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2009年8月29日

「母と娘」という関係について 9月2日中山千夏×香山リカ対論

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『幸子さんと私―ある母娘の症例』
2009年8月、創出版、中山千夏著

 皆が選挙の話で盛り上がっている時に全然違う話で申し訳ないなと思いつつも書きます。
 先日、グーグル問題に関する記者会見で日本ペンクラブに行った時、会長の阿刀田高さんと雑談を交わしました。その時、阿刀田さんから「今度、千夏さんのすごい本を出したんだって?」と言われました。その本というのは中山千夏さんの『幸子さんと私』という本なのですが、昨年亡くなった母親について、千夏さんが、実は自分はずっと嫌いだった、と書いたものなのです。8月3日に行った出版記念パーティーには井上ひさしさんにも発起人になっていただいたので、阿刀田さんは井上さんから本のことを聞かれたのかもしれません。
 千夏さんは直木賞に3回ノミネートされた作家であり、同じ作家の立場として、実の母親をそんなふうに作品にすることに驚かれた、というのが先の感想でした。千夏さんの役者仲間や作家としてのつきあいのある人たちからは、実際この本について、衝撃的だったという感想をいただいています。そして一方、自分も同じように母親と独特の関係にある、という娘の立場にある女性たちからは、千夏さんの気持ちは自分もよくわかる、という感想が届いています。

 千夏さんは天才子役として芸能界にデビューし、一世を風靡した人ですが、母一人子一人の生活が長く、母親との関係は独特でした。そしてその母親が昨年亡くなって以降、自分が囚われていた母娘関係について、本を書くという行為を通じて見つめなおしてみようと考えたのです。結論を一言で言うと、本の帯にあるように「生まれてこのかた『母に会いたい』と思ったことがない。」というものでした。
 私も2年前に母を亡くして、その時の感情は衝撃と哀しみでしかなかったのですが、それゆえに千夏さんの原稿を最初に読んだ時には、亡くなった母親に対して憎悪に近い感情を持ち、しかもそれを公にするという、そのことに驚きました。そして、親に対する感情はもちろん人それぞれでしょうが、「母娘」関係と「母息子」関係の違いというのもどうもありそうだ、と、この本を読んだ人の感想を聞くうちに思い始めました。母と息子の間には「マザコン」という言葉が存在するが、「母娘」関係でそれにあたる言葉がない。千夏さんは本の中でそれを指摘し、そのこと自体に、日本社会の中で「母娘」関係が社会的テーマとして過去あまり認識されてこなかった歴史的背景があるのだと書いています。
 母娘関係というのは、それ自体、この10年ほどの間に論じられるようになったテーマです。千夏さんは、自分自身の母娘関係について告白することを通じて、自分自身のカウンセリングを試み、同時にその個人的体験の中に普遍的テーマがあるのではないかと問題提起をしたわけです。

 『創』最新号では、精神科医の香山リカさんとの対談で、千夏さんの「母娘」関係について分析を試みました。それで9月2日(水)夜18時~、その中山・香山対論を公開の場で行い、この問題について一緒に考え話し合ってみたいと、トークイベントを設定しました。会場は神田神保町の東京堂書店(6階会議室)です。この問題に興味がある方はぜひ来てほしいと思います。参加費は500円。あらかじめ予約をしていただくと確実ですので、東京堂書店のHPにアクセス下さい。http://www.tokyodoshoten.co.jp/
 千夏さんのトークイベントは9月9日(水)夜18時~にも、紀伊国屋新宿南店で行います。http://www.kinokuniya.co.jp/01f/event/event.htm#minami_08。こちらは元『話の特集』編集長の矢崎泰久さんとのトークです。ぜひおいでください。

2009年8月25日

毎日新聞8月21日付の「足利事件裁判官アンケート」はいい記事だった

 8月21日付の毎日新聞が掲載した「足利事件 最高裁・地裁8裁判官 本紙アンケート」はいい記事だった。足利事件で判決をくだした、あるいは再審請求を退けた裁判官8人の実名をあげ、自分の判断を今どう思うかアンケートをとった結果を紹介したものだ。今では裁判官をやめて弁護士になっている人も含め、大半が「回答なし」や「取材には応じられない」との回答なのだが、電話取材した時の相手の態度など詳しく報じ、「率直に誤り認めよ」という元東京高裁判事のコメントも載せるなど、記事を書いた側の思いが伝わってくる紙面だ。

