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2009年8月29日

ケネディ去りて、ハトヤマ来たる

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エドワード・ケネディ(公式HPより)

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NYタイムズ紙の日本の選挙報道

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同じ(鳩山党首の顔写真が掲載されている)

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カナダ・モントリオールの新聞にも


 エドワード・ケネデイ上院議員の死去(8月25日)は、アメリカのメディアでは格別に大きな扱いで今も報じられ続けている。王室や天皇家のないアメリカ社会のなかで、ブルーブラッド(高貴な血筋)の家系のひとつとして、ケネディ家は屹立している感がある。だから栄光と悲劇に彩られたケネディ家の歴史は、アメリカという国の歴史のさまざまな起伏を代弁しているかのような捉えられ方をしてきたのだ。兄のJ・F・ケネディ大統領は暗殺され、同じくもうひとりの兄のロバート・ケネディ元司法長官も大統領選挙運動中に暗殺された。エドワード・ケネディ自身も大統領をめざしたが、彼の運命を変えたのは、1969年、自らの運転で自動車事故を起こして、現場を立ち去ったことから通報が遅れ、同乗していた女性秘書を死亡させたことだった。この事故で彼の政治生命は致命的な打撃をこうむったと言われている。その後、彼は政治的な活動を地道に続けて復権を遂げ、80年の大統領選では大統領選挙に挑んだが、ジミー・カーターと民主党の候補者指名を争って敗れた。民主党リベラルの重鎮であり、オバマ政権の誕生の立役者である。彼がいち早く、ヒラリーではなく、オバマ支持を公表したことで大きな流れができた。彼の死去が今後のオバマ政権の行方に何らかの影響を与えるのではないか。これから注視すべき点だ。ボストン市内の葬儀会場には多くの市民が弔問に訪れている。

 さて、エドワード・ケネディ死去を1面トップで伝えた26日のニューヨークタイムズ紙の同じ1面に、珍しくも日本に関する記事が掲載されていたのだ。1955年以来初めての本格的な政権交代が次の選挙で起こるだろうとほぼ断定的に予測する記事で、同紙のファクラー東京支局長が執筆している。つまり、鳩山由紀夫氏が日本のリーダーになる可能性を見越しての内容だった(Mr.Hatoyama, who is likely to become prime minister if his party wins, is seen as a consensus builder who will work to maintain party unity and avoid a strong personal imprint on its policies.)。ジェラルド・カーティス・コロンビア大学教授のコメントは「選択肢をもったことは、日本の政治風土に激越な変化をもたらすだろう。日本は偉大な潜在力をもつ国である。欠けているのは指導力と明るい未来図を描ける政治家だ」というものだった。

 カナダのモントリオールに休暇で来てみたら、同市の英字紙The Globe and Mail紙も8月28日付の紙面に「日本の政治に激震」(Japan's Political earthquake)の見出しで東京発の独自記事が掲載されていた。こちらの記事には、カーティス教授に加えて、山口二郎・北海道大学教授のコメントも引用されていた。「民主党自体が十分に国民の信を得ていると言うよりも、自民党以外の唯一の政権担当政党としての選択肢だから。その意味では民主党は試練にさらされる」と。

 アメリカやカナダの政治風土と日本のそれとでは比較のしようもないほど、日本の政治状況は前近代的だが、それにしても、変化に対する注目度はある程度はあるのだということが自然に読み取れる。問題は変化が本物なのかどうか、ということだ。外地から注目しよう。時代は刻々と変化している。ケネディが去り、ハトヤマが登場するように。願わくば、僕らメディアのありようも変わるべし。

2009年8月13日

2009年8月。異国から見えた日本の風景。

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 オバマ大統領が今年の4月にプラハで行った核廃絶演説に、本来ならば最も大きな反応が巻き起こっているはずの日本で、広島・長崎に原爆が投下された8月という月が、特別の意味合いをもっているだろうなどという甘い考えは、この際、放棄せざるを得ないのではないか。なぜならば、僕らの国のメディアは、酒井法子の逃亡・逮捕に「発情」し、押尾学の事件に「憤慨」し、だから芸能界の薬物汚染をもっときびしく取り締まらなければならないのだという「世論」を形成し、それに即応したかのようにネットを中心に反応が拡大し、さらにそれに負けじ、とテレビ・週刊誌・夕刊紙・新聞が再呼応している風景がはるか遠くにみえるからだ。見えてどうする。視聴率が跳ね上がり、夕刊紙・週刊誌が売れて、それで何が悪いのだ、と凄まれるのが関の山だ。

