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2011年5月26日

牡鹿の恩人

 「温泉、楽しみ~!」思わぬところから、小さな参加者の声が響いた。最上へ向かう第3班のバスが、鮎川の参加者を迎えに来た時のことだった。

 正直、「本当にこれでいいのか」とずっと考えていた。

 相馬の避難所を目にした時、茫然とする人を床や廊下に寝かせたままではならない、このままではいけないと思った。

 観光に携わってきたものだから、その解決策などすぐに思いついた。地方の旅館はずっと客不足に苦しんでいる。まして、震災後、他人様が苦しんでいる姿を見た日本人はそう簡単に旅行する気になどならない。客室はがら空きだ。

 ごく自然なことだった。だから、被災した人たちを旅館が受け入れ、そこを避難所として使用で切れば、被災者に旅館側も救われることになる。間接的な被害を含めれば、この大震災がもたらす被災地はさらに広がるのだ。

 東京に帰ってから、一刻も早く何とかしたいと知り合いを頼り、国や業界団体を訪ね歩いた。
反応は鈍かったが、使えそうな制度があることもわかった。すでにJTBの幹部ら観光関係者が政府に働きかけていたのだ。大臣政務官の中には、こんなときに観光に何ができるといわんばかりに吐いて捨てたが、被災県の知事らの強い働きかけで制度に組み込まれたという。

 今回の震災で被災者を助ける役目は厚労省にあったが、あまりの大規模災害に対応しきれないでいた。救助から救命医療、はては生活支援まで社会援護局にすべての重圧をかけても土台無理な話だ。だから、県域を越えた宿泊施設を利用した避難~三次避難の制度は、厚労省が国交省に頼み観光庁が動いた。

 制度がうまく動かないとみると厚労省は、より柔軟な対応をとすぐに強く要請をしている。

 そんな中、介護旅行の受け入れ地候補として手をあげていた山形県最上町が、いち早くこの危機に動いていた。震災後、3日目あたりから、被災者が集団で町の保養センターに泊めて欲しいとやってくるようになったからだ。

 町から管理を指定されている大場組の社長は、すぐに一大事であることを理解し、全面的な被災者の受け入れ要請を町に進言し、町も積極的に動き始めた。

 そして、避難所から1,150人の希望者を短期疎開プランとして、2泊3日、無料で受け入れようと事業を計画した。

 はじめは最上の思うように進まなかったが、長期化する避難所生活に疲れた被災者が、南三陸や石巻市の中心部からゴールデンウィーク中に1,000人以上も利用することとなる。

 町の活動を知った最上の子は、貯めたお年玉を使ってと役場まで募金に来た。「町の未来を背負う子供らがそんな気持ちでいるのだから、私たち大人が今頑張んなきゃ」と町長が気持ちを語ってくれた。

 一方、旅行業の中でも小さな力を集めて奮闘している人がいた。同じ観光人材の業界仲間でフォーラムジャパンの派遣社員として添乗員をしている篠原恵理子だ。

 篠原は友人達と震災直後から石巻へ物資運搬とヘドロ掻きなどのボランティアとして入っている。時間を見つけ被災地への物資を調達しては何度も往復する。そんな活動を繰り返すうちに、同じ石巻市でも牡鹿半島には全く支援の手が入っていないことを知ることになった。

 ようやく先週あたりからピースボートなど他のボランティアが入り始めたが、当初、この地区一帯を支援しているのは遠藤太一という埼玉から来ているボランティア青年、ただ一人だったという。

 そこから篠原の強烈なパワーが全開となる。
実家の千葉と石巻を何度も往復して、支援物資を集めては牡鹿に届ける生活が始まった。

 さらに、よそ者である彼女の行為を快く受け入れた小網倉浜という地区の被災者には、少しでも温かい食事とお風呂を提供したいと、ツアーコンダクター仲間らと協力して義援金を募り、60数名の被災者を隣町仙台の秋保温泉へと招待している。ツアコンらしい発想だが、ほとんど自腹だ。

 共感した蘭亭の早坂マネージャーが、特別料金で受け入れ協力をした。蘭亭も早くから、空室の供出を旅館組合(観光庁の依頼)から求められたが、その後は何ら音さたもなく独自で何かしたいと考えていたところだったという。

 小網倉への活動を知った鮎川や他の地域の被災者の中にも、同じような希望があるはずだと、篠原はもう一度招待旅行へと動き始める。しかし、残った資金は少額ですべての希望が叶うかわからないままの見切り発車だ。

 すでに震災から2か月が過ぎようとしていた。

 この動きを知った最上町役場の職員伊藤和久は、すぐに役場内を調整し100名分の予算を篠原らの活動支援として使うと約束。牡鹿の被災者受け入れに名乗りを上げてくれた。

 牡鹿の支所もはじめは半信半疑だった。
そんな大勢を縁もゆかりもない最上町が、無料で招待してくれることなど考えもつかなかったのだろう。

 観光庁に限らず霞が関では、セーフティネットの利用がないのだから、被災地は被災者心理で地元を離れたくない、需要はないと言い切っていた。

 ところが、いざ蓋を開けてみると篠原の実感が的中、沢山の被災者が短期疎開に名乗りを上げた。嬉しい誤算が起こったのだ。

 我々は今回の短期疎開では、要介護者も受け入れいれようと提案していた。最上は私も一度、トラベル東北に呼ばれ講演に行っていたので様子は知っていたし、トラベルヘルパーが入れば何とかなると考えたからだ。

