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2007年5月30日

松岡農水相自殺でどう変わる「政治とカネ」と「年金問題」

今回の松岡農水相の自殺は政界に大きな衝撃を与えている。

ただ、松岡農水相の自殺は、安倍内閣にはプラスにもマイナスにもならないと思う。

というのは、それよりもはるかに大きな国民の関心が、社会保険庁の公的年金保険料の5000万件に及ぶ納付記載漏れ問題にあるからだ。

今回の自殺がきっかけとなって、国会で年金問題がさらに注目されるのではないか。

政府は今国会で救済法案を成立させるつもりだが、現実的には厳しい。

対応次第では安倍政権が苦しい立場になる可能性もある。

上記のことを含め、松岡農水相自殺から私が考えたことを日経BPnetで触れてあるので、ご参照いただきたい。

http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/column/tahara/070529_13th/

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松岡農水相自殺でどう変わる「政治とカネ」と「年金問題」

松岡農水相は「政治とカネ」の問題で疑惑の中心人物であった。日経新聞の支持率調査によると、不支持の理由の断トツ第1位は5000万件にも及ぶ「公的年金保険料の納付記載漏れ問題」だが、第2位は「政治とカネ」の問題である。「政治とカネ」の問題とは、まさに松岡農水相の問題であった。

その松岡氏が自殺した。自身の「政治とカネ」を巡る問題が支持率を落とすのに大きな効果があり、その責任を感じて自殺したのだろうか。

ところが、どうもそうとは受け取れないのである。自殺の原因は、独立行政法人の「緑資源機構」をめぐる政治献金の問題で松岡農水相に検察の手が迫っていたことが大きく関係しているのではないか。

ここからは僕の推理も入るが、検察筋からの情報によると、どうも検察の手が迫っていただけではないようだ。

松岡農水相の自殺が発見された28日の前日、5月27日に日本ダービーが開催された。日本ダービーには、農林水産大臣が、天皇と総理大臣を招待する。ところが、招待する側の松岡農水相がこの日本ダービーに出席せずに休んでいる。これはつまり、休まざるを得ない緊急の事態が起きたということだ。

松岡農水相は、この日熊本に残り、86歳の母親に会い、墓地にお参りをしている。これは自殺を前提にしての行動であろう。

【記事全文を読む】

2007年5月25日

田原総一朗はこう語った(3)──田原総一朗流 再チャレンジ人生

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『誇りの持てる働き方 誇りの持てる生き方』(ダイヤモンド社)

2日後に番組ができるテレビってすばらしい
 
 ただ問題は、私はもともと科学をやりたかったのではなくて、大江健三郎や石原慎太郎のような小説を書きたかった。もっと社会現象、人間を描きたいと。それで、会社に企画を出すんだけど、岩波映画に映画の企画を出すと、会議が20回も30回もあって、なかなか決まらない。会議なんてやるのはろくなもんじゃない。あれは責任をみんなになすりつけるためのものなんです。もっというと、会議をやるたびに私の特徴がどんどんなくなってきて、お坊さんの頭みたいになっちゃうんですね。

 これはだめだと思ったときに、今のテレビ朝日、当時はNETという教育テレビだったのですが、そこの若い女性ディレクターが、構成を頼みたいといってきた。幼児向けの一種のバラエティ番組の構成を頼みたいと。

 彼女に会うと、何かいいアイディアはないかという。その場でワーッとしゃべったら、「それでいきましょう」というんです。岩波映画では20回も30回も会議やってボツなんですよ。それが、ワーッとしゃべったら、いきましょうと。いきましょうといっても、台本を書いて、実現するまでは時間がいっぱいかかるだろうと思った。「わかりました。じゃあ台本を書きます。台本はいつまでに仕上げればいいんですか」
といったら、「今晩中に書いてください」。

 びっくりですよ。「エッ? 今晩中に? 本番はいつですか」「あさってです」。それで、〝あさって〟できちゃった。こんないい加減な世界ってあるかと思いましたね(会場笑)。これで、私はテレビにあこがれたんですよ。

 そういえば、井上ひさしという人を知ってますか。あの人はNHKの「ひょっこりひょうたん島」という番組を書いていた。NHKに半坪ぐらいの、テーブルがあるだけの小部屋があって、そこで台本を書いてるんですよ。そしたら、向こうのほうでNHKの職員が、「井上ひさしってやつがな、直木賞(※1)取ったんだって。何かやらなきゃまずいんじゃないか。あいつはうるさいからな」。全部聞こえてるんですよ(会場笑)。「何しようか」「ワインでもやっといたらどうだ」「ワインたっていろいろでしょう」「一番安いワインでいい」、それも全部聞いてる。そういうのが、放送作家の身分だったんです。