 オバマ演説に触発されて、NYタイムズ紙に寄稿した三宅一生氏のことは以前にこの欄でも触れたが、この8月、アメリカ人の書いたいくつかの原爆にかかわるエッセイを読んで、原爆を投下した側のこのアメリカの方にこそ、まだ希望があるのではないかとさえ思ってしまった。日本では「外務省首脳」が、「両国の首脳が互いに訪問し謝罪するようなことはいかがなものか。あまり期待感を高めない方がいい」などと述べて、広島・長崎へのオバマの訪問は困難との認識を示したのだそうだ(毎日新聞)。その「首脳」にとっては、被爆地への訪問などという厄介事を抱え込むのは、たまったもんじゃないという本音が透けて見えるような発言である。

 ダニエル・エルズバーグが「Japan Focus」 に寄稿した「Building a Better Bombs:Reflections on the Atomic Bomb, the Hydrogen Bombs, and Neutron Bomb」はこころを打つ文章である。彼が13歳の時に体験した原爆投下のニュースへの第一印象と、ほぼ同じ時期に被った家族の交通事故による彼自身の運命の転変(母親と妹を失った)、さらに後年になって、彼の父親がエンジニアとして核兵器の製造に関わっていたこと、水爆を作らないかという提案を拒否して職場を去った事実を父親本人から告白されたときの心の動揺が回想録風に記されていた。あのベトナム戦争をめぐるペンタゴン文書のすっぱ抜き(内部告発)には、原爆投下の日のあの原体験が深くかかわっていることを示唆している文章だ。(http://japanfocus.org/-Daniel-Ellsberg/3201

 この文章では核開発にかかわった科学者たちの苦悩についても触れられていて、オッペンハイマーらの脆弱さが批判的に記されていたが、Bulletin of the Atomic Scientists誌の創設者の一人であるユージン・ラビノヴィッチらが、原爆使用の非人道性について早期から発していた嘆願書が握りつぶされていた事実についても触れられていた。そのBulletin of the Atomic Scientists誌最新号には、広島の原爆投下に関わる記事が2本掲載されていて、実に考えさせられる。ローラ・カーンの記した「Hiroshima,(re)visited」は、広島の原爆記念資料館を初めて家族で訪れた際の訪問記である。とても素直でこころに沁みる内容だ。オバマの核廃絶演説の背後には、このような人々の「希望」があるのだろう。

 アメリカ政府は、核兵器政策ガイドラインの見直し作業を定期的に行っている。Nuclear Posture Reviewと呼ばれるこの作業は現在進行中であり、年内には公表される。オバマのプラハ演説を受けて、根源的な核政策の見直しをと意気込んでいたアメリカの人々を打ちのめしているのは、日本政府とアメリカ国防総省、国務省、国家安全保障会議等に巣食う「安保屋」(©寺島実郎)たちの「アメリカの極東核政策は極力変更なしで」行ってほしい、という主張なのだ。「唯一の被爆国」である日本の一部官僚たちの要請によって、オバマの核廃絶演説が後退させられる事態が来るとすれば、それは「皮肉であり悲劇的でさえある」(「憂慮する科学者同盟」のグレゴリー・カラキー)とアメリカのある科学者は語っている。もちろん、そのような人々にとってはオバマの被爆地訪問などは好ましからざることがらであろう。

 この8月に、日本では「戦後もっとも重要な選択」になるかもしれない総選挙を前に、この原爆投下にまつわる話がどれだけ深く論議されているのだろうか。遠い異国の地からはなかなか見えない。代わりに見えてくる風景は、この文章の冒頭に記したとおりである。

