« 2011年9月 | メイン | 2011年11月 »

2011年10月11日

知的障害者による女児殺害「東金事件」判決公判を傍聴して

 9月29日に東京高裁で開かれた東金事件裁判の判決公判を傍聴した。東金事件は、千葉県東金市で2008年9月に、知的障害者のR君が近所の女児を自宅マンションに連れ込んで、騒がれたために殺害、遺棄したとされる事件だ。判決は懲役15年。弁護側が主張した心神耗弱などの主張はことごとく退けられ、責任能力が認定された。犯行態様といい、動機といい、彼が知的障害者であることを抜きにこの事件は語れないのだが、判決ではそれについての斟酌はなかった。

 公判の後、弁護士会館で支援者らと弁護団による内輪の報告集会があり、参加した。久々にR君の母親にも会った。『創』はR君逮捕直後から、主任弁護人だった副島洋明弁護士のインタビューを毎号掲載。知的障害者の問題を提起するためにキャンペーンを張った。同時にこの事件を報道するマスコミを厳しく批判したものだったために、R君のカラオケ映像を放送したTBSを始め、大手マスコミと論争にも至った。
http://www.tsukuru.co.jp/tsukuru_blog/2009/04/post-79.html

 その後、不幸なことに、弁護団が方針をめぐって分裂、副島弁護士が公判開始直前に辞任するというありえない展開となった。『創』の連載も頓挫した形となった。だから今回、事件関係者と会ったのは久々だった。

 判決を聞きながら、重たい気持ちになった。これで事件の解決になったかというと全くそう思えなかったからだ。

 R君の父親は以前からがんで入院。彼が逮捕された直後に他界した。母親はその前から女手ひとつでR君を育てていた。彼は2008年夏に、勤めていた工場をやめてフリーター生活になった。工場では、知的障害ゆえにからかわれるといった体験もあったようだ。そして、昼間母親が働いているため、R君は一人で家にいるという生活になった。どうもその生活のなかで彼は次第に孤立を深めていったらしい。殺害した女児を連れ込んだのも、当初報道されたようなわいせつ目的でなく、友達がほしかったという動機と思われる。実際、事件後、彼が捜査線上にあがったのを受けて接近してきたマスコミに対しても、彼は警戒するどころか、話し相手ができたと喜んでいたほどだった。記者とカラオケ店に行き、熱唱している様子を撮影されるという事態も、健常者ならありえないことだろう。そもそも、彼が、自分の犯したことの意味や、置かれた立場を十分に理解しているかどうかは、今現在も不明のままだ。

 知的障害者がこの社会でどういう環境に置かれているのか、社会的に孤立している彼らをどうしたらよいのか、家族(この場合は母親)だけに、そのケアや責任を求めるだけでよいのか。本来ならこの事件あるいは裁判は、そういう問題を考えるきっかけにしなくてはいけないと思う。裁判所にそこまでを求めるのが酷だとすれば、それは恐らくマスコミの役割なのだと思う。しかし、そういう問題提起を行った新聞・テレビはほとんどなかった。

 そもそも、今の日本社会では、犯罪を犯した者に判決がくだされるとそれで一件落着とされ、マスコミ報道も「ジ・エンド」。判決を受けた者が将来出所した時に、社会がどう受け入れ、ケアしていくべきかという問題意識などほとんどない。こんなことで犯罪がなくなっていかないことは明らかだ。

 R君が15年後に戻ってきた時、再び我々の社会は、彼のケアを母親だけにおしつけてよしとしてしまうのか。孤立し、追い詰められて犯行に走った、今回の教訓が、それで活かされたと言えるのか。障害者による事件と聞いただけで、難しい問題なのであまり触れないでおこうという、今のマスコミのあり方で本当によいのだろうか。そういうことを考えると、裁判が終わっても、疑問ばかりが残るのだ。

