« 2011年5月 | メイン | 2011年7月 »

2011年6月29日

詩人の直感力と想像力が描き出す予言の書 ── 若松丈太郎著『福島原発難民 南相馬市・一詩人の警告』

 暴走を続ける福島第一原発に隣接する福島県南相馬市に一人の詩人がいる。若松丈太郎さん、76歳。海岸から4キロ、原発から25キロの地点に住む若松さんは、自らを原発難民と呼ぶ。長く高校教師を勤めてきた若松さんは、原子力発電所近傍に住む詩人として、自身の思いを詩やエッセイにして折にふれ発表してきた。本書は原発事故があった2ヵ月後の5月10日、それら原発にまつわる作品をまとめて上梓したものだ。一読して、詩人の直感力と想像力に驚嘆した。1971年、第一原発の建設が始まった段階で、詩人はこう記している。

「五年後に予定されている完工時は、いまはらんでいる諸問題の臨月でもある。約十六億円と試算される原発の固定資産税のうち三億円程度を残して県に吸い上げられるうえ、いったん消費生活の美味を味わった住民が農外所得を失ってどう生きるか。残されるものは放射能の不安だけとなっては、たまるまい」

「歴史的に国境であったこの地の、新しいフロンティアであるとしたら、それはいったい何に対峙するためのものなのだろうか。原発も怪物だが、巨大なエネルギーを食う人間はそれに輪をかけて怪物である」
(「大熊ー風土記71」1971年11月28日、『河北新報』)

 詩人の想像力は、東京も撃つ。

「チェルノブイリ事故は三〇キロと三〇〇キロとは目くそ鼻くそであることを厳然と立証した。(中略)それにしても、原子力発電所周辺に住んでいることで感じる背筋に刃物を突きつけられているような感覚は理解してもらえるだろうか。(中略)で、三〇キロと三〇〇キロは目くそ鼻くそなのに東京都その周辺に住んでいる人たちが「こわい」とうけとめることがえきないとしたら、それは、感覚が鈍麻しているか、想像力が貧困なのだと言ってさしつかえないのではなかろうか。(中略)私たちは東京から三〇〇キロ地点にあるブラックボックスの住人である」
(「東京から三〇〇キロ地点」『詩と思想』1991年6月1日)

 詩人は1994年、チェルノブイリを訪ね、この思いをさらに深める。

  こちら側とあちら側というように
  私たちが地図のうえにひいた境界は
  私たちのこころにもつながっていて
  私たちを差別する
  私たちを難民にする
  私たちを狙撃する
  (中略)
  牛乳缶を積んだ小型トラックが
  ウクライナからベラルーシへと国境を越えていった
  こともなげに
  空中の放射性物質も
  風にのって
  幻蝶のように
(連詩「かなしみの土地」詩集『いくつもの川があって』)

 詩人の想いは、チェルノブイリと相馬を行き来する。連詩「かなしみの土地」のなかにおさめられた「神隠しされた街」は、チェルノブイリ事故発生後40時間後に地図のうえから消えたプリピャチ市、そして11日目から三日間で人がいなくなった30キロゾーンの模様をうたったあと、次のように記した。

  半径三〇kmゾーンといえば
  東京電力福島原子力発電所を中心に据えると
  双葉町 大熊町 富岡町
  楢葉町 浪江町 広野町
  川内村 都路村 葛尾村
  小高町 いわき市北部
  そして私の住む原町市がふくまれる
  こちらもあわせて約十五万人
  私たちが消えるべきはどこか
  私たちはどこに姿を消せばいいのか

 詩人は再びチェルノブイリにもどる。

  人声にしない都市
  人の歩いていない都市
  四万五千の人びとがかくれんぼしている都市
  鬼の私は捜しまわる
  幼稚園のホールに投げ捨てられた玩具
  台所のこんろにかけられたシチュー鍋
  オフィスの机上にひろげたままの書類
  ついさっきまで人がいた気配はどにもあるのに
  日がもう暮れる
  鬼の私はとほうにくれる
  友だちがみんな神隠しにあってしまって
  私は広場にひとり立ちつくす

 チェルノブイリから帰った94年8月、東電は福島県に第一原発に2基の増設を申し入れた。同年9月、詩人は記した。

「私たちは私たちの想像力をかりたてなければならない。最悪の事態を自分のこととして許容できるかどうか、想像力をかりたててみなければならない。
 誤解されることを恐れずに言えば、最悪の事態とは、自分をいま死に至らしめつつあるものの意味を理解する時間さえ与えられず、一瞬のうちに死なねばならないということでは、おそらくないはずである。あるいは、被曝による障害に苦しみつつ、自分を死に近づけているものの意味を反芻しながら、残された時間を病院で生きつづけなければならないということでも、おそらくないような気がする。いや、もちろん、これらも最悪と言うべき事態であるには違いなない。
 しかし、最悪の事態とは次のようなものも言うのではなかろうか。それは、父祖たちが何代にもわたって暮らしつづけ、自分もまた生まれてこのかたなじんでみた風土、習慣、共同体、家、所有する土地、所有するあらゆるものを、村ぐるみ、町ぐるみで置き去りにすることを強制され、そのために失職し、たとえば、十年間、あるいは二十年間、あるいは特定できないそれ以上の長期間にわたって、自分のものでありながらそこで生活することはもとより、立ち入ることさえ許されず、強制移住された他郷で、収入のみちがないまま不如意をかこち、場合によっては一家離散のうきめを味わうはめになる。たぶん、その間に、ふとどきな者たちが警備の隙をついて空家に侵入し家財を略奪しつくすであろう。このような事態が一〇万人、あるいは二〇万人に身にふりかってその生活が破壊される。このことを私は最悪の事態と考えたいのである」