2009年8月10日

オバマ・ヘイターたちの蠢動

 どうしてもオバマを好きになれない人々がいる。むしろ憎んでいる人々と言った方がいい。宗教右派やfar right(極右)、さらにはブッシュ政権を強烈に支持していた共和党支持者のコアな部分。オバマ・ヘイター(Obama Hater)たちの動きがこのところ活発化している。それがとても気になる。オバマが今年の内政問題の最重要課題と位置付けている医療保険制度改革が座礁しかかっている。今月中の関連法案の議会通過は不可能になり、年内の進展も果たしてどこまで行けるのか。この医療保険制度ほど、アメリカ社会の病根を象徴的に示している分野はない。それほど製薬会社や医療関連機器、保険業界、医師団体らの利害が強固に絡み合っている分野だ。国民の4700万人が無保険というひどい状態も、この国では弱者の嘆き程度にしか考えられていない。「医療の商業化」が行き着いた果ての姿が今のアメリカにある。オバマのめざしてるのは、実質的な国民皆保険制度の創設だが、この動きを「社会主義化」などと攻撃するあれらの人々がいる。医療保険制度改革をめぐって全米各地で開催されているタウンホールミーティングが荒れに荒れている。理由は先に記したオバマ・ヘイターたちが組織動員をかけて、議事を混乱させる「直接行動」の戦術をとっているからだ。これらの草の根右翼が作成した「タウンホール・ミーティングを混乱に陥れるマニュアル」なるものがある。下に掲げてあるのが、流出したそのメモの一部だが、内容を読むと、あきれ果てる。

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 曰く、タウンホールミーティングの会場ではできるだけ一か所に集まらずに、なるべく前半分の席に広がって位置をしめろ。そうすれば議員はわれわれを多数派だと思う。議員が演説している早いあいだに野次を飛ばす機会をさぐれ。目標は議員から平静さを奪い取ることである。そして彼が平静さを失ったら、一斉に立ち上がって大声で抗議の言葉を叫ぶことだ。
 彼らは、Tea Party と称してオバマの経済・税金政策を批判してきた人々と重なっている。さらには、オバマが「アメリカ人ではない」と出生証明書をかざして攻撃してきた人々とも重なっている。著名な経済学者ポール・クルーグマンはこれらの人々をTown Hall Mobと呼んで危惧を表明していたが、彼らは実に活動的でかつ攻撃的である。それらの動きを扇動しているのがFOX NEWSをはじめとする右派メディアであり、オバマを「白人差別主義者」「社会主義者」と呼んではばからなかった。最近に至っては、何とオバマをナチスのヒトラーに擬して攻撃している。
 これらの動きのなかで突出した部分が、妊娠中絶問題で、中絶手術を合法的に施術していた医師を殺害したり、ホロコースト博物館を襲撃して守衛を殺害したりしている。とても危険な兆候がみられるのだ。
 「Racist!(差別主義者)」という言葉を、オバマ大統領やソニア・ソトマイオール(オバマによって指名され議会に承認された初のヒスパニック系最高裁女性判事)に向けて浴びせかけているあれらの人々。この状況は何やらジョージ・オーウェル的でもある。差別主義者たちが自分たちこそ差別されているなどとがなりたてているのだから。例えば、ボストンで起きたゲーツ・ハーバード大教授逮捕事件の背景には明らかに人種差別的な偏見があるにもかかわらず、それらの人々は白人警官こそが差別反対運動屋の被害者などと論駁しているのだから。ちなみに、オバマ大統領に対する脅迫・暗殺情報は1日平均60件に上っているという。

2009年8月 5日

クリントン電撃訪朝のインパクト

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↑ ニューヨーク・タイムズも1面トップの扱い(筆者撮影)
2ショット写真の拡大版はコチラ


