Calendar

2012年4月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

Recent Trackbacks

メイン

山下惣一 アーカイブ

2011年1月 3日

山下惣一:「自給率」より「地給率」──私がアジアの農村で得た教訓

国の食料自給率は、需要に対して国内生産で賄うことのできる割合のことで(自給率=国内生産量÷国内仕向量×100)で算出される。数多くの食材を品目別に表示するのは不都合なため価値を統一して計算する。一般に使用されているのが「カロリーベース」と「金額ベース」である。

40%と公表されているのはカロリーベースの自給率だ。ところがこれも必ずしも実態を示すとはいい難い面がある。日本の農業は穀物(主に飼料主体)を輸入して単価の高い果実や野菜類に特化しているため、サクランボ、イチゴ、ミニトマト等をいくら生産しても自給率には寄与しない。そのために日本農業の実力を過小評価しているとの批判から金額ベースの自給率も同時に示されることになった。これは(国内消費仕向額÷食料の国内生産額)で算出され平成20年度は65%となっている。

しかし、これも誤解を招きやすい。カロリーベースで40%なのに金額ベースでは65%というのはいかにも日本の消費者が不当に高いものを買わされている印象を与えるからだ。ひとくちに自給率といっても一筋縄ではいかない。が、ともかくカロリーベースでは昭和40年の73%から50年には54%へ、そして現在40%。国民の6割が外国の食料で生きていることになる。生産農家からいえばその分職場を失った勘定である。

十数年前、アイガモ交流のメンバーにくっついてベトナムへ行った。当時のベトナムの食料自給率は70%と公表されていた。ところが南のメコンデルタを除けばきわめて零細で1農家あたり20アール、30アールの規模なのだ。米の2期作でかろうじて食いつないでいる状態だった。それでも国民の7割が農民なら自給率は70%になる。

次に大野和興さんに誘われて北朝鮮へ行った。「ちょっと国に残ってください」といわれるのが怖くて写真もメモも一切とらなかった。少し馴れてきたころ偉い人との会見があったので思い切って「共和国の食料自給率はいかほどですか?」と質問してみた。相手は笑って答えなかったがそばにいた通訳兼工作員が「100%に決まっているじゃありませんか」という。「へぇーそうなんですか」と言ったら「そうですよ。外国からは一切入ってきていないんだからすべて国内産ですよ」「なるほど。100%では餓死者が出るんですね」「そうです」

食料自給率が高いことがかならずしも国民の豊かさや幸せを意味するものでないことは事実だ。

日本では国内農産物の値段が高く、その分消費者の家計負担が重く、食品加工業などの国際競争力の桎梏になっている等の経済界からの批判が強く、農政は「規模拡大」「コスト低減」「国際競争力の強化」の路線を推進してきた。周知のように日本は国土の7割近くが山で耕地は13%しかない。いかに無謀な政策であるかは小学生にもわかる道理だ。農業、農村の現状はその結果である。

たとえば1ヘクタールの水田を耕作する農家が100戸あったものを1戸で100ヘクタール耕作したところで自給率が高まるわけがない。99戸の農家が駆逐されるだけだ。

また、「規模拡大」「コスト低減」でもっとも成果をあげたのは採卵鶏をはじめとする畜産でこれらは農業から独立した「畜産業」となっている。飼料の自給率は24%である。自給率が高いのは酪農だが豚、ニワトリなどはほとんど輸入飼料に頼っており、豚肉の場合国内生産量は50%を維持しているが、国内飼料による生産はわずか5%だ。つまり、食料自給率を向上させようと国内産の豚肉や卵を食べるほど飼料の輸入が増えて逆に自給率が低下するという構造になっている。さらに集中化、大規模化が口蹄疫や鳥インフルエンザの被害を集中させ、対策としては外界との遮断、抗生物質等の多様が必須となり、生産する側も消費する側も文字通り「命がけ」である。

私は以前から「自給率」ではなく「地給率」を提唱してきた。それぞれの地域で足元の地給率を高める方向で農業は考え直すべきだと主張してきた。これはアジアの農村を訪ねる旅で得た教訓でもある。アジアの村々を訪ねての農民同士の交流の中で、彼等がどのような農業を営み地域社会を作れば生き延びられるのか、それを考えることは、とりも直さず日本の百姓の来し方、行く末を考えることでもあったのだ。
アジアの先頭に立って近代化を推進してきたこの国の農政はもはや破局であり、それがひとり農業だけの問題にとどまらないことは誰もが感じていることだろう。やがて市民皆農の時代がくる。