 話を戻せば、まだ若いディレクターと話をした二日後に番組がオンエアされた。こんなすばらしい世界があるかと思った。これならなんでもやりたいことができるんじゃないかと。ちょうどそのころ、今のテレビ東京、当時は東京12チャンネルといいましたが、東京12チャンネルが社員募集をやっていたんです。それで、試験を受けて入りました。

  安部公房にOKを取る
 
 東京12チャンネルというのがまた面白い局で、(その当時東京では)一番あとから開局したテレビ局だったから、いろんなテレビ局でアルバイトとして働いてた人がみんな来た。それから、いろんな会社から中間管理職が来た。課長とか部長とか、そういう管理職はテレビを知らない。だから、企画がなんでも通っちゃうんです。

 局には教育と教養と報道とあって、最初は、私は岩波映画製作所にいたというんで教育部門に回されかけたんです。科学技術局といって、科学技術の教育番組部門。教育なんて冗談じゃないよと思って、開局記念番組に企画を募集していたので、私も応募しました。

 やっぱり視聴者が見てくれなくては。視聴者が見てくれる番組をつくろうと思いました。科学技術に関心があるから、SFドラマをつくろう。脚本は安部公房に書いてもらいたい。当時、安部公房はノーベル文学賞(※2)の第一候補でした。私は安部公房のファンでして、書いた本はほとんど読んでましたけれども、面識はない。だけど、もし安部公房がやってくれるなら、それはいいとなって、企画が通っちゃったんです。だから、安部公房に脚本を書いてくれと頼みにいかなければいけない。

 まず、電話をかけた。「今、忙しい」。当然ですよね。断られました。翌日の朝早く、安部公房の家に行きました。玄関のベルも押さずに、朝からずっと待った。安部公房が出てきたところをつかまえて頼もうと思って。1日目、ついに安部公房に会えませんでした。2日目もまた行きました。また朝から晩まで立ってました。3日目も行って一時間ばかり立っていたら、安部公房が奥から出てきて、「まあ入れよ」と。つまり、安部公房は1日目も2日目もいたんですね。窓から私が立っているのを見ていた。

 家の中に入れてくれて、私がSFで開局記念番組をやりたいといったら、話に乗ってくれて、やろうと、OKしてくれた。なんと天下の安部公房がOKしてくれた。

 こういうものなんです。そのときから私は、不可能というのはないもんだと思ってるんですよ。やればできると。

 安部公房に何をやりましょうかと聞いたら、難しいことをいい出した。コンピュータがつくったドラマをやろうと。当時、コンピュータはまだ計算機でしかなかった。そろばんの親玉のようなものです。でも、しょうがない、コンピュータがつくったドラマだ。当時、コンピュータを一番熱心にやってる大学が、早稲田大学だったんです。早稲田のコンピュータ研究室というのが、昔の文学部の、今は法学部の脇道のところにありまして、そこへ行って、「コンピュータでドラマできませんか」「できるわけないでしょう。あなた、コンピュータをなんだと思ってるんだ」といわれました。でも、安部公房とコンピュータでつくる約束をしているんで、いろいろやってみました。

 そのあげくに、NHKのドラマを視聴率の高い順番から100本調達した。NHKも親切ですね、東京12チャンネルなんて新参者だったからでしょうか、100本の台本を気前よくくれました。その100本の台本の要素を取り出しまして、コンピュータにかけて計算して、多いもの順に並べたんですよ。つまり、けんかするとか、食べるとか、服を脱ぐとか、いろいろな要素を100本のドラマから約100個取り出しました。それを安部公房のところに持っていって、「これはコンピュータが出した、視聴率の高さの秘訣だ。これで何かつくってくれ」といった。ということで、コンピュータが分析して、安部公房が脚本、タイトルは「こんばんは21世紀」になった。

 内容はどういうものかというと、コンピュータが人間に「おまえはもう要らない」という。コンピュータが人間の能力を上回ったから、もう人間よ、要らないと、人間に死刑宣告する。それに対して人間が、冗談じゃない、コンピュータよりも人間のほうがはるかに優れているんだと。つまり、コンピュータ対人間の裁判劇というものでした。でも、安部公房は、ドラマの脚本なんて書いたことなかったんですよ。

 もう一つ難しいことがあった。主演2人をフランキー堺と加賀まりこにやってもらいたかった。2人ともこれまた当時、一番の売れっ子です。当然ながら、2人ともまったく面識はありません。だけど、人づてに頼んでみたら、フランキー堺も加賀まりこもまじめな俳優ですから、安部公房脚本ならやろうという話になったんです。安部公房作、フランキー堺・加賀まりこ主演、「こんばんは21世紀」。視聴率もよかった。

 それで初めて、どんな難しい企画も実現不可能ではない、つまりやればできるんだということを身をもって知りました・そこが、私の始まりです。私が今までこうして現役でいられる理由はこの企画力だと思っています。