 日本では役所などでも重大なミスを犯しても個人の責任は曖昧にされてしまうのだが、裁判官の責任というのはもっと問われていい。国家権力を行使する立場に置かれ、判決によっては被告を始め関係者の人生や生命をも奪ってしまうのだから、誤った判断をした場合の責任が問われるのは当然だ。国家権力を行使するというのはそれくらい重たいものだという認識を持ってほしい。そうでないと、足利事件のように、どう見ても再審を開かないとおかしいケースでも、それまでの判断を維持して事なかれに終始してしまう裁判官は後を絶たないだろう。
 足利事件のようにずさんな取調べと、予断を持った裁判官によって冤罪が作られたというのは国家犯罪と呼んでいいものだ。その決定に参画した捜査官や裁判官個人の責任が全く問われない、今の日本のシステムはどう考えてもおかしい。たとえ過失でも民間なら死亡事故を犯した人は刑罰を課されるし、最近は医療ミスを犯した医者も責任を問われる時代だ。民間がそうなのに、国家権力を行使するというもっと重たい立場にある捜査官や裁判官の過失が問われないのは本末転倒だ。このことをもっとマスコミは追及してよいと思う。
 本当は裁判員制度導入をめぐる議論でも、足利事件のような冤罪はどうすれば防げるかといったことはもっと論じられてしかるべきなのだが、8月3日からの洪水のような裁判員報道が、制度を詳しく紹介するだけに終わってしまったのが残念でならない。あれではマスコミが裁判所のPRに終始したようなものだ。

 足利事件は、犯罪報道のあり方についても大きな問題を提起したが、当時の報道を反省するとともに、今回の毎日新聞のような国家の責任を追及するようなジャーナリズム本来の取り組みを行うことこそが必要だ。
 私も事件当時の各紙の紙面を見てみたが、例えば菅家さんの自宅の家宅捜索でアダルトビデオが大量に見つかったという話を朝日新聞始め各紙が大々的に報じている。これは菅家さんが性的変質者だという警察側の偏見をマスコミがそのまま流布した例で、マスコミが警察の広報機関になりさがっている実態を示したものだ。
 各紙とも足利事件についての当時の報道を検証する紙面を作ったが、率直に言うと、報道側の痛みがあまり伝わらない記事だった。そのなかで一番感心したのは東京新聞6月28日付の「本紙の検証」だ。末尾にこう書かれている。
 「菅家さんは無実だという視点から、捜査の矛盾点などを継続的に報道してきたのはフリージャーナリストと民放テレビ局の記者だった。菅家さんの再審開始の決定は、司法の敗北であると同時に、大手メディアの敗北でもある」
 ここまで書けるのはやはり東京新聞ならではだ。私も連載を持っているから身内ぼめになってしまってはまずいが、こういう記事が読めるのが東京新聞のすごいところだ。

2009年8月21日

またも薬物汚染問題について。この問題で公開講座もやります!

 今週は休刊日の都合で東京新聞には19日掲載になりましたが、のりピー騒動についての「週刊誌を読む」の原稿を転載します。執筆したのは15日でした。それからこの問題について田代まさしさんとゲストに招いて公開講座を行うことにしました。 

 9月3日(木)19時から(開場18時半)「薬物汚染とのりピー騒動」。会場はお茶の水駅から徒歩4分のデジタルハリウッド本校1階セミナールーム。
http://dhw.weblogs.jp/_tokyo/guide/guide.html

 定員は130人。参加費は2000円です。当日は、田代さんの体験を聞きながらも、なるべく踏み込んだ議論ができればいいなと思います。この問題について自分も発言したい!という人はぜひ参加して下さい。会場に定員があるので、確実に座席を確保したい人は手続きに従って2000円を事前に送って下さい。下記事前支払いのアドレスにアクセスすると創出版のショッピングカートのページに入れます。
http://xc523.eccart.jp/h575/item_detail/itemId,224/

 では以下、「週刊誌を読む」記事を転載します。

*  *  *  *

 のりピーこと酒井法子容疑者の薬物事件への関心は高く、ワイドショーや情報番組は軒並み視聴率を上げているという。でも週刊誌は、先週は事件ものに強い『週刊文春』『週刊新潮』を始め大半が夏の合併号で休み。合併号なしで通常通り発行した『週刊朝日』は、編集後記で「ああ出しててよかった、と今週はしみじみ思った」と書いている。薬物事件を特集した8月21日号はかなりの売れ行きだという。

