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2007年6月30日

《追悼・宮澤喜一氏》宮澤元首相の最終講義 in 早稲田大学(2)

※この講義は2003年に行われたものです

九二年の段階で不良債権問題の深刻化を予見。
  しかし、大蔵省からも銀行からも実業界からも猛反対された。

田原:そこで伺いたいんですが、バブルが弾けました。今おっしゃったように、銀行がお金を貸している担保の土地の値段が下がるんだから、不良債権になる。宮澤さんが総理大臣の92年夏のことです。そのとき宮澤さんは、バブルが弾けて一番の問題は、銀行の不良債権だとおっしゃっていた。銀行の不良債権処理のためには、政府は公的資金を投入する用意がある、とおっしゃった。このときに手をつけておけば、今のような大変なことにならなかったんですよ。これに対して銀行も大蔵省も財界も、全部反対した。だから、ついにできなかったと。これ、どうしてみんな反対したんですか。

宮澤:そうですね。あれは軽井沢での講演でした。まだ世間に表面化してきてはいないけれども、住宅に金を貸している金融機関をはじめ、普通の銀行も含めて、大変な不良融資が重なり始めている。世間は十分に気がついていないが、今のうちに整理をしないとますます土地が下がっていく。そうするとますます不良債権が増えていく。このまま放置することはできない。そのためには、普通はやってはいけないことだが、場合によっては政府が手を貸してでも不良債権を整理しなければならない。この不良債権の処理に政府も一役買わなきゃならないかもしれない。そんなことを総理大臣としていったんですね。いったんですが、賛成する人はほとんどいなかったですね。

田原:マスコミも反対だった?

宮澤:マスコミも反対でした。

田原:大蔵省も反対?

宮澤:大蔵省も反対、銀行も実業界も反対。みなさん反対ですから、なすすべがなかった。なぜ反対したかというと、基本的に多くの人が、いや、土地はずいぶん上がったけれども、もうそろそろ下げ止まるだろうなと思っていた。土地が上がり始めれば、この問題はすぐ片づくわけですからね。だから、今が底でこれから上がっていくんだから、総理人臣は余計なことをいわないで見てらっしゃい、というような感じが一般的でしたね。

 私は、なかなかそうはいかないんじゃないかと思っていたんだが、銀行は銀行で、「よその銀行は大変かもしれないけど、うちは大丈夫だ。銀行のことは銀行に任せておいていただきたい。政府にいろいろ口を出されたらたまったもんじゃない」というふうでした。実業界のほうは、銀行を正直いって嫌っているわけ。だから、「銀行を救うなんてとんでもない。あんなに高い給料もらっていて、なんで政府が助けるんだ」と、それが実業界の反応。つまり、一億そろって、といえば大げさだが、それくらいみなさんが反対したために、そのときとうとう金融機関の救済ができなかったということです。

田原:ときの総理大臣が大問題だといった不良債権問題に、なんで銀行は動かなかったんですか。なんで反対したんですか。

宮澤:正直をいえば、銀行の首脳部は必ずしも実態を知らなかったといえばいいすぎだが、それに近いでしょうね。

田原:ああ、そうですか。やっぱり実態を知らなかった。

宮澤:自分の銀行がどれだけ深刻な状況になっているか、十分には知っていない。土地を買ったり売ったりさせているのは、どこかの支店だったりするわけですから、それを本店の偉い人はわかってない。だから、余計なことはしないでくださいと。

田原:もう一つ。大蔵省までがなんで反対したんですか。大蔵省は、当然わかっているでしょう。

宮澤:これはやっぱり、今いったように、円高に対応するためにドルを買ったり、公共事業をやった行政の当事者ですから。自分たちのやったことの結果が、今度は遂に、物事がまったく反対に向かって走り出そうとしているという認識を、行政としてはできなかったわけですね。

田原:ちょうど今、同じことが起きていますね。つまり、不良債権の処理のために思いきった手術が必要だと。小泉さんはその手術をしようとしたのですが、金融庁は竹中平蔵さんが大臣になるまで手術をしようとしませんでしたね。これは、宮澤さんの総理のときと同じですか。

宮澤:まあ、役所というところは手術なんか嫌いですね。

田原:嫌い? じやあ、漢方薬で治す?

宮澤:ええ、温めて治そうとか冷やして治そうとか。手術ということは、事態をそこへ持ってきた人の責任問題になりますしね。それから、のるか反るかの仕事になりますから、官僚の通性には合いませんね。

田原:合わない、今もね。もう一つですけど、道路公団の問題(※1)が大騒ぎになっています。道路公団が粉飾決算をしていたと。これで世論は、道路公団の総裁は辞めるべきじゃないかというのが強いんですが、本人も辞めない、扇千景さん(当時の国土交通相)(※2)も辞めさせないといっている。私たち外野からすると、やっぱり辞めさせたほうがいいんじゃないかと思いますが、これはどう考えていらっしゃいますか。

宮澤:実情を知らないのでコメントできませんが、ただ一般的にいえることは、企業であれば損得というものがあって、バランスシートがあって、今期は損をしたから、来期はどうにかしなければならないということが普通の企業にはあります。ところが、役所や公団にはバランスシートがないわけですから、損とか得とかいうことはないわけですね。ですから、そういう社会では、今問題にされているようなことが起こりやすい。

田原:それならどうすればいいんですか。損得の勘定がまったくないような官僚が、日本を仕切っている。また損得の計算がない道路公団、国営産業があるのは。

宮澤:官僚についていう限りは、官僚というのは正義と善を実現しようとしている人たちといっていいんでしょう。それを自分たちの理想としている。その世界は必ずしも、損得と一緒ではない。ですから、官僚の世界の目標は、自分の役所が得をするとか儲けるとかいうことではない。そういうところが、役所のあり方と企業のあり方との基本的な違いではないですか。

 それから公団ということになりますと、いわばハイブリッドなので、役所のいいところと企業のいいところをとって公団をつくったと思ったら、役所の悪いところと、企業の悪いところをとってできちゃったと。こういうことじゃないですか。

日本の安全は自力では守れない。小泉首相のイラク攻撃支持は必然だ。 

田原:さて、もう時間もないので最後に一つ聞きたい。小泉さんはアメリカのイラク戦争を支持するといいました。そして、イラクを復興させるために自衛隊をイラクに送るといっている。これは国連の要請ということで行くのならわかるのですが、英米の占領軍に協力するために行くんだと。このへんは筋として納得しがたいものがあるんですが、宮澤さんはどう考えていますか。

宮澤:日本は自分の武力で自分の国の安全をまっとうすることはできない、だから日米安保体制というものを持っているわけであって、その条約のもとで日本を守っているのはアメリカであります。そういう状況下で、北朝鮮のような非常に近い国で核兵器が開発されている。この状況は日本にとって非常に脅威であって、それに対して日本は独力では対応できない。日米安保条約に頼らざるをえない。これはよくも悪くも事実です。