~(4)へ続く~

※1直木賞
直木三十五賞。作家・直木三十五の業績を記念して、1935年、芥川賞とともに創設された文学賞。大衆文学の無名・新進・中堅作家に与えられる。年に2回発表され、受賞作は文芸雑誌『オール讀物』に掲載される。井上ひさしは『手鎖心中』で、72年上期に受賞。

※2 ノーベル文学賞
アルフレッド・ノーベルの遺言によって創設されたノーベル賞の中の1つ。スウェーデン・アカデミーが授与する。「文学において理念をもって創作し最も傑出した作品を創作した人」に与えられる。 1901年度に第1回、日本人では、1968年度に川端康成、94年度に大江健三郎が受賞。

2007年5月18日

田原総一朗はこう語った(2)──田原総一朗流 再チャレンジ人生

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『誇りの持てる働き方 誇りの持てる生き方』(ダイヤモンド社)

テレビ番組の初企画が賞を取る
 
 撮影助手を降ろされて、仕事は何もない。ほされました。4月に入社して、5月に仕事がなくなった。ちょうどいいことに、60年安保闘争(※1)なんです。仕事がないから、毎日、国会の周りのデモに参加しました。6月15日も行きました。行って、帰ってきたら、学生が殺された。樺美智子さんですね。また行った。そしたら、警官が催涙弾を撃っていたんで、目がショボショボする。国会の中では学生が座り込んでいました。1960年の安保条約が国会を通った夜も、国会の周りで座り込んでいました。

 そんな折に、捨てる人もあれば拾う人もあって、あるカメラマンが「テレビを一緒にやらないか」と誘ってくれました。当時はテレビもまだフィルムで撮っていました。岩波映画製作所では映画のことを「本編」、テレビ番組を「テレビ」といって、ワンランク下に見ていました。テレビは一段下だからみんなやりたがらないし、お金も人もかけられない。だから、カメラマンは演出兼カメラ(撮影)でやるから、私にはそのアシスタントをやってくれというんです。

 どういう番組をつくるかといいますと、1万倍のスピードのカメラを日立(日立製作所)が開発した、その1万倍のスピードのカメラで、紅茶のカップにお茶を入れて、上からミルクをスポイトでポンと落とすところを撮る。ミルクをポンと落とすだけですが、1万倍で撮ると、スーッと落ちて、紅茶の水面にはすばらしい王冠ができるんです。それを撮る。つまり私は、ずっと2カ月間スポイトでミルクを落とすだけの仕事をやっていました。

 それが終わったところで、テレビというのは毎週放送するので、常にシナリオを募集しているのを知った。じゃあシナリオでも書くかと思いまして、その当時、小児マヒが非常に流行したのに目をつけました。それで、小児マヒのシナリオを書こうと。だけど普通にやっても企画が通るわけない。いろいろ調べたら、今の理研(理化学研究所)の先生で小児マヒのウィルスの映像を持っている人がいるという。そこへ通って、それを貸してもらえることになった。それで、プロデューサーに「これ、どうだ」といったら企画が通りました。私はカメラ助手兼演出助手です。ところが、ちょうど演出の方が病気になって私が事実上、演出もすることになった。なんと、ほされた次の仕事です。とにかく、そういう状況になって、私が撮りました。

 当時の映画がでは、ヌーベルバーグ(※2)というのが流行っていました。フランスで始まって、アラン・レネ(※3)とかジャン・リュック・ゴダール(※4)とか、そういう監督が出てきた。日本では大島渚とか。早稲田の学生はほとんどヌーベルバーグベったりだった。ついでにいえば、ヌーベルバーグと同時に流行ったのが、文学でいえば実存主義(※5)の文学ですね。カミュとか、サルトルとか。

 ヌーベルバーグというのは、カメラを手持ちで撮るんです。三脚を立てない。そこで私もシャーレとかビーカーとかを使って実験する様子を、カメラマンに全部手持ちで撮ってもらった。ヌーベルバーグに凝ってますからね。撮っているのは科学番組なんですよ。

 撮り上がって、演出家に見せたら「こんなもの使えるか。もう1回撮り直してこい」といわれた。プロデューサーに「もう1回撮り直さなきゃいけないんで、制作費ください」といっても「だめだ」といわれてしまった。

 お金がなければ、これはしょうがない、辞めようと思いまして、辞表を書きました。そのとき、脚本部門にいた清水邦夫に「辞めようと思うんだけど」といったら、「どうせ辞めるんだったら、編集してつくっちゃったらどうか」という。それもそうだなと思って、京橋の東京国立近代美術館フィルムセンターから、アラン・レネとかゴダールの作品を借りてきて観た。なにしろ、編集なんて今まで1回もやったことないんです。撮影助手ですからね。それも1回ではされてますから、なんにも知らない。