 関心が高いのは、酒井容疑者の清純派のイメージと事件の落差が大きかったことが一因だ。前出『週刊朝日』の「酒井法子薬物逮捕の衝撃」に、彼女の知られざる家庭事情について書いたこんな記述がある。

「福岡県警の関係者が、こう解説する。
『父親は福岡市で勢力を張る山口組の直参・伊豆組組長の舎弟分の組長だった。法子は小学校時代は埼玉県の親類に預けられ、中学の一時期は福岡にも戻っていた。父親は娘のデビューとともに引退し、晩年は山梨で金融業を営んでいたそうです』」

 この父親が八九年に交通事故で亡くなった時、車内に娘の歌のテープが残されていたことは美談として報じられた。そして記事はさらにこう続く。

「福岡に住んでいたころを知る暴力団員は、『当時は『お嬢』と呼ばれていましたが、本人はお嬢様学校に通い、明るく快活だった。しかし、さすが組長の娘ですね。警察に職質されたときの毅然とした態度はお嬢ならでは』と懐かしむ」

 これって「ごくせん」の主人公そのまんまじゃん。でも、こういう複雑な事情を抱えながら"清純派"を演じ続けたのりピーの矛盾の噴出が今回の事件だったのか。その屈折した背景を知って、私は逆に酒井法子というタレントに興味を抱いた。

 当初は清純派と持ち上げていた芸能マスコミは、逮捕直後からひたすら叩きに転じているが、彼女がなぜ薬物に手を染めたのか、その内面に踏み込むような記事が読みたい。

 最後に。内容を紹介する紙幅はないが、『週刊現代』8月22・29日号「新聞・テレビは死ぬのか 迷走するメディア経営」が読み応えある記事だった。

2009年8月16日

本質論議に欠けた裁判員裁判報道、これでいいのか

 8月3日から4日間にわたった裁判員裁判をめぐる大報道にはいささか驚いた。これまで市民の関心は今一つだったから、報道されること自体は悪いことではない。ただ気になるのは、報道や議論が、実施例の詳細な紹介に終始してしまったことだ。大事な議論が抜けているように思う。それは、市民がこんなふうに裁判に参加することの意味は何なのか、あるいは人が人を裁くとはどういうことなのか、さらには犯罪を犯した人が罪を償うとはどういうことなのかといった、もっと本質的な議論だ。

 この間、足利事件の菅家利和さんの話を直接聞く機会を何度か得た。一審の途中から菅家さんは法廷で否認に転じたのだが、裁判所もマスコミも当時の弁護人も耳を傾けようとしなかった。「無罪推定の原則」がここまで機能していない現実に溜息が出る思いだが、当時の裁判官の責任が問われないことも問題だ。人を裁くことの難しさといった話をあまりやると裁判員候補が尻ごみしてしまうためか、足利事件をめぐる議論が、今回ほとんど忘れ去られていることにも疑問を感じる。

 私は死刑囚など、重罪を犯したとされる人たちと長年接触しており、昨年、宮崎勤死刑囚らとのやりとりを『ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)という本にまとめた。そうした人たちとの接触を通じて、いつも痛感させられるのが、「人を裁くとはどういうことなのか」「罪を償うとはどういうことなのか」という問題だ。

 例えば奈良女児殺害事件の小林薫死刑囚とは、一審の途中で彼が鑑定のために東京拘置所に来ていた時期に面会したのが縁でつきあうようになったのだが、接触してすぐに彼は「実は裁判では本当のことを言っていない」と告白した。検察官の描いた事実は大分違うのだが、自分はもう死にたいと思っているから、全て認めて死刑を望むのだと言う。実際に彼は2006年、死刑判決をくだされ、弁護士が控訴したのを自分で取り下げてしまう。死刑判決が本当に彼を裁いたことになるのか、傍聴していて私は大きな疑問を持った。

 犯罪を犯した人たちがどう罪と向き合うのか、死刑囚が自分の死をどう受け入れるのか。確定囚とは接見交通がほとんど禁止されることで、そういう実態は一般市民にほとんど知らされていない。私も宮崎勤死刑囚とは確定後も面会や手紙のやりとりを行い、それを月刊『創』誌上で公開したのだが、拘置所から次々と厳しい制限を受けた。

