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2010年5月21日

アフガン戦争での米兵死者が1000人を超えた

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↑ NYTimes 5/19付紙面より

 5月19日付のNYタイムズ紙は見開き2面を使って、対アフガニスタン戦争で2008年7月以降に戦死したアメリカ兵たちの顔写真を一挙に掲載した。その前日18日にカブールで起きた自爆攻撃で5人の米兵が死亡したことにより、戦死者数が1000人を超えたのだという。顔写真を眺めていると、これらの死者一人一人にかけがえのない物語があったのだろうという想像が広がる。ちょうどイギリスのドキュメンタリー映画『49 Up』を先日みたばかりだったので、そういう気持がなおさら増していたのかもしれない。NYタイムズ紙の記事は、戦死した兵士たちの個人史を丁寧に取材していた。そして戦死者の平均年齢が年々若くなってきており、2008年には28歳だったのが、今年は25歳まで下がっている事実を指摘していた。多くの若者たちは、軍役につくことで帰国後の生活が良くなることを夢見ていたのだという。いくぶんセンチメンタルな気持にもなるが、当たり前のことながら、この記事には、アメリカ兵の攻撃によって死亡した何倍ものアフガニスタン人のことは何ら言及されていない。アメリカの新聞なのだからそれのどこか悪いんだい?という人間もいるだろう。だが、冷徹な事実として、NYタイムズでさえ、米兵の死者が1000人を超えた時点で、一体の何人のアフガニスタンの人々が死亡したのかについては1行も触れられていないことがある。アフガンの死者のなかには民間人が多く含まれている。米軍の無人飛行機(drone)によってオートマチックに爆弾を投下され死亡した人々もいる。国連のアフガニスタン支援派遣団[UN Assistance Mission in Afghanistan (UNAMA)]の報告では2009年だけでも2412人の民間人が死亡したという。1年間だけの数字だ。おそらく、その2412人の一人一人にもかけがえのない物語があったはずだ。NYタイムズのような記事が一般的な「型」としてあり、それを読んでも何の違和感を感じないようになること自体が恐ろしい。オバマ政権は、戦争政策について、前のブッシュ政権の負の遺産を否応なく背負い込んでいることは理解できるのだが、それにしても、アフガン戦争への増派を声高に宣言したうえ、イラク戦争からの撤退もままならない現実は、オバマ政権誕生に希望をつないだ多くの「反戦」の声の支持者の離反を招くだろう。オバマという人物は、あまりにもリアリストで、プラグマチックに妥協しすぎる、という評価がこれ以上広がらないとは限らない。

 久しぶりによいお天気にめぐまれて、NY市内を散歩していた。先日、自動車爆弾騒ぎがあったばかりのタイムズ・スクエアにもたくさんの人々が繰り出して、日光浴をしている。ふと立ち止まってその小さな建物を見上げると、アメリカ軍の軍人募集ステーションとの表示があった。何げない日常のなかに戦争がある国が、この国だ。

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↑ タイムズスクエアにて(筆者撮影)

2010年5月17日

グアンタナモ・ダイアリー(余聞)

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 最初にお知らせ。グアンタナモ収容所と基地で取材したテープの一部をTBSのCS放送(TBSニュースバード)の『ニュースの視点』という番組で放送します。それも、今日(17日月曜日の午後3時からと午後9時から)いきなりの放送なので、お時間のある方はご覧になってください。タイトルはこの連載とおんなじ「グアンタナモ・ダイアリー」です。

