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週刊誌を読む:刑事裁判、真相解明どこに 和歌山カレー事件判決 »

和歌山カレー事件死刑判決について思うこと

 さる5月1日、和歌山カレー事件の林眞須美さんに面会した。死刑判決が出たのが4月21日だが、30日に不服申し立てを行ったので、確定はもう少し先、恐らく5月10日前後になるはずだ。刑が確定すると原則として接見禁止になるため、それまでの間に知人の面会をできるだけ受け入れるということで、5月1日も3人一緒に面会した。

 判決当日は、この裁判に対する自分の闘いの意思表示のために真紅の衣服を着たいという本人の依頼で、私は4月14日に、真紅の上下トレーナー、靴下、ハンカチなどを差し入れた。判決を彼女は大阪拘置所の独居房で、全身「真紅」をまとって迎えた。ただしその決意も虚しく、最高裁の判決は上告棄却。事実上の死刑判決だった。

 4月16日に面会した時は「絶対無罪を勝ち取る」と断言していた彼女だが、死刑判決はやはり重圧となったようで、5月1日の面会の時には、「刑場に連れ出される夢を見て毎日のようにうなされる」と語っていた。「朝、執行だと言われて、えーこんなに早いの、とびっくりして眼をさます」のだそうだ。

 死刑執行は法務大臣が執行命令書に判をついてから5日以内に行われるが、本人に告知するのは当日朝だ。死刑確定者は現在、全国で約100人おり、以前は確定しても4?5年は大丈夫とされていた。しかし、最近は1?2年で執行されるケースもあり、実際のところいつ執行されても不思議はない。刑事訴訟法では半年以内とされながら、それが形骸化していたのだが、厳罰化と死刑急増の流れの中で、なるべく執行を早めようという法務省の意志が働いているからだ。確定死刑囚とは、自分の執行がいつになっても不思議でない、その恐怖に毎日脅えてすごす存在なのだ。

 私が12年間つきあった宮崎勤死刑囚のように(恐らく統合失調症で)自分の置かれた立場もよく理解できなかったような人でも、死刑確定後はやはり死について気にすることが増えていた(詳細は拙著『ドキュメント死刑囚』参照)。ましてや林眞須美さんは、アグレッシブなところもあると同時にナーバスな面もある女性だ。死刑確定前から、死刑の恐怖を吐露することがあったが、実際に確定してからは恐怖にさいなまれる生活のようだ。

 さて、私は和歌山カレー事件については1998年の事件当時から現地で取材を行い、林家も何度も訪れていたし、林夫妻とも当時からの知り合いだ。だからこの事件については、思うところが多い。

 直接的証拠が何もないのまま状況証拠だけで眞須美さんが犯人だとして死刑判決が出されたという意味で、この事件ないし裁判については議論すべきことがたくさんある。最大の問題は、動機が全く明らかになっていないことだ。動機というのは、事件の骨格をなす事柄で、つまり和歌山カレー事件とはどういう事件なのか、そもそもそれは殺人事件だったのかそうでないのかという、根本のところが全く解明されていないのだ。事件が解明されないまま、処罰だけがなされた。しかも死刑判決という、今後新たな証拠が見つかっても取り返しのつかない刑罰が科されてしまったわけだ。

 多くの人は、林眞須美さんが犯人なのは自明のことのように思っているが、これは裁判が始まる前に大量になされた報道によるものだ。実際には、彼女が夫を毒殺しようとしていたという逮捕前の報道が裁判でひっくり返されたり、高校生の目撃者なる報道が実はガセだったことなど、事件当時の報道のかなりの部分が裁判で否定されてもいるのだが、そういう経緯はほとんどフォローされていない。現状の事件報道は、容疑者逮捕の時点で終幕を迎えてしまい、そこで物語が完結したことになってしまう。逮捕時の報道は多くの人に修復しがたい印象を植え付けるのである。

 検察側が当初描いた事件の構図はかなり裁判でほころびが出たし、死刑判決を支える論理構造は、世間の人が思っているほど磐石でなく、むしろかなり脆弱だと言ってよい。本当は、それにも関わらず死刑判決が出されたことの意味をきちんと議論しないといけないのだが、現実にはその仔細な検証などマスコミでもほとんどなされていない。