 1カットをどのくらいにすればいいのか、さっぱりわからない。どうしたかというと、ゴダールの作品をそのまま、まねて編集した。1カットの長さをそっくりにした。フィルムはセンチではなくてフィートで計る。3フィートとか、5フィートとかなんだけど、ゴダールはきっちりした長さじゃないんですね。3.5フィートとか4.6フィートとか、ちょっと余ってる。これがいわば俳句でいえば字余りみたいなもので、ゴダールのリズムになっている。私はそんなことはまったく気がつかないまま、ただ、ゴダールのとおりやってるから、3.5だったり、4.6だったり。

 それで、それを見てもらったら、なかなか調子がいい、まるでヌーベルバーグみたいだと(会場笑)。まねしてるんですからね。それで番組になって、放送された。さらに運のいいことに賞を取っちゃったんですよ。

 カメラ助手を降ろされて、ほされて、それから、やっとテレビでカメラ助手になって、シナリオを書いて、撮影助手・演出助手でつくった作品が、賞を取った。ダメ社員が、いきなり一本立ちした演出家になっちゃった。

仕事のおかげで科学の面白さに目覚めた 
 
 私は、失敗というのはそういうものだと思う。ほかの真面目にやってる優秀な人間は、まだ助監督なんです。私だけ一本立ちになって、次から次に番組をつくった。

 実は、その番組は「だのしい科学」という科学番組なんですけど、私は文学部へ入るぐらいだから、数学と科学が嫌いだった。これが科学番組をやったら、科学というのは面白い。つまり、科学ほど面白いものはないと思うようになった。

 なぞを解くんですね。なぜなんだと。いったい、牛乳の瓶は何度のお湯に入れれば、つまり何度になれば割れるのかなんてことをやるんですけど、やってみればいいんです。コンロにかけて、どんどん下から熱していくと、ついに割れますね。こういう実験を、それまでやったことがなかった。そういう、なんでも素直になぞを解いていけばいいというのは面白い。

 たとえば、潮の満ち引き。なぜ起きるか、知ってる? 月の引力ですね。月に近づくほうが満ちる。月の引力で潮が満ちたり引いたりするのを、映像でどう表現すればいいか。面白いんですよ。

 さらに、私がこんな面白いことはないと思ったのは、ミシン。昔はお嫁に行くとき、だいたいみんなミシンを持っていったものです。必需品だった。ミシンの歴史も調べようとした。東京にはミシンの老舗のシンガーがあったから、シンガーに、ミシンはどうやってできたのかを教えてほしいといったら、親切にも、アメリカの本社へ問い合わせてくれて、最初のモデルのミシンを送ってくれた。見ると、針が二本あるんです。ところが、百科事典を見たら、東大の工学部の先生がミシンのことを書いているんだけど、針は一本なんですね。

 これは間違いだと。それで、私はそのシンガーのミシンを持ってその東大の先生に会いにいきました。会って、「実はこれ、針二本じゃないですか」と。すると、「本当だ。すぐ書き直すから」と。東大の教授が間違ってるというのは面白かったですね。そういう新しい発見、素朴な発見があって楽しかったし、世の中にある科学の知識というのは間違いがたくさんあるんだということがわかった。それで科学がすっかり好きになりまして、いろいろやりました。

~(3)へ続く~

※1 安保闘争
1960年、日米安全保障条約の改定による新安保条約締結に反対して、学生や労働者が組織したデモ隊が国会議事堂を包囲するなどして、反対運動を展開。新安保条約は衆議院の強行採決により、同6月19日に成立したが、その後、岸信介内閣は総辞職に追い込まれた。

※2 ヌーベルバーグ
1950年代後半にフランスで始まった映画運動をいう。撮影所などで助監督などの下積み経験を経ることなくデビューした監督たちとその作品を指し、ロケ中心の撮影、即興的演出などに特徴がある。代表的な作家に、ジャン・リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォー、エリック・ロメール、アラン・レネ、ジャック・ドゥミなどがいる。

※3 アラン・レネ
フランスの映画監督。1922年、ヴァンヌ生まれ。パリの高等映画研究所で学び、48年に『VanGogh』(ヴァン・ゴッホ)でアカデミー短編賞を受賞。61年の『去年マリエンバートで』は、ヴェネチア国際映画祭金獅子賞を受賞した。その他の代表作に、『夜と霧』『二十四時間の情事』『アメリカの伯父さん』『恋するシャンソン』など。

※4 ジャン・リュック・ゴダール
1930年、フランス・パリ生まれの映画監督。59年、『勝手にしやがれ』で長編映画デビュー。ヌーベルバーグの旗手と呼ばれる。代表作に『気狂いピエロ』『彼女について私が知っている二、三の事柄』『パッション』『ゴダールのマリア』『映画史』など。