 僕らがグアンタナモの取材からニューヨークに戻って来たら、タイムズスクエアの自動車爆弾未遂事件で街は大騒ぎになっていた。容疑者は、去年アメリカ国籍を取得したパキスタン出身のファイサル・シャザド被告(30)で、国内の世論は一気に「あなたの隣にもテロリスト」風のパニック状態になっていた。またメディアがそれを大いに煽っているようにも見受けられた。コネチカット州の小さな町にある被告の自宅前には大勢の報道陣が詰めかけて、テレビ局は中継をつないでいた。シャザド被告は、中堅マーケティング企業のアナリストをしていて、パキスタンからの帰化アメリカ人のなかでは、悪くないポジションにあったといってもいい。父親はパキスタン陸軍のエリート軍人である。彼はパキスタン系アメリカ人の女性と結婚して2人の小さな子どもがいた。その彼がなぜタイムズスクエアに自動車爆弾を放置するまでに至ったのか。16日付のニューヨークタイムズは、これぞ調査報道という詳細な関係者インタビューと現地取材で、シャザド被告のこころの遍歴を跡付けていた。それを読んでいて、シャザド被告が2003年に友人に送ったE-mailの内容が紹介されていた。それによれば、彼はグアンタナモ収容所の収容者たちが手錠をかけられ、しゃがむように強制されている写真を貼り付けて、「恥を知れ、ブッシュ!」と書き込んでいたことがわかっている。アメリカで生活するようになって、彼はイスラム教の国出身の自分のアイデンティティを深く考えるようになり、過激化(radicalization)していったのだが、まだ謎が多いと記事は結んでいた。オバマ政権で比較的筋を通すことではブッシュ時代の司法長官とは一線を画していたエリック・ホルダー長官までもが、タイムズスクエア事件のあと、テロ容疑者には「ミランダ・ライツ」(黙秘権や証言拒否の権利、弁護人選定の権利)の告知を制限してもいい、などと言い出す始末だ。

 グアンタナモ収容所という存在自体が、テロ行為や自爆攻撃を「再生産」しているのではないか、という自分たち自身を見つめる視点は、そこにはない。

2010年5月 8日

グアンタナモ・ダイアリー(8)

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↑ NBCのショワナ(左)と相棒のシエラ(右)

■5月7日 グアンタナモで4人の仲間が取材禁止を食らった

 相棒のSierraのもとに昨日午後、グアンタナモに残留しているNBCのショワナからメールが入った。Sierraは性格がよくて女性にもモテる。現地にいた時から、ショワナとは特に気があっていたようだった。ショワナはとても愛くるしい若い黒人女性だ。カメラマンと記者の仕事をたった一人で全部やっていた。すごい。そういうわけで、Sierraのもとには自然に情報が入ってくる。世の中はそういうものだ。そのメールが僕に転送されてきて中身を見て驚いた。僕らの面倒をみていたターニャ・ブラッドシャー少佐が何やらステートメントを読み上げているビデオ映像が添付されている。僕らがグアンタナモを離れた後も残留していた記者たちのうち、4人の記者に軍事法廷の取材禁止が言い渡されたのである。そのなかにはマイアミ・ヘラルドのキャロルも含まれていた。ほかの3人は、僕らと同じ机に座っていたCanWest Newspapersのスティーブン・エドワーズ記者(たぶん一番年配の記者)、トロント・スター紙のミッチェル・シェパード記者、トロントのグローブ・アンド・メール紙のポール・コーリング記者である。取材禁止の理由は、軍事法廷取材のルールを破ったからだという。その内容を読んで呆れた。4人の取材禁止記者たちは、軍事法廷で証言したカドル被告の訊問官たちのうち、陸軍の訊問官のひとりの名前を報じたのがルール違反だというのである。だが、実際は、この訊問官の氏名は、すでに公知の事実としてアメリカ、カナダなどのメディアでは再三報じられている元軍曹=Interrogator #1 なのだ。この元軍曹は2005年9月に、アフガニスタンのバグラム収容所での「虐待」行為で過去に5ヶ月間収監された経歴のある人物である。バグラム収容所で、アフガニスタン人のタクシー運転手が拘置中に死亡した事件に関連して、この元軍曹の名前が挙がっていたのである。有名なアレックス・ギブニー監督のドキュメンタリー「Taxi to the Dark Side」でもその事件が扱われている。NHKのBSでもこのドキュメンタリーは放送された。だから日本でもこの元軍曹の名前は公知となっている。僕はグアンタナモのメディア・センターで法廷生中継のモニターを通してその顔・証言ぶりをみていたが、いかにも荒っぽそうな訊問官タイプだった。やはり軍事法廷など、軍による軍のための裁きであって、カンガルー・コート(いかさま裁判)に過ぎないのだろうか。

 ガチガチの旧ソ連みたいなことが、やはりグアンタナモで起き続けているのである。収容所の存在自体が理不尽だから、自由な取材を許さない理不尽が不可避になってしまうのだ。隠しておかなければならないことがらこそがグアンタナモ収容所の本質なのである。

 ニューヨークに戻ってから、一緒にプレスツアーに加わっていた各国の記者たちがどんな記事を書いていたのかをちょっと読んでみたが、ドイツ人ジャーナリストのドロツィアのコラムはなかなか面白かった。彼女はちゃっかりグアンタナモ基地内で、ヘアーカットの店に入り、ジャマイカからの契約従業者に10ドルでカットをしてもらっていた。そこでいろいろなことを取材していた。グアンタナモ基地での仕事はジャマイカよりも、よほど条件がよくてお金が稼げる、兵士たちもここで勤務すれば、さまざまな特典が与えられる云々。

 仮にもう一回でもグアンタナモに行ける機会があれば、今度はもっと準備万端整えて行こうと心に誓う。その機会が収容所閉鎖のセレモニーであれば尚更よいのだが、それは僕がニューヨークに住んでいるうちには起こらないかもしれない。

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"Taxi to the Dark Side".