 こんなやり方で、それこそ鳩山前法相が言ったように「ベルトコンベアのように」死刑判決と執行がなされていっていいのか、と思う。

 本当はここで、この和歌山カレー事件の判決にどんな問題があり、裁判の争点がどうだったのかを説明しなくてはいけないのだが、長くなるので、詳細は別の機会に譲ろう。神保哲生さんのブログ「マル激トーク」にアクセスすると、4月24日に収録された安田好弘弁護士の話が公開されている。私自身もこの間、月刊『創』誌面では何度も書いてきたし、まとまった論考としては『冤罪File』という雑誌の1号前に50枚の長文のレポートも書いた。関心ある方はご覧になってほしい。

 事件発生直後の、ようやく原因がヒ素と特定された1998年8月初めに、裁判の鍵を握るIという男が捜査側に抱え込まれているなど、この事件の捜査手法と検察側の立てたストーリーには、後で考えると多くの問題が含まれているのだが、これらもほとんど議論されていない。

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コメント (7)

「ニシマツ」「オザワ」「テポドン」「クサナギ」「新型インフル」、
すべてはTV新聞をキャリアーとする空気感染のバリエーションでした。日本国を覆うメディアという名の風土病と言えるかもしれません。この病気に抗体をもたない人びとをヤマト民族と呼ぶのかもしれません。

あるいは、機能的には国家統合のお祭りでしょうか。刑事裁判においては、結審前に「ギルティ」が宣告され、集団リンチ的スクラムにおいて実質的に刑が執行されていきます。
糾弾・憤慨とカタルシスの抱き合わせで、「推定有罪」の祭りが日々繰り返され、そして本日も進行中です。

ある意味で、これはヤマト民族の駆動原理でもあるのでしょうか。
かつて「鬼畜米英」の時代にも同じ風土病が国土を覆い尽くしました。

確実なのは、この病気が巨大な収益モデルにおいて利用されているということです。「いけにえのヤギ」はいつも必要とされています。
ただ昔とちがって、それを捧げるべき崇高なる存在は現在はどこにもいません。いるとすれば「当月の売上伝票」(成績)がそれに当たるでしょう。

キャリア―(メディア)といっても、街で会えばみなさんいい人で、
普通に親切で、KYではないことに矜持ももっておられる。
「ジャスティス」と「ニュートラル」の看板の下で日々の精励に忙しい。
風土病に罹りやすさにおいては同じヤマトの人たちでありましょう。

この風土病に例外的に「抗体」をもつ「小沢」という人物が放逐されました。その結果、風土病を克服するワクチンを当分の間は入手できないということでしょうか。
そうでもないかもしれない、というのが差し当たりの希望です。

ところで「和歌山毒物カレー事件はあまりにもセンセーショナルな事件であったため、このような問題点を指摘する人はあまりいなかった。だが、私はあえて問題提起したい。この判決は問題ありだ。」と述べられた田原氏は、今後どのように仕事を展開されているのでしょうか。

私はこの事件を聞いて恐ろしいのは、国民が検察、警察の逮捕イコール有罪のイメージをマスコミが中心になって作り上げてしまう事だ。本来は裁判が有ってそこで公正に審議され、命の尊厳、人の民主主義の中の人権を下に裁判が進むはずなのに、実際はそうでない。警察、検察のコンビネーションは、国民の罪を防止する気が無い。だから犯罪が発生しなければ真剣に取り扱わない。その犠牲がどれだけ有ったか。又警察は、現行犯にして罪を作り上げる。ポスター貼り禁止の処に、知らないで貼ってしまった。影に警察官が3名隠れて現行犯にしてしまう。結果東京地検まで送られる価値ある?調書を作られて、罪にする。『ここにポスター貼り禁止だよ』の一言で禁止を忠告されればそれで終った事。警察、検察は点数になる様に罪を作っている。これが民主主義の世の中なのかクビをかしげる。無実を訴える人間が何で反省していないと汚点にされるのか?反省とは罪を認める事でしょ?警察に騙されて罪を取引材料にされる冤罪は許されない。遣っていないのなら、最後まで無実を主張すべきだし、無実を訴える人に、物証も無いのに、最高裁までが死刑と云うのは恐ろしい国だ。人権無視そのものだ。判決を決めるのは神様でもない裁判官だ。家に帰ればおとっつぁんだ。もっと謙虚に臨むべきではないか。