※5 実存主義
1920年~30年代にドイツ、ついでフランスで唱えられ、第2次世界大戦後にフランスのサルトルらによって広まった哲学思想。主観と客観を区別する従来の哲学を否定し、主観・客観の統一を個人的な存在である「実存」に求めるのが本来の哲学であるとする。ハイデガー、ヤスパース、マルセル、サルトル、カミュなどが代表的。

2007年5月13日

田原総一朗はこう語った(1)──田原総一朗流 再チャレンジ人生

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『誇りの持てる働き方 誇りの持てる生き方』(ダイヤモンド社)

田原総一朗さんが塾頭となって指揮をとる「大隈塾」では、政界・財界を中心に各界で活躍するリーダーを毎回お招きし、討論を主体とした授業をおこなっています。
※2006年度 講師一覧

講義のテーマはその時の社会情勢から講師自身の人生論まで幅広く、講師と学生による真剣な討論が毎週のように繰り広げられています。

本日は、その大隈塾で2006年11月に行われた田原さんによる講義「田原総一朗流 再チャレンジ人生」の模様をお届けします。

※出典:『誇りの持てる働き方』ダイヤモンド社

挫折ばかりだった学生時代からジャーナリストとしての現在に至るまでを熱っぽく語る田原さん。田原さんが学生に伝えたいこととは何か?

全6回にわたって「タハラ流人生論」をお届けします!
(文責:《ざ・こもんず》運営事務局)

小説家を夢見て早稲田大学中退を目指す
 
 こんにちは。今日は私自身の話をしたいと思います。2002年度から始まった大隈塾ですけれども、私が講師になってお話をするのは初めてのことです。何をお話ししようかなと、まだ頭の中がかたまってないんだけれども、一番わかりやすいのは身の上話だと思うので(会場笑)、身の上話をしようかと思います。

 私が早稲田へ入ったのは1953年。もちろん君たちは生まれてないよね。私は滋賀県の彦根の出身で、彦根には滋賀大学という大学があります。私の両親は、私に滋賀大学へ入って、経済を勉強してほしいと思っていた。アルバイトしながら大学へ行って、そしてどこかの会社へ就職せよというのが両親の希望だった。

 ですが、私はどうしても早稲田大学へ行きたかった。作家になりたかったんです。小説家になろうと思った。小説家になるためには早稲田へ入ればいいんで、卒業しなくていいと思っていた。有名な五木寛之さんとか野坂昭如さんとか、みんな早稲田中退なんですね。だから、とにかく入ればいいと。入って、同人誌へ入って、そこで小説のコンクールに出して、賞を取って作家になるという、そんな漠然とした夢を持っていました。

 両親は大反対。早稲田のしかも文学部なんて絶対だめだというので、わかったと。反対されても早稲田に行くから、仕送りは要らない。逆に私が仕送りするという約束で東京へ行きました。仕送りするために、早稲田を受験する前に日本交通公社、今のJTBの試験を受けて、まずJTBに就職しました。そのあとに早稲田の試験を受けて、第二文学部の日本文学科へ入りました。

 入社したら、新人研修というものがあります。私は高卒で入社したことになりますが、同じ年に大卒で入った人たちもいるわけです。研修は、高校卒業者と大学卒業者とは別々になっているし、高卒は研修が終わると、はとバスで東京一周する。大卒はJALで北海道へ行く。差別というのがあるんだなと、そこでまず感じました。 

 大学時代は、失敗と挫折とチャレンジ

 昼間は日本交通公社に勤めて、夜は大学に行きました。といっても、第二文学部にいて出席したのは、たぶん一週間ぐらいだと思います。ずっと同人雑誌を次から次へと渡り歩いていた。しかし、私は文章が下手でして、どこへ行っても褒められない。そのうちに「作家になるには文才がいる。文才がある人間が作家になる。君にはどう見ても文才がない。文才がない人間が努力するのは、これを徒労というんだ」というようなことをいわれました。

 一方、日本交通公社での仕事はまったく私に合っていなかった。最初は切符売りから始まったんだけど、その切符売りがだめなんです。私は愛想がよくないものですから、今度は定期券を売るほうへ回された。そこは窓のない部屋だった。そこへ据えられたんだけど、定期券売りでも数字を書き間違えたりいろいろした。それで、その次は東京駅の中に案内所があって、そこへ配転。つまり、配転から配転へ、窓際から窓際へと。ついに本当に仕事に行くのがいやになって、丸ビルの前まで行って、中へ入るのがいやでビルの周りを二周回って、「風邪をひきました」と電話して休んだこともありました。本当に落ちこぼれだった。