2010年5月 7日

グアンタナモ・ダイアリー(7)

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↑ テントの枕元に『1Q84』

■5月4日 さよなら、グアンタナモ

 このグアンタナモという場所は、おそらく長くいればいるほど、ストーリーが湧き出てくるような場所だ。朝早くの飛行機に乗るため、メディア・センターに午前6時に来いと言われていた。僕は夜中に目が覚めてしまい、テントの暗闇のなかで、静かに荷物のパッキングを済ませて、メディア・センターに向った。午前4時を少し過ぎていた。見上げると空に小さな月が出ている。メディア・センターにはもちろん記者は誰もいなかったが、当直の若い兵士が一人いて、キンドルで本を読んでいた。彼はかつて青森県の三沢基地にいたことがあり、2か月前に結婚したばかりだそうだ。いつもニコニコしていて、少し気の弱そうな顔立ちだ。この撮影禁止のメディア・センターともとうとうお別れだ。帰りの飛行機はサンシャイン・エアラインという民間会社だが、就航しているのは乗客席が20というプロペラ機。今日の便でグアンタナモを引きあげるのは、僕らを含めて4人。あと10人ほどが軍事法廷の取材でもうちょっととどまる予定だ。僕らの飛行機には、心やさしいドイツ人記者のドロツィアがいた。あとは、カドル被告のカナダ人弁護士もいた。ドロツィアは、何かとグアンタナモ滞在中に気を使ってくれて話しかけてくれたので本当にありがたかった。ドイツ人だが、完璧にフランス語を流暢に話し、英語とスペイン語も話す。こういう人物がドイツでは新聞記者として働き、グアンタナモまで取材に訪れてきているのだ。

 昨夜の夕食の席で、今回のプレスツアーの仕切り役をしていたターニャ・ブラッドシャー少佐が明かしてくれたのだが、彼女によれば、当初30人規模のプレスツアーを目論んでいたのに対し、申込みが67人だったのだそうだ。それで、僕とSierraは66番目と67番目だった、つまりドンケツだったのだが、次々にキャンセルが入り、当日までに36人まで減った。さらに当日、ドイツのシュピーゲルの記者がドタキャンで現れなかったので結局35人でツアーを決行することにしたのだとか。テントのなかで飲むために買い置きしていたビールがまだ余っていた。基地内の兵士たちのランチボックスを作っていた出稼ぎのフィリピン人コック2人にそのビールを差し入れした。原則、食券をもった兵士にしか提供しないランチを、何度かただで分けてもらったお礼のつもりだった。彼らはグアンタナモに出稼ぎに来てからもう8年になるのだという。オキナワにたくさん知り合いが出稼ぎに行っているのだ、と言っていた。彼らはたくましい。

 帰りのマイアミまでの便で一緒になったカドル被告のカナダ人弁護士は、他の弁護士たちと違って、どこか醒めている感じで、口数も少ない。本当に弁護する気があるのかどうか疑いたくなるような感じさえした。ただ法廷内ではカドル被告と時折言葉を交わしていた。ドロツィアは機内でも話しかけてきて、あなたはどんな小説が好きか、と聞いてきた。僕が機内で残り30ページの『1Q84』を読み続けていたからだろう。彼女はマリオ・バルガス・リョサの『El Elogio de la Madrastra』という小説が好きだと言っていた。それからスペインの作家Jorge Semprún Maura も大好きだ、と言っていた。ドロツィアと僕らはマイアミで降りて別れを告げた。彼女は原油流出事故の取材のために、これからルイジアナ州のニューオリンズに向かうという。カナダ人の弁護士の方は、マイアミで一泊してから直行便でカナダに戻るという。僕らはNYに戻る。一期一会。

