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« 田原総一朗はこう語った(6)──田原総一朗流 再チャレンジ人生
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《追悼・宮澤喜一氏》宮澤元首相の最終講義 in 早稲田大学(2) »

《追悼・宮澤喜一氏》宮澤元首相の最終講義 in 早稲田大学(1)

戦後政治の保守本流を歩んだ自民党元議員、宮澤喜一元首相が28日午後1時16分、老衰のため都内の自宅でご逝去されました。87歳でした。

「ハト派」「経済政策の専門家」「英語の達人」「戦後政治の証人」など、多くの異名を持っていた宮澤さんは「戦後政治家最高の知性」ともいわれ、晩年は保守派リベラルの論客としてテレビや雑誌のインタビューなどで積極的に発言し、憲法9条の改正には慎重な姿勢を貫きました。

また、田原氏が塾頭を務める「早稲田大学 大隈塾」にはゲスト講師として講義を行ったこともありました。戦後の日本政治を知り尽くした宮澤さんの講義には、終了後の感想文で「大隈塾の授業で一番感動した」と多くの学生が書いていたそうです。

今回の「タハラ・インタラクティブ」では、2003年に宮澤喜一さんと田原総一朗さんが早稲田大学・大隈塾で行った宮澤さんの最終講義をお届けします。

「戦後復興」「プラザ合意」「バブル崩壊」など、日本のターニングポイントをつねにキーパーソンとして活躍してきた宮澤さんは、学生たちに何を語ったのでしょうか。また、日本の未来についてどのように考えていたのでしょうか。

(文責:《ざ・こもんず》運営事務局/出典:『田原総一朗の早大講義録―政治・経済のカラクリ』アスコム

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日本戦後史の証人・宮澤さん
田原総一朗:宮澤喜一さんについてはみなさんも詳しいと思うけど、一言二言紹介しますと、日本の戦後外交史のルーツから現在まで、一貫して一番ご存じなのが宮澤さんです。生き証人といってもいい。

 日本は1951年、サンフランシスコ講和条約(※1)を結んで独立をした。その講和条約を結ぶにあたって、アメリカヘ行って交渉をしたのが、ときの大蔵大臣池田勇人(※2) さんと、秘書官の宮澤さんでした。このときのことについて、『東京-ワシントンの密談』という本をお書きになった。1956年の出版ですが、これは今でも、どの学者も第一級の一次資料として使っています。さっき聞きましたら、今度は英訳されてアメリカでも出版されるそうです。政治家が書いた本で、これほど貴重な本はほかにないと思います。そして、講和条約以降ずっと日本の政治の第一線にいらして、とにかく日米関係といえば宮澤さん、という人です。

 宮澤さんはつい2年前まで、財務大臣を務めていらした。お年を召しても請われて大蔵大臣になったこともあって、「平成の高橋是清」(※3)といわれた。面白いのは、宮澤さんがサミットに行くと、宮澤さんの講演みたいにアメリカもイギリスも、ドイツもスーッと静かに聞き入ってしまう。G7でもそうです。戦後の歴史を全部ご存じだからね。

 もう一つ、経済の面でも日本の政界で宮澤さん以上にわかっている人はいないと思います。自分でもケインジアンだとおっしゃるけれども、ケインズを一番肉体化している政治家だと。そういう政治家です。

 その宮澤さんにお話をいろいろと伺いたいと思いますが、今日はちょっといつもと違った形式で、私がいろいろ質問しながら宮澤さんにご説明していただこうと思っています。

吉田茂は敗戦という悪条件を見事に活用し、戦後日本の基礎をつくった。
田原:さて宮澤さん。ちょっと変なことから伺いたいんですが、宮澤さんは吉田茂さん(※4) の時代からすべて総理大臣をご存じなんですが、宮澤さんから見て、戦後の日本の総理大臣でこの人が一番、というのは誰でしょう。ご自分を除いて(会場笑)。

宮澤喜一:さあねえ、置かれた環境がそれぞれまったく違うから比較するのが難しいですが、でも置かれた環境の悪さを上手に使っていたということで、吉田さんなんかが偉い方じやないですか。

田原:吉田さんのどういうところが偉かったんですか。

宮澤:そうですね、日本は戦争に負けてしまったわけですから、これをもう一度浮かび上がらせるにはどうしたらいいか、ということだけをしょっちゅう考えていた人だと思うんですね。もちろん、どの総理大臣も自分の目標を持ってやっていますけれども、吉田さんは10年ほど在任されて、非常な努力をされた。その間にはずいぶん悪口もいわれましたが。

