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「死刑になりたかった」金川真大被告と面会した

 12月28日朝一番に水戸拘置支所にて土浦無差別殺傷事件の金川被告と面会した。18日に死刑判決が出て弁護人が即日控訴したが、金川被告はその28日に取り下げた。私との面会の後、取り下げると言っていたが、もう私も止める気になれなかった。

 以前、奈良女児殺害事件小林薫死刑囚も同様の状況になったが、彼の場合は迷っていたので、「迷うくらいなら死に急ぐことはない」と、控訴取り下げに私は反対した。しかし、金川被告の場合は、「死刑になりたい」という意志が強固で、何を言っても無駄という感じだ。「きょう取り下げることを親には言ったのか」と訊くと、「言ってない」との答え。もう死ぬことを決めてしまってからは、この世への執着は何もなくなってしまったようだ。

 死刑判決への感想を聞いた。「間違っていると思えた個所はあったか」と訊くと、「全部です」との答え。「じゃあ、どこがどう違うのか指摘してはどうか。君が死んでも記録は残るのだから、異議申し立てはしておいた方がいい」と言ったら、そんなことをする気はないとの返事だった。

 不思議なのは、「自殺したいと思ったが死にきれないので殺人を犯して死刑になろうと考えた」という彼の思い込みについてだが、普通に考えれば無差別殺人を犯す方が自殺よりずっとエネルギーがいるはずだ。何せ昨年3月に荒川沖駅で無差別殺傷を行った時は、ほとんど周囲も本人もパニック状況で、7人めに刺して殺害した被害者のことを金川被告は覚えていないというほどだ。自分で睡眠薬を飲んだ方がずっと楽に死ねるのに、どうして大量殺人による死刑などというとんでもないことを考えたのか。そこがよくわからない。自殺は個人的死だが、死刑は制度による死だから、後者の方がずっとめんどうなのに決まっている。

 金川被告はまだ26歳で短慮というべき点も目立つ。死刑についても逮捕されて簡単に処刑されると思っていたようで、「こんなに大変なものとは思っていなかった」と言う。

 「死刑になりたいので殺人を犯す」という不条理な動機は、この場合、死刑は本当に極刑といえるのかという奇妙な疑問を提起してしまったのだが、裁判所はただ前例にならって死刑判決をくだしただけ。疑問には何も応えてはいないのだ。

 この事件には、金川被告の家庭的社会的環境、コミュニケーション不全ともいうべき環境が彼の人格形成にどんなふうに影響したかなど、考えるべき課題はたくさんあるのだが、本人も、もう死んでしまうのだからどうでもいいと言っている。このままだと1月5日に死刑確定。恐らく執行は早いだろう。こういう決着でいいのかという思いは尽きない。
 
 なお、金川被告とこの間、やりとりした手紙は、1月7日発売の『創』2月号で公開する。

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篠田博之様

『ドキュメント 死刑囚』の読後感に関して,被告達の「エディプス・コンプレックス」に問題意識を持ちましたが,彼等は母親との関係は,どうだったのでしょうか。

金川被告についても,それがわかったら,参考になる,と思いますが,如何でしょうか。

良心派さま。前回もコメントいただき拙著『ドキュメント死刑囚』を読んでいただいたとのことで感謝しています。私が接した死刑囚達と母親の関係についてですが、これはまちまちで、少なくとも父親との関係のように敵対的ではありません。特徴的なのは小林薫死刑囚と母親の関係で、彼が小学生の時に母親が死んだために、彼にとっては「敬愛」「思慕」の対象で、被害者の訴えに涙しない彼が母親の話になった時には法廷で涙ぐんだほどです。ただその関係が、良心派さんが考えているようなことなのかどうか、私にはよくわかりません。小林死刑囚にとっての母親は、宮崎勤死刑囚にとっての「お祖父さん」の存在と非常によく似ています。彼らは現実社会を忌避するに際して、内面に持っている「懐かしい思慕の情」のようなものを対比的にイメージするのですが、それが小林死刑囚の場合は母親、宮崎死刑囚の場合は祖父であるように思えます。ちなみに宅間守死刑囚と母親の関係も
ちょっとわかりにくいのですが、父親が暴力的だっただけに、母親にはシンパシーを持っているのかと思っていたのですが、確定後、彼が母親をも非難する局面もあったので、そう単純ではないのかと思ったしだいです。金川被告の場合、家族関係がひとつのキーポイントだと私は思っていますが、それについては可能なら調べたいと思っています。