 死刑囚が何を考え、自分の死とどう向き合っているのかといった情報を必要以上に秘匿したまま、裁判に市民を参加させて死刑判決に関わらせるというのは順序が逆だと思う。今回の裁判員裁判は、第一回にふさわしいわかりやすい事件が選ばれ、制度を市民に知らしめるという思惑が目についた。いずれ裁判員裁判も、死刑か無期懲役かといった難しい事件に直面することになろう。人が人を裁くという重たい問題だからこそ、もっと本質的な議論がなされてほしいと思う。

2009年8月14日

週刊誌を読む:のりピー報道落差に呆れ 薬物汚染の実態伝えよ

8月10日にアップした「のりピー・押尾学ら芸能人の薬物逮捕事件に思う」にはたくさんの人が書き込みをしてくれて、いろいろ参考になりました。なかなか実りある議論だと思いました。そしてここにアップする「週刊誌を読む」の記事は8月8日執筆で、実はこちらの方が先に書いたものなのですが、東京新聞に10日に載り、北海道新聞などに12日に載るものなので、ここに転載するのが13日になるわけです。こちらでは報道の話に絞って書いています。
酒井容疑者に7日に逮捕状が出てから翌日逮捕に至るまで、情報番組は軒並みその番組の最高視聴率をマークしたようで、いかにこの問題が関心を呼んだかわかります。一般紙も大きく扱ったことも一因でしょう。報道のあり方、方向性についても考えさせられた事件でした。
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 のりピーこと酒井法子容疑者逮捕に至るこの一週間は、芸能マスコミもびっくりの展開だった。

 涙を誘う「泣き」でいくか、怒りを煽る「叩き」でいくか、物事を単純化して報じるのが大衆ジャーナリズムの特徴だ。私も関わった三田佳子さんの二男の薬物事件の時などは、三田さんへのバッシングは異常だった。方向がいったん決まると、ひたすら一方向の報道がなされるのだ。

 しかし、今回ののりピー騒動は異例の展開だった。最初は夫の逮捕に動転し自殺しかねない純真無垢な妻という清純派イメージを煽る「泣き」路線で走っていたのが、逮捕状が出るや突然、一転したのだ。デスクの指示で動いていたワイドショーの現場も、戸惑ったに違いない。その後は弟がヤクザの組員だったとか悪材料が出るわ出るわ。その落差には見ている方も驚き呆れるばかりだった。

 六日発売の『女性セブン』8月20・27日号を見ると「高相容疑者を逮捕した署では、共同所持の疑いが出れば、酒井さんからも事情を聞くつもりでいるようです」という関係者のコメントが載っている。夫が逮捕されたのに「後で署に行く」と言ったきり失踪した妻に対して、捜査側は早い段階から疑いを持っていたのだと思う。

 のりピーの夫逮捕と同じ時期に、タレントの押尾学容疑者の逮捕もあって、芸能界の薬物汚染が大きな話題になっている。私はこの何年か田代まさしさんの薬物事件に関わってきた。裁判では証人として出廷したし、先頃彼の著書『審判』を出版もした。だから薬物依存の問題には深刻な思いを抱いている。

 芸能人のケースだけが報道されるから芸能スキャンダルとして消費されてしまうことが多いのだが、一連の事件は、我々の社会に薬物汚染が浸透している現実の反映と見るべきだろう。
 今回ののりピー騒動では、山梨県まで中継車を走らせて道行く人に「酒井法子さんを見かけませんでしたか」と訊くという映像に失笑した (失踪中の人がそんな目立つようにしているはずがないでしょう)。そんな余裕があるならマスコミは、薬物依存とは何なのかという情報をもっとしっかり流してほしい。


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※『週刊誌を読む』は「創」編集長・篠田が毎週、東京新聞に連載(北海道新聞・中国新聞も転載)しているコラムです。

【バックナンバー】 http://www.tsukuru.co.jp/shukanshi_blog/

2009年8月10日

のりピー・押尾学ら芸能人の薬物逮捕事件に思う。

 こういうテーマって「ザ・ジャーナル」では誰も書かないの?では私が書きます。

 もうひとつ、マスコミが大報道を行った「裁判員裁判」についての一文もあるけれど、こっちは8月7日付で共同通信から配信されたので、もう少しタイムラグを設けてからここにアップします。薬物事件についても10日付の東京新聞のコラムに書いたのですが、そこに書ききれなかった話を書いておきます。