 他方で、占領中にマッカーサー(連合国占領軍総司令官)とやりとりできるのは吉田さんだけだった。ほかの閣僚は直接マッカーサーに意見を具申することはいっさいできないしくみになっておって、そういう意味ではマッカーサーの威光を十分に利用したともいえる。徹底して、日本をどうやってもう一回浮上させるかということに努力した、こういうことがいえるんじゃないでしょうか。

田原:吉田さんの言葉に、「戦争に負けて外交に勝ったためしはある」というのがありますね。あれはどういうことですか。

宮澤:負けたのはもうしょうがないんだから、負けっぷりをよくしよう、というようなことでしょうかね。まあ、国際政局というのは非常に複雑だし、当時の外交の相手としてはアメリカもあればソ連もいて、それぞれの利害関係もある。日本はまったく比べものにならない存在だが、しかしそういう力の関係を利用して日本が浮き上がれる方法はあるはずだと。外交という方法を使って浮き上がる術があるんだということでしょうか。ご本人は外交官としてずっとやってこられた方ですから。

田原:アメリカは、最初は日本を非武装中立、東洋のスイスにしようという方針をとった。ところが冷戦が起きて、今度は共産勢力に対する橋頭堡にしようと。そこで朝鮮戦争、日本も再軍備しろということになった。これは宮澤さんなんかが交渉でもおっしゃったでしょうけど、吉田さんはそのとき、今日本が再軍備なんかしたら社会党、共産党の天下になるぞとGHQに脅しをかけた。ときにはマッカーサーを使い、ときには社会党や共産党を使うと。このへんが大変お上手だったようですね。

宮澤:吉田さんは、日本が再軍備をすることは日本のためによくない、自分が絶対に阻止すると、かなり強く思っておられたことは確かなんですね。共産党も社会党も再軍備には反対で、当時の自由党もいつも多数勢力とは限りませんから、反対党の勢力を遠慮なく利用して再軍備要求をはねつけていた。これも事実ですね。


プラザ合意による急激な円高が日本経済を直撃し、産業を空洞化させた。
田原:それから、宮澤さんが何といっても一番親しくお仕えしたのが池田勇人さんでした。その池田内閣の所得倍増計画(※5)から日本の高度成長が始まった。この高度成長によって、戦後日本の繁栄、そして現在の日本の基礎をつくることができたわけです。その政策のブレイン中のブレインが宮澤さんで、いわば吉田さんの「日本を浮上させる」という願いを達成された。1980年代になると、21世紀は日本の時代だといわれました。ところが90年代に入ってバブルが弾けた。そのときの総理大臣が宮澤さんだったわけです。バブルが弾けて不況になって以後、ずっと10年以上不況が続いているわけです。これは宮澤さん、どう見ていらっしゃいますか。

宮澤:正直なところ、私もよく考えてみてもわからない。どうしてこうなったかということもわかっていないし、どうしたらこの局面を打開できるかということも、正直をいってまだわかりません。

 ただし、いくつかの関連した出来事はお話しできると思います。それは、1985年にプラザ合意(※6)というものがありました。プラザ合意というのは、日本の通貨に関する国際的な取り決めです。戦争に負けたあと、日本の為替、通貨がいくらと決まったのは1949年の4月なんですが、そのとき360円をもって1ドルとしたわけですね。

 その360円という時代が長く続きました。途中で変動相場制(※7)に変わるんですが、いずれにしても日本はだんだん経済の実力がついてきたのにその程度の円の安さですから、日本の輸出が非常に増えた。日本製品が世界を席巻する一方で、アメリカは膨大な赤字を抱えて一番困っていた。だから、日本に対する批判というより、むしろ非難が轟々たるものでした。

 こうして、1985年に、この日本の円をもっと高くしようじゃないかと、G5の各国首脳がニューヨークのプラザホテルに集まって決めたんです。日本もそれに同意しました。日本が一番苦しくなるわけですけれども、これ以上世界から非難をされるのはかなわないということだったんです。そしてその日、為替市場で自然に決まっていた円は242円でしたが、どんどん円が高くなり始めて、その年の暮れには200円になりました。ですから、3ヶ月たたない間に円は40円も上がったんです。

 さらにその趨勢は続いて、翌年の7月に私が大蔵大臣になるんですが、そのときは1ドル=155円になっているんです。242円のものが155円までに、1年足らずの間になったということは、国民経済というより国民生活全体に非常に大きな影響を与えざるをえない。

