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2010年6月28日

トロント・ダイアリー(3) ── G20の各国記者のわけのわからない迫力

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↑ Wカップ戦を観戦するサミット・メディア・センターの記者たち

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↑ G20晩さん会に出席するオバマ夫妻を見守る(26日)

 27日になって、急激にインターナショナル・メディア・センターの記者たちの数が増えた。きのうまで僕らが座っていた席は、朝10時過ぎに行ってみるとインドネシア人の記者団が「占拠」していた。僕らがささやかに机に貼り付けておいた自社の名刺はきれいに剝されて、インドネシア国旗が机の上にはためいていた。それに中国の記者たちの数がやたらと目立って増えていて、カフェテリアのコーナーの丸テーブルに集団で座り込んで何やら談笑している。わけがわからないけれど何だか迫力があるのだ。彼らの特徴は男性も女性もスーツを着ている割合が非常に高いことだ。黒・濃紺・グレーのスーツにネクタイ。ラフな格好でいかにもジャーナリストといった感じが多いヨーロッパの記者たちとは対照的に、彼らは「お役人」のように見える。後、彼らは集団で行動することが多い。よく言えばみんな仲良しで、悪く言えば、いつも誰かとつるんでいるような動き方だ。

 集団で場所取りをするG20の彼らをわき目に、多くのヨーロッパ人記者たちは平気で大型スクリーンの前でビールを飲みながらWカップのサッカー(イングランド対ドイツ)を観戦していた。多くはドイツ人の記者で、何人かは朝から無料で配られているビールをがぶがぶ飲んでいるのである。サミットどころではないという感じだった。これが紛れもないインターナショナル・プレス・センターの6月27日の現実なのだからそう書くしかないのだ。ドイツが4点目をゴールした時には、メディア・センターのあちこちで歓声と拍手が巻き起こった。

 きのうの暴発状況は、夜になってトロント大学周辺に集まっていたプロテスターたちが根こそぎ警察によって一斉逮捕され、逮捕者の数は550人を超えた(27日正午現在)。カナダの警察警備史上、1日の最多逮捕者数を記録してしまったそうだ。外は気持ちの良いお天気で、タクシーの運転手は「トロントニアン(=トロント市民)の多くは郊外に遊びに行っているよ」と言っていた。僕らは今は空調の効きすぎたセンターの一角にいる。カナダの地元紙The Globe and Mailの机の一番端の2席をやっと譲ってもらった。

 貧困問題に取り組むNGO団体Oxfamのアドボカシー・マネージャーの山田太雲さんによると、今回のG20は「貧困問題解決のための重要な機会を逃した」成果の乏しい会合で、さらに気候変動対策も石炭・石油といった化石燃料補助金に関する以前の合意を後退させるなど、不満だらけの結果に終わったとの総括だ。11月に次のG20の開催が予定されている韓国政府がこのトロントの方式を見習わなければいいのだが、と山田さんは話していた。

2010年6月27日

トロント・ダイアリー(2) ── 内側と外側の目の眩む落差

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↑ 炎上するパトロールカー

 今日のトロントは荒れた。昨日(25日)に引き続いて、今日も大規模なG8/G20に対する抗議集会とデモがあった。もともと今回の取材では、「サミット会場の内側と外側」というテーマで取材をすることを考えていたので、昨日も今日もハンディ・カメラをもって同僚のSierraとともに取材に出た。外は雨模様だ。インターナショナル・メディア・センターに終日いても、ブリーフィングやペーパーを待っているだけなので、正直に言って退屈きわまりないこともあるのだが、それも仕事は仕事として割り切るしかない。経験的に言えば、雨の日のデモは荒れる。