 早朝、誰もいないグアンタナモのプレスセンターでテレビをみていたら(アメリカ軍基地用の放送が流れている)、タイムズ・スクエアの自動車爆弾事件の容疑者としてパキスタン生まれで去年アメリカ国籍を取得したばかりの30歳の男が逮捕されて大騒ぎになっているようだった。グアンタナモのテントでついさっきまで一緒だったパキスタン出身のイムラムの怒りに満ちた表情が思い出された。ニューヨークに戻って新聞をみていたら、こんなテロリストにMiranda Rights(黙秘権の行使や弁護士選定の権利)を告げる必要なんかない、という論調が生まれていた。それは「こんな危険な輩はグアンタナモにぶちこんでしまえ!」と言っているように思えた。

 僕は思う。グアンタナモ収容所のような存在が現にある限り、アメリカに対する憎悪は遠く離れた地でも再生産され、チカラでその憎悪を完全に押さえつけることはできないのではないか、と。

 マイアミからニューヨークへ向かう機内で『1Q84』は読み終えてしまい、僕らも、あのもうひとつのグアンタナモ基地内の日常から、こっち側の現実に戻ってきてしまった。青豆たちが『1Q84』から「1984」に戻ってきたように。

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↑ 収容者に支給されている下着とサンダル

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↑ キャンプ4の野外運動場

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↑ 基地の各所に「撮影禁止」の表示が

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↑ キャンプ4の収容者

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↑ 床に設置されている足かせ

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↑ キャンプ6の収容者(危険度が高いとされている)

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↑ いつもぴったり監視している軍の係官

2010年5月 4日

グアンタナモ・ダイアリー(6)

■5月3日 ラジオ・グアンタナモ

 グアンタナモに来て8日目だ。不思議なもので人間はだんだんと環境に適応する生き物だ。テントのなかで起床ラッパの音が聞こえる午前7時45分には、鬚そりとシャワーを別のテントまでぶらぶら歩いて行って済ませるようになっている。シャワーは温度が一定せず、ほとんど冷水の時もあれば、ぬるま湯の時もある。今朝は運良くぬるま湯だった。シャワー用のテントは男女別になっていて、あちこちに汚れた下着が捨てられていたり、使いかけの石鹸が置きっぱなしになっていて、人間が暮らしている痕跡が漂っている。

 今日からまた軍事法廷が再開された。カドル被告が出廷しているが、ニコニコと笑みを浮かべていて体調も良好そうだった。今日も、カドル被告の取り調べにあたった訊問官の証言が行われたが、何とその人物はボストンにいるので、ビデオ回線を使っての映像生中継証言なのだった。FBIの荒っぽそうな若い男性だ。悪名高いアフガニスタンのバグラム収容所でも医療補助にあたっていたとか証言していたが、ビデオ回線が途中途切れたりして何回か中断した。今回の軍事法廷では、次々に訊問官が顔をさらして証言したが、そのさまざまな個性のありようが面白かった。そうか、こういう人物たちが「テロリスト」容疑者たちの取り調べにあたっていたのか、と。カドル被告の場合、あわせて31人の老若男女が微妙なバランスで関わっている。なかでも2番目に証言した若い文化人類学をおさめたという女性が印象に残っている。今回の軍事法廷をずうっと傍聴し続けている米国自由人権協会(ACLU)のジェニファー・ターナーさんと立ち話をする機会があった。当時15歳だったカドル被告に、20代前半の美人女性訊問官の取り調べを担当させる「性的な」意味合いを考えるべきだ、拷問や虐待は「性的な」意味合いで過激化する、という趣旨のことを話していた。彼女自身が婚約中の若い女性である。

 午前中に、グアンタナモ基地内のラジオ放送局「Radio Guantanamo」を訪れるツアーがあった。軍事法廷をほっぱらかして、そちらに行くと、調整が全然できていなかったらしく、局内の撮影は一切ダメだという。何ということか。もうこういうことも慣れっこになってしまった。入口にTシャツ・ショップがあって、フィデロ・カストロの顔がイラストで描かれていて、Rocking in the backyard of Fidel! (フィデル・カストロの裏庭でロックしようぜ!)とか書かれていた。そのTシャツはすごく人気があって売れているんだそうだ。僕はパティ・スミスの「Radio Ethiopia」という曲のことを思い出していた。「Radio Guantanamo」じゃシャレにもならない。入口にいた迷彩柄の軍服を着た若い男はここでDJをやっていてギンギンのロックをかけまくっているのだそうだ。5つのローカル番組を制作していて、うち4つはデイリー(3時間番組)、1つがウィークリーだという。