篠田博之様

ご丁寧なご返信のコメント,ありがとうございました。思考のデータとして,参考材料にさせていただきます。性的共同体としての家族の問題も,個別的で,複雑で,難解です。

[内面に持っている「懐かしい思慕の情」]が「母親」だったり,「祖父」だったりすると,個人の資質(?)にもよるでしょうが,必ずしも性的な牽引力(?)を意味しませんね。俗に言われる「恐れ」と「許し」の関係でしょうか。

[第三次産業の高度資本主義消費社会では,労働価値と商品価格が,途中で段階的に多様化して,対応しないために,労働量に比例して,製品の数も報酬の額も,目に見える形で現れない。そのために,頭がおかしくなってしまう」(吉本隆明:超「戦争論・下」278~280ページ抜粋要約)

上記のような説もあります。今後とも,勉強させていただきたい,と思います。宜しくお願いいたします。


  重要な命題:「如何に善く死ぬか」

私は、人間にとって重要な命題は「如何に善く死ぬか」だと思っています。同時に、その命題を追求するには、死に至るその瞬間まで、「常に善く生きる」という志と覚悟が人間には重要だと思っています。
例外なく全ての人間は、目的も意義も与えられずに生命を授けられる。生まれたその瞬間から、死に向かって人生という時を刻む宿命にある。稀有なことに!!、この一点に関しては万人に平等であって例外はない。
「自分に固有で特別な人生を造って行く」という大義を持続してゆくには社会的な障害が多い、特に日本社会は。
無責任な周囲の思惑を無視できる緻密で乱暴な賢明さと強さが、「自分の特別な人生を造って行く」力になってくれる。
「鶏と卵」といえば然りだが、私にはそれを是とする考え方は迷路と撞着に行き着くだけ・・。生きるとは、「鶏と卵」の迷路や撞着に陥らないこと、「決めること」にある。
「無責任な周囲」は、一寸した強さに出会うと直ぐにその強さに靡き同調するものなのだが・・。

生の意味を考えられずに、死が自己目的化してしまった人間の命は哀し過ぎますね。
そのような死が、再び起りません様に!!

辺見 庸の書籍から知った言葉に、ホモサケル、という言葉がありました。人間の精神には極北から極南まであります。あなたが丁寧に死刑に向かっての考察を重ねていることに、仄明かりのような重い良心を感じます。ひとの闇は、明るさと裏腹です。ありえる実存の問いかけには、このテーマはあまりに重要だと感じます。わたしも考え続けたい。是非これからも継続的にここで取り上げていってください。そして、なぜ、ある実存がこの世でこうなのか、ということを問いかけたい。

篠田様

私は、ブログにこのように書きました。

現在 - 過去 =ゼロ 


「犯罪とは何か」、その答えは、映画「ゼロの焦点」が教えてくれます。自分をゼロにできない人が選択してしまう間違い、それが犯罪なのです。


<ブログより>
アメリカ犯罪史上悪名高いカルト教の殺人集団「チャールズ・マンソン」のスーザン・アトキンズが、9月27日に死亡しました。61歳とのことです。

http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/crime/2405675/3038406


スーザン・アトキンズは、7件の第一級殺人罪に問われ、終身刑で服役していました。


今日は、この事件と土浦連続殺傷事件を対比して、「犯罪とは何か」に迫りたいと思います。


なぜ、このような記事を書く気になったのかといいますと、本日の東京新聞の社会面に、土浦連続殺傷事件の判決が今日あることに合わせて、金川真大被告の動機に迫ろうとする記事を見つけたからです。しかし、残念ながら記者は、このように結んでいます。