 例えばのりピー逮捕を受けて、8日のTBS「ニュースキャスター」で斎藤孝さんが「日本は薬物犯罪に甘すぎる」とコメントしてました。他にも同様のコメントをしている人もいるので、これについて書いておきます。ちなみに私は、三田佳子さんの息子の逮捕事件と田代まさしさんの事件に深く関わり、田代さんの裁判には証人出廷もしたし、先頃、彼の著作『審判』を編集・発行しています。そのほかにも薬物依存の人と接触があります。

 で、基本的に知ってほしいのですが、薬物依存は「依存症」という言い方でもわかるように、殺人や傷害といった犯罪とは性質が違います。ある種の病気という側面もあるため、裁判でもケア、治療の側面も含めて検討をします。確かに初犯の場合は大体執行猶予がつくのですが、その際裁判所が問題にするのは、その薬物依存者が更生する環境や可能性がどのくらいあるか、なのです。そういう環境がない場合は刑務所送りになる確率が高い、つまりただ罰するだけでなくその人が立ち直る環境をどう作るのかという観点が入っているのです。

 アメリカなどでは「ドラッグコート」といって裁判のシステム自体が通常の犯罪と区別されているようです。つまり薬物依存は、ただ刑務所にぶちこんで痛い目にあわせて二度とやらないように脅すというのでは解決にならないということが歴史的認識になっているわけです。薬物に依存してしまう原因を除去しない限り、あるいは依存しにくい環境を作らない限り、その依存者は出所したらまた必ず薬物に手を出すからです。

 例えば田代さんの場合でいえば、出所後、妹さんたちが一緒に生活して、彼のめんどうを見、二度と薬物に依存しないように支えています。こういうケアが大切なのです。逆に、みんな驚くと思いますが、刑務所からは満期出所の彼については何のフォローもなされません。もし彼に支える人がいなかったら、社会復帰もできないし、追い詰められて再び同じことを繰り返すかもしれません。本当なら、出所後のケア体制まで刑務所なり国家がフォローするべきなのでしょうが、残念ながらそういうことは全く行われていません。しかも、田代さんの『審判』を読むとわかりますが、刑務所でも更生教育のようなものはほとんど行われていないのです。

 こういう社会の無策が続く限り、薬物依存はなくなっていかないのです。日本ではそもそも、家族に薬物依存者が出た場合、いったい誰に相談し、どういう対応をとるべきか、全くわかりません。そもそも医者に相談すべきなのかどうか、医者なら何科なのかもほとんどの人が知りません。そういう状況で、自分の子どもが薬物使用しているのに気付いた親は、なすすべもなく、ただ不安と絶望に追いやられるだけなのです。

 「覚せい剤やめますか、人間やめますか」という標語がありますが、これが象徴しているように、日本の対応は、ただ脅すだけ。でも今の社会である程度薬物が浸透しているのは誰でもわかるわけで、薬物が具体的にどう怖いのか情報を流し、もし手を出した人が家族にいた場合どう対応するかなど、必要な情報がほとんど流されていないのです。

 薬物事件に対して、ただ重罰化して刑務所にぶちこめ、という考え方は、上記のような社会的無為無策の裏返しなのです。そういう原始的な対応で薬物依存が減らないからこそ、麻薬社会アメリカでは様々な社会的対策を講じているわけです。

 本当はこういう議論を新聞・テレビがもっとやるべきなのに、それができてないのも日本の特徴です。この間の芸能人の薬物事件も、単なる芸能スキャンダルとして消費されるだけでは何にも社会的教材になりません。特別な芸能人だけに関わる話だと考えていては、いつまでも薬物依存は解決しないのです。そもそも田代さんが出所後、具体的に更生のためにどうしているのか、そういう取材はほとんど来ません。東京新聞が取り上げ、毎日新聞が取材に来ました(だいぶ経ってるのに掲載されず)が、実名を挙げて事例を報道できる格好の機会なのに、大手マスコミの問題意識が希薄なのです。芸能人の薬物事件を、「芸能マター」としか考えていないからです。

 こういう社会も国家もマスコミもお粗末な状況だからこそ、急激に薬物汚染が広がっているのに何の対策も打たれないのです。再度言いますが、こういう状況を防止するのに、ただ厳罰化して刑務所にぶちこめと脅すだけでは解決になりません。もう少し日本は、この問題を真剣に考え、対策を講じるべきであるのは明らかなのですが。