 最初のうちは実に平和裏の集会・デモだったのだ。人数はきのうの数倍、おそらく1万人以上は集まっていた。掲げているスローガンも、女性差別反対、母子保健(中絶権つき)の改善、反・貧困、反イスラエル(パレスチナ支援)、トランス・ジェンダー、グリーンピース、地球温暖化への対処、動物の権利保護、反原発、鉄鋼産業のユニオン団結、中国によるチベット・ウイグル弾圧反対、タミール人の人権擁護、ベトナムのクリスチャン擁護、社会主義インター、アナーキスト・グループなど、とにかく千差万別。まとまりのない反権力グループの集合とういう様相だった。警察の警備は昨日と同様、グループとは距離を置いて、過剰な警備を避けている印象だった。

 その様相が一変したのは、解散地点で警察によって、それ以上の前進をブロックされたあたりからだった。行き場を失ったエネルギーが出口を求めるかのように、デモ隊のなかの少数の40人くらいのグループ(彼らは全員が黒ずくめの衣服で、顔も黒い布で覆っていた)が、デモの出発点の方向に逆進しだしてからだった。道路の舗石をはがして手に持ち始めたあたりから嫌な雰囲気が漂ってきた。なぜ僕らが彼らについて行ったのかと言うと、彼らの真後ろに同行して進んでいたバンドがなかなかいい音楽を奏でていたからだった。昨日も彼らは路上を演奏しながら行進に加わっていた。名前を尋ねたらChaotic Insurrectionというのよ、と答えてくれた。12人編成の日本のシカラムータのようなバンドだった。その直前に前記のグループがいたのだ。彼らはダウンタウンの店舗のウィンドウ・ガラスを壊し始めた。

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↑ デモ行進中の Chaotic Insurrection。彼らの演奏は魅力的だった(筆者撮影)

 これは何かが始まってしまうという予感が的中した。みると前方で火の手があがっている。警察のパトロールカーが炎上している。その周りをデモ隊が行き場を失って右往左往している。パトカーが何度か小爆発を繰り返し、付近一帯は一気にカオスの状態になった。先ほどの集団はウインドウを手あたりしだいのように壊し始めている。嫌な気持ちが広がった。通りのウィンドウに石を投げつけている女性は、見るとまだほんの少女のようにみえた。この怒り。この現実に対する憤り。

 苦労して、サミットのインターナショナル・メディア・センターに戻った瞬間、そこは外とは全くの別世界だった。G20が始まって、記者の数が一気に増えた。なかでも中国からの記者団が圧倒的に目立ち始めた。

 サミット会場の内側と外側のこの目も眩むような落差。僕はその両方を見ようと思う。

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↑ 壊されたウィンドウ・ガラス。逮捕者は300人を超えた

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↑ フェンス越しに睨みあうデモ隊と警官隊

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↑ 対デモ態勢の警官

2010年6月26日

トロント・ダイアリー(1) ── Big Brother Is Watching You.

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↑ インターナショナル・メディア・センターは寒すぎる。地球温暖化どころじゃない。

 24日の夜にカナダのトロントに着いた。美しい街だ。G8サミットの取材は一体何回目になるだろう。9回目くらいか。モスクワにいた時と、ワシントンにいた時、それと東京にいた時をあわせるとそれくらいになってしまう。所詮は会議取材だ。政治の舞台がグローバル化するなかで、世界のリーダーたちが集って共通の関心事であるアジェンダを話し合うとしても、自ずと限界がある。それにサミットの役割とか評価がこのところ随分と変化した。「サミット不要論」が公然と語られるばかりか、今ではサミット会場の外側と内側の落差というか障壁の方がニュースになったりする。そういうなかで、サミット取材のあり方も問われる時代に僕らはいる。

 2時間遅れで到着したトロント国際空港でいきなり面白い経験をした。パスポート・コントロールを無事通過したと思ったら、係官にImmigrationの別窓口に行けと言われたのだ。 ??? 一体何が起きたのか不思議に思っていたら、サミット警備を強化するなかで、記者、プレスを名乗って入国をしようとする人間たちがいるので、プレスの人には特に厳重にチェックをしているのだとの説明を受けた。そういうものかなあ、と若干不快に思いながら説明に従ってチェックを続けていたら、係官がコンピュータの画面を見ながら、過去の経歴について質問をしてきた。「あなたは以前モスクワにいたことがあるか?」「あなたは以前ワシントンにいたことがあるか?」「あなたは以前、報道局長をしていたことがあるか?」そういうことならば、まあ仕方がないと思っていたら、次のような質問をされたのでびっくりしたのだ。「キヨシロー・イマワノって誰だ?」「あなたは以前にリュウイチ・サカモトにインタビューをしたことがあるか?」確かに過去に僕は彼らにインタビューをしたことがある。でもね、こんなことまで、僕の記録・経歴欄に書かれているのか? 怖いったらありゃしない。4番窓口の係官はアジア系の男性で終始にこやかだったが、そういう記録が残っていること自体が怖いのだ。