被告は「金もうけのためなら別として、(カレー事件は)何の利益にもならない。それにヒ素ならすぐにうちがやったとばれるので、そんなばかなことはしない」と断言している。
また被告は「竹を割ったような性格」と見られており、夫も「そんなこと(悪口)を言われたら、直接言い返している」と話している。
http://ameblo.jp/worldforumnet/entry-10146695061.html

小沢一郎秘書逮捕に関連しての怒りや抗議のメールは山と来るが、この問題には興味が薄いのはどうしてでしょうか。
裁判に入る前までは推定無罪原則が前提になっているはずなのに逮捕されたというだけで、犯人扱いや始めから死刑判決ありきの報道攻勢。
事件の規模も内容も違いすぎますが、起こっていることは小沢さんの問題と根は一緒です。
この問題の本質はもうひとつある。
それは裁判員制度施行の前の駆け込み判決であるということ。
そのためにかなり無理筋の裁判を強引に推し進めた結果、量刑主導に裁判の流れを作らせ、事件における証拠認定やもろもろの証言の信憑性の確認といった被告人の権利をことごとく避け、今回の判決を言い渡した。
そこにあるものは情動という人の根幹に訴求する冷静な議論を無視した一罰百戒の論理です。
これを持ち出されたら、重大犯罪で容疑を掛けられた人たちは認めた人も、否認した人も一緒くたに判決がくだされてしまう。
容疑を掛けられた被告人に怒りを持ち、重刑に処して欲しいと願うのは被害者の肉親だけでなく、我々だって同じです。
しかし、もし被告が全く関係のない冤罪を被せられていたならどうでしょうか?
事件の顛末を知り、怒り憎しみを共有する大衆に被告人の権利を慮る冷静な頭と目を持てと諭しても見向きもされない、報道はそれに輪をかけて大衆を煽るわけですから。
こんな中で始まる裁判員制度、量刑主義に傾く法廷をまずは被告人の権利から見ていくという前提が担保されない限り、和歌山カレー毒物入り事件の二の舞三の舞いは避けられそうにもありません。
裁判員制度は見直されるか、廃止すべきだと思います。

私もこの判決には大いなる疑問と深い懸念を抱きます。物証もない状況証拠だけで極刑の判決はあり得ないと信ずる。確かに「動機」は法理上は必ずしも確証の必要条件ではないけれども、その追求は慣例化していた。よりによって物証が得られない事犯でこれを持ちだすとは信じがたい。

だからこのコラムに興味を持って拝見したのだが、安田好弘弁護士の名前を見て怖気が走った。こういう邪悪な弁護士が荷担することによって、かえって裁判官を頑なにしてしまう。誰であれ弁護行為を自分の思想信条の演説台にするのはやめるべきだ。

世の人はさんの意見に同感です。
裁判員制度は、まだまだ社会的コンセンサスが不十分だと思います。しかも、感情的に、量刑を受け止めがちな我々日本人には、この制度は不適切なように思います。
死刑はえん罪だったではすまされない事です。
しかし、現在の有様を鑑みるに、種々の犯罪における量刑も不明瞭ですし、法的解釈も確固たる指針が見えません。
今の状態では、ほんとうに空恐ろしい気がします。
赤信号をみんなでわたって、推定有罪の方を死刑台に送るという事になりかねないでしょう。
これは余談ですが、多くの日本人は、犯罪者の人権主張をする弁護士さんを、どこか売名行為のように見ている人が、多いように感じますが、違うでしょうか?
まだまだ我々日本人は『法』というもの『量刑『人権』などの問題をロジカルにとらえる事に訓練されていないように思います。

因に私自身は裁判員制度にするなら、死刑は廃止した方がよいと思います。

本来の使命を忘れ、自分たちが正義だと思い込んでいる公僕ほど性質の悪いものはありませんね。

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篠田博之(しのだ・ひろゆき)

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1951年茨城県生まれ。
一橋大卒。
1979年より月刊『創』編集者。
81年より編集長。 82年同誌休刊に伴い、創出版を設立して雑誌発行を続ける。
現在は編集長兼経営者。
日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長、東京経済大学大学院講師など兼務。
東京新聞、北海道新聞などにコラム「週刊誌を読む」連載。
メディア批評のほかに、犯罪、死刑問題などについても新聞・テレビでしばしば発言。
著書『生涯編集者』(創出版)、『ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)。共著は多数

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『ドキュメント死刑囚』
2008年8月、筑摩書房

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