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2010年4月30日

グアンタナモ・ダイアリー(2)

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↑ 弁護団の記者会見を取材中のプレスツアー参加者

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↑ アルジャジーラ英語放送のモニカ記者

■4月28日(水) ジョギング中に静止していた兵士

 朝から強い日射し。朝食をとるために軍のエスコートのDにレストランまで連れて行ってもらった。ここではプレスツアー参加者は所定の場所以外、すべてエスコートが必要で、単独行動は許されていない。軍のミニカーで目的地まで向かう途中、ジョギング中の男性が胸に手を当てて立ち止まっていた。具合でも悪くなったのかとDに聞くと、あれはちょうど朝8時にラジオから流れているアメリカ国歌に忠誠を誓ってるんだ、と説明してくれた。レストランは軍人やその家族らでとても賑わっていた。Dは軍に19年間も服務していて、今年リタイアする予定だという。フロリダに家族がいるそうだ。息子は頭がよくてケンブリッジ大学に行っているとか。グアンタナモ基地の後方支援は、マイアミにあるSouthComが任務にあたっていて、彼女はそこに所属しているのだという。そこはハイチ支援の中心にもなった基地だ。地震発生直後は、グアンタナモ基地には救援物資が大量に運び込まれたのだという。

 今日から軍事法廷のセッションが開かれることになっていて、法廷内傍聴希望者がバスに乗って軍事法廷のあるJoint Task Force本部まで連れて行かれた。ところが急に午前中のセッションが中止になって、またメディア・センターに逆戻り。何だかわけのわからない展開ばかりだ。ジム・ジャームッシュの映画「Stranger Than Paradise」みたいだ。それで午後に始まった軍事法廷に入った。全部で50人くらいが邸内にいた。筆記用具以外、持ち込み禁止というルールの下で、厳重なチェックをかいくぐって傍聴席に着いたら、オマール・カドル被告が入廷してきた。真っ白なジャンプ・スーツで、頬まで髭で覆われていた。何だか笑みを浮かべている。軍事法廷なので一般の法廷とはルールが異なっているが、その後、弁護側と検察側の激しい攻防があった。ここには書ききれない。だが弁護側の主張の核心は、カドルの有罪を認めた証言は、違法な拷問と虐待によって得られたもので信用できない、というものだ。ところが、休憩の後に証人として登場したFBIの尋問官は、検察側の質問に対して、拷問も何もやっておらず適正な取り調べを行ったとして、弁護側の主張を全否定した。そのやりとりは傍聴していてもなかなか面白いものだった。僕は軍事法廷というものをみたのはこれが初めてだ。セッションは今週ずっと続く。Dによれば、今夜、基地内の野外映画劇場でデカプリオ主演の「SHATTERED ISLAND」が上映されるそうだ。

■4月29日(木)  ビデオ映像のチカラ

 昨夜は取材上のストレスが昂じたのが幸いして(?)、持参してきた「1Q84」を200ページも読んでしまった。読み出したら止まらないので参った。何しろ、電話が固定電話しか使えないのが困る。インターネットも不安定で、当たり前のことが当たり前でなくなる。そこから来るストレスは相当なものだ。SKYPE中継を試みようとテストをしかけたが、それさえままならなかった。辛うじてラジオの生放送だけは何とかなったけれど。午前中のセッションは、カドル被告が出廷を拒んだ。一緒にツアーに参加していたロシアとチェコの記者が午後の軍用機でアメリカに戻って行ってしまった。午後から始まった法廷に、カドル被告は出廷したが、体調不良のようだ。法廷内ではカドル被告が2002年にアフガニスタンのカブールに住むアルカイダ関係者のもとを訪問した際に撮影された24分のビデオ(出来の悪いプロパガンダ映画とホームビデオが混ぜこぜになったような代物)が上映された。15歳の幼さの残るカダル被告がビデオに再三登場していた。本当にまだ粋がっている中学生みたいな感じだった。きのうと同様にFBIの尋問官の証言が続いたが、父親とビン・ラディンとの「親密な関係」や、アルカイダとの関係をこれでもかというばかりに証言し、いっぺんに検察側有利に風向きが変わった感じもする。一緒に来ているアメリカのメディア記者たちのひとりは、その粗悪ビデオをみながら憎悪と嘲りの言葉を投げつけていた。やはり、アメリカ人なんだなあ、と思う。法廷スケッチの女性画家が描いた絵をみて、記者たちが喝采をあげていた。確かによく描かれていた。このようにして、記事の風向きが何となく形づけられるのだろうか。ちなみに廷内のカドル被告は始終ビデオから目をそむけているように見えたが、そのスケッチから机の上に小型のテレビがあって否が応でも目に入るようになっていることを知った。                   
 ビデオ映像には、本来それ自体にチカラ(影響力)がある。2日前に見てきた収容所のなかの「適性戦闘員」たちが、カタールの衛星テレビのスポーツ・チャンネルを食い入るように見ていた(おそらくサッカー中継だろう)風景を思い出した。ひとはある条件下では、一方的に与えられる映像によって強く支配されるものだ。僕らテレビニュースを仕事としている者は、そのことを常に心のどこかに覚えておかねばならない。日本の裁判所でも、ニュース映像を法廷の証拠として勝手に使われることに対して、報道機関が原則、拒否を貫いてきたのもそのような理由があるからでもある。