 そういう事実がありますから、小泉首相の心情を察すれば、今度のイラク戦争でアメリカの立場を自分は応援するんだという小泉さんの決断は、割り切っていえば、日本国自身の安全というものはアメリカが握っているんだ、ということに基づく判断だと考えざるをえないかと思います。そこまではよろしい。

 その次に、そのイラクに向かって自衛隊を出す、出さないという問題があるわけだが、それは世界各国がイラクの国づくりのために貢献する。日本は戦争をしてはならないわけですが、その制約のなかでも一役買うのが国際的な務めじゃないかというふうに、小泉首相はお考えになっているんだろうと、私は想像しています。

田原:小泉さんの考えはわかるんですが、やっぱりイラクに自衛隊を派遣するというのは、自衛権の延長としては無理だと思いますね。それからPKOの延長としても無理だと思います。どういうふうに理屈を立てるんですか。

宮澤:おそらく両方とも無理でしょうね。ですから考え方としては、イラクの国づくりのために世界のたくさんの国が、いろいろな貢献をしようとしている。われわれもイラクがよくなって立ち直ってくれるということについては、そうした願いを持っている。それをわれわれなりに、われわれに何かできるかという法律をつくって、その結果自衛隊を出そうと。こういうふうに説明されるんじゃないですか。

田原:なるほど。わかりました。じゃあ、質問に行きましょう。

~(3)へ続く~


※1 道路公団の問題
日本道路公団の藤井治芳総裁から左遷された幹部の片桐幸雄民営化推進委員会事務局次長が、『文藝春秋』03年8月号で、公団が債務超過を内容とする民間企業並みの財務諸表を作成していたと告発した。当時の行政改革担当大臣である石原伸晃氏は、財務諸表について「民営化のための基礎の基礎」と指摘し、「財務諸表の改ざん、隠ぺいが仮に行われたとすると重大な問題だ。職員の告発なのだから事実でないなら職員を処分しなければならない」と告発の重要性を強調した。

※2 扇千景
本名・林寛子。33年兵庫県生まれ。54年宝塚歌劇団に入り女優となる。77年参議院議員。自民党、新生党、新進党、自由党、保守党党首となる。同年建設大臣兼国土庁長官(のち運輸大臣、北海道開発庁長官も兼務)。01年国土交通大臣に就任。その後、保守新党を経て03年11月に自民党に復党。07年5月、次期参議院選挙へ出馬せず、政界引退を表明した。


『田原総一朗の早大講義録―政治・経済のカラクリ』
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2007年6月29日

《追悼・宮澤喜一氏》宮澤元首相の最終講義 in 早稲田大学(1)

戦後政治の保守本流を歩んだ自民党元議員、宮澤喜一元首相が28日午後1時16分、老衰のため都内の自宅でご逝去されました。87歳でした。

「ハト派」「経済政策の専門家」「英語の達人」「戦後政治の証人」など、多くの異名を持っていた宮澤さんは「戦後政治家最高の知性」ともいわれ、晩年は保守派リベラルの論客としてテレビや雑誌のインタビューなどで積極的に発言し、憲法9条の改正には慎重な姿勢を貫きました。

また、田原氏が塾頭を務める「早稲田大学 大隈塾」にはゲスト講師として講義を行ったこともありました。戦後の日本政治を知り尽くした宮澤さんの講義には、終了後の感想文で「大隈塾の授業で一番感動した」と多くの学生が書いていたそうです。

今回の「タハラ・インタラクティブ」では、2003年に宮澤喜一さんと田原総一朗さんが早稲田大学・大隈塾で行った宮澤さんの最終講義をお届けします。

「戦後復興」「プラザ合意」「バブル崩壊」など、日本のターニングポイントをつねにキーパーソンとして活躍してきた宮澤さんは、学生たちに何を語ったのでしょうか。また、日本の未来についてどのように考えていたのでしょうか。

(文責:《ざ・こもんず》運営事務局/出典:『田原総一朗の早大講義録―政治・経済のカラクリ』アスコム

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日本戦後史の証人・宮澤さん
田原総一朗:宮澤喜一さんについてはみなさんも詳しいと思うけど、一言二言紹介しますと、日本の戦後外交史のルーツから現在まで、一貫して一番ご存じなのが宮澤さんです。生き証人といってもいい。

 日本は1951年、サンフランシスコ講和条約(※1)を結んで独立をした。その講和条約を結ぶにあたって、アメリカヘ行って交渉をしたのが、ときの大蔵大臣池田勇人(※2) さんと、秘書官の宮澤さんでした。このときのことについて、『東京-ワシントンの密談』という本をお書きになった。1956年の出版ですが、これは今でも、どの学者も第一級の一次資料として使っています。さっき聞きましたら、今度は英訳されてアメリカでも出版されるそうです。政治家が書いた本で、これほど貴重な本はほかにないと思います。そして、講和条約以降ずっと日本の政治の第一線にいらして、とにかく日米関係といえば宮澤さん、という人です。

 宮澤さんはつい2年前まで、財務大臣を務めていらした。お年を召しても請われて大蔵大臣になったこともあって、「平成の高橋是清」(※3)といわれた。面白いのは、宮澤さんがサミットに行くと、宮澤さんの講演みたいにアメリカもイギリスも、ドイツもスーッと静かに聞き入ってしまう。G7でもそうです。戦後の歴史を全部ご存じだからね。

 もう一つ、経済の面でも日本の政界で宮澤さん以上にわかっている人はいないと思います。自分でもケインジアンだとおっしゃるけれども、ケインズを一番肉体化している政治家だと。そういう政治家です。

 その宮澤さんにお話をいろいろと伺いたいと思いますが、今日はちょっといつもと違った形式で、私がいろいろ質問しながら宮澤さんにご説明していただこうと思っています。

吉田茂は敗戦という悪条件を見事に活用し、戦後日本の基礎をつくった。
田原:さて宮澤さん。ちょっと変なことから伺いたいんですが、宮澤さんは吉田茂さん(※4) の時代からすべて総理大臣をご存じなんですが、宮澤さんから見て、戦後の日本の総理大臣でこの人が一番、というのは誰でしょう。ご自分を除いて(会場笑)。

宮澤喜一:さあねえ、置かれた環境がそれぞれまったく違うから比較するのが難しいですが、でも置かれた環境の悪さを上手に使っていたということで、吉田さんなんかが偉い方じやないですか。