 日本の外務省が押さえていたホテルはチェックインして入室しようとしたら、受付で腕にプラスチックの青いテープを巻かれた。「これを常時付けていないとダメよ」とレセプションの女性にソフトに言われた。「まるで囚人みたいですね」と笑って言ったら「そうね」と受付の女性は言った。夜、遅くアクレディテーション(記者証)を取得して街に出た。いつもの夜なら人出で賑わうトロントのダウンタウンは真空地帯みたいになっていて、そういうなかを日本人のプレスの一行が(僕らもそのなかの一部だ)束の間の散歩をしたりしている。25日からG8サミットが始まる。グアンタナモ・ダイアリーのようなものを残しておこう。

2010年6月24日

マクリスタル司令官解任の衝撃

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 アフガニスタン戦争で現場指揮をとるトップ、マクリスタル司令官が解任された。戦況が泥沼化するなかでのかなり衝撃的な更迭劇だ。オバマ大統領はさきほど、バイデン副大統領と後任のペトレイアス中央軍司令官、ゲイツ国防長官らを両脇に従えて、ホワイトハウスで緊急声明を読み上げ「(司令官のふるまいは)民主主義制度の核である軍の文民統制を傷つけた」と明言した。直接的なきっかけは、今週発売の雑誌「ローリング・ストーン」誌のインタビュー記事のなかで、マクリスタル司令官とその側近らが、言いたい放題のオバマ政権批判を繰り広げたことによる。いわば「舌禍」事件である。「ローリング・ストーン」誌の記事に目を通すと、ほとんどオバマ政権の中枢にいる人間たちを馬鹿呼ばわりしていて、現地司令官のフラストレーションが直に伝わってくるようなある意味で非常に面白い記事なのだ。例えば、オバマ大統領については、「最初の面会の時、多くの軍人に取り囲まれて、不快そうでビクついているように見えた。」「たった10分間の最初の1対1の面会時も、オバマはマクリスタルのことをよく知らず、あまり関心がないように見えて、(マクリスタルは)失望した」とある。バイデン副大統領に至っては、マクリスタルは質問した記者に対して「誰だよ、そいつ? むかつくぜ(Bite me!)」とまで言っている。ジョーンズ安全保障担当補佐官については「道化者。1985年で終わってる」。ホルブルック補佐官は「首になるのをひたすら恐れている手負いの獣」などなど。「ローリング・ストーン」誌の記事は、元ニューズウィーク記者で現在はフリーランスのマイケル・ヘイスティングス記者が、パリ→ベルリン→カブール→カンダハル→ワシントンDCと飛行機で移動するあいだに部分的に同行して、酒も入って上機嫌だったマクリスタル司令官とその取り巻きたちから「本音」を聞き出すことに成功したのだ。マクリストル側はオン・ザ・レコードの取材だとしっかり認識していたのだという。なぜこんな長距離を移動したのかと言えば、当時、アイスランドの火山噴火で飛行機がキャンセルになって飛行距離が長引いたという幸運があったのだという。こういうしつこい取材こそがジャーナリズムのひとつのあるべき姿である。