 「グアンタナモは基地の外は美しいところだ。収容所の中の動物園とは対照的に」。この基地に7回目の取材に来ているというアルジャジーラ英語放送のモニカは僕にそう言った。

2010年4月28日

グアンタナモ・ダイアリー(その1)

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↑ アンドリュース空軍基地を出発するメディアの一行

■4月26日(月)

 念願が叶ってキューバのグアンタナモ基地に取材に来た。軍がチャーターした飛行機で、現地に着いたのは4月26日の正午を過ぎたころだった。予想していたよりも多い参加者だった。35人。アメリカのメディアに加えて、カナダ、ドイツ、スペインのほか、アルジャジーラやアル・アラビア、アフガニスタンで活動するVOAといった中東勢も参加している。アルジャジーラの2人組は若い女性でとても元気がいい。軍が設定したプレス・ツアーなので、もちろん限界はある。グアンタナモ基地はアメリカ海軍がスペイン戦争後の1903年から運営しているもので、すでに1世紀を超えた歴史がある。その中に2002年にできた悪名高い収容所(detention center)がある。一時は800人近い「テロリスト容疑者」が収容されていたが、その後、国外に移送されたりして、いま現在は183人が収容されている。収容者は、軍への「協力度」に従って分類されており、最も危険とみなされる収容者から比較的「軽い」とされる危険度の者までさまざまだ。これから10日間も、軍のテントのなかで生活し、いわば「収容」されることになるが、折にふれて書けることを、このサイトに報告しておくことにする。

 ひとつは、グアンタナモ基地の第一印象だが、正直、僕は沖縄を思い出してしまった。飛行機の機内からみた海の色は濃紺で、すぐさま沖縄の海を想起させた。何だって米軍基地はこんなにも美しい場所にあるのだろう。どこの米軍基地にもあるお決まりのチェックを受けた後、取材にともなうさまざまな注意を受けた。と言うよりも、どのようなことをしてはいけない、どのようなシーンを撮ってはいけない、という「警告」に近いものだった。プレスセンターは元格納庫かなにかの建物の一角に設営されていた。中は撮影禁止。難儀したが、電話とインターネットは何とかつながった。宿泊は兵士たちが使用しているテントだ。なかは温度調節が施されており、すごい風圧である。だが、短期間ならば生活できないこともない。軍は規律によって成り立っている。時間に遅れたり、規則を破るものは情け容赦なく排除される。

 今回の取材ツアーのハイライトは、オバマ政権下の初の軍事法廷であるカナダ国籍のオマール・カドルのケースについての聴聞が行われることになっている。彼は15歳の時にアフガニスタンの戦場で身柄を拘束されバグラム収容所で訊問を受けた後に、グアンタナモに移送された。それ以来人生の3分の1近くを未決のまま、この収容所で過ごしている。つまり、アメリカ史上、類をみない「15歳の戦争犯罪人」として軍事法廷で裁かれているのだ。人権団体は、カドルに対して拷問が行われて犯罪行為を認めさせられたとしている。そもそも、グアンタナモ収容所に身柄を拘束しておくことの国際法上の根拠が曖昧なのだが、オバマ政権はこのブッシュ政権の最大の負の遺産を引き継ぐことになった。グアンタナモ収容所の閉鎖は、オバマ大統領の就任後の最初の大統領命令で閉鎖されることが決まっているが、実際は約束の「1年以内」という期限を過ぎても同収容所は閉鎖されていない。