田原:吉田さんのどういうところが偉かったんですか。

宮澤:そうですね、日本は戦争に負けてしまったわけですから、これをもう一度浮かび上がらせるにはどうしたらいいか、ということだけをしょっちゅう考えていた人だと思うんですね。もちろん、どの総理大臣も自分の目標を持ってやっていますけれども、吉田さんは10年ほど在任されて、非常な努力をされた。その間にはずいぶん悪口もいわれましたが。

 他方で、占領中にマッカーサー(連合国占領軍総司令官)とやりとりできるのは吉田さんだけだった。ほかの閣僚は直接マッカーサーに意見を具申することはいっさいできないしくみになっておって、そういう意味ではマッカーサーの威光を十分に利用したともいえる。徹底して、日本をどうやってもう一回浮上させるかということに努力した、こういうことがいえるんじゃないでしょうか。

田原:吉田さんの言葉に、「戦争に負けて外交に勝ったためしはある」というのがありますね。あれはどういうことですか。

宮澤:負けたのはもうしょうがないんだから、負けっぷりをよくしよう、というようなことでしょうかね。まあ、国際政局というのは非常に複雑だし、当時の外交の相手としてはアメリカもあればソ連もいて、それぞれの利害関係もある。日本はまったく比べものにならない存在だが、しかしそういう力の関係を利用して日本が浮き上がれる方法はあるはずだと。外交という方法を使って浮き上がる術があるんだということでしょうか。ご本人は外交官としてずっとやってこられた方ですから。

田原:アメリカは、最初は日本を非武装中立、東洋のスイスにしようという方針をとった。ところが冷戦が起きて、今度は共産勢力に対する橋頭堡にしようと。そこで朝鮮戦争、日本も再軍備しろということになった。これは宮澤さんなんかが交渉でもおっしゃったでしょうけど、吉田さんはそのとき、今日本が再軍備なんかしたら社会党、共産党の天下になるぞとGHQに脅しをかけた。ときにはマッカーサーを使い、ときには社会党や共産党を使うと。このへんが大変お上手だったようですね。

宮澤:吉田さんは、日本が再軍備をすることは日本のためによくない、自分が絶対に阻止すると、かなり強く思っておられたことは確かなんですね。共産党も社会党も再軍備には反対で、当時の自由党もいつも多数勢力とは限りませんから、反対党の勢力を遠慮なく利用して再軍備要求をはねつけていた。これも事実ですね。


プラザ合意による急激な円高が日本経済を直撃し、産業を空洞化させた。
田原:それから、宮澤さんが何といっても一番親しくお仕えしたのが池田勇人さんでした。その池田内閣の所得倍増計画(※5)から日本の高度成長が始まった。この高度成長によって、戦後日本の繁栄、そして現在の日本の基礎をつくることができたわけです。その政策のブレイン中のブレインが宮澤さんで、いわば吉田さんの「日本を浮上させる」という願いを達成された。1980年代になると、21世紀は日本の時代だといわれました。ところが90年代に入ってバブルが弾けた。そのときの総理大臣が宮澤さんだったわけです。バブルが弾けて不況になって以後、ずっと10年以上不況が続いているわけです。これは宮澤さん、どう見ていらっしゃいますか。

宮澤:正直なところ、私もよく考えてみてもわからない。どうしてこうなったかということもわかっていないし、どうしたらこの局面を打開できるかということも、正直をいってまだわかりません。

 ただし、いくつかの関連した出来事はお話しできると思います。それは、1985年にプラザ合意(※6)というものがありました。プラザ合意というのは、日本の通貨に関する国際的な取り決めです。戦争に負けたあと、日本の為替、通貨がいくらと決まったのは1949年の4月なんですが、そのとき360円をもって1ドルとしたわけですね。

 その360円という時代が長く続きました。途中で変動相場制(※7)に変わるんですが、いずれにしても日本はだんだん経済の実力がついてきたのにその程度の円の安さですから、日本の輸出が非常に増えた。日本製品が世界を席巻する一方で、アメリカは膨大な赤字を抱えて一番困っていた。だから、日本に対する批判というより、むしろ非難が轟々たるものでした。

 こうして、1985年に、この日本の円をもっと高くしようじゃないかと、G5の各国首脳がニューヨークのプラザホテルに集まって決めたんです。日本もそれに同意しました。日本が一番苦しくなるわけですけれども、これ以上世界から非難をされるのはかなわないということだったんです。そしてその日、為替市場で自然に決まっていた円は242円でしたが、どんどん円が高くなり始めて、その年の暮れには200円になりました。ですから、3ヶ月たたない間に円は40円も上がったんです。

 さらにその趨勢は続いて、翌年の7月に私が大蔵大臣になるんですが、そのときは1ドル=155円になっているんです。242円のものが155円までに、1年足らずの間になったということは、国民経済というより国民生活全体に非常に大きな影響を与えざるをえない。

 当時、どういうことが起こったかといいますと、日本はそれまでわりに円が安かったから、楽に輸出をしていたのですが、円が高くなりましたから、だんだん輸出が難しくなります。

 企業は輸出をして利益を出していたのに、それができなくなった。このままでは企業を続けていくことができないようなことになって、「政府はいったい何をしているんだと、どうしてこんなに円を高くしたんだ」というようなことをいい始めた。そして揚げ句の果ては、ここが面白いところなんですが、それから2~3年の間に日本の企業がずいぶん日本から出ていったわけです。東南アジアに行ったり、後には中国にも行きまして、よそへ行って賃金の安いところで仕事をしないと、日本の経済、日本の企業の競争力はなくなってしまった。なぜかというと、それだけ円が高くなったからです。

 というようなことで、日本の企業がずいぶん外国へ出てしまった。当時は空洞化ということでやや大げさにいわれたんですが、大いに潤ったのは東南アジアの国であり、やがては中国になるわけです。日本の企業がやってきて工場をつくり、そこで人を雇って仕事をさせてくれるわけですから。東南アジアの国々は非常に潤ったんだが、日本自身は日本の雇用を外国にいわば奪われるような格好になった。今現在のようなことが起こった始まりが1985年です。話がそこへ戻ってきました。85年から今まで18年たちましたが、それをずっと引きずってきているんですね。

ドル買いによる円高の阻止と、失業を防ぐための公共事業。
 市場に円があふれ、土地に向かった。これがバブルの本質だ。

田原:今とても大事なことを話していただいています。今この不況はバブルの反転なんですが、今おっしゃったように、85年はバブルが始まったときでもあります。そのときに大蔵大臣で、バブルが弾けたときが総理大臣だった宮澤さんはどちらもいわば責任者だった。バブル経済が始まるときに、これはちょっとブレーキをかけないといけない、というふうには思わなかったんですか。