 こういうことが実際に起きてみると、「実行力」という言葉のもつ意味が実感をともなって迫ってくるようだ。クリントン元大統領の北朝鮮への電撃訪問は、いま現在、この文章を書いている時点では、①クリントン元大統領とキム・ジョンイル総書記とのあいだで会談が行われたこと②拘束されている2人の女性記者に対して「特別恩赦」が実施されて身柄の解放が実現したこと③クリントン氏はピョンヤンをすでに離れたこと④クリントンの乗った機内に2人の女性記者が同乗していて、ロサンゼルスで家族との再会を果たすであろうこと。まずは困難な問題のひとつが終息に向かっていることだけは確実であろう。
 
 クリントン氏は、キム・ジョンイルがこれまでに会った人物のなかで最もハイランクにある人物であることは間違いない。第一次の朝鮮半島核危機の前にオルブライト国務長官をピョンヤンに派遣した際の米国大統領であり、キム・ジョンイル総書記が最も会いたがっていた人物とも言われている。2人の女性記者の問題解決には、これまでもこのテレビ記者たちの所属するカレントTVのオーナーであるアル・ゴア元副大統領やリチャードソン・ニューメキシコ州知事らの名前が交渉役として取りざたされていた。だがクリントン氏の登場で事態が一気に加速した。

 交渉が困難な厄介な相手とも、常にチャンネルを閉ざさない「オバマ流」が、ここに来て功を奏したと言えるだろう。個人のミッションのような形をとりながらも、この電撃訪問はオバマのホワイトハウス、およびヒラリーが長官を務める国務省との綿密な連携がなければ実現しなかった動きだ。北朝鮮側が発表した報道文によると、オバマ大統領の口頭メッセージが会談のなかで伝えられたとしているが、ホワイトハウスは、今回のミッションが個人的なものだと強調して、ギブス報道官などは、伝達されるべきメッセージの存在を否定するほど、神経質になっている。
 
 APやAFPが配信した写真で面白いのは、クリントンが全く笑っていない点だ。こわばった表情でさえある。それに比して、キム・ジョンイルの方は2ショット写真では笑っている。クリントンは表情を硬くしている。この会談の含むところをこの写真は暴露してしまっているのだ。 

 この電撃訪朝によって、米朝関係が劇的に改善するとは思えない。だが直接交渉のチャンネルが機能し、アメリカにとって思った通りの成果があったことだけは客観的な事実である。この間、中国や日本、韓国にどれほどの出番があったのかどうか。興味深いのは日本の外交当局に、どの時点でこの電撃訪朝のことが伝達されたのかという点だ。あるいは個人的なミッションということで全く何も伝えられていなかった可能性もある。そしてその可能性のほうが大きい。
 
 キム・ジョンイルの健康不安説は、拡大の一途だった。一時は死亡説まで流れて継承問題がにぎやかになったが、今回見る限り、激ヤセしているが公務につけないほどではないことがわかった。しかし、健康に問題があることは間違いないので、それまでに何かが起こるのだろう。
 
 オバマはクリントンであろうが誰であろうが、自分の力になってくれる人物をしっかりと登用する。今回の「得点」が国内政治のかじ取りにどれほどの影響はあるのかどうかは分からないが、少なくとも米メディアで報じられ方は「よかった話」と受け止められている。

2009年8月 3日

核兵器なき世界への想像力

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オバマ大統領が学生時代に学内誌に寄稿した記事

 あっという間に8月を迎えてしまった。おそらく日本のメディアは総選挙一色なのだろう。マイケル・ジャクソンの死去以降、このブログの更新が滞ってしまったが、その間、NYからみていてもアメリカでは実に多様な動きがあった。オバマ・ヘイターたちの蠢動(中絶医の暗殺、ホロコースト記念博物館襲撃、オバマの「出自」騒動など)や、人種問題の台頭(ゲーツ教授の逮捕騒動など)、医療制度改革をめぐるオバマの苦闘、ウィグル問題をめぐる中国へのアメリカ政府の腰の引け方、伝説的なアンカーマン、ウォルター・クロンカイトの死去、イランのTwitter Revolution、ホンデュラスの政変などなど、書き出したらキリがないほど、いろいろな動きがあった。じっくりと見ておこう。
  
