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本質論議に欠けた裁判員裁判報道、これでいいのか

 8月3日から4日間にわたった裁判員裁判をめぐる大報道にはいささか驚いた。これまで市民の関心は今一つだったから、報道されること自体は悪いことではない。ただ気になるのは、報道や議論が、実施例の詳細な紹介に終始してしまったことだ。大事な議論が抜けているように思う。それは、市民がこんなふうに裁判に参加することの意味は何なのか、あるいは人が人を裁くとはどういうことなのか、さらには犯罪を犯した人が罪を償うとはどういうことなのかといった、もっと本質的な議論だ。

 この間、足利事件の菅家利和さんの話を直接聞く機会を何度か得た。一審の途中から菅家さんは法廷で否認に転じたのだが、裁判所もマスコミも当時の弁護人も耳を傾けようとしなかった。「無罪推定の原則」がここまで機能していない現実に溜息が出る思いだが、当時の裁判官の責任が問われないことも問題だ。人を裁くことの難しさといった話をあまりやると裁判員候補が尻ごみしてしまうためか、足利事件をめぐる議論が、今回ほとんど忘れ去られていることにも疑問を感じる。

 私は死刑囚など、重罪を犯したとされる人たちと長年接触しており、昨年、宮崎勤死刑囚らとのやりとりを『ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)という本にまとめた。そうした人たちとの接触を通じて、いつも痛感させられるのが、「人を裁くとはどういうことなのか」「罪を償うとはどういうことなのか」という問題だ。

 例えば奈良女児殺害事件の小林薫死刑囚とは、一審の途中で彼が鑑定のために東京拘置所に来ていた時期に面会したのが縁でつきあうようになったのだが、接触してすぐに彼は「実は裁判では本当のことを言っていない」と告白した。検察官の描いた事実は大分違うのだが、自分はもう死にたいと思っているから、全て認めて死刑を望むのだと言う。実際に彼は2006年、死刑判決をくだされ、弁護士が控訴したのを自分で取り下げてしまう。死刑判決が本当に彼を裁いたことになるのか、傍聴していて私は大きな疑問を持った。

 犯罪を犯した人たちがどう罪と向き合うのか、死刑囚が自分の死をどう受け入れるのか。確定囚とは接見交通がほとんど禁止されることで、そういう実態は一般市民にほとんど知らされていない。私も宮崎勤死刑囚とは確定後も面会や手紙のやりとりを行い、それを月刊『創』誌上で公開したのだが、拘置所から次々と厳しい制限を受けた。

 死刑囚が何を考え、自分の死とどう向き合っているのかといった情報を必要以上に秘匿したまま、裁判に市民を参加させて死刑判決に関わらせるというのは順序が逆だと思う。今回の裁判員裁判は、第一回にふさわしいわかりやすい事件が選ばれ、制度を市民に知らしめるという思惑が目についた。いずれ裁判員裁判も、死刑か無期懲役かといった難しい事件に直面することになろう。人が人を裁くという重たい問題だからこそ、もっと本質的な議論がなされてほしいと思う。

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この裁判員制度に大きな疑問を持ちます。市民参加の必要性。裁判官が一般常識から隔離された、いわゆる世間知らずといった理由でどうして、市民が参加しなければならないのか、例えば量刑が印象によって変わることは人がやる以上当然だし、なぜプロの裁判官ではダメなのかが分らない。

また異常にスピードアップが要求され、正しく審理されるかも被告人に取ってみては不安であろう。今回のような難しくない裁判であれば何も市民がのこのこ出てきてやる必要もないのではないか。

また、一般市民にしてみれば一回こっきりの話で、次回はもっと精度を上げて審理しようというのも無理である。

そもそも裁判制度などはしっかし国民にその必要性が理解され、国民投票で実施を決めるべきだと思う。

>「人を裁くとはどういうことなのか」
秩序があればこそ、サバイバル一元論から解放された自由な選択が可能になる。
ある自由の制限を受け入れるかわりに別な自由を手に入れる。

>「罪を償うとはどういうことなのか」
償いをより必要としているのは、加害者よりも被害者。

>奈良女児殺害事件の小林薫死刑囚
従来の制度がこういう冤罪を生み出してきたからこそ、司法制度改革は必要。
建設的な議論とは、三年後の見直しに向けて問題点を洗い出し、対処法を考えること。

裁判員は、裁判官に欠けている「常識」を「民間人」にフォローしてもらおうという考えですから、裁判官に常識があれば、裁判員制度の必要性はなくなります。

要するに、常識のない人間を裁判官にするからいけないのであって、裁判官に常識が備わっていて、複数の裁判官が審理すれば、それで事足りるはずなのです。

司法試験に、一般常識テストも加えればいいだけの話なのではないですか。となれば、問題となるのは「テストの内容」になるでしょう。

裁判員よりも必要なのは、警察と検察による冤罪捏造の阻止です。

証拠の捏造、容疑者を精神的・肉体的に追い詰めた上での自白強要、思想的に偏った鑑定者の採用など、犯罪者を有罪判決に持ち込むことが目的なのではなくて、誰でもいいから犯罪者に仕立てることを目的としているとしか考えられません。