 オバマ大統領は、マクリスタル解任以降もアフガン戦略に何の変更もないと強調しているが、アメリカの多くのメディアは今回の事態を、朝鮮戦争時のトルーマン大統領によるマッカーサー総司令官解任事件と比較して分析している。カルザイ大統領は、すでにマクリスタル司令官を擁護する姿勢を見せていた。現地の軍人たちの反応も、「ローリング・ストーン」誌の記事に対して、ある意味で「よく言ってくれた」というものがあるという。大きな視点でみれば、アフガン戦争のベトナム化がさらに進んだとみるべきだろう。オバマ大統領は今日の緊急声明のなかで「War is bigger than any one man or woman, whether a private, a general, or a president.」(戦争は、いかなる個人よりも、たとえ、一兵卒であれ、一将軍であれ、一人の大統領であれ、偉大なものだ。)と述べていた。 アフガニスタンとイラクの2つの戦争で現在のような状態にあるアメリカの大統領のオバマ氏が、ノーベル平和賞を受賞したのはつい半年前のことだということを僕は覚えている。だからわざわざオスロまで受賞演説を聞きに行った。世界は悪い冗談に満ちているのかもしれない。

2010年6月11日

ヘレン・トーマス記者の引退記事の作法

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↑ ヘレン・トーマスの引退を大きく報じるNYタイムズ紙

 ホワイトハウスの名物記者、ヘレン・トーマス(89)が引退した。さびしい、そして悲しい結末だった。きっかけは、パレスチナのガザ支援船へのイスラエル軍による襲撃事件(5月31日発生。支援船に乗っていた市民運動家9人が死亡)のあと、「ユダヤ人はとっととパレスチナから出て行け。ドイツでもポーランドでも、何ならアメリカにでも」との暴言を吐いたとして、非難の嵐に遭い、身を引いたのだ。ヘレンの発言はビデオに収録されており、それがオンラインでアップされ、瞬く間に広がった。よほど今回のイスラエルのやり口に怒っていたのだろう。しかし、彼女はユダヤ人問題の越えてはならない一線を越えてしまった。ドイツやポーランドという地名を出すことが、ナチス政権下でのユダヤ人ホロコーストの記憶に直結することは明らかだからだ。保守系のFOXニュースなどは、それみたことかとヘレン・トーマスを叩きまくり、ジョン・スチュアートの「デイリー・ショー」でも「何ていうことを言ってくれたんだ」というように嘲笑していた。多くの米メディアが水に落ちた犬をよってたかって棒で突くように責め立てた。

 ヘレン・トーマス記者はレバノン系アメリカ人で、ジョン・F・ケネディから現在のバラク・オバマに至るまで、何と歴代10人の大統領の取材にあたった。ホワイトハウス記者会の重鎮、名物記者で、ブリーフィング・ルームの最前列中央の席は彼女のための「指定席」とされていた。彼女の仕事ぶり・業績に敬意を払った上での粋な措置だった。それが今回の発言がもとで引退の憂き目に遭った。あの席は他の記者が座ることになるのだろう。ビル・クリントン大統領が、引退した時にシャレで作られたビデオにも彼女が登場してくる。クリントンに向って「まだ、いたの?」とか嫌味を言う役割だったと記憶しているけれど、ずいぶん前のことなので少し違っているかもしれない。僕はワシントン駐在の記者だった頃、彼女が出席する定例会見に何回か出たことがある。当時はブッシュ政権下で、アフガン戦争、イラク戦争をブッシュ大統領が始めた時期だった。ヘレン・トーマスはブッシュ政権の戦争政策にはきわめて批判的だった。歯に衣着せぬ質問を繰り出したので、歴代報道官からは嫌われたところもあった。ホワイトハウスのブリーフィング・ルーム以外のもっと広い会場で記者会見を行うときに一緒になったことがあるが、彼女はそういう際には意地悪をされて、最前列ではない目立たない席に追いやられていた。質問する記者もホワイトハウスと記者会側が事前に打ち合わせて順番通り指名していたりしたが、それでも彼女は最後まで挙手し続けていたのを記憶している。勇気がある記者だと思った。その辺のチンピラ記者とはわけが違う。