宮澤:では、バブルが始まったときの話をしましょう。

 円がどんどん強くなるものだから、日本の企業はとてもやっていけない。毎日毎晩ですよ、1円2円と円が上がっていくのは。ですから86年、87年に私が大蔵大臣で、夜に実業家などに会ったとしても、もう私は大変に批判されました。このままではやっていけない、どうしようかと会議を開いて、休憩してみるとまた2円上がっていた、とか。それで、私がしたことは2つあるわけです。

 一つは、失業者がどんどん出ていた。だから国が予算を組んで公共事業をやって、それで失業を防ごうというのが一つ。もう一つは、為替市場に政府が介入しようと。つまり、政府が自分の金を出して、安くなっていくドルを買うわけです。円を売ってドルを買う、それで円がこれ以上高くならないように、ドルを買って支えようとする。ちょっとやそっとの金ではそんな仕事はできないわけですから、それが仮に1億ドルでも買おうとすれば、2000億円必要だということですね。だからそういったものを、毎日というと大げさだけれども、3日に1回ぐらいは私かやっていたわけです。

 そういうわけで、円をどんどん売りに出してドルを吸い上げるということを政府がやったわけですから、街には円がどんどん膨れ上がっていった。片方では公共事業をやっているから、ここでも円が増えていく。その2つで、過剰購買力というものが生まれた。それがバブルのもとになるわけです。つまり、大変な金が放出された、これがバブルのもとであって、経済界はその金でもって、土地を買って機械を買って工場を建てた。ことに土地を買うということにその金が使われ始めた。それが、バブルの一番基本的な形であるわけです。それでもなお円は高くなるものだから、私はなかなか円を売るのをやめることができない。

田原:つまり、ブレーキがかけられないと。

宮澤:かけられないというよりは、片方で失業がどんどん増えていくわけですから、それに対してはきちんと対応しなければならない。当時は「企業城下町」という言葉がありました。例えば、ある街は造船が基幹産業となって地元の経済の中心になっている。ところが造船業は、円が高くなれば注文がなくなるから、みんな解雇されてしまう。そういったようなところは、失業率が非常に高くなる。だからやっぱり、公共事業もしなければならない。それでやむにやまれずどんどんお金を使ったわけです。失業で困っていたところはそれで救われたんだが、じゃあ土地を買おうという企業もあるだろうし、銀行もあるだろうし個人もいるかもしれない。ですから、そういう意味で過剰購買力というものが過剰に土地の値段を高くした。住宅の値段を高くした。株も上がりました。そういうことがバブルの始まりですね。

 しかし、いつまでもそんなことやっているわけにはいかないし、1988年ごろには高くなる一方の円もだんだん落ち着いてきましたから、今度は逆に引き締めなければいけないということで、89年とか90年に引き締めました。そうすると今まで上がっていた土地や株が急落をするわけです。それはそうでしょうね、国が金を出すのを急にやめるわけですから。それで急落して、そこからバブルがバーストしたわけです。

 バブルのときは、家を建てよう、上地を買って儲けようという人に対して、金融機関がお金を貸すわけです。住宅専門の金融会社がたくさんできましたね。ところが、そういうところへたくさん融資をしている最中にバブルがひっくり返ったわけですから、今度は貸した分か焦げついたわけです。急に値上がりが止まって、むしろ値下がりが始まったわけですから。

 そのときに、たまたま私が総理大臣になりました。その時点での景色というのは、住宅金融会社は貸した分が滞って返ってこない。土地もどんどん値下がりする。これで、不良債権というものが生まれてしまった。不良債権をどうにかしないと、金を貸した住宅金融会社はやっていけないといったことで、今度はこのバブルではなく反対側のバーストから経済をどうやって救うかという、まったく逆の政策の必要が生まれた。だいたいそういう経緯です。

~(2)へ続く~

※1 サンフランシスコ講和条約
51年、日本と連合国48ヶ国の間で結ばれた講和条約。明治以降に日本が併合した全領土の放棄、軍備撤廃、賠償金の支払いなどが定められた。ソ連、ポーランド、チェコスロバキアは反対、中華民国、インドは不参加。ン異本は独立を回復したが、沖縄はアメリカの施政権下に置かれた。この条約と同時に日弁安全保障条約が締結された。

※2 池田勇人
1899年広島県生まれ。1925年京都大学法学部を卒業後、大蔵省に入省。47年事務次官。49年衆議院議員に初当選し、直後に大蔵大臣に抜擢。52年に通産大臣となるが失言問題で辞任。その後、自由党政調会長、幹事長を経て55年の自民党の結党に参加。大蔵大臣、無任所の国務大臣、通産大臣を経て、60年首相に就任。国民所得倍増計画を旗印に農業基本法公布、IMF8条国への移行、OECD加盟、部分的核実験停止条約批准などを行う。

※3 高橋是清
1856年江戸生まれ。67年仙台藩の留学生として渡米。農商務省に入省するが、退官して銀山開発のためペルーに渡るが失敗。92年日本銀行入行、99年日本銀行副総裁に就任。1905年貴族院議員。日銀総裁を経て、13年大蔵大臣。22年首相兼任。24年農商務大臣。27年再び大蔵大臣に就任。金融恐慌に対し、支払猶予緊急勅令(モラトリアム)などで事態を収拾、沈静化の見通しが立つと在職42日で辞職。31年、3たび大蔵大臣に就任するが、36年、2・26事件で暗殺。

※4 吉田茂
1878年東京生まれ。1906年東京帝国大学法学部を卒業後、外務省に入省。イタリア大使、イギリス大使を務めるが、日独伊三国軍事同盟に反対し帰国。戦後、45年に外務大臣に就任。46年首相。以後、5次7年あまりの長期政権となり、戦後政治の基礎を築いた。51年サンフランシスコ平和条約締結。67年死去。

※5 所得倍増計画
60年、池田内閣が策定した61~70年にかけての経済計画。社会資本の充実、産業構造の高度化を目的とし、10年間で国民総生産(GNP)を2倍にすることを目的とした。

※6 プラザ合意
85年、先進5カ国蔵相中央銀行総裁会議(G5)のアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、日本は、為替市場への協調介入によってドル高を是正することで合意した。純債務国に転落したアメリカが、貿易黒字によって経済力を強化したいという思惑があった。

※7 変動相場制
外国為替手形や外国通貨に対する需要と供給によって為替相場が決定する制度。例えば、企業がアメリカに商品を輸出した場合、ドルで受け取った代金を円に替える必要がある。ドルを売って円を買うと、円高ドル安になる。逆に、商品を輸入した場合は円を売ってドルを買うため、
円安ドル高となる。73年に各国は固定相場制から移行。76年のキングストン会議でIMFによって承認された。


『田原総一朗の早大講義録―政治・経済のカラクリ』
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2007年6月 6日

田原総一朗はこう語った(6)──田原総一朗流 再チャレンジ人生

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『誇りの持てる働き方 誇りの持てる生き方』(ダイヤモンド社)

どうして誇り高く生きていられるのか?