 今日で実質的にグアンタナモ取材が終わるので、まとめの意味でインターネット中継で東京とつないでみた。思ったよりは順調につながった。ほっとして、最後の夕食をとりに行く。10人くらいの記者やカメラマンたちが一緒だったが、最後の最後までマイアミ・ヘラルドのキャロルという女性記者とは打ち解けられなかった。彼女はこのグアンタナモ取材に何度も訪れているベテランで、何かとプレスツアーを仕切っているボス的な存在だが、ちょっと感覚が合わないというか。

 テントのなかで「1Q84」が最後の60ページに差し掛かっていたところに、アフガン・パキスタン組の記者3人がテントに闖入してきた。彼らは床にシーツを敷いて夕食と少しばかりの酒を飲み始めた。一緒に飲もうと誘われシーツの上に座って話をして、彼らの本音の本音が聞けたような気がした。何が人権だ、軍事法廷なんて茶番だ、欧米のやつらに何がわかる? 話は延々と続いた。あしたは早朝に起床し、荷物をまとめなければならない。

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↑ ラジオ・グアンタナモ

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↑ Tシャツが売れる!

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↑ 左がジェニファー・ターナー弁護士

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↑ テントの闖入者

2010年5月 3日

グアンタナモ・ダイアリー(5)

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↑ 基地のまわりはコバルト・ブルーの美しい海

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↑ キャンプX-Rayの取材ツアー

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↑ 取材中にひょっこりイグアナが現れたのだ。

■5月2日(日) 楽園のなかの収容所、あるいは、軍務と慰安

 きのうは散々だった。一日の成果が暗転するような出来事が夕方に起きてしまった。一刻も早く忘れよう。忘れるしかない。持参した『1Q84』をテントのなかで読み進む。青豆や登場人物たちの状況がなぜか、この収容所の状況とダブってくる。

 今日も朝から快晴。軍事法廷は今日は開かれておらず、基地内もさすがに休日モードになっている。JTF(収容所問題のためのジョイント・タスク・フォース)の計画したプレスのための慰安=ビーチ・ツアーがあるのだという。本当はビーチになど行く心境ではないのだが、気分を変えなければあとの取材が持たないかもしれないと思い直して、出かけてみた。それは、それは美しいビーチだった。コバルト・ブルーの海が目の前に広がっていた。現在、アル・アラビアというイラクのテレビ局に勤めている女性記者Munaは、まぶしいビキニ姿を惜しげもなく曝していた。つもりにつもったストレスをこの海で洗い流そう。それで1時間ばかり力を抜いて泳いだ。軍からのエスコートにはDがついてきている。彼女は海岸の砂の中に混じっている美しいガラスやサンゴを集めるのが趣味だと言っている。長いあいだ海水で洗い清められ変形したビーズのようなガラス片はなかなか美しい。Dはそれらをたくさん見せてくれた。それにしても、軍事基地がどうしてこんな美しい場所になければならないのだろうか。きのうまで見続けてきた収容所や軍事法廷とは別世界だ。楽園のなかの収容所。このグアンタナモ基地の米兵の中にも、沖縄に駐留していた兵士が何人もいる。我々の担当の女性兵士にひとり、そのボーイフレンドにひとり、結構探せばいるようだ。鳩山政権が、沖縄の普天間基地問題で立ち往生しているという。辺野古案は消えたとばかり思っていたら、何のことはない、この政権の正体が見えてしまうような妥協案を持ち出してきているようだ。そんなことを、このグアンタナモから呟いてみても何の力にもならないだろうが、米軍基地の本質は、世界のどの地にあろうと同じものなのだ。その意味で、沖縄とグアンタナモはつながっている。軍事力というプレゼンスによって、その地域のなかでの絶対的な地位を確保すること。

 午後5時から、グアンタナモ収容所で最初に設営されたキャンプX-Rayのツアーがあった。野原に吹き曝しで有刺鉄線とフェンスと最低限度の建物らしきものがあった。2002年、ここにアフガン戦争が始まってから戦場でとっ捕まえた戦闘員たちを片っ端から放り込んだ。4か月だけ運営された後に閉鎖された。ここで相当のことが行われていたことが人権団体によって指摘されているが、今や荒野の廃墟になり果てている。