 詩人がこう書いて17年後、最悪に事態が目に前にある。

ono110629.jpg
(2011年5月、株式会社コールサック社刊、1428円+税)

コールサック社は東京都板橋区板橋2-63-4-509
電話:03-5944-3258

2011年6月 3日

市民メディアに何ができるか 福島原発情報共同デスクを立ち上げる

 福島原発暴走で何が出来るか市民団体で緊急会議をもつからと声をかけられ出かけたのは、確か3月28日であった。おりからこの問題についての政府の大本営発表への不信が高まっていた。政府が信用できないのだから、事故を起こした当事者である東電なぞもっと信用できないし、その政府・東電の発表をこだまのように増幅させる新聞、テレビなどマスメディアもまた信用できないものの対象に入っていた。この「信用できない」という気持ちのなかには、「自分たちは情報を操作されているのではないか」という疑問が含まれていた。緊急会議でも同様の意見が出された。

 そうしたマスメディア状況の一方で、インターネットの時代を反映して市民というか民衆というか、ただの人やら専門家、何か言いたい人やらが自ら発信したり、あるいは市民メディアとして組織的に発信する動きがここ何年かで急速に進んでいる現実もあった。グループや個人による、文章、映像、音声で発信されるさまざまの情報は、政府・東電の発表のぎまんを鋭くつき、マスメディアの怠慢を批判する内容であふれていた。
 同時にその内容には混交玉石、個々ばらばらの感があった。社会への影響力という面でも、マスメディアの圧倒的力には敵わないということ現実も存在した。そこで、いま具体的にやれることのひとつとして、こうした市民情報の共同デスクを立ち上げ、既成メディアへの対抗力をつくらないか、と提案した。「福島原発情報共同デスク」と名付けられたこの仕組みは、すでにサイトも立ち上がり、動き出している。

 共同デスクを提案するに当たっては、2008年のG8洞爺湖サミットで形が出来た市民メディア運動を、この際さらに大きな動きにできないかという思いもあった。その意味では、共同デスクの立ち上げは、課題である福島原発問題にとどまらず市民運動のこれからの動きにとっても、それなりの意味を持っていると考えている。

 とは思うものの、このごろ「市民による情報とはどういうものか」で考え込むことも多い。50年近く、メディアの周縁部でうろうろと記者をして生きてきた。70歳を過ぎるとそのメディアからもあまり相手にされず、このごろはもっぱらただ原稿を書いて発表の場を得ている状況なのだが、それでも自分で見聞きしたこと、確認したこと以外は書けないという50年叩き込まれた習性を捨てることが出来ずにいる。

 だが、とも思う。この「確認をとる」という、これまでごうも疑わなかった作業自体が権力なのではないか。既成メディアの権力の源泉はそこにあるのではないかというふうに言い方を変えてもよい。

 ネットにはデマやうわさ話が満開である。「だからネットは」いう人も多いが、実は、だからこそ体制はネットを恐れるのではないか。共同デスク立ち上げの議論のなかで、なんでも発信したらよいものでもない、ある程度の検証は必要ではないか、という話がでて、そうだなということになった。ぼくも実はそういう話をした。
 いま体制は震災に絡むデマ退治という名目でネット言論の規制に入っている。共同デスクの意味をこの観点から改めて検証、論議すべきなのだろうなと、いま思っているところだ。

 インターネットの時代に入り、市民メディアが言われ始め、メディア論は盛んになったが、ジャーナリズム論は影をひそめた。メディアとは入れ物で、問題はそこに何を盛り込むかなのだろうと思う。この共同デスクへの関わりを機会に、民衆ジャーナリズム論を考えてみたい。(福島原発情報共同デスク編集長)

*初出は『市民の意見』No126(2011年6月11日)

Profile

大野和興(おおの・かずおき)

-----<経歴>-----

1940年愛媛県生まれ。
農業ジャーナリスト。
四国山地の真只中の村で育ち、農業記者として約40年を日本とアジアの村を歩く。
「日刊ベリタ」現編集長、「脱WTO草の根キャンペーン実行委員会」事務局長、「アジア農民交流センター」世話人、「国際有機農業映画祭」実行委員会代表。

BookMarks

-----<著書>-----


『食大乱の時代』
2008年7月、七つ森書館


『百姓が時代を創る』
2008年2月、七つ森書館(増補版)、共著

『日本の農業を考える』
2004年4月、岩波書店

『百姓は越境する』
1991年8月、社会評論社

→ブック・こもんず←



当サイトに掲載されている写真・文章・画像の無断使用及び転載を禁じます。
Copyright (C) 2008 THE JOURNAL All Rights Reserved.