 興味があるのは、国によってこのグアンタナモ収容所についての意識にかなり差異があることだ。先に記したアルジャジーラやアルアラビアのクルーたちはとてもアグレッシブな取材姿勢を維持しているようにみえる。いろいろな国のメディアの人々と話をするといろいろなことを考えさせられる。

 時間があればと思って、荷物のなかに忍ばせてきた『1Q84』の第3巻を読む余裕はどうやらなさそうだ。

■4月27日(火)

 きのう(27日)は1日中、フラストレーションの固まりになった1日だった。収容所内のプレスツアーが設定されたのだが、バカバカしいことに、テレビ、写真、新聞と3つのカテゴリーにツアーが分けられているのだ。それで、最初のツアーが人数制限で10人が上限とされ、われわれは弾き出されてしまったのだ。この落とし前はきちんとつけなければならない。結局、僕らは最後の新聞記者と一緒のツアーに回されたあげく、撮影が禁じられ散々だった。何とかしなければならない。NBCの記者がとても親切で、力になってくれた。それで最悪の事態は免れた。まだ2日目なのに、この場所に長く留まりたくないという記者たちが出てきたり、中東系の記者とアメリカ人記者とのあいだで感情的な温度差があったりしてきた。

 キャンプ・デルタと呼ばれる収容施設の中に、軍に対する「協力度」によって分類された人々がいる。このうち「キャンプ4」は、比較的協力的とみなされた人々で、衛星テレビや英語やアート、パシュトゥーン語のクラス、野外スポーツなども許されていた。だが、いま現在もハンガー・ストライキで抗議をしている収容者もいるという。また「こころの病気」にかかっている者もいるという。衛星テレビはアルジャジーラの英語放送やカタールのスポーツ・チャンネルなど3局が放送されているそうだ。僕は見たとき、収容者はスポーツ・チャンネルをみていた。だが授業の行われている部屋をみると、やはり床には足枷が設置されていた。よりセキュリティのレベルの高い「キャンプ5」「キャンプ6」には、独房と共有空間があり、屋外の運動スペースも狭くなっていた。いずれも有刺鉄線で囲まれている。独房に入ってみると、ベッドに便器、洗面台があり、日本の感覚でいえば3畳くらいの広さがあった。「キャンプ6」で金網越しの収容者を監視しているアメリカ兵を外側から金網とガラス越しに見ている僕らがいる。奇妙な構造である。ここを訪れた多くのメディアの人間たちは「動物園」という言葉を思い出したに違いない。ツアーに参加したVOAの記者でさえひどく憤慨していた。ところが、アメリカ人の記者たちは、奇妙にものわかりがいいのである。この温度差。

 カドル被告の軍事法廷をめぐる弁護側の記者会見が行われた。彼らの主張は非常に説得力があった。「15歳の戦犯」を軍事法廷で裁くことはできない、と。

2010年4月16日

衰滅していく日本外交 ── 核安全保障サミット会場で考えたこと

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↑ 締めくくりの記者会見をするオバマ大統領

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↑ 鳩山首相のいないワシントン・ポスト1面

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↑ 巨大なインターナショナル・プレス・センター

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↑ オバマ記者会見に押し寄せた報道陣(写真はすべて筆者撮影)

 先ごろ亡くなった作家の井上ひさしさんの代表作のひとつに『父と暮らせば』がある。美しい、そして心をえぐられるような作品である。原爆投下で生き残ってしまった娘と、異次元にいるその父親との密度の濃い対話劇だ。自分たちの国の史実として、原爆投下、核兵器の実相を知っている者たちの責任とは何か。さまざまな問いを突きつけられる作品だ。英語やドイツ語、ロシア語にも翻訳され海外でも上演されている。この戯曲の悲しみと愛は、国境を越えて共有され得るし、また共有しなければならないものだと思う。