 夜になって、インターネットを使ったテレビ中継が可能かどうかのテストを行う。今や、携帯電話とPCさえあれば(そして、つながれば)世界のどこからでも中継が可能という時代にとっくに入っている。

 深夜、再び『1Q84』をテントの中で読み始める。もうちょっとでおしまい。

2010年5月 2日

グアンタナモ・ダイアリー(4)

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↑ 収容所内のニンテンドー(キャンプ4)

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↑ 収容者の遠影(キャンプ4)

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↑ 同上

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↑ フェンスに囲まれる収容所

■5月1日(土) 監視下でものごとを伝えるということ

 今日も日差しが強くなりそうだ。朝の7時半から軍事法廷が再開される。カドル被告は欠席。カドル被告の取り調べを行った尋問官の女性(きのうからの続き)に続き、中年のFBIの男。ロシア語と心理学を修めたという。警察大学を出たとか。午後には5人目のFBIの30歳台の男性だった。基本的には同じ質問の繰り返しだ。検察側は取り調べが適正に行われ、拷問や強要など一切なかったことを強調する。さらにいかにカドル被告が危険人物かを描き出そうとする。弁護側はどちらかというと押され気味のように見える。

 さて、きょうは火曜日に僕らを含む何人かが映像を全く撮影できない活字メディア用のツアーに入れられたことに抗議して再取材を申し入れていたことへの回答が来た。午前10時から僕らを含む5人の取材が許可されたという。それでさっそく、相棒のシエラとともにビデオカメラを手にして「キャンプ4」「キャンプ6」へと向かった。

 それにしても何でこんなにカメラ取材を制限するだろうか。そのこと自体が相当に変だ。セキュリティ保持の問題があるとしても、それ以上の強烈な「意志」が働いている。それはどう言えばいいか、「服従」を求める「意志」だ。メディアに関わる人間に対して「服従」を求める「意志」。収容所の限られたスペースで取材中にも兵士たちが常に監視している。不愉快である。このような監視状況下で何ができるか。どのように物事を伝えるか。そこで考えたのは、逆に監視を受けている状況そのものを何とか映像を見ている人に生々しい形で伝えられないか、ということだった。とにかく収容者の撮影については、きわめてナーバスになっており、顎が映っているだけでダメ。遠景からのショットでさえダメ。収容者の声はダメ。廊下を歩きながらリポートをし続けるのは距離感がわかるからダメ。運動場は監視塔が入りこんだものはダメ。とにかく収容者の近影はネックダウン(首から下の映像)だという。フェンスも長く続いている様子はダメ。フェンス越しにパンをしてはダメ。監視塔はダメ。セキュリティ・チェックを受ける箇所はダメ。収容者を監視している兵士の顔は絶対にダメ。ダメなものはダメ。だが、自分で映像を撮れただけでもゼロよりは百倍マシだと思う。要するに何をどう伝えるか、なのだ。撮影した映像は、夕方、別室でまた厳しいチェックを受けた。それでも何も映さないで評論するよりは数百倍マシだ。記者たちのあいだで色分けがはっきりしてきて、アメリカ系のメインストリームの記者たちと、「それ以外」の記者たちのあいだに微妙な溝のようなものが生まれてきているように感じる。自然に朝飯のテーブルもそのように分かれるし、夕食のテーブルもそのように色分けされる。それで僕らは当然、中東系を含む「それ以外」の記者たちの仲間入りをしている。

 昨夜、野外映画場に行ったブラジルの新聞記者ロベルトによると、きのうはイラク戦争を題材にした映画『Green Zone』が上映されて大受けだったそうだ。奇妙なことに、映画の始まる前に国歌が流れて観客全員が立ち上がって忠誠を誓うのだが、そのあとに、政府の戦争政策を批判的に扱う「良心的な」軍人が主人公のこの映画は、喝采を受けていたのだそうだ。ちなみに今夜の上映は『アリス・イン・ワンダーランド』。『クレイジー・ハート』とかもあって、みんな新作が続々だ。まさかグアンタナモで『ファーレンハイト911』(華氏911)はやらなかっただろう。どんなに観客が入ったとしても。

2010年5月 1日

グアンタナモ・ダイアリー(3)