 主旨を賛同してくれた支援者からは、除菌消臭スプレーの提供があり、ユニチャームメンリッケからは、高品質の介護用おむつを提供してくれた。ありがたかった。 

 はじめは、旅行業マンとしてできることを考え動いていたが、篠原の働きを見ているうちに触発され、介護旅行の牽引役としてやらなければならないこと、トラベルヘルパーが力を合わせてできることを考えるようになっていた。私の篠原や遠藤など若い力に感化されていたのだ。

 しかし、当初予定の2倍以上262名の参加者が名乗りを上げた短期疎開計画は、資金問題に直面している。最上町は、100名分の予定だったからだ。 

 抽選でという案もあったが、今更断れないという支所の沼倉生活支援課長の気持ちも皆、痛いほどわかる。最上町の伊藤は観光協会を通じて一泊5千円の当初予算を今回は4千円でやってほしいと旅館らに交渉してくれ、残りは篠原が支払うと覚悟を決めた。足らない分は新たな募金集めだと今実家に戻り資金調達に走っている。
愛車も売る覚悟とは沼倉課長から聞いたが、それを売ってしまっては篠原が牡鹿に来ることができなくなる。

 嬉しい誤算は金の問題として、今皆を悩ませている。

 
国はセーフティネットをはったというが、この非常時に被災者や篠原や遠藤ら被災地の行政がやるべきことを補完している支援者が使えない制度など何の意味があるか。被災地自治体では、申請先となる担当者すら置けないまま、ネットがあってもワーキングがないのだ。

 本当にこれでよかったのか、自問自答を繰り返す。

 今回トラベルヘルパーとして磯田、運転を私が行った第2班の菅さん親子の笑顔は良かった。浜でラーメン屋をしていた息子のまさひろさんは、地震の後すぐに母親ふじ子さんのもとに駆け、車で高台に避難させた。店が心配で一人で降りてくると、1波、2波に耐えた店が、3波目ですべて飲み込まれるのをまじかで見たという。

 外は暗くなり、雪交じりだ。車に戻るとふじ子さんが震えていたので、避難先を探したがほとんどが流され戦気がない。二人は集落の人と冷凍コンテナで寒さをしのぎ、何日か過ごした。ドアを閉めると真っ暗で昼も夜も分からなかった。このままでは母親が危ないとまさひろさんは、一輪車にふじ子さんを乗せ施設に行ったが、そこも一晩で出されてしまった。

 ここでも102歳の長老が地震も津波も免れたが、避難生活の中で息を引き取ったという。ストレスで気持ちが萎えてしまったのだろうと悔しそうに話す沼倉課長の顔と重なる。

 ふじ子さんは最上で磯田と篠原の介助で、震災から3度目の入浴、しかも温泉に入ることができた。今は、空き家になっていた知り合いの民家に2人で身を寄せている。他人の家だから手すりひとつ着けることさえ憚られる。訪問介護も滞っているという。

 無事牡鹿の借家にもどった別れ際、互いに手を取り涙する。気持ちが晴々とした。みな清々しい気がした。

 避難生活者の中に介護が必要な人や障がいを持つ人が少なからずいることが改めて確認できた。

 最上短期保養の第1班には、知的障がいのグループ10数名が参加し、宇田川トラベルヘルパーが同行している3班には、聴覚障がいを持つ人と認知症で要介護の夫婦も参加している。介護旅行システムは被災地支援でも必要なのだと思う。 

 
出発前、「ボク、楽しみ~」と言った「ゆうた」君は、祖父母と参加している。家は全壊したが、家族は無事だったそうだ。

 宇田川には、当初付添いだから心配ないと言ったのに、集まったら人を確認したら要介護、障がいの人がいて、さらにゆうた君の面倒まで見てもらうことになってしまった。

 宇田川は、被災地へもう5〜6回ボランティアで入っているはずだ。当初はドロカキだったが、今回は仙台近くで被災者を受け入れている介護施設でボランティアしてきた帰りに、わざわざ合流してくれた。疲れもあるだろうが、彼女ならそれも楽々とこなすだろう。

 彼らの様子は、牡鹿のボランティアや被災地に暮らす人々、さらに最上の人の様子とともにTBSの報道特集で知らされることになった。

 
かわいらしい「ゆうた」君の声を聞いたときに初めて「やってよかった」と思うことができた。

 はじめて、自分の行動が腑に落ちた。いつも救われるのは私たちの方だった。

 理で人は動かない。情があってこそ、ただ人が動く。

 そして、人の手をいれた観光は人の心を癒すのだと思う。

★   ★   ★

【《THE JOURNAL》編集部からのお知らせ】
被災地で活動を続けるトラベルヘルパーを支援するため、募金専用口座が開設されています。支援を希望される方は下記URLから詳細のご確認くださいm(__)m