 今は、日米関係の戦後史資料(米公文書館のものなど)を読んでいる。実に面白い。特に、アメリカ政府の核兵器政策に関する文書は、日本の姿をいろいろな意味であぶり出してくる迫力がある。そのようなささやかな自分の作業を加速したひとつのきっかけは、オバマ大統領のプラハ演説なのだが、以下は、ずいぶん前に「沖縄タイムス」紙での連載によせたものだ。同紙の了解のもとにこのブログにも転載することにした。

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(沖縄タイムス 09年7月23日紙面 金平茂紀の『ニューヨーク徒然草16』より)  

核兵器なき世界への希望と沖縄

 7月14日付のニューヨーク・タイムズ紙に、デザイナー・三宅一生さんが異例の寄稿をした。「A Flash of Memory(閃光の記憶)」と題されたその文章は、短い文章だったが、読む者のこころを突き動かす美しいちからに満ちていたように僕は思った。広島出身の三宅さんは、自らの7歳の時の広島での被爆体験に触れたうえで、オバマ大統領に対して8月6日に開かれる広島での平和祈念式典への参加を呼びかけた。寄稿した文章のなかで、三宅さんは、こう記している。

「目を閉じれば今も想像を絶する光景が浮かびます。炸裂した真っ赤な光、直後にわき上がった黒い雲、逃げまどう人々……。すべてを覚えています。母はそれから3年もたたないうちに被爆の影響で亡くなりました。」(三宅氏の寄稿原文より)

 これまで被爆体験について多くを語ることを避けてきた理由について、三宅さんは「原爆を経験したデザイナー」というレッテルを安易に張られたくなかったのだと告白していた。その三宅さんの気持ちに変化をもたらしたのは、今年の4月6日、公式訪問先のチェコのプラハでオバマ大統領が行った歴史的な核廃絶演説だった。

「(オバマ大統領が)核兵器のない世界をめざすと約束されたことは、私が心の奥深くに埋もれさせていたもの、今日に至るまで自ら語ろうとはしてこなかったものを、突き動かしました。」(同寄稿原文より)
 
 オバマ大統領のプラハ演説は、北朝鮮の核実験直後というタイミングに行われたため、日本の多くのメディアの見出しは、北朝鮮への非難に焦点があてられていたようだが、あのプラハ演説の射程は、実はもっとスケールの大きい地平にまで向けられていたのだとつくづくと実感する。核軍縮を超える、核廃絶(核兵器のない世界)を希求すると、アメリカの大統領が市民の前で宣言したのである。さらに、僕ら日本人にとって決定的に重要な点は、歴代のアメリカ大統領として初めて、「核兵器を実際に使用した」(広島・長崎への原爆投下をさす)国としての「道義的責任」について言及した点だった。被爆国・日本は、このようなプラハ演説の意義を受け止め損なってはならないと思う。ところが、あろうことか、日本国内では一部の政治家や学者からは、北朝鮮に対抗するためと称して「日本核武装論」が飛び出していたというのだから、「唯一の被爆国」の体験継承は、日本の政治家たちの狭い狭い世界では、今や風前の灯火と化しているのかもしれない。
 
 オバマ大統領の「核兵器なき世界」への希望の原型は、彼がニューヨークのコロンビア大学の学生だった当時(1983年)、学内誌に寄稿した論文にすでにその痕跡がしっかりと残されていた。「Breaking The War Mentality(戦争メンタリティの打破)」というタイトルのその文章は、レーガン政権下で、「悪の帝国」=ソ連の核封じ込めのため隆盛を極めていた「核抑止論」を真正面から批判し、核凍結論からさらに一歩進んで「核廃絶」のビジョンにまで言及していた。オバマは筋金入りなのである。学生として実際に社会運動に関与し、その後、現実の世界がいかに夢や希望を実現できない矛盾に満ちているのかを、シカゴの社会福祉活動の現場で体験してきたことが、バラク・オバマという人物の価値観形成の基盤にあるのだ。パパやおじいちゃまが政治家だった日本の二代目・三代目政治家たちの価値観形成の貧弱さとはわけが違うのだ。アメリカには希望がある。
 