 当時、どういうことが起こったかといいますと、日本はそれまでわりに円が安かったから、楽に輸出をしていたのですが、円が高くなりましたから、だんだん輸出が難しくなります。

 企業は輸出をして利益を出していたのに、それができなくなった。このままでは企業を続けていくことができないようなことになって、「政府はいったい何をしているんだと、どうしてこんなに円を高くしたんだ」というようなことをいい始めた。そして揚げ句の果ては、ここが面白いところなんですが、それから2~3年の間に日本の企業がずいぶん日本から出ていったわけです。東南アジアに行ったり、後には中国にも行きまして、よそへ行って賃金の安いところで仕事をしないと、日本の経済、日本の企業の競争力はなくなってしまった。なぜかというと、それだけ円が高くなったからです。

 というようなことで、日本の企業がずいぶん外国へ出てしまった。当時は空洞化ということでやや大げさにいわれたんですが、大いに潤ったのは東南アジアの国であり、やがては中国になるわけです。日本の企業がやってきて工場をつくり、そこで人を雇って仕事をさせてくれるわけですから。東南アジアの国々は非常に潤ったんだが、日本自身は日本の雇用を外国にいわば奪われるような格好になった。今現在のようなことが起こった始まりが1985年です。話がそこへ戻ってきました。85年から今まで18年たちましたが、それをずっと引きずってきているんですね。

ドル買いによる円高の阻止と、失業を防ぐための公共事業。
 市場に円があふれ、土地に向かった。これがバブルの本質だ。

田原:今とても大事なことを話していただいています。今この不況はバブルの反転なんですが、今おっしゃったように、85年はバブルが始まったときでもあります。そのときに大蔵大臣で、バブルが弾けたときが総理大臣だった宮澤さんはどちらもいわば責任者だった。バブル経済が始まるときに、これはちょっとブレーキをかけないといけない、というふうには思わなかったんですか。

宮澤:では、バブルが始まったときの話をしましょう。

 円がどんどん強くなるものだから、日本の企業はとてもやっていけない。毎日毎晩ですよ、1円2円と円が上がっていくのは。ですから86年、87年に私が大蔵大臣で、夜に実業家などに会ったとしても、もう私は大変に批判されました。このままではやっていけない、どうしようかと会議を開いて、休憩してみるとまた2円上がっていた、とか。それで、私がしたことは2つあるわけです。

 一つは、失業者がどんどん出ていた。だから国が予算を組んで公共事業をやって、それで失業を防ごうというのが一つ。もう一つは、為替市場に政府が介入しようと。つまり、政府が自分の金を出して、安くなっていくドルを買うわけです。円を売ってドルを買う、それで円がこれ以上高くならないように、ドルを買って支えようとする。ちょっとやそっとの金ではそんな仕事はできないわけですから、それが仮に1億ドルでも買おうとすれば、2000億円必要だということですね。だからそういったものを、毎日というと大げさだけれども、3日に1回ぐらいは私かやっていたわけです。

 そういうわけで、円をどんどん売りに出してドルを吸い上げるということを政府がやったわけですから、街には円がどんどん膨れ上がっていった。片方では公共事業をやっているから、ここでも円が増えていく。その2つで、過剰購買力というものが生まれた。それがバブルのもとになるわけです。つまり、大変な金が放出された、これがバブルのもとであって、経済界はその金でもって、土地を買って機械を買って工場を建てた。ことに土地を買うということにその金が使われ始めた。それが、バブルの一番基本的な形であるわけです。それでもなお円は高くなるものだから、私はなかなか円を売るのをやめることができない。

田原:つまり、ブレーキがかけられないと。

宮澤:かけられないというよりは、片方で失業がどんどん増えていくわけですから、それに対してはきちんと対応しなければならない。当時は「企業城下町」という言葉がありました。例えば、ある街は造船が基幹産業となって地元の経済の中心になっている。ところが造船業は、円が高くなれば注文がなくなるから、みんな解雇されてしまう。そういったようなところは、失業率が非常に高くなる。だからやっぱり、公共事業もしなければならない。それでやむにやまれずどんどんお金を使ったわけです。失業で困っていたところはそれで救われたんだが、じゃあ土地を買おうという企業もあるだろうし、銀行もあるだろうし個人もいるかもしれない。ですから、そういう意味で過剰購買力というものが過剰に土地の値段を高くした。住宅の値段を高くした。株も上がりました。そういうことがバブルの始まりですね。