学生3:貴重なお話、ありがとうございました。私も、大学に入るにあたってちょっと親とけんかして、生活費と学費の一部を自分で支払ってます。ときどき、そのお金を得るのにすごく手一杯になってしまって、極端にいえば生きるだけで手一杯なときがあります。そうすると、やっぱり、誇り高く生きようとか、勉強しようと思っていても、見えやすい権力とか地位のある身分とかに惹かれてしまう部分もあって……。田原さんのようにどうしてそんなに権力を恐れすに誇り高く生きていられるのか、ジャーナリストとしてということももちろんありますけれども、一人の人間として、どんなふうに誇りを高く持って生きていらっしゃるのかをぜひお伺いしたいと思います。

田原:そんなに褒められても困るんですけど(笑)、これは、堀紘一さんが授業でいったことですが、向上心は持つべきです。絶対持つべきです。向上心というのは、会社で偉くなることとはほとんど関係ない。自分がやりたいことをいかにやり遂げるかということですね。 それからもう一つ、堀さんのいった「粗にして野だが卑ではない」と。この「卑ではない」というのが一番大事です。早稲田大学は「粗にして野」ですよ。慶応義塾大学のほうがそのへんはしゃれてますよね。でも、粗にして野でも、「卑ではない」という部分を持っていなければいけない。卑というのは、たとえばお追従、お世辞を使わない。ジャーナリストの中でも、政治家にお世辞をいう人がいます。あるいはお世辞だけじゃなくて、何かいろいろと働いてあげる。そういうことをやっといて何かを得る。これは卑ですよ。それから、たとえば会社でも偉くなるときに、他人の悪□をいったり、他人を陥れて出世していく。これ、実は多いんです。これは卑です。「粗にして野だが卑ではない」。早稲田に来た人ならそれだけは身につけてほしい。

岸井:私もそれに賛成。社会に出てからも、「卑ではない」を身につけられるし、「卑ではない」がどんどん進歩していくこともあるかとは思うけれど、「卑ではない」はほとんど学生時代に決まる。いろんな人を見ていると、卑にならないという一線を守れるかどうか、これは社会に出てからではだいたい遅い。そこは、よく知っておいたほうがいいと思う。

交渉力や人を引きつける話し方は、努力で獲得できるか?

学生4:先生は、企画力があったからこそ成功できたとおっしゃいました。そのための交渉力というか、人を引きつけるような話し方というのは、小さいときからあったのか、それとも、長年の経験を積んでいってさらにパワーアップしていったのかなと疑問に思いました。交渉力などは努力次第でどうにかなるものなのでしょうか。

田原:努力だと思う。相手が根負けするまで交渉することです。これは私の例じゃなくて、もう亡くなった日下雄一さんという「朝まで生テレビ!」(テレビ朝日系列の討論番組)のプロデューサーの話です。

 昭和天皇がご病気だったころ、世の中はみんな自粛ムードになって、街のネオンサインもつけないし、音楽も流さない状態になった。歌舞音曲の自粛、といってました。

 その自粛の最中に、もうそろそろ危ないといわれたときに、私は日下さんに、「朝まで生テレビ!」で今、天皇をやるべきだといった。昭和天皇の戦争責任をやろうじゃないかと。周囲は「エ-ッ? こんなときに」と。当たり前ですよね、それこそこれはタブー中のタブーです。それでも、日下さんはとても偉かった。テレビ朝日の報道局長に、天皇の問題をやりたいといった。「ばかもん! できるわけないだろう!」と断られた。日下さんは僕と違って押しが強くないから、「わかりました」と引き下がってきた。彼の偉いところは、翌日また局長のところへ行くんです。「天皇をやりたいんですが」「ばかもん!」、また下がってくる。でもまた翌日行く。本当なんですよ。これを毎日、二ヵ月続けるんです。そうすると、相手も「いつまでこれをやられるんだろう」と思うものなんです。

 それで、2ヶ月の最後のころ、私が参加した。相手は相当まいってるんです。そこで私は、「何でだめなんだ」。「こんなときにやったら大顰蹙を買う」「誰が顰蹙するんだ」「それはもうあちこちだ」「じゃあ、顰蹙を買わないようにすればいいか」と、ますやるわけです。

「そんなことはできないに決まってる」「絶対100%顰蹙を買わなくする。もしも非難されたら、プロデューサーも私も辞める」という話になって、そういう話を10日ぐらいやる。それで、日下さんと相談して、天皇はやめたといいに行く。局長はほっとするわけです。当時は韓国でオリンピックがあった。だから「オリンピックと日本人」というタイトルでやることにしました、「それはいいね」と。「ただし、朝まで生テレビ!は生番組だ。生放送途中で何か起きても、あなた、何もできないよね」と。局長は不安そうな顔をして、「どうするつもりなんだ」と。「私はあなたをだますつもりだ。途中で内容を変える。あなたは知らなかったふりをしてくれ」という話をした。それをまた三日やりました。結果としては、「知らなかったことにしてくれ、ということも知らない」ということで落ち着きました。

 いよいよ本番です。最初の30分ぐらい「オリンピックと日本人」をやったんです。ちゃんと金メダリストも何人かパネリストとして来てもらった。途中で私が、「やっぱり話題が違うんじゃないか。こんな時期は2度とないんだから、今日は天皇問題をやろう。戦争責任までやろう。どうか?」といった。みんな、「賛成」。そこで、金メダリストには帰ってもらって、議題をオリンピックから変えました。

 ここからが面白いんです。コマーシャルが終わって、放送が始まったんだけど、誰もしゃべらない。テレビの生放送で堂々と天皇問題を論じるのは、日本で初めてだから、怖くて誰も議論しようとしない。私は一生懸命にパネリストたちに水を向け、質問をするんだけど、当たり障りのない短い答えしか返ってこない。しばらく経って、日下さんがたまりかねて、CMを入れた。スタジオに出てきて、「あんたたちがやりたいというからやったんじゃないか。あんたたち、まるで皇居マラソンじゃないか。皇居の周りばっかり走ってる。マラソンじゃないだろう? 中へ入りたいんだろう? やったんならきちんと責任持ってやるべきだ」といった。そこから、薄氷を踏むように天皇問題の核心に入っていきました。当然ながら、視聴率はとても高かった。

 テレビ局というのは結果よければすべてよしで、その年の大晦日の「朝生」は、今度は局からぜひ天皇でやってくれという。で、2度目の天皇問題で「朝まで生テレビ!」をやりました。これは、(その時点では)前代未聞の7%の視聴率を取りましたけれど、そういうものなんです。要するに、しつこさ。それから、自分にきちんとした覚悟があるかどうか。それとやっぱり、粗にして野だが卑ではない。絶対に卑しいことはしない。