2009年8月 6日

週刊誌を読む:「老い」に率直な感想 永さんら世代の長い活躍願う

 私の編集する『創』に永六輔さんと矢崎泰久さんの「ぢぢ放談」(時事と爺のシャレですが)という対談があって、永さんに毎月お会いしているのだが、先頃、ある週刊誌記事が話題になった。『週刊女性』7月14日号の「永六輔『回らないろれつ』『激やせ15キロ』の孤独生活」だ。

 新聞の投書欄に、永さんのラジオ番組を聞いた主婦から「ろれつが回らなくなっていて、大変聴きづらかったです。そろそろ後輩に道を譲る時なのではないでしょうか」という投書が載った。それを受けて『週刊女性』記者が永さんを自宅付近で隠し撮り。こう書いた。「角刈りのヘアスタイルは昔と変わりなかったが、その体形は、まるで別人と見間違えるほどやせ細っていた」。近所の飲食店主の「奥さんに先立たれて、少し孤独そうに見えました」というコメントも載っている。

 永さんとは衛星放送の番組でもこの二年間ご一緒したが、確かにこの一年ほどやせ細り、立て板に水のように喋るかつてのイメージとはだいぶ違う。

 周囲も気づかっているようで、『週刊女性』の記事も本人に見せなかったらしい。対談収録でその話題を持ち出したのは私だが、ご本人が知らなかったというので一瞬ひやっとした。

 でもそこはさすがに永さんだ。記事を見ながら「あははは、余計なお世話だ」と笑ってこう言った。「ろれつが回らないというのはごもっともで、入れ歯のせいもあるけど、これはもう歳をとったからとしかいいようがない」。率直だ。

 永さんは一九三三年生まれ。テレビは嫌いだが、ラジオは深く愛しており、レギュラー番組をもう四十年以上も続けている。今でも人気が高く、先に引用した手厳しい投書も来る一方、「絶対にやめないでほしい」という投書も番組にたくさん届いているという。

 老いの問題はある意味で深刻だ。『週刊現代』8月8日号のコラムで大橋巨泉さんが友人である南田洋子さんの闘病をテレビで見てショックを受けたと書いている。

 戦争を体験し、戦後平和を希求してきた永さんらの世代の人たちには、少しでも長く活躍してほしいと、私は思っている。

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※『週刊誌を読む』は「創」編集長・篠田が毎週、東京新聞に連載(北海道新聞・中国新聞も転載)しているコラムです。

【バックナンバー】 http://www.tsukuru.co.jp/shukanshi_blog/

2009年8月 3日

NHK受信料拒否裁判判決、予想外の大きな反響でした。

 7月28日、NHK受信料拒否裁判に判決が出ました。たぶんこういう裁判そのものがもう2年以上にわって続いていたことさえご存じない方が多いと思います。裁判開始から2年余、弁護士を探し始めた段階からすると3年にわたったNHK受信料拒否裁判ですが、今回の東京地裁判決については、朝日新聞、毎日新聞などが大きく報道したために(特に毎日新聞は見出し4段、記事8段という大きな扱いでした)、予想外の反響がありました。『創』編集部が立ちあげている「NHK受信料督促裁判を考える」というブログにもたくさんのコメントが寄せられました。

■NHK受信料督促裁判を考える
http://www.tsukuru.co.jp/nhk_blog/

 もともと3年ほど前、NHKの受信料不払いが膨大な数にのぼったのを受けて、NHK側が法的督促、つまり払わないと裁判に訴えるよという強硬手段に転じたのがきっかけでした。ほとんどの人が裁判所の通知をもらって仰天し、不払いをやめるか、あるいはさらに抵抗して裁判まで行っても途中で和解して支払いに応じました。

 ただ、なかにはこういう強圧的な方法に納得できないとあくまでも裁判で闘うのをやめなかった人もいます。東京では3人、途中で1人が和解に応じて、残った2人が2年以上にわたる裁判を続けてきたのです。不払いで督促を受けた金額は数万円ですから、普通は弁護士を雇って裁判を続けるのと余計痛手を被るし、NHKもそれを見越して法的督促を行っているのですが、実は『創』編集部で弁護士さんにお願いして、この裁判を手弁当でつまり報酬なしで引き受けてもらうことにしたのです。これまでNHK問題に関心を持っていた弁護士さんが約10人も集まってくれて、2年前に弁護団が結成されました。