 そんなときに、茅場町の本屋で「文學界新人賞 石原慎太郎『太陽の季節』」(※1)というのを見て、それを読んで、これはかなわないと思ったんですね。続いて、「芥川賞大江健三郎『飼育』」(※2)というのがあった。これにもショックを受けた。両方読んで、これはもう自分程度の才能ではだめだと、本当に挫折をしました。

 そうなると、どこかに就職しなきやいけない。当時は、就職するならやっぱり学部も昼間に変わったほうがいいなあと。気がついたときにはもうすでに三年経っていた。それで、交通公社を辞めて、第一文学部の試験を受け直した。だけど、実家へ毎月仕送りをする約束になっている。交通公社の初任給が4,000円でしたので、そのとき1,000円仕送りをするという約束をして、仕送りをずっとしていた。昼間の学校へ行っても仕送りしなければいけない。そこで、いろんなことをやりました。新聞配達とか家庭教師とか、いろいろやったけど効率が悪いんです。それで、塾をやろうと思って、最盛期は20人ぐらい中学の生徒を集めて学習塾をやりました。私一人で20人は教えられませんから、今の筑波大学、当時は東京教育大学といっていましたが、教育大の学生を二人雇いまして、私は先生兼経営者になった。これは、収入が安定していました。その後、卒業して岩波映画製作所というところへ入るんですが、岩波映画の初任給が12,000円。当時、私の塾での収入は20,000円ありましたから、とても豊かな生活をしていました。

 岩波映画の撮影助手、務まらず
 
 卒業を前にして、学習塾をそのままやってもいいなとも思ったんですが、やっぱりどこかマスコミヘ就職しようと思って、次から次へと受けまして、8つ落ちました。今、仕事をしてるところはほとんど落ちた。朝日新聞、毎日新聞、東京新聞、それからTBS、NHK、北海道放送、ラジオ日本、角川書店。友達はけっこう受かったので、そのときも自分には才能がないんだなあと思いましたね。

 九つ目に、岩波映画製作所というドキュメンタリー映画をつくる会社を受けた。これは岩波書店から独立した年だったんですが、その岩波映画の入社試験を受けたら合格した。なぜ合格できたのかというのは非常に面白い。論文があって、それから面接が三回ありました。それで三回目の面接のときに、朝9時に呼ばれていったら、12時になっても私の順番が来ない。同じような人たちがまだ40~50人いましたよ。それで「昼食を要求しようじゃないか」と私がいったら、誰も手を挙げないんですね。1人「おう、やろう」と手を挙げたのがいた。それで、2人で昼食を要求しまして、ラーメンを勝ち取りました。この2人が入りました。ほかにも何人か入りましたが、私の相棒になったこの1人が、今、日本では井上ひさしと並んで有名な劇作家、清水邦夫さんです。彼がラーメンを要求して入った相棒です。

 岩波映画へ入って、面接で「君は撮影をやるか」と聞かれたから、「もちろんやります」と答えた。入ったら、撮影部のカメラ助手だったんですよ。私は本当に不器用な人間で、今もテレビの電源ぐらいはつけられますが、ビデオとかDVDの操作はできません。全部、娘にやってもらう。ケータイ(携帯電話)も、最近はホテルとか空港とか駅に公衆電話がなくなったので買ったんですが、電話しかかけられません。メールも何もできないというひどい話でしてね。

 という不器用さなのに、撮影助手でしょう。困ったなあと思って、会社に「私は不器用だから、撮影助手は無理です」といったら、「君は今、25歳だ。あと1歳、つまり26歳になったらもうどこも会社は採らないだろう。うちも君を演出に採る気はまったくない。もしいやなら辞めてくれ」といわれて、まあしょうがないやと思って勤めました。

 最初のロケで、私は撮影助手として大阪の堺に行きました。新日鉄(新日本製鐵、当時の八幡製鐵)が堺工場をつくる建設の記録を撮りに行ったのです。私が子どものときにも堺に行ったことがあるのですが、そのころのきれいな松原、砂浜はなくなっていて、海はヘドロでメチャクチャになっていた。高度成長というのはいいんだけど、目本の美しい海岸線をみんなメチャクチャにしたんですね。そういう撮影に行きました。

 撮影に行ったのはいいんですが、不器用ですから、カメラマンが三脚を立ててカメラを構えて撮りますね。そのときに、三脚のネジを外して撮らないとカメラが自由に動かないから、ネジを外して撮るわけです。それで、さあ移動だというときに、私が脚をかついだらカメラが落ちちゃった。あるいは、当時はカメラはバッテリーがありまして、コードでつないで電源を取るんですが、そのコードを持っていくのを忘れたり。まあ、次から次から失敗があった。結果、降ろされた。降ろされた最大の理由は、カメラを落としたこともあるんだけれども、スタッフが4人だったからなんです。ロケ中は堺で家を借りる。当時はマージャンがすごく流行った。みんな夜はマージャンをするんですね。ところが私はマージャンができない。3人ではマージャンはできないから、ほかの先輩たちは不機嫌になる。そこへ私は、サルトルの『存在と無』なんて読んでる。「あのやろう、仕事もできなくて、何が『存在と無』だ」、ということで1ヶ月で降ろされました。