 もう一つ。これも堀紘一さんがいっていたように、今は夢がない、展望がないという。だからいいんです。世の中に夢なんかあるわけない。世の中に夢があるというのは天国の話です。世の中が問題をいっぱい抱えているから、その問題をどうやって私がなくしてやろうかと奮い立つ。いじめが多ければ、いじめの問題にどう取り組めばいいのか。ジャーナリストになるのか、政治家になるのか、それとも学校の先生になるのか、いろいろありますね。そこから自分の進む道も出てくる。これが夢なんです。

 つまり、世の中に問題点がいっぱいあるからこそ、それを解決しようというのが夢になる。これがいってみれば国の強さにもなるんです。だから、夢というのはそこらへんに浮いているものではない。それは自分が持つものであり、自分が切り開くものなんですよ。ここを本当に大事にしてほしい。

 私が早稲田の校歌で一番好きな部分は、「現世を忘れぬ久遠の理想」という部分です。理想だけを追い求めると空理空論になるんです。現実だけだと「粗にして野だが卑ではない」の卑になってしまう。現実を踏まえながら、現実に根づきながら、自分の理想を追う。ここがやっぱり早稲田の学生、あるいは卒業生の基本的な精神だと私は思う。それが夢なんです。

 

2007年6月 3日

田原総一朗はこう語った(5)──田原総一朗流 再チャレンジ人生

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『誇りの持てる働き方 誇りの持てる生き方』(ダイヤモンド社)

ねらって、ねらって、まだうまくいかない約2名
 
 その東京12チャンネルを辞めたこともまた、世間に波風を立てたことが原因なんです。そしてこれも、今の私に大いに役に立っている。

 12チャンネルに勤めながら、『原子力戦争』という本を書きました。(きっかけは)原子力船「むつ」の問題(※1)で、取材に行ったんです。

 反対派の集会に行ったら、「むつがもし風か何かでひっくり返ったら青森県は第2の広島ですよ」と、反対派はいう。ずいぶんいい加減なことをいうなあ、と私は思う。だから今度は、推進派へ行った。これがまたひどい。「あんた方は放射線というのは体に有毒だと思うんでしょう。違います。あんた方は風邪ひくとラジウム温泉(※2)へ行くじゃないですか。あれは放射線ですよ」。これもいい加減な論です。

 こんなに推進派も反対派もいい加減なことばかりいっていると原子力がかわいそうだ、ところで、原子力っていったいなんたろうということを、『展望』(筑摩書房)という雑誌に連載した。調べていくと、原子力反対運動を抑え込むために、広告会社の一番大きい電通がいろいろやってるわけです。それを書いたら、電通が12チャンネルの番組から2つばかり、スポンサーを降ろしてしまった。つまり、田原に連載をやめさせるか、会社を辞めさせるか、どっちかを選べといった。12チャンネルは極めて素直な会社ですから、私に、連載をやめるか、会社を辞めるか、どっちかだと電通にいわれたと、そのままいう。ほとんど躊躇なく会社を辞めました。

 その後、物書きをやったりしたんですが、このときに今度は、岩波映画の科学が役に立った。

 ちょうどパソコンができたころでした。パソコンという名前じゃなくて、マイコン。私は、「マイコンウォーズ」という記事を『文藝春秋』に連載して、本にしました。このときにアメリカまで行ってビル・ゲイツ(※3)に会いました。これも変な話で、西和彦という早稲田出身の、一時はマイクロソフトの副社長をやった西君に会いに行こうと思ってマイクロソフトの本社の玄関へ行ったら、Tシャツを着たアルバイトみたいな男がいた。西和彦に会いたいといったら、わかったと連れていってくれた。西和彦が、彼がビル・ゲイツだと(会場笑)。

 そういうことが、いろいろありました。だから取材というのは、面白い。目指せばほとんど成功します。私の今までの体験では、ねらって、ねらって、うまくいかないのは約2名しかいない。一人は、金正日(※4)。まだ会えない。会いたいんです、どうしても。もう一人は天皇陛下。3度断られました。

そのほかの人たちには、ほとんど会えます。フセイン(※5)に会おうと思ってバグダッドに行ったこともあります。OKだったんですが、行ったら、「田原さんの報道はCIAがキャッチしてる。もし田原さんとフセインが会ったら、そこへアメリカがピンポイント爆撃、ボーンと来る。2人とも死んじゃう」と。死んでもいいから会いたいといったんだけど、そういうわけにはいかないという。そのかわり、ナンバーツー、副大統領とこれから何時間でもインタビューしてくれと。やりましたよ。だから、相当のところまでは行けます。できるもんです、何でも。

そういうことで現在に至っています。何度もいいますが、一流にいるとだめです。だから、大隈塾のみなさんには、一流の会社に入ることを目指すばかりでなく自分の力で、一流の人生を送ってもらいたいと思います。

■質疑応答 「現世を忘れぬ久遠の理想」夢は自分が切り開く

世の中のタブーをどうとらえるか?

学生1:ほかの局ができないことをやるということをおっしゃってましたが、田原さんは世の中のタブーみたいなものにどんどん突っ込んでいく感じがするんです。田原さんは世の中のタブーをどうとらえてるんですか。

田原:日本にはタブーはありません。憲法で言論の自由、表現の自由は保障されていますよね。結社も自由。宗教も自由、全部自由ですから、タブーはないです。だけど、世の中にはタブーがあるようなことをいう人が多いのも事実で、それは自分でタブーをつくっているだけ。あるいは会社がつくっているだけ。要するに、たとえばテレビ局は、うるさい団体から文句をいわれるのがいやだから、やめてくれというだけです。

社会的地位の高い人に質問するとき意識すべきことは?