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↑プレスツアーのメディアが寝泊まりしているテント

■4月30日(金)  快晴  文化人類学者と戦争

 昨夜は軍が設定したモンゴリアン・バーベキューでビールをたくさん飲みすぎたのと、ものすごくアグレッシブな1人の記者の言葉をシャワーのように浴びて、くたびれ切って、テントに戻ったら「青豆」のようなひとりぼっち感をもった。それで寝過ごしてしまい、テントのなかで午前8時にきっちりと流れてきたアメリカ国歌で目が覚めた。別のテントのシャワーを浴び、鬚を剃った。同行してきたSierra君は夜中の4時までテントに戻ってこなかった。彼もどこかで発散してきたのだろう。あとから聞いたらバーで知り合った兵士たちと一緒にビーチに繰り出して騒いでいただとか。兵士たちの本音が聞けたと言っていた。メディア・センターに行くと、午前中の法廷がすでに始まっていたが、カドル被告は出廷していなかった。おそらく健康状態のチェックを受けているのだろう。引き続きFBI尋問官に対する反対尋問。弁護側の追及はちょっと空回り気味だ。午後の法廷には、カドル被告を担当した軍の尋問官が登場した。まだ30代前半かと思われる若い女性だった。検察側の質問に淀みなく答えていた。拷問なんかしたことはないし、彼は非常に協力的でリラックスして、率直で、頭がよかったと証言していた。その女性はブロンドの混じった茶色の長い髪の白人女性で、文化人類学ANTHROPOLOGYと考古学ARCHEOLOGYを学んだあとに軍の尋問官になったのだと言っていた。冷たい感じの美人だと思った。こんな人物に尋問されていたのか、と思った。FBIの男性尋問官とはまた違った印象だ。だがどちらも諜報関係者特有の、どこかで妥協を許さないような冷たさが漂っている。ただ16歳(当時)というカダル被告の年齢を考慮して「頼りになる母親(Mother Figure)」のように振舞うように努めたと言っていた。おそらくその頃は彼女は20代だったはずだけれど。休憩後に今度は3人目の軍の尋問官が出廷した。その人物も女性だった。警察出身だという。40代の中ごろだろうか。カドル被告を取り調べていた当時、同じような年頃の息子がいたと言っていたので。この女性も検察側の質問に実にスマートに答えていた。強要とか不適切な尋問は一切なかった、と証言していた。女性が尋問官になるということの意味をいろいろ考えあぐねた。

 文化人類学が戦争に対してどのようなスタンスをとるのかは、学問の在り方をめぐる根本問題のひとつとしてアメリカの学会でも話題になっていることのひとつだ。というのは、イラクやアフガニスタンの戦争遂行にあたって、文化人類学者が戦場に随行して軍に協力しているという実態があるからだ。だが文化人類学をおさめたあんな美人の女性が「敵性戦闘員=テロリスト」の尋問にあたっていたとは。「学問の自由」もえらいことになってしまったものだ。

 きょうもまた、スペイン人の記者とワシントンポストの記者がアメリカに戻って行った。陽炎が立つテントまでの道を歩いていたら、トカゲが早足に走り抜けて行った。今日の夕方の段階で半分くらいのメディアが去って行ったか。

Profile

金平茂紀(かねひら・しげのり)

-----<経歴>-----

1953年北海道旭川市生まれ。1977年に在京の民間放送局に入社、以降、一貫して報道局で、報道記者、ディレクター、プロデューサーをつとめる。「ニュースコープ」副編集長歴任後、1991年から1994年まで在モスクワ特派員。ソ連の崩壊を取材。帰国後、同局で筑紫哲也氏がアンカーマンをつとめるニュース番組のデスクを8年間つとめる。2002年5月より在ワシントン特派員となり2005年6月帰国。報道局長を歴任後、2008年7月よりニューヨークへ。

BookMarks

-----<著書>-----

ブログが本になりました!
↓ ↓ ↓

『報道局長業務外日誌』
2009年6月、青林工藝舎


『米原万里を語る』
2009年5月、かもがわ出版、共著


『テレビニュースは終わらない』
2007年7月、集英社

人気のWeb日誌、出版!
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『ホワイトハウスから徒歩5分』
2007年6月、リトル・モア


慶應義塾大学出版会、部分執筆


『ジャーナリズムの条件4』
2005年5月、岩波書店、部分執筆


『従軍のポリティクス』
2004年7月、青弓社、部分執筆


『二十三時的』
2002年11月、スイッチパブリッシング

『電視的』
1997年12月、太田出版

『ロシアより愛をこめて』
1995年3月、筑摩書房

『世紀末モスクワを行く』
1994年12月、パルコ出版

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