※1 文学界新人賞
文藝春秋が発行する文芸雑誌『文学界』の公募新人賞。年に2度、募集される。1955年の第1回受賞作品『太陽の季節』(石原慎太郎)は、第34回芥川賞(55年下期)も受賞した。

※2 芥川賞
芥川龍之介賞。(財)日本文学振興会が贈呈する文学賞。芥川龍之介を記念して1935年に創設された。新聞・雑誌などに発表された新進作家の純文学短編作品の中で最も優秀なものに与えられる。年2回の受賞作は雑誌『文藝春秋』に発表される。大江健三郎は58年上期に受賞。

2007年5月 9日

朝日新聞が自衛隊の海外派兵を容認!?

5月6日のサンデープロジェクトには、朝日・読売・毎日の社説責任者である論説委員長・論説主幹が出演し、憲法改正問題をテーマに徹底討論を交わしました。
新聞社の社説責任者によるテレビ討論は前代未聞で、放送後の反響もとても大きかったそうです。
そこで、《ざ・こもんず》では、放送後の感想を聞くために田原氏に突撃インタビューを敢行。各紙の主張から放送後の雑談内容まで語ってもらいました!
(文責:《ざ・こもんず》運営事務局)

* * * *

還暦を迎えた平和憲法
今年の5月3日はちょうど憲法60周年。つまり、憲法も還暦を迎えたわけで、新聞各紙も大々的に憲法特集をやった。そこで、サンデープロジェクトで朝日・毎日・読売の社説責任者を招いて憲法をテーマに討論をやろうということになった。
実は、日経と産経にも番組への出演依頼を出していたんだけど、日経は「紙面に書いている以上のことはない」といって断られた。産経は論説委員長がたまたま外国に行っていて不在だったため、出演できなかった。

憲法九条は日本とアメリカの思惑が合致してできた
各紙の論調はと言うと、大雑把に言って、読売は改憲、朝日は護憲、毎日は論憲。

読売が改憲を主張する理由は、(敗戦後に)憲法ができたときと現在とでは状況が大きく変化したから。
現行の憲法ができたとき、日本は事実上非武装だった。当時、アメリカや連合軍が考えていたことは日本を再び強い国にしないこと。一方、日本は天皇制を維持したい。だから、憲法9条が一種のバーターとしてできあがった。
だけど、今では自衛隊が海外での協力を求められている時代で、状況は全く変わってしまった。だから、現行の憲法では無理があり、変えなきゃいけないというのが読売新聞です。

朝日は、すっきり護憲ではないけれど、「護憲でいけるじゃないか」と考えている。
何よりも、現行の憲法ができたのは敗戦と言う大きな出来事があったから。「もう戦争はイヤだ」という日本人の強い“思い”と連合軍の“思惑”が合致してできたものであって、憲法九条ができたのはある意味奇跡的なことだった。これは世界的な遺産であり、大事にすべきだと。その後、時代は変わったものの、朝日は憲法九条を変えるほどの必然性はないと考えている。
そのかわり、自衛隊については、改憲ではなく「安全保障基本法」を制定し、自衛隊の活動を論議して規定すべきだという。具体的に言うと、PKOにも積極的に参加する。

朝日が自衛隊の海外派兵を容認!?
そこで、僕は若宮氏(朝日新聞)を少し追い込んでみた。

「仮に湾岸戦争みたいなことがおきた。国連の安保理で圧倒的多数で可決され、クウェートからイラクを追い出すことになった。こういことが起きた場合、日本はどうするか」

とたずねた。すると若宮氏は、

「それは非常にレアケースだと思うけれど、そのときは様々な条件をつけて多国籍軍に協力する」

私が「そこは一歩前進ですね」と言うと、読売の朝倉氏がすかさず「大きな前進だ」と(笑)。

それにたいして毎日新聞は一番素直。
毎日は、正直に言って、今の憲法には問題があるという。解釈改憲を続けていくのも問題。だけど、いざ憲法九条を変えるとなると、どこをどう変えるのか。下手すると戦前に戻ってしまう危険性もある。
で、変えようか変えまいかとそのあたりをウロウロしてる。これがいわゆる論憲。

前代未聞の討論、反応は上々
朝日・毎日・読売の社説担当者がテレビで顔を揃えて議論するのは前代未聞で、これまで一回もなかった。新聞社というのはややテレビをバカにしていて、その新聞社のなかでもテレビを一番バカにしているのは社説責任者かもしれない。
だから、僕は以前からこの企画をやってみたかった。いざやってみたら、反応がとてもよかった。