 日本は戦争において実際に原爆を落とされた国であるがゆえに、核兵器に対しては特別の国民感情を保持してきた。あのような悲劇は繰り返されてはならないのだ、と。非核三原則という国是の根本にあるのは、国家としてのこの被爆体験であり、だから「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という三原則は、国民のなかでも広く支持されてきた。ただ、歴史を振り返れば、戦後ながらく、沖縄の米軍基地には核兵器が配備されていたという冷徹な現実がある。公式的には、1972年の沖縄本土復帰以前までは配備されていたが、返還直前に撤去されたということになっている。米政府とのあいだで沖縄返還交渉にあたった当時の佐藤栄作首相は、沖縄返還の際「核抜き・本土並み」という文言にこだわった。その佐藤は1974年に、非核三原則の提唱などが評価され、ノーベル平和賞を受賞した。だが、その後の多くの学者の研究成果や、報道機関の取材によって、そもそも、この非核三原則なるものが順守されていたのかどうかが疑わしいという疑念が浮かび上がってきているのである。僕自身もアメリカの公文書館に保管されている文書に目を通したが、今でも沖縄返還交渉関連文書の核兵器配備に関する部分は、真黒に墨塗りされているか、原文が抜き取られていたりする。共同通信の太田昌克記者が5月31日付けで配信した記事は、沖縄ばかりか日本全土への核持ち込みに関する日米間の「密約」(secret agreement)が存在し、歴代の事務次官、外相、首相の一部でその「密約」の引き継ぎが行われていたことを暴露した。日本政府は本気で核兵器なき世界の実現を望んでいたのか。
 
 オバマ大統領は核兵器なき世界の実現を希求すると公言した。気の遠くなるような膨大な作業が今後なされねばならないだろう。アメリカ政府が今後、「歴史的な事実」に関する情報開示の一環として、日本、そして沖縄に、アメリカ軍の核兵器が配備されていた事実を公表しだしたら、今現在に至るまで、「密約はない」と抗弁し続けている日本政府、外務省はいったいどのような態度を示すのだろうか。
 
 冒頭の三宅一生さんの寄稿の末尾にはこうあった。

「オバマ大統領が広島の平和大橋を渡る時、それは核の脅威のない世界への現実的でシンボリックな第一歩となるでしょう。そこから踏み出されるすべての歩みが世界平和への着実な一歩となっていくことを信じています。」(同寄稿原文より)

 三宅さんの思いは、おそらくオバマ大統領のこころには届くに違いない。だが、核兵器をなくそうという想像力さえ持ちえない、さらには「核兵器を持ちたい」「そもそも密約などない」と言い出す人々のこころに、三宅さんの思いが届くことはあるのだろうか。そのことをニューヨーク・タイムズの記事を読みながら悔しく思い起こした。(了)

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 米側の多くの公文書を読み進むうちに、日本本土への核兵器配備は、1950年代半ばには米国防総省内では既定の方針だったことがとてもよく理解できた。日本の非核政策は、今度の日本の総選挙では争点にさえなっているか、いないのか。NYにいて、まだ精査していないが、将来の日本の進むべき道を問う根本問題であることは間違いない。

Profile

金平茂紀(かねひら・しげのり)

-----<経歴>-----

1953年北海道旭川市生まれ。1977年に在京の民間放送局に入社、以降、一貫して報道局で、報道記者、ディレクター、プロデューサーをつとめる。「ニュースコープ」副編集長歴任後、1991年から1994年まで在モスクワ特派員。ソ連の崩壊を取材。帰国後、同局で筑紫哲也氏がアンカーマンをつとめるニュース番組のデスクを8年間つとめる。2002年5月より在ワシントン特派員となり2005年6月帰国。報道局長を歴任後、2008年7月よりニューヨークへ。

BookMarks

-----<著書>-----

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『報道局長業務外日誌』
2009年6月、青林工藝舎


『米原万里を語る』
2009年5月、かもがわ出版、共著


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2007年7月、集英社

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慶應義塾大学出版会、部分執筆


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2004年7月、青弓社、部分執筆


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2002年11月、スイッチパブリッシング

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