 しかし、いつまでもそんなことやっているわけにはいかないし、1988年ごろには高くなる一方の円もだんだん落ち着いてきましたから、今度は逆に引き締めなければいけないということで、89年とか90年に引き締めました。そうすると今まで上がっていた土地や株が急落をするわけです。それはそうでしょうね、国が金を出すのを急にやめるわけですから。それで急落して、そこからバブルがバーストしたわけです。

 バブルのときは、家を建てよう、上地を買って儲けようという人に対して、金融機関がお金を貸すわけです。住宅専門の金融会社がたくさんできましたね。ところが、そういうところへたくさん融資をしている最中にバブルがひっくり返ったわけですから、今度は貸した分か焦げついたわけです。急に値上がりが止まって、むしろ値下がりが始まったわけですから。

 そのときに、たまたま私が総理大臣になりました。その時点での景色というのは、住宅金融会社は貸した分が滞って返ってこない。土地もどんどん値下がりする。これで、不良債権というものが生まれてしまった。不良債権をどうにかしないと、金を貸した住宅金融会社はやっていけないといったことで、今度はこのバブルではなく反対側のバーストから経済をどうやって救うかという、まったく逆の政策の必要が生まれた。だいたいそういう経緯です。

~(2)へ続く~

※1 サンフランシスコ講和条約
51年、日本と連合国48ヶ国の間で結ばれた講和条約。明治以降に日本が併合した全領土の放棄、軍備撤廃、賠償金の支払いなどが定められた。ソ連、ポーランド、チェコスロバキアは反対、中華民国、インドは不参加。ン異本は独立を回復したが、沖縄はアメリカの施政権下に置かれた。この条約と同時に日弁安全保障条約が締結された。

※2 池田勇人
1899年広島県生まれ。1925年京都大学法学部を卒業後、大蔵省に入省。47年事務次官。49年衆議院議員に初当選し、直後に大蔵大臣に抜擢。52年に通産大臣となるが失言問題で辞任。その後、自由党政調会長、幹事長を経て55年の自民党の結党に参加。大蔵大臣、無任所の国務大臣、通産大臣を経て、60年首相に就任。国民所得倍増計画を旗印に農業基本法公布、IMF8条国への移行、OECD加盟、部分的核実験停止条約批准などを行う。

※3 高橋是清
1856年江戸生まれ。67年仙台藩の留学生として渡米。農商務省に入省するが、退官して銀山開発のためペルーに渡るが失敗。92年日本銀行入行、99年日本銀行副総裁に就任。1905年貴族院議員。日銀総裁を経て、13年大蔵大臣。22年首相兼任。24年農商務大臣。27年再び大蔵大臣に就任。金融恐慌に対し、支払猶予緊急勅令(モラトリアム)などで事態を収拾、沈静化の見通しが立つと在職42日で辞職。31年、3たび大蔵大臣に就任するが、36年、2・26事件で暗殺。

※4 吉田茂
1878年東京生まれ。1906年東京帝国大学法学部を卒業後、外務省に入省。イタリア大使、イギリス大使を務めるが、日独伊三国軍事同盟に反対し帰国。戦後、45年に外務大臣に就任。46年首相。以後、5次7年あまりの長期政権となり、戦後政治の基礎を築いた。51年サンフランシスコ平和条約締結。67年死去。

※5 所得倍増計画
60年、池田内閣が策定した61~70年にかけての経済計画。社会資本の充実、産業構造の高度化を目的とし、10年間で国民総生産(GNP)を2倍にすることを目的とした。

※6 プラザ合意
85年、先進5カ国蔵相中央銀行総裁会議(G5)のアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、日本は、為替市場への協調介入によってドル高を是正することで合意した。純債務国に転落したアメリカが、貿易黒字によって経済力を強化したいという思惑があった。

※7 変動相場制
外国為替手形や外国通貨に対する需要と供給によって為替相場が決定する制度。例えば、企業がアメリカに商品を輸出した場合、ドルで受け取った代金を円に替える必要がある。ドルを売って円を買うと、円高ドル安になる。逆に、商品を輸入した場合は円を売ってドルを買うため、
円安ドル高となる。73年に各国は固定相場制から移行。76年のキングストン会議でIMFによって承認された。


『田原総一朗の早大講義録―政治・経済のカラクリ』
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コメント (3)

・宮澤喜一元首相 戦後政治家最高の知性・ うーー合掌。

ところで 後世 地球温暖化対策時代の知性の政治家と言われるだろう田中康夫さん
を6月28日 撮影させてもらいました 参議院選に向けての最新 手ごたえ有りのエネルギーを留めたカットと過去分を併せてどうぞ御観ください。 
田中康夫 photo by Akihiro Takayama