 オバマ大統領が提唱した核安全保障サミットが鳴り物入りで開かれた。米大統領がホストをつとめる国際会議としては、1945年の国連設立を決めた会議以来の最大規模の国際会議となった。47の国と地域からの指導者が一堂に会した。直前にポーランドやキルギスタン、タイなどの政変・惨事があったが、会議は予定通り開催された。オバマにとっては自らの外交キャリアでの勲章がまた一つ増えた形だ。僕は、2日目の会議からこの会場に入って、サミットの空気を知りたいと思った。ワシントンは冷たい雨の一日で、会場のコンベンションセンターの回りは厳戒態勢がとられ交通はマヒ状態だった。記者証を受けとるまでにかなり時間がかかり、冷たい雨の下で立っていたので風邪をひいてしまった。
 会議の成果だの何だのは既報なので、ここに今更記すのは無駄というものだ。ただ、どうしても記しておきたいと思ったのは、この核安全保障サミットにおいては、日本の姿が全くと言っていいほど見えなかったという現実だ。核兵器をテーマにした国際会議はこれまで数多く開催されてきたが、これほどまでに日本の姿がみえない会議は前代未聞ではないか。その理由のひとつは、核についての議論の焦点が、国家間の核軍拡から核物質テロへと移ってしまったことにある。「ヒロシマからアルカイダへ」。ジョン・ミューラー・オハイオ州立大学教授の著書のサブタイトルである。ヒロシマの原体験をもとに、これまで国際会議の場で一定の発言権を有していた日本は、この新たな方向付けに対して積極的に提言を行えなかったばかりか、脇にさえ追いやられた形となった。こんなことでは核問題の本質的な解決には至らないことを日本は一番熟知しているはずではなかったのか。日本は核兵器の問題について実際に肌身を以て経験しているがゆえに、イランや北朝鮮の核開発に対して強く非難すべき立場を有しており、さらにはアメリカを含む現在の核保有国に対しても究極的には核兵器の廃絶を求めてきたのではなかったのか。テロリストの手に核物質がわたったら大変だという問題に、核問題を「矮小化」すべきではないという原則ではなかったのか。歴代の日本の首相はこれまで何のために広島や長崎の平和祈念式典に参列していたのだろうか。
 鳩山首相は、と言うより、外務省その他のビュロクラッツは、鳩山首相とオバマ大統領とのバイラテラル会談の設定に失敗したばかりか、世界に対して日本の核兵器に対する原則的な考え方をアピールする機会を失し、さらには「残念賞」(ワシントンポスト紙)のように設定された夕食会での隣席同士の10分間会話で、「普天間基地の移設問題は5月末までに決着させますのでご協力を」などという、何とも空回りな発言を行った。そんなことをあの場で伝えて一体どんな成果と効果が得られると考えていたのだろうか。
 日本で各紙が引用して報じたワシントンポスト紙のコラムを読んでみた。「哀れなハトヤマは最大の負け犬」とあった。アメリカの政権内でも鳩山首相に対する信頼は急速に失われ、「哀れ」で「徐々に馬脚を現している」との評価が広まっているとコラムは記す。そして次のように畳みかけていた。「ユキオ、盟友だったはずだろう。アメリカの高価な核の傘のおかげで何十億ドルも節約してきたんじゃないか」。核の傘のおかげ? 核に関するサミットについてのコラムでこんなことを書くものか? 実にたちの悪いコラムである。そして、こんなものを相手に官房長官が一々何かを言うのもおかしなものだ。さらにそれを引用する日本の新聞は、引用する前に自分たちの目で首相の動静を評価すべきではないのか。まあ、ひとつだけ確実に言えることは、沖縄の基地問題のことなどまともに理解もできていないような政治ゴシップを書くコラムニストの書いた記事を気にするよリは、結局のところ、この問題を解決するのは独立国・日本の意志であり、その際には沖縄県民の民意が重要なのだということを再認識することだと思う。
 次回サミットは、2012年に韓国で開かれるそうだ。大体、次のサミットを日本で開催しようという発想がはたして日本側にあったのかどうか。また、韓国での開催決定を日本政府はいつの時点で知ったのか。何だか、はなはだ心もとない状態が続いている。
なぜ、こんなことになってしまったのか。官僚と政府閣僚とのあいだの相互不信もあるだろう。外交が何か非常に不健康な形で機能不全に陥っているようにみえる。確かに、普天間問題をめぐる鳩山首相および閣僚たちの発言の軽さとブレは目を覆いたくなる。だがその一方で、アメリカのジャパン・ハンドラーたちや、国内の日米関係での既得権をもつ人々からの揺さぶりもヒドい。キャンベル国務次官補だって、かなり混乱している印象を受ける。このままでは、11月のAPEC横浜会議でのヒロシマ訪問どころではなくなるかもしれない。