 6月8日付けのニューヨークタイムズ紙は、そのような彼女の引退を大きく報じていた。もちろん、今回の「暴言」の中身も報じたうえで、だがしかし、彼女がこれまでの長い記者生活で数々の功績をあげてきたことをこれまでのキャリアを示す写真を大きく掲げながらきちんと報じていた。こういう報じ方こそが、NYタイムズがクォリティ・ペーパーとしての位置を保持し続けている理由なのだろう。是は是、非は非。こういうフェアな記事に接すると、日本のメディアの集中豪雨的なリンチ記事との比較で、否が応でも「落差」を感じてしまう。記事にはこうあった。

《トーマス女史にとっては不名誉な結末だろう。というのも、彼女は、ジャーナリズムの世界の無数の女性たちの先導役を果たし、ホワイトハウス記者軍団の非公式ながら軍団長のタイトルを与えられていたのだから。》

2010年6月 1日

弱者に嫌なものを押しつけるという生き方

「沖縄タイムス」紙6月1日付『金平茂紀のニューヨーク徒然草(31)』より同紙の了解のもとに、THE JOURNAL に転載いたします。(編集部)

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↑ チャルマーズ・ジョンソン氏(Wikipediaより)

 ニューヨーク・ライフのなかで、この歳で大学生活を送ることができたのは、さまざまな意味でよかったと感謝している。コロンビア大学の客員研究員という肩書は、それ相応にめぐまれたものだった。自分でも、ものごとを根源的に考えてみる習慣が戻ってきたように思う。

 普天間基地の移設問題をアメリカの地から注視し続けていて思ったことを書くタイミングがやってきている。一体、鳩山民主党政権が掲げていた「県外移設」の公約とは何だったのだろうか? それはどこまで深く考えられて掲げられたものだったのだろうか? 5月23日、鳩山首相は沖縄県を訪れ、移設先を名護市辺野古とする政府方針を初めて公式に県側に伝えた。失望とか絶望という言葉を使うのさえうんざりだ。なぜ、このような事態を招致したのか。このことを僕らは考え抜かなければならない。

 アメリカの日本研究者のなかでも、長老格である国際政治学者チャルマーズ・ジョンソン氏(以下CJ氏と記す)に話を聞く機会があった。ちょうど、普天間問題で鳩山首相が沖縄を1回目に訪れた直後のことである。CJ氏は歯に衣着せずに鳩山首相のふがいなさをこき下ろしていた。首相を「意気地なしで卑劣」と評したあと、米政府は海兵隊を今すぐにでも米本土に戻すべきだと主張していた。CJ氏の口調があまりにも激越だったので、こちらも若干たじろいだが、CJ氏が怒りをあらわにした理由をその言葉を噛(か)みしめながら考えた。

 CJ氏は1980年代の日米経済摩擦の時代には日本異質論者として日本叩きの急先鋒だった人物である。かつてCIA顧問も務めたことがある。その人物が今やアメリカの世界規模での軍事基地展開に根源的な批判を繰り出すまでになった。冷戦は終わった、時代は変わったのだと。もう外国に軍事基地を維持しておく時代ではないのだと。CJ氏は普天間問題の歴史的な経緯(95年の少女暴行事件や沖縄国際大学へのヘリ墜落事故など)を熟知しているばかりか、戦後史のなかでの沖縄戦、日本復帰前の米軍統治時代の歴史を周知している。だからこそ、今回の鳩山首相の動きが「不正義」を正す歴史的転機に対する「裏切り」と映っているようだった。

 95年の米兵による少女暴行事件をきっかけに盛り上がった反基地感情には正当な根拠があった。それが「海兵隊よ、島から出て行け」ではなく、基地機能の一部縮小、そして普天間基地移設にずれこんでいく過程にこそ問題があったことを見据えている。CJ氏の認識では、海兵隊が沖縄に駐留している理由は、「抑止力」などというレベルではなく、単に陸軍、空軍、海軍、海兵隊といった軍内部のライバル意識がそうさせているだけなのだと断じていた。