学生2:取材のことでお伺いしたいことがあるのですが、人に質問するときに、これだけは意識したほうがいいということがあれば教えていただきたいんです。特に政治家や社長などの社会的地位の高い人に質問するときには、どんなことを意識したほうがいいんでしょうか。

田原:ますやるべきことは、その人についてのあらゆるデータ、資料を読む。つまり、まずはその人に関する情報を集めて、分析する。たとえば、私がテレビ朝日系列の「サンデープロジェクト」で政治家からいろいろと聞き出す。ときには相手が、私に何かこうフッと聞きます。そこで私が詰まったら、あ、この程度か。田原はこの程度しか知らないんだったら、全部しゃべることはないなと、相手は思うんです。つまり、こちらが知ってるレベルでしか相手は答えません。たとえば、(自民党の)中川秀直幹事長に質問するときに、今、中川さんの抱えてる問題についてこっちが知ってるレベルでしか(中川さんは)答えない。だから本当は、中川さんよりも私のほうが知ってなければいけないぐらいだと思う。相手に話を聞く前にできる限り取材する。知るのが一つ。

 それから、本当に自分が聞きたいことを聞く。「サンデープロジェクト」のスタッフに、今度どういうことを聞くか並べてくれというと、スタッフが質問項目を準備してくれる。それを見てよくいうことは、「これじゃあまるで新聞記者の記者会見じゃないか。君はいったい何を聞きたいんだと。たとえば、田中康夫さんに一番何を聞きたいんだと。田中康夫さんは、長野県知事としてたくさんいいことをやっている。だけど、先日の知事選挙(2006年8月6日)に負けた。今度の(村井仁)知事は、田中康夫さんのやったことを全部やめるといっている。どうしていいことをやった田中康夫さんがクビになって、別の知事を長野県民は選ぶんだということを聞いたわけ。そのためには、田中康夫さんが何をやったかを全部調べて、今度の知事がそれを元に戻そうとしてることを全部調べてある。その上で、聞く。そのためにも、こちらがいかに取材をしてるかというのが一番大事です。
 岸井さん、ほかに加えることはありますか?

岸井成格(早稲田大学客員教授):つけ加えることはもうないです。とにかく相手のことをとことん調べてインタビューに行くということですね。それをどのくらい相手に見せるかは別です。だけど、さっき田原さんがいわれたとおり、相手は相手が知ってるレベルしか絶対に答えない。インタビューされていて、この来た人間がどの程度知って来てるのか、知らずに来てるのかというのはすぐわかりますからね。

 あと、あえて加えれば、やはり礼儀はものすごく大事でしょうね。取材の対象によっていろいろ違いますけれど、最低限の敬意というか、礼儀というのがないと、最初から話にならなくなるということはあるんじゃないですか。

~(6)へ続く~

※1 原子力むつの問題
むつは、1969年に進水した日本初の原子動力船。74年9月1日、青森県尻屋沖の試験海域で出力臨海試験中、放射線漏れを観測し、実験を中止。これがマスコミに報道されると、地元の青森県、むつ市、青森県漁連は、「むつ」の安全性を疑い、定係港の大湊港への帰港に反対した。同10月14日、政府、青森県、むつ市、青森県漁連の4者問で「原子力船『むつ』の定係港入港及び定係港の撤去に関する合意協定書」が締結され、翌15日に定係港に帰港した。

※2 ラジウム温泉
ラドン元素、トロン元素などの放射性元素を一定量以上含む温泉。放射能泉。

※3 ビル・ゲイツ
1955年、アメリカのシアトル生まれ。ハーバード大学中退。マイクロソフト社の共同創業者、現在マイクロソフト社会長だが、2008年7月をもって経営の第一線から退くことを表明している。アメリカのフ
オーブス誌の2006年版世界長者番付では、資産総額は推定560億ドル、個人資産13年連続世界一。ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団を設立し、発展途上国や研究機関に多額の寄付を行なっている。

※4 金正日
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の最高指導者。1942年2月16日、建国の英雄・金日成の長男として生まれる。74年、金日成の後継者に決定、97年に朝鮮労働党総書記、98年に国防委員会委員長に再選され最高指導者となり、朝鮮人民軍最高司令官も兼務し、独裁体制を敷いている。

※5フセイン
サダム・フセイン。 24年間にわたって独裁政権を敷いた元イラク大統領。 1937年、イラク・ティクリットに生まれる。57年、バース党(アラプ復興社会党)に入党。79年7月、大統領就任。革命指導評議会議長、国軍最高司令官も兼任し、80~88年のイラン・イラク戦争、90年のクウェート侵攻、91年の湾岸戦争等を指揮する。94年より首相兼任。2003年、イラク戦争が勃発、回12月、米軍により身柄を拘束される。06年末、イラク高等法廷上訴審による死刑判決確定の4日後に刑執行。

2007年6月 1日

田原総一朗はこう語った(4)──田原総一朗流 再チャレンジ人生

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『誇りの持てる働き方 誇りの持てる生き方』(ダイヤモンド社)

ほかの人が企画できない企画を考える

 実は私は東京12チャンネルには、ドキュメンタリーをやりたいから入ったんです。人間が描きたいから。でも12チャンネルは番外地ですから、スポンサーがつきません。ところが、これもまた12チャンネルの面白いところです。私はまず、企画をつくる。それから、私がスポンサーになりそうな企業に直接電話して、営業と編成の人を連れていって、スポンサーになってくれと頼む。全部、このパターンでした。私はディレクターですよ。ディレクターは番組をつくっていればいいんじゃない。つまり、スポンサーを口説いて乗ってもらう。12チャンネルというのはいい加減で、スポンサーがつけばなんでもOKなんです。だからスポンサーを口説いて、そして番組をつくった。

 そのときに、ドキュメンタリー番組で一番有名だったのはNHKです。「日本の素顔」という番組があった。その次に「現代の映像」になった。吉田直哉とかいろんな有能なディレクターがそこから育った。日本テレビには牛山純一(※1)がいて「ノンフィクション劇場」というのをやってました。これは賞をいっぱい取ってます。TBSには今野勉とか村木良彦とか、いろんなディレクターがどんどん面白いドキュメンタリー番組をつくっていた。

 この3局のドキュメンタリー番組と、どう勝負するか。ほかの多くの人は勝負なんかしない。12チャンネルの中で上手にやっていればいいと思っている。でも、そんな根性では視聴率は上がりません。私はスポンサーを口説くときに、視聴率を取るぞと。NHKとも日本テレビともTBSとも勝負して、視聴率で抜く。これ、ハッタリなんですね。抜くぞといってお金を出してもらって、抜かなかったら詐欺ですものね。

 それで、企画をどうするか。つまり、NHKやTBSや日本テレビの人たちが企画できない企画を考える。そんなことができるのか。向こうのほうが成績優秀でテレビ局に入ってるんです。私は全部落ちたわけですからね。

 そこで、本当の企画力では勝負できない。何をするか。企画には、とても危なくてできない番組というのがいっぱいあるわけです。NHKや日本テレビやTBSは、考えはしても、危ない、社会的な問題になると思うとやらない。だから私は、他局が危なくてできない番組をやろうと。これが今も生きてます。今もテレビ朝日でやってるのは、ほかの局のできない番組をやることです。

 でも、ほかの局のできない番組というのは、スポンサーはいやがります。そこで私は、特に一番長くやった「ドキュメンタリー青春」のときに、この番組のスポンサーである東京ガスに対してプレゼンテーションをした。必ずオンエアの2日前に、スポンサー試写やるんです。広報担当の部長にも見せる。その前に提案理由をいう。これが大事なんです。なぜこの番組をやるか。「あなた方は一見危ないと思うでしょう。だけど、絶対大丈夫だ。危なくない。と同時に、この番組をやることによって東京ガスのイメージがグーンと上がる。必ず評判がいい」というんです。