 さて、『父と暮らせば』の悲しみと愛は共有され得るものだと前に書いた。僕自身はまだその希望を失っていない。オバマ大統領がプラハで発言した高邁な理想を矮小化させてはならない。そのためには、人を説得し、引き込むだけの豊かな塑像力と構想力が必要だ。それが鳩山政権以前の諸政権にあったとは思えない。だからこそ、普天間の問題は放置されてきたのではなかったか。
 これから『父と暮らせば』を日本から取り寄せてみようかと思っているところだ。

2010年4月 5日

「Black Widow(黒衣の寡婦)」の絶望的な蜂起について

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↑ 4月2日付ニューヨークタイムズ(筆者撮影)

 思わず見入ってしまった。写真というものは実におそろしい。瞬間を永遠に固着する。

 モスクワの地下鉄で起きた連続自爆テロ事件(死者40人)の実行犯は、ロシア当局の発表、および非常に限られたロシアの信頼できるメディアによれば、一人は、夫をロシア特殊治安部隊によって殺害されたダゲスタン出身の17歳の寡婦、ザネット・アブドラクマノバで、もうひとりは、同じくダゲスタンのコンピュータ・サイエンスの28歳の女性教師、マリヤム・マゴメードバだという。まだ情報が混乱しているので注意が必要だ。夫や家族を若くして失い復讐を誓った彼女たちは「BlackWidow(黒衣の寡婦)」と呼ばれている。このうち17歳のアブドラクマノバが、生前に夫とともに写っている写真が、4月2日付のNYタイムズ1面に大きく掲載されていた。その顔をみると、まだ幼ない表情の残る少女の顔立ちである。髪はイスラム教の衣装に包まれているが、夫とともに手にしているのはピストルである。何だか大昔のボニー&クライドを彷彿させる。どのような状況下で撮られた写真なのかはわからない。だが、アブドラクマノバは柔和な表情で幸福そうにさえみえる。何が彼女をあのような行動に駆り立てたのか。なぜ17歳で寡婦なのか。彼女が死と引き換えに得ようとしたものは何だったのか。プーチン首相は事件後、「テロリストをせん滅することが治安当局の責務である」と語った。

 ロシア南部に位置するコーカサスの民族紛争はそれこそ長い、長い歴史をもつ。軽々には語れない。チェチェン、イングーシ、ダゲスタン、北オセチアなどをめぐる民族紛争は、過去おびただしい量の流血を招いてきた。宗教の違いという要因は流血を招くもっとも大きな背景だったのだろうが、アメリカがよく口にするイスラム過激派云々というのとはかなり事情が異なる気がする。むしろそれは「帝国」による異民族に対する軍事的占領・支配に対する「抵抗」というのに近いのではないか。僕がモスクワに特派員として駐在していた時代(1991年~1994年)でも、チェチェンはホット・スポットのひとつだった。当時、支局で働いていた信頼するロシア人スタッフの一人が、「リッツォ・カフカス・ナツィオナーリンノスチ(コーカサス人特有の顔)は、いけ好かないぜ!」などとウォトカで酔っ払いながらわめくのを聴いていた僕は、ロシアとコーカサスの血の歴史をまだ熟知していなかった。あの時はエリツィンがチェチェン政策の陣頭指揮をとっていた時代だ。その後のロシアのプーチン政権がチェチェンに対してとってきた政策はより一層強硬だ。一説によれば、プーチン政権下でのいわゆる第二次チェチェン紛争においては、20万人のチェチェン人、4人に一人のチェチェン人が殺されたと言われている。チェチェンの独立派指導者たちはほとんどがロシアの治安部隊によって殺害されている。