 だが、CJ氏がもっともこだわっていた点は、沖縄県が圧倒的に被っている不利益を半世紀以上に放置し続けている日本の政治に向けられていた。それは端的な言い方をすれば、弱者に嫌なものを押しつけ続けて平気でいられるという生き方を日本が選んできたということである。このことを「不正義」でなくて何と呼べばいいのか。質問の最後の方で僕は「鳩山政権は辺野古移転案に戻るしかもう選択肢がないと思うか?」と聞いてみた。CJ氏の答は以下のようなものだった。

 《あまりにも長期間、自民党政府がアメリカの操り人形だったので、それが制度化(institutionalize)されてしまった結果、人々は今までどおりにするのが自然と思い込んでしまっているんだ。日本はアメリカの植民地じゃないし、沖縄もアメリカの植民地ではない。だからアメリカ人は嘉手納基地の中と同じようにその周辺を歩きまわってはならないのだ。だが現実はそうじゃない。
 言っておきたいんだが、アメリカではこの普天間については全く議論にもなっていないよ。人々が知らないということは、それを考えたこともないからだろう。大体のアメリカ人はフテンマなんて聞いたこともないし、何事かも、どう発音するのかも知らない。クリントン元大統領が昔そうだったようにね。私はひとりのアメリカ人として沖縄の人々に申し訳なく思っている。
 結局、アメリカの沖縄占領は世界中のどこよりも長く続いているんだ。そして1972年に復帰後、沖縄県民は日本国憲法が自分たちを守ってくれると期待していたのに、それは起こらなかった。彼らは日本国民であるのに憲法の同等な保護を受けていないことに純粋な悲しみを抱いている》

 鳩山首相の2回目の沖縄訪問の翌日、アメリカの独立系ニュース番組『デモクラシー・ナウ!』は、鳩山首相の普天間問題での「屈従」について特集を組んでいた。その番組があまりにも日本のテレビでは見当たらない視点を提供してくれていたので見入った。それは、ハワイ、グアム、沖縄という米軍の基地駐留地の住民たちが「太平洋地域の軍事化構想」という視点から討論する内容だった。

 ハワイにしてもグアムにしても、その地の住民、特にネイティブと呼ばれている人々は、基地の拡大を歓迎していないばかりか、基地を押し付けられることに「差別感」を抱いている。現に、グアム島の人々はアメリカ市民と同等の政治的な権利を有していない。彼らはオバマ大統領に投票などできない「二級市民」とされているのだ。この冷徹なる差別構造。

 僕は沖縄の海兵隊はグアムに移転すればいい、と一瞬でも考えていたことを恥じた。嫌なものは弱者に押しつけるという生き方を、僕らは考え直すべき時に来ているのに。

Profile

金平茂紀(かねひら・しげのり)

-----<経歴>-----

1953年北海道旭川市生まれ。1977年に在京の民間放送局に入社、以降、一貫して報道局で、報道記者、ディレクター、プロデューサーをつとめる。「ニュースコープ」副編集長歴任後、1991年から1994年まで在モスクワ特派員。ソ連の崩壊を取材。帰国後、同局で筑紫哲也氏がアンカーマンをつとめるニュース番組のデスクを8年間つとめる。2002年5月より在ワシントン特派員となり2005年6月帰国。報道局長を歴任後、2008年7月よりニューヨークへ。

BookMarks

-----<著書>-----

ブログが本になりました!
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『報道局長業務外日誌』
2009年6月、青林工藝舎


『米原万里を語る』
2009年5月、かもがわ出版、共著


『テレビニュースは終わらない』
2007年7月、集英社

人気のWeb日誌、出版!
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『ホワイトハウスから徒歩5分』
2007年6月、リトル・モア


慶應義塾大学出版会、部分執筆


『ジャーナリズムの条件4』
2005年5月、岩波書店、部分執筆


『従軍のポリティクス』
2004年7月、青弓社、部分執筆


『二十三時的』
2002年11月、スイッチパブリッシング

『電視的』
1997年12月、太田出版

『ロシアより愛をこめて』
1995年3月、筑摩書房

『世紀末モスクワを行く』
1994年12月、パルコ出版

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