■NPO法人日本トラベルヘルパー協会
http://www.travelhelper.jp/

2011年5月15日

未だ危機的状況下にあり

 震災から2か月、東北にも春は訪れ、子供たちの学校も始まった。報道では、着実に復旧から復興へと被災地も歩みを進めているかのように思える。

 ところが被災地を行き来しているボランティアの話を聞くと、まだまだ深刻な状況に置かれたままの人が少なくないことを知らされる。深刻な状況にあるのは、原発問題に揺れる福島ばかりではない。都市で知らされる情報は未だに一部の真実しか伝えられていないのだ。

 仙台の隣、石巻市の中心から15分ほど車で走ると風光明媚な牡鹿半島に入る。半島の先には、有名な金華山があり、地形は海沿いまで高地がセリ出していて、年寄りが歩いて移動できるようなところではない。

 こうした場所に残された被災者は、未だに自衛隊が持ってきてくれる菓子パンと水だけで飢えを凌いでいる。物資の輸送を手伝うのは、地元の若者が組織するボランティアグループ、もちろん彼らの中にも被災した人はいるし、災害ボランティアなど経験している人はいない。

 ゴールデンウィークには、受け入れ制限が出たほどの県外ボランティアが、この牡鹿地区にはたった一人のしか入っていない。石巻漁港周辺のような早くからメディアの入った地域では、全国からたくさんの救援物資が送られ、県外ボランティアも多く入り、復旧から復興への道を歩み始めていると伝えられる。

 しかし、同じ市内にありながら、牡鹿のような集落がこの半島内だけでも、たくさん残っている。

 ボランティアの受け入れ制限が出たのは、決して支援が足りたというのではなく、来てもらってもマッチングをはかるリーダーやボランティアコーディネーターがいないために現地が混乱してしまうからだ。

 気仙沼のはまなす館が被災した湖山福祉医療グループの湖山代表は、こうした状況は陸前高田以北の海岸沿いの小村には無数にあるだろうと言った。

 不自由な在宅避難生活が続く中、介護が必要な高齢者も集落にはたくさん残っており、何人かまとまった避難所は、もはや要介護高齢者施設と化しているという。

 今はまだ数字の把握ができていないが、これから数多くの高齢者が避難先で亡くなったという事実が明らかにされるだろうと教えてくれた。医療の専門家でさえ予測できないほど、今回の被害規模は甚大なのだろう。

 このような被災者たちを内陸や県外の宿泊施設に集団疎開、二次的避難をしてもらおうと国はセーフティネットをつくったが、思うように利用が進んでいない。いまだ不明の家族や家族同様に暮らす集落の仲間への気兼ねもあるが、もう一つの理由は、すでに年寄りたちはこのまま静かに死のうと決めているからだという。命を救おうという医者でさえ、本人にその意思がなければなすすべがないというのはショックだった。

 それでも、「知ってしまった者」たちは動いている。

 南三陸の被災者に続き、20日から3班に分かれて牡鹿半島の人たち100名が、短期的な避難として最上の温泉旅館で3日程休養することになった。最上町と県外ボランティアの連携によるものだ。

 これまでと違い、避難生活で足腰が弱った高齢者や介護を受けている人も積極的に引き受けようというのが、牡鹿プロジェクトの特徴だ。もちろん、我々トラベルヘルパーが協力するというのが前提だ。

 こうした中、我々の募金活動も災害NGOへの支援から、直接活動のための義援金に切り替えた。

 知った以上は行動することが大切だからである。

 我々の活動を支援してくれようと思う人は、NPO法人日本トラベルヘルパー協会へ直接募金してほしい。

 東北人の忍耐力を日本人の美談としてはならない。

 今私たちは、改めて事実を知る努力を尽くさなければならないと感じている。

Profile

篠塚恭一(しのづか・きょういち )

-----<経歴>-----

1961年:千葉市生れ。
1991年:(株)SPI設立[代表取締役]観光を中心としたホスピタリティ人材の育成・派遣に携わる。
1995年:超高齢者時代のサービス人材としてトラベルヘルパーの育成をはじめ、介護旅行の「あ・える倶楽部」として全国普及に取り組む。
2006年:内閣府認証NPO法人日本トラベルヘルパー(外出支援専門員)協会設立[理事長]。行動に不自由のある人への外出支援ノウハウを公開し、都市高齢者と地方の健康資源を結ぶ、超高齢社会のサービス事業創造に奮闘の日々。
現在は、温泉・食など地域資源の活用による認知症予防から市民後見人養成支援など福祉人材の多能工化と社会的起業家支援をおこなう。

BookMarks

あ・える倶楽部
http://www.aelclub.com/

-----<著書>-----


介護旅行にでかけませんか──トラベルヘルパーがおしえる旅の夢のかなえかた(講談社)

問診による経営診断のすすめ方(共著)

大人の脳活性訓練ガイド(入門編)監修

トラベルヘルパー養成講座・教本
 
介護旅行でいきましょう(時事通信・連載)
 
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