換をしに行くわけです。帰りに警察に捕まるとおしまいだけど、幸い見つからなくて、家に持って帰ってきた。そうすると、新聞の上にもらってきた米を広げて山を作って、そこに両手をつっこむのが一番の幸せだった。指の間の米の感覚、「純米だー」という感覚。
だから、僕は今でも外でご飯を食べるときに米は残さない。お刺身や肉はいくら残しても平気だけど、米は残せない。
高野:田原さんの世代の方々って価値観のでんぐり返りみたいなことを経験して、疑り深くなって、戦争というものは2度とあってはいけないんだと考えているんですか?
田原:それは芯からそう思ってる。とにかく世の中がグルグル変わるからそう簡単には信用しないぞ、というのが僕の基本になっています。
(構成/《ざ・こもんず》運営事務局)
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26日の放送では終戦記念日対談のほかに、現代日本人論から安倍政権の評価、民主党が政権をとった場合どうなるのか・・ などなど盛りだくさんの内容になっています。
みなさんお聞きの逃しなく!