 自分たちの無知を棚上げにして、「卑劣なテロ」「無差別殺人」だの「許せないですね」を連発するのはジャーナリズムの役割ではないだろう、と自戒する。とりわけ歴史的に深い複雑な経緯を背景にもつチェチェン紛争についてはなおのことだ。あらかじめ誤解を避けるために記しておくと、僕は何も今回の犯行に賛同しよう、シンパシーを感じる点があるなどと言っているのではない。起きたことの本質は一体何事なのかを知りたいと思うのだ。だから自らの無知を棚上げにしたくない。9・11同時テロ事件の直後、アメリカの大方のメディアは、戦前の日本の大本営発表状況にも似た大政翼賛体制に自らをリセットした経緯があった。そうした状況下だったからこそ、クリスチャン・サイエンス・モニター紙が事件直後に「Why They Hate Us?」と記して、自身の姿を見つめなおそうとした記事は貴重だったし、スーザン・ソンタグが、旅客機乗っ取りの自爆攻撃と長距離巡航ミサイル攻撃はどちらが卑劣で臆病か?と問うた記事も非常に勇気のある問いかけだったのだと思う。ソ連崩壊時にあれほど大活躍したロシアのメディア、Moscow TimesやInterfaxも今回のモスクワ地下鉄テロ事件についての記事はどこか生彩を欠いているような気がする。ラジオ・スバボーダ(自由ラジオ)はその点でまだ検閲を掻い潜って元気な印象だ。最もひどいのはテレビで、信じがたいことに、国営テレビのチャンネル1などは、朝のラッシュ時に発生したモスクワ地下鉄テロ事件を、8時半ころに一報を入れたきり、昼過ぎまで全く詳報しなかったという。たとえて言えば、NHKが地下鉄サリン事件をお昼のニュースまで全然報じなかったみたいなものだろうか。完全に政府にコントロールされてしまっているのだ。

 そうしたなかで、わずかに救われた気がしたのは、NYタイムズのOp-Ed欄に3月31日付で掲載された「What Makes Chechen Women So Dangerous?(何がチェチェン女性をそれほど危険にしているのか?)」というコラム記事だった。シカゴ大学のRobert Pape教授らによるこの記事では、チェチェン人の自爆攻撃の40%が女性によるものであること、チェチェン共和国へのロシア軍の攻撃による市民の膨大な殺害という事実が非常に重い意味をもっていること、ロシア治安部隊およびプーチンの傀儡政権であるカディロフ大統領の治安機関による拷問・処刑が熾烈を極めていることなどが、「黒衣の寡婦」たちの決起の動機となっていることなどを記していた。

 「テロとのたたかい」というスローガンは、起きたことの本質を知るうえで時に大いに障害になることもある。ジャーナリズムに求められているのは、スローガンに乗っかることではなく、スローガンを疑ってかかる精神だったはずだ。

Profile

金平茂紀(かねひら・しげのり)

-----<経歴>-----

1953年北海道旭川市生まれ。1977年に在京の民間放送局に入社、以降、一貫して報道局で、報道記者、ディレクター、プロデューサーをつとめる。「ニュースコープ」副編集長歴任後、1991年から1994年まで在モスクワ特派員。ソ連の崩壊を取材。帰国後、同局で筑紫哲也氏がアンカーマンをつとめるニュース番組のデスクを8年間つとめる。2002年5月より在ワシントン特派員となり2005年6月帰国。報道局長を歴任後、2008年7月よりニューヨークへ。

BookMarks

-----<著書>-----

ブログが本になりました!
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『報道局長業務外日誌』
2009年6月、青林工藝舎


『米原万里を語る』
2009年5月、かもがわ出版、共著


『テレビニュースは終わらない』
2007年7月、集英社

人気のWeb日誌、出版!
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『ホワイトハウスから徒歩5分』
2007年6月、リトル・モア


慶應義塾大学出版会、部分執筆


『ジャーナリズムの条件4』
2005年5月、岩波書店、部分執筆


『従軍のポリティクス』
2004年7月、青弓社、部分執筆


『二十三時的』
2002年11月、スイッチパブリッシング

『電視的』
1997年12月、太田出版

『ロシアより愛をこめて』
1995年3月、筑摩書房

『世紀末モスクワを行く』
1994年12月、パルコ出版

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