<引用開始>

被告のように寂しさや孤独を抱えながら、心の奥にしまい込んでいる人が身近にいた時、どうすればその深い部分に気付くことができるのか。犯罪という手段に訴える前に思いとどまらせることはできないのか。このままでは事件から学ばなければならないことが、明らかにされていない。遺族が望むように、被告が罪と向かい合うこともない。

<引用終了>


つまり、「何も分からない」と言っているのです。


記者は、金川被告と面会や手紙のやりとりを重ねたそうですが、最後の面会後に被告は、記者にこう言ったそうです。


「天国で会いましょう」


続きはこちらをご高覧下さい。

http://gpscompany.blogdehp.ne.jp/article/13597440.html

通常の生活において,自らの「死」を希求している人間を,人を殺したから,と言って,「死刑」にしても,何ら刑罰にはならない。篠田博之氏のこの問い掛けは,根源的である。なぜなら,一般的に人間は「生」を欲して,「死」を恐れている。従って,刑罰としての極刑は,「死刑」である。

しかしながら,金川被告にとって,極刑とは,生き続けさせられる事を意味している。それも重労働の刑に処して,肉体的に耐え難い苦痛を味合わせる事ではない。そのような刑は,金川被告にとっては,何の痛痒も感じない。ただ「生きて在る」事。これこそが,金川被告の最も我慢できない地獄の刑なのだ。「終身存命刑」とでも言ったら,適当かも知れない名の刑罰。

金川被告にとっては,他人の生命を奪った事など,自分も死刑になるのだから,つまり他人に殺されるのだから,等価であって,十分おあいことなる。戦場での白兵戦なら,このような考えも成り立つに違いない。殺って,殺られる。お互い様だ。金川被告には,日常生活は戦場での白兵戦だったのだろうか。自分以外の他人は,全て敵の。

更に問題になるのは,金川被告とは何ぞや,という探究課題である。これが裁判の本質であるが,篠田博之氏が疑問を提するように,上述の議論も踏まえた上で,この課題が納得のいく形で,解明されないとしたら,死刑で決着がつく事柄ではない。

私は「人間とは何か」という永劫普遍の問いに照らして,考え込んでしまい,ひょっとしたら,日本人の三十パーセントぐらいが,金川被告に「自己投影」するのではないか,と妄想を逞しくして,ぞっとした。

篠田博之氏は著書『ドキュメント 死刑囚』の中で,宅間守死刑囚の児童殺傷事件では,弁護人の元に,投書数の内の三割ぐらいの人間が,宅間守に共感を寄せる手紙を寄せた,と記している。

以上,走り書きで,取り止めもない感想を書き連ねたが,篠田博之氏の問い掛けは,追究に値する現代の重要な課題だ,と重ねて考える次第である。

中村克、

篠田氏は、昨年の8月号で「最後のパレード」盗用騒動のまとめ記事を掲載してくださった、月刊「創」の編集長兼経営者なんだよ。

また記事にしてもらいたいのかい?

私も金川被告と話がしたいです。私は彼側の人間かもしれません。なにか共感できます。面会方法を教えてください。
よろしくお願いします。

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Profile

篠田博之(しのだ・ひろゆき)

-----<経歴>-----

1951年茨城県生まれ。
一橋大卒。
1979年より月刊『創』編集者。
81年より編集長。 82年同誌休刊に伴い、創出版を設立して雑誌発行を続ける。
現在は編集長兼経営者。
日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長、東京経済大学大学院講師など兼務。
東京新聞、北海道新聞などにコラム「週刊誌を読む」連載。
メディア批評のほかに、犯罪、死刑問題などについても新聞・テレビでしばしば発言。
著書『生涯編集者』(創出版)、『ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)。共著は多数

BookMarks

創出版
http://www.tsukuru.co.jp/

最新号
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詳細はコチラ

-----<著書>-----


『生涯編集者──月刊「創」奮戦記』
2012年6月、創出版



『ドキュメント死刑囚』
2008年8月、筑摩書房

→ブック・こもんず←



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