宮澤喜一氏はルィアームストロングによくにている この曲でハト派の彼をおくる YOUTUBEビデオ
http://www.youtube.com/watch?v=vnRqYMTpXHc

今日のサンプロで田原さん SAID
ハト派の宮澤喜一さんがいくと 自民党のなかで平和路線発言がでにくくなる内容/ おもうにますます自民党はタカ派の容貌を強め 国民が警戒して選挙大敗だな 

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Profile

田原総一朗(たはら・そういちろう)

-----<経歴>-----

1934年、滋賀県彦根市生まれ。
早稲田大学文学部卒。
岩波映画製作所、テレビ東京を経て、77年フリーに。
テレビ東京時代の連続番組「ドキュメンタリー青春」で、取材対象者に肉薄する独特のインタビュー手法で注目を浴びる。
現在は政治・経済・メディア・IT等、時代の最先端の問題をとらえ、活字と放送の両メディアにわたり精力的な評論活動を続けている。
テレビジャーナリズムの新しい地平を拓いたとして、98年ギャラクシー35周年記念賞(城戸又一賞)を受賞した。
2002年より母校・早稲田大学で「大隈塾」を開講。塾頭として未来のリーダーを育てるべく、学生や社会人の指導にあたっている。

-----<出演>-----

『朝まで生テレビ!』
(TV朝日、毎月最終金曜25時?)

『サンデープロジェクト』
(TV朝日、毎週日曜10時?)

BookMarks

田原総一朗 公式サイト
http://www.taharasoichiro.com/

田原総一朗のタブーに挑戦!(JFNラジオ番組)
http://www.jfn.co.jp/tahara/

株式会社アスコム
http://www.ascom-inc.jp/

朝まで生テレビ!
http://www.tv-asahi.co.jp/asanama/

サンデープロジェクト
http://www.tv-asahi.co.jp/sunpro/

早稲田大学 大隈塾
http://www.waseda.jp/open/attention/ookuma/ookuma_curriculum_2005.html

早稲田大学 大隈塾ネクスト・リーダー・プログラム
http://www.waseda.jp/extension/okumajuku/index.html

-----<著書>-----


『市場浄化』
2006年10月、講談社


『テレビと権力』
2006年4月、講談社


『オフレコ!Vol.2』
2006年3月、アスコム


『国家と外交』
2005年11月、講談社、田中均共著


『日本の外交と経済』
2005年9月、ダイヤモンド社


『日本の戦後(上)』
2003年9月、講談社


『日本の戦後(下)』
2005年7月、講談社


『田原総一朗自選集 1?5巻』
2005年7?10月、アスコム

『オフレコ!Vol.1』
2005年7月、アスコム、季刊

『日本の戦争』
2004年12月、小学館文庫

『日本の政治?田中角栄・角栄以後』
2002年10月、講談社

『日本の生き方』
2004年11月、PHP研究所

『日本政治の表と裏がわかる本』
2003年5月、幻冬舎文庫

『連合赤軍とオウム?わが心のアルカイダ』
2004年9月、集英社

『「小泉の日本」を読む』
2005年2月、朝日新聞社

『面白い奴ほど仕事人間』
2000月12月、青春出版社

『日本のからくり21』
朝日新聞社

『愛国心』
2003年6月、講談社、共著

『わたしたちの愛』
2003年1月、講談社

『日本よ! 日本人よ!』
2002年11月、小学館

『田原総一朗の早大講義録(1)』
2003年9月、アスコム

『田原総一朗の早大講義録(2)』
2004年3月、アスコム

『田原総一朗の早大「大隈塾」講義録 2005(上)』
2005年5月、ダイヤモンド社

『田原総一朗の早大「大隈塾」講義録 2005(下)』
2005年5月、ダイヤモンド社

『頭のない鯨?平成政治劇の真実』
2000年2月、朝日新聞社

『田原総一朗の闘うテレビ論』
1997年3月、文芸春秋

『メディア・ウォーズ』
1993年3月、講談社

『平成・日本の官僚』
1990年3月、文藝春秋

『警察官僚の時代』
1986年5月、講談社

『マイコン・ウォーズ』
1984年12月、文芸春秋

『原子力戦争』
1981年11月、講談社

-----<連載>-----

週刊朝日「田原総一朗のギロン堂」

SAPIO「大日本帝国下の民主主義」

プレジデント「権力の正体」

-----<映画>-----

『あらかじめ失われた恋人たちよ』
1971年、監督

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