というのは、社説なんてほとんどの読者が読んでない。小難しくて、理屈ばかりで血も涙も通っていない。だけど、テレビに出てきた社説担当者は、歴然とした血も涙も通っている人間で、ときにはためらい、言葉につまり、困りながら喋っている。ようするに、社説を書いている人が「こういう人だったのか」と理解することができた。きわめて人間的な人だとね。
これまでは、社説を書いている人なんて人間だと思われてなかったんじゃないかな。そういう反応が強かった。

出演してくれた3人とも「とてもよかった」と言ってくれたので、「テレビの魅力がわかりましたか?」と聞いたら「いやいや」なんて言ってましたけどね(笑)。

Profile

田原総一朗(たはら・そういちろう)

-----<経歴>-----

1934年、滋賀県彦根市生まれ。
早稲田大学文学部卒。
岩波映画製作所、テレビ東京を経て、77年フリーに。
テレビ東京時代の連続番組「ドキュメンタリー青春」で、取材対象者に肉薄する独特のインタビュー手法で注目を浴びる。
現在は政治・経済・メディア・IT等、時代の最先端の問題をとらえ、活字と放送の両メディアにわたり精力的な評論活動を続けている。
テレビジャーナリズムの新しい地平を拓いたとして、98年ギャラクシー35周年記念賞(城戸又一賞)を受賞した。
2002年より母校・早稲田大学で「大隈塾」を開講。塾頭として未来のリーダーを育てるべく、学生や社会人の指導にあたっている。

-----<出演>-----

『朝まで生テレビ!』
(TV朝日、毎月最終金曜25時?)

『サンデープロジェクト』
(TV朝日、毎週日曜10時?)

BookMarks

田原総一朗 公式サイト
http://www.taharasoichiro.com/

田原総一朗のタブーに挑戦!(JFNラジオ番組)
http://www.jfn.co.jp/tahara/

株式会社アスコム
http://www.ascom-inc.jp/

朝まで生テレビ!
http://www.tv-asahi.co.jp/asanama/

サンデープロジェクト
http://www.tv-asahi.co.jp/sunpro/

早稲田大学 大隈塾
http://www.waseda.jp/open/attention/ookuma/ookuma_curriculum_2005.html

早稲田大学 大隈塾ネクスト・リーダー・プログラム
http://www.waseda.jp/extension/okumajuku/index.html

-----<著書>-----


『市場浄化』
2006年10月、講談社


『テレビと権力』
2006年4月、講談社


『オフレコ!Vol.2』
2006年3月、アスコム


『国家と外交』
2005年11月、講談社、田中均共著


『日本の外交と経済』
2005年9月、ダイヤモンド社


『日本の戦後(上)』
2003年9月、講談社


『日本の戦後(下)』
2005年7月、講談社


『田原総一朗自選集 1?5巻』
2005年7?10月、アスコム

『オフレコ!Vol.1』
2005年7月、アスコム、季刊

『日本の戦争』
2004年12月、小学館文庫

『日本の政治?田中角栄・角栄以後』
2002年10月、講談社

『日本の生き方』
2004年11月、PHP研究所

『日本政治の表と裏がわかる本』
2003年5月、幻冬舎文庫

『連合赤軍とオウム?わが心のアルカイダ』
2004年9月、集英社

『「小泉の日本」を読む』
2005年2月、朝日新聞社

『面白い奴ほど仕事人間』
2000月12月、青春出版社

『日本のからくり21』
朝日新聞社

『愛国心』
2003年6月、講談社、共著

『わたしたちの愛』
2003年1月、講談社

『日本よ! 日本人よ!』
2002年11月、小学館

『田原総一朗の早大講義録(1)』
2003年9月、アスコム

『田原総一朗の早大講義録(2)』
2004年3月、アスコム

『田原総一朗の早大「大隈塾」講義録 2005(上)』
2005年5月、ダイヤモンド社

『田原総一朗の早大「大隈塾」講義録 2005(下)』
2005年5月、ダイヤモンド社

『頭のない鯨?平成政治劇の真実』
2000年2月、朝日新聞社

『田原総一朗の闘うテレビ論』
1997年3月、文芸春秋

『メディア・ウォーズ』
1993年3月、講談社

『平成・日本の官僚』
1990年3月、文藝春秋

『警察官僚の時代』
1986年5月、講談社

『マイコン・ウォーズ』
1984年12月、文芸春秋

『原子力戦争』
1981年11月、講談社

-----<連載>-----

週刊朝日「田原総一朗のギロン堂」

SAPIO「大日本帝国下の民主主義」

プレジデント「権力の正体」

-----<映画>-----

『あらかじめ失われた恋人たちよ』
1971年、監督

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