 でも、スポンサーもそんなことでは安心しない。そこで、次の仕掛けを出す。新聞や雑誌やいろいろなところで、テレビ番組の批評をする人たちがいる。専門家が約70~80人いるんですよ。彼ら全員に招待状を出して、事前の記者の試写をやる。また私が、提案理由をガンガンいうんです。そうすると、批評家って非常に素直な人で、ほとんどいったとおり書いてくれるんです。へその曲がったのはあんまりいない。

 そうやって下地をつくってから、オンエアします。すると確実に視聴率が高い。問題番組だから、視聴者はテレビの向こうでハラハラしてる。二~三日経つと、朝日新聞、東京新聞、読売新聞、みんなが、いいよ、いいよ、と褒めてくれる。スポンサーは文句なしですよ。私は今でも、(1)視聴率が高い、(2)話題になる、(3)スポンサーが降りない、これがいいテレビ番組の基準だと思っています。これは12チャンネルでまさに培われた。

 大学を卒業して初めからいい会社へ入ると、あまりいいことないんですよ。特に、前もいったかもしれませんが、学生って朝遅いでしょう? そうすると、「ALWAYS 三丁目の夕日」なんて映画があるけど、みんな夕日と朝日を間違えるんです。今、人気の高い会社は、どこも夕日なんです。課長、部長になるころは、真っ暗なんですね。

 話を戻すと、番外地の12チャンネルに入ったというのがよかった。楽だった。スポンサー、大スポンサーを連れてきたら局は何も文句をいわない。スポンサーが降りなければ文句をいわない。スポンサーは、視聴率が高くて評判がよくて、さらに、どこからもクレームをいってこなければ問題ない。

 毒のない番組をやっていたのでは、視聴率は高くなりませんし、評判にもなりません。そうなるとスポンサーは降ります。だから、問題になる、視聴率が高い、どんどん賛否両論出てくる、テレビはそれでいいんです。私にとって、12チャンネル時代が肥やしというか、栄養になった。

~(5)へ続く~

※1 牛山純一
テレビ制作者。 1930~97年。 1953年、日本テレビに入社、政治記者、報道番組、ドキュメンタリー番組を担当。71年、日本映像記録センターを設立、翌72年に日本テレビを退社してフリーで活動。民間放送局初の本格的ドキュメンタリー番組「ノンフィクション劇場」、全米写真家協会プロフェッショナル最高賞を受賞した「すばらしい世界旅行」、「知られざる世界」など多くのドキュメンタリー番組を制作した。

Profile

田原総一朗(たはら・そういちろう)

-----<経歴>-----

1934年、滋賀県彦根市生まれ。
早稲田大学文学部卒。
岩波映画製作所、テレビ東京を経て、77年フリーに。
テレビ東京時代の連続番組「ドキュメンタリー青春」で、取材対象者に肉薄する独特のインタビュー手法で注目を浴びる。
現在は政治・経済・メディア・IT等、時代の最先端の問題をとらえ、活字と放送の両メディアにわたり精力的な評論活動を続けている。
テレビジャーナリズムの新しい地平を拓いたとして、98年ギャラクシー35周年記念賞(城戸又一賞)を受賞した。
2002年より母校・早稲田大学で「大隈塾」を開講。塾頭として未来のリーダーを育てるべく、学生や社会人の指導にあたっている。

-----<出演>-----

『朝まで生テレビ!』
(TV朝日、毎月最終金曜25時?)

『サンデープロジェクト』
(TV朝日、毎週日曜10時?)

BookMarks

田原総一朗 公式サイト
http://www.taharasoichiro.com/

田原総一朗のタブーに挑戦!(JFNラジオ番組)
http://www.jfn.co.jp/tahara/

株式会社アスコム
http://www.ascom-inc.jp/

朝まで生テレビ!
http://www.tv-asahi.co.jp/asanama/

サンデープロジェクト
http://www.tv-asahi.co.jp/sunpro/

早稲田大学 大隈塾
http://www.waseda.jp/open/attention/ookuma/ookuma_curriculum_2005.html

早稲田大学 大隈塾ネクスト・リーダー・プログラム
http://www.waseda.jp/extension/okumajuku/index.html

-----<著書>-----


『市場浄化』
2006年10月、講談社


『テレビと権力』
2006年4月、講談社


『オフレコ!Vol.2』
2006年3月、アスコム


『国家と外交』
2005年11月、講談社、田中均共著


『日本の外交と経済』
2005年9月、ダイヤモンド社


『日本の戦後(上)』
2003年9月、講談社


『日本の戦後(下)』
2005年7月、講談社


『田原総一朗自選集 1?5巻』
2005年7?10月、アスコム

『オフレコ!Vol.1』
2005年7月、アスコム、季刊

『日本の戦争』
2004年12月、小学館文庫

『日本の政治?田中角栄・角栄以後』
2002年10月、講談社

『日本の生き方』
2004年11月、PHP研究所

『日本政治の表と裏がわかる本』
2003年5月、幻冬舎文庫

『連合赤軍とオウム?わが心のアルカイダ』
2004年9月、集英社

『「小泉の日本」を読む』
2005年2月、朝日新聞社

『面白い奴ほど仕事人間』
2000月12月、青春出版社

『日本のからくり21』
朝日新聞社

『愛国心』
2003年6月、講談社、共著

『わたしたちの愛』
2003年1月、講談社

『日本よ! 日本人よ!』
2002年11月、小学館

『田原総一朗の早大講義録(1)』
2003年9月、アスコム

『田原総一朗の早大講義録(2)』
2004年3月、アスコム

『田原総一朗の早大「大隈塾」講義録 2005(上)』
2005年5月、ダイヤモンド社

『田原総一朗の早大「大隈塾」講義録 2005(下)』
2005年5月、ダイヤモンド社

『頭のない鯨?平成政治劇の真実』
2000年2月、朝日新聞社

『田原総一朗の闘うテレビ論』
1997年3月、文芸春秋

『メディア・ウォーズ』
1993年3月、講談社

『平成・日本の官僚』
1990年3月、文藝春秋

『警察官僚の時代』
1986年5月、講談社

『マイコン・ウォーズ』
1984年12月、文芸春秋

『原子力戦争』
1981年11月、講談社

-----<連載>-----

週刊朝日「田原総一朗のギロン堂」

SAPIO「大日本帝国下の民主主義」

プレジデント「権力の正体」

-----<映画>-----

『あらかじめ失われた恋人たちよ』
1971年、監督

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