鈴木宗男氏の「汚名」を読みました。宗男氏の悔しさ、悲しみがストレートに伝わってきて何度も涙しました。
しかし私は本を読むまで、鈴木宗男はいかがわしい腹黒政治家だと思っていました。
宗男氏が捕まったとき、日本中で宗男バッシングが吹き荒れていましたが、私も捕まるのは当然と思っていました。
いまは、検察のあまりにも卑怯なやり方に憤慨しています。
植草元教授のときも、本当の痴漢だと思って疑いもしませんでした。今では「知られざる真実」も読ませていただき、毎日ブログもチェックしています(収監中の今は過去記事ですが)。日本でも最高クラスの人士だと思います。
やはり警察のやり方に激しい憤りを感じました。
そもそも、裁判に素人を参加させることについての疑義の前に、まずは捜査の完全透明化をして、絶対に冤罪を起こさない仕組みを作るほうが先決ではないですか。99%を超える有罪率は、検察が自分たちの歪んだプライドをひたすら冤罪でもなんでも込みで維持している愚かしい狂気以外の何ものでもありません。
組織維持、自尊心充足のために無辜の人を陥れて平然としている現状を、まずは徹底的に改めてほしいと思います。
そうしないと、下手をすると検察に乗せられて素人の裁判員が冤罪判決を決めることもありえます。

一言。
酒井法子の話題に事欠かないテレビワイドショーであるが、その情報源は当局(警察)である。
起訴、不起訴が問題になるというのもクスリの常用頻度や任意出頭拒否の態度などが指名手配の衝撃度に拍車をかけたかのように報道されるが、そもそも任意に強制力はないし拘束力もない。
いやなら断ることも当然できる。
旦那のほうはあらかじめガラを捕れという逮捕状ありきで張られていた形跡があるが女房は事情を聞きたいだけでそこまでのものはないように警察は考えていた節があるが、朱に交われば赤くなる、ではないが不審な点がかえって明らかになったんでしょう。
でも、それでも警察リーク垂れ流しの報道はそれが社会規範を揺るがすものであってもやはり注意を払う必要がある。
容疑者であり、起訴されれば被告だが刑罰を申請し受理されるために検察は警察の取り調べ段階の世間的関心を必ず証拠認定の一部に心証を突くために入れてくる。
世間、世論に左右されない司法判断というが嘘っぱちで実際世間知に塗れていないという裁判官たちは充分人間臭い。
そこへ持ってきての裁判員制度。
一罰百戒的な、とにかく見せしめとして規範を守る観点から有無を言わさない厳罰を、という空気が醸成されつつある風潮では被告人の利益がますます軽んじられることは間違いない。
それは溺れた犬は叩け、の報道姿勢が尻を叩いているのだと思う。
人権尊重というけれども、加害者被害者の人権に竿を差す物言いが圧倒的な今、そもそも不足しているならば補い、担保されていないなら保証するといった権利の正当性を事件性の正否で推量することさえ不遜だと思うのだが、世間、マスコミは被告や容疑者の権利は必要ないと思っているかのようだ。
裁判員裁判がこういう空気間のなかで行われていくのなら開かれた司法は結局被害者視点に落ち着かざるをえないように思います。

篠田さん、こんにちは。(いま17日pm1:50頃です

僕が考える「裁判員制度」改良案です。

①対象とする事案を「重大事件」から「軽微な事件」とする。
死刑が絡む事件に、いきなり素人だったひとが判断を下す。それも5日くらいの審議で。そんなことはできない。これは運用の仕方でも可能ではないか?

②裁判員の秘守義務をなくし、むしろ積極的に審判過程をいえるようにする。
そうすることが「裁判員制度」導入の大きな目的である裁判・司法を身近なものにするということだろう。

③取調べの「全面可視化」を実現する。
裁判のポイントとなるところは、はじめから見ておく。そして、審議している中で、ここはどうなんだろう?と
疑問に思うところを見てみる。チャックしてみる、という作業は必要である。(取調べのインデックスが必要)

この3つくらいを修正すれば、僕も参加してもいい。どんな感じで裁判が行なわれているのかを見てみたいし、そのなかで、自分の意見をいいたい。むしろ積極的に参加したいと思う。

それでなければ、実際に参加するなんて、絶対いやである。これも政権交代に賭けることのひとつである。

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Profile

篠田博之(しのだ・ひろゆき)

-----<経歴>-----

1951年茨城県生まれ。
一橋大卒。
1979年より月刊『創』編集者。
81年より編集長。 82年同誌休刊に伴い、創出版を設立して雑誌発行を続ける。
現在は編集長兼経営者。
日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長、東京経済大学大学院講師など兼務。
東京新聞、北海道新聞などにコラム「週刊誌を読む」連載。
メディア批評のほかに、犯罪、死刑問題などについても新聞・テレビでしばしば発言。
著書『生涯編集者』(創出版)、『ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)。共著は多数

BookMarks

創出版
http://www.tsukuru.co.jp/

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-----<著書>-----


『生涯編集者──月刊「創」奮戦記』
2012年6月、創出版



『ドキュメント死刑囚』
2008年8月、筑摩書房

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