 この事件については、次号の『創』12月号で改めて取り上げようと思う。

2011年10月 5日

毎月顔をあわせている永六輔さんについてのNHKの番組

 9月30日にNHK総合で放送された「永六輔・戦いの夏」、見逃した人はNHKホームページのオンデマンドのサイトからまだ見られるので、ぜひ見ていただきたいとお勧めします。私は、永さんとは、いま月刊『創』の矢崎泰久さんとの連載対談「ぢぢ放談」収録のために毎月お会いしているし、その前は朝日ニュースターの「痛快おんな組」で一緒だったので、もう5年くらい顔を合わせていることになります。

 NHKの番組でも話していましたが、永さんは、最近話題の「上を向いて歩こう」を始め、作詞家として知られた時期もあったけど、フォークソングが出てきた時期にその仕事を辞めたと言います。自分で作詞作曲をして自分で歌うフォークシンガーのありかたこそが表現者だと感じたというのです。永さんらしい話です。

 また、今回、自分の思い入れのイベントを紹介する企画だったのでテレビに出演したが、そもそも永さんはテレビ嫌い。戦後のテレビ文化を創った人がテレビ嫌いというのも面白いのですが、テレビに出ることが有名人と同義になった風潮に対する永さんなりの抵抗なのです。このへんのこだわりが、永さんの魅力なのです。そんなふうに自分の生き方にこだわる人って、永さんの世代まではたくさんいたのに、最近ほとんど見かけなくなってしまいました。そのあたりの永さんの生き方をよく表現していたのが、今回のNHKのドキュメンタリー番組でした。永さんを知る世代の人にはぜひ見てほしいと思います。

 この番組でも大きなテーマになっていましたが、実は永さんはこの3年ほど、深刻な病気に苦しんでいました。私が5年ほど前、一緒に仕事をするようになった頃は、例の「立て板に水」というべき永さん独特の喋りが聞けたのですが、その後、みるみるうちに元気がなくなり、一気にふけこみ、話してもろれつが回らなくなったのです。一時は周囲の人たちも、このまま永さんは亡くなってしまうのではないかと心配しました。大好きなラジオの仕事でも、「何を話しているのか聞き取れない」という批判の投書と、「永さん頑張れ」という激励の投書が相半ばし、局側も心配したのでした。

 でも、昨年あたりから、また永さんは元気になり、言葉も聞き取れるようになったし、今年は被災地にも、さらにモンゴルにまで出かけました。その元気が出るようになったあたりに、タクシーに乗っていて追突される事故があったために、「壊れたラジオと一緒で叩いたら直った」と本人も周囲もギャグにしています。ただ、毎月見ていた私に言わせれば、永さんが回復しだしたのは、パーキンソン病という自分の病名がわかったせいだと思います。それまでは、いろいろな症状が出始めたのに、原因がわからないという状況で、それが不安を呼び、精神的にも元気をなくさせることになっていたのだと思います。

 病気が認識できたことで、自分の状況が把握できたというのが大きかったのだと思います。病名がわかって治療に集中するようになってからは、精神的にかなり元気が出てきたように感じました。今は永さんは、病気と向き合い、病気をつきあいながら活動をしています。自分の死生観についても番組で話していました。やはり永さんほどの人が語ると、死生観も重みが違います。考えさせられる番組でした。

Profile

篠田博之(しのだ・ひろゆき)

-----<経歴>-----

1951年茨城県生まれ。
一橋大卒。
1979年より月刊『創』編集者。
81年より編集長。 82年同誌休刊に伴い、創出版を設立して雑誌発行を続ける。
現在は編集長兼経営者。
日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長、東京経済大学大学院講師など兼務。
東京新聞、北海道新聞などにコラム「週刊誌を読む」連載。
メディア批評のほかに、犯罪、死刑問題などについても新聞・テレビでしばしば発言。
著書『生涯編集者』(創出版)、『ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)。共著は多数

BookMarks

創出版
http://www.tsukuru.co.jp/

最新号
↓ ↓ ↓

詳細はコチラ

-----<著書>-----


『生涯編集者──月刊「創」奮戦記』
2012年6月、創出版



『ドキュメント死刑囚』
2008年8月、筑摩書房

→ブック・こもんず←



当サイトに掲載されている写真・文章・画像の無断使用及び転載を禁じます。
Copyright (C) 2008 THE JOURNAL All Rights Reserved.