 そこから予想外に長期戦となったのですが、この裁判は、受信料の手続き問題だけに限定すると1~2回で終わってしまうものです。実際、今回の判決も「法律で決められていて、契約も成立しているのだから、受信料を払うべきだ」というものです。NHKもそういう判断に基づいて法的督促をかけて、不払い者に圧力をかけようとしたわけです。

 では何を2年余も争ったかというと、弁護団としてはせっかく争うのだから、そもそも「公共放送とは何か」「受信料とは何か」という論争まで踏み込んで議論を起こそうとしたわけです。裁判に入る前に弁護団は合宿までやって、公共放送やその成立経緯、海外での公共放送の実例など徹底的に調べたのです。だから本当はこの間、大手マスコミがもう少しこの裁判に注目してくれれば、そういう議論も起こせたと思うのですが、残念ながらマスコミでそこまできちんと取材して報道したところはほとんどありませんでした。

 でも、裁判をずっと傍聴していると、今まであまり考えもしなかった「公共放送って何だ」というテーマが実は奥深いものであることがわかりました。戦後の憲法や教育基本法などが制定される過程で、マスメディアの国家権力からの独立を担保し、市民が支える放送を、という精神でできたのが、公共放送なのでした(私もそこまで知らなかった)。NHK元職員も傍聴に来ていましたが、「本当はこういう議論をNHKが自分たちでやらないといけないんだ」と言っていました。NHK職員自身でさえ、自分たちが依拠している受信料制度や公共放送の本来の趣旨を忘れてしまっているのが現実なのです。

 しかし今回の判決では、過去2年間にわたって弁護団が展開した「公共放送とは何か」「受信料制度とは何か」という議論は、ほとんど触れずに形式論議だけで「受信料は合憲」という結論が出されてしまいました。弁護団もその点はがっかりしていました。

 ただ判決を詳しく読むと、裁判所として微妙な領域にまで少し足を踏み入れた記述もあります。
例えば、大きな論点のひとつは、被告は、NHKの不祥事や放送姿勢に対する抗議として受信料支払拒否をしたとして、それを正当な権利と主張したのですが、公共放送の理念として、放送法に照らしてそれを正当と判断するのか否か、という問題でした。つまり、公共放送とは、国家権力やスポンサーから独立して、市民が受信料によって放送を支えるというシステムですから、抗議の意思表示として、不払いという権利も担保されていると思うのですが、果たしてその主張に対して裁判所がどう判断したのか、ということ。これは極めて大事な論点です。

 で、判決でそこがどう書かれているかというと、こうなっています。

《放送法の趣旨にかんがみれば、原告は、広告主や国家やもちろん視聴者(放送受信契約の相手方)からも一切の影響を受けず、自らの表現の自由を全うすることによって、「豊かで良い放送を行う義務」を実践することが求められているというべきであって、原告が負担する「豊かで良い放送を行う義務」は、放送受信契約の相手方(被告ら)個々人に対する義務ではないというべきであるから、同義務は、被告らが負担する放送受信料支払義務とは牽連関係にないと解するのが相当である。》

 いやあ、わかりにくい文章でしょう。結論的に言うと、被告の主張を退けているんですが、ここで裁判所がどういう解釈をしているのか、考えることは重要です。で、近々判決そのものの主要部分を前述したブログにそのままアップしますので、興味ある方は前後の文脈を何回も読みこんでみてください。

 被告が控訴したことで裁判はもう少し続きます。この裁判が、本質的な議論がなされるきっかけになってくれることを期待します。

Profile

篠田博之(しのだ・ひろゆき)

-----<経歴>-----

1951年茨城県生まれ。
一橋大卒。
1979年より月刊『創』編集者。
81年より編集長。 82年同誌休刊に伴い、創出版を設立して雑誌発行を続ける。
現在は編集長兼経営者。
日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長、東京経済大学大学院講師など兼務。
東京新聞、北海道新聞などにコラム「週刊誌を読む」連載。
メディア批評のほかに、犯罪、死刑問題などについても新聞・テレビでしばしば発言。
著書『生涯編集者』(創出版)、『ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)。共著は多数

BookMarks

創出版
http://www.tsukuru.co.jp/

最新号
↓ ↓ ↓

詳細はコチラ

-----<著書>-----


『生涯編集者──月刊「創」奮戦記』
2012年6月、創出版



『ドキュメント死刑囚』
2008年8月、筑摩書房

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