続きを読む "山下惣一:「自給率」より「地給率」──私がアジアの農村で得た教訓" »

2010年8月24日

山下惣一:「矛」と「盾」

 パレスチナの農村巡りをしながら「矛盾」の由来を思った。周知のようにこれは昔中国で矛と盾を売っていた者が「この矛はどんな盾でも貫く」といい他方で「この盾はどんな矛も防ぐ」と宣伝するので「では、その矛でその盾を突いたらどうなるのだ」と客に問われて答えられなかったという故事に由来する。

 ユダヤ人の受難は人類史上最大の悲劇だったといわれる。なにしろ2,000年間も祖国を持たず世界中に離散・放浪して迫害に耐えながら生き延びてきた。アウシュビッツの大虐殺などでヨーロッパ各地にいたユダヤ人1,000万人のうち600万人が殺されたとされ、アンネ・フランクの「アンネの日記」に涙した人も多かったはずだ。そのユダヤ民族が1948年にパレスチナの地に悲願の国家を建国したことがパレスチナの人々の新たな受難と悲劇の始まりとなる。

 ひところ私はイスラエルの「キブツ」に関心があった。そこは能力に応じて働き必要に応じて分配する集団で若者たちは親が築いてきた基盤に安住することなく、次々と独立して新しいキブツを作っていくと聞かされていた。おそらく砂漠に水を引いて次々と新しい共同農場を作っていくのだろうと想像していた。

 オリーブの産地であるから乾燥地帯であることは予想していたが今回初めて現地を訪問してみて驚いた。いわゆる「ヨルダン川西岸」のパレスチナ自治区では山に一本の木もなく「丘」と呼ばれる荒涼たる石灰岩の山の連なりだった。したがって水がない。パレスチナの人々は山の中腹から麓に集落を作り周辺の岩山を拓き、石の間にオリーブを植えて暮らしており、山の中腹から頂上にかけては放置されている。手つかずの荒野なのだ。

 その山頂にイスラエルの入植地が次々と作られていく。現代の技術ではどんな山頂にも送水できるからである。あっちの山、こっちの山頂に赤い屋根の新しい住宅が並び数日間の滞在で私たちですらイスラエルの入植地が見分けられるようになった。入植地と入植が新しい道路で結ばれ、検問所によってパレスチナ人は立ち入り禁止とされ、道路によって住居と耕地を分離された人たちが、道路の下にトンネルを掘って通勤耕作していた。あるいは「アパルトヘイト壁」と呼ばれる壁によって自治区が分断され囲い込まれる。

 つまり、イスラエルという国家の中にパレスチナという自治区があるわけで、パレスチナ地域の8割がイスラエルの支配下にある。「パレスチナはイスラエルの占領下にある」というのが毎日枕詞のように出てくる。

 パレスチナの人たちからみれば「キブツ」こそは侵略の尖兵、どんな「盾」も破ってくる「矛」みたいなものだ。国連も国際世論も「盾」になれない。まずは入植者を送り込み、その警固を口実に軍隊を送って領土を拡大していくというのは侵略者の古典的な手口である。

 一方、パレスチナの農民たちは「盾」となって命がけで村と自治区を守っている。

 「農民は国防兵士だ」農民がそういう呼び方をされるのを私は初めて聞いた。攻め込んでくるのも農業・農民、それと闘って守るのも同じ農業・農民なのだ。平和産業であるはずの農業が、そしてそれに従事する農民たちが「矛」と「盾」となって戦っている。この事実は私にとって新しい発見であり大きな衝撃でもあった。これが農業の本質なのだろうか。

 それでもパレスチナの農村には若者がたくさんおり子ども達があふれていた。「盾」はやがて「矛」になるのかもしれない。

続きを読む "山下惣一:「矛」と「盾」" »

2010年3月19日

山下惣一:アメリカの食糧戦略

 「食の戦後の始まりであり、そしてたぶん間違いの第一歩だった」
 前回掲載した「腰を抜かすほどの旨さ」の中で、山下惣一氏はチョコレートの甘さに魅了される若者として登場した。「食の戦後」は砂糖の甘さを渇望する若者の誕生から始まった。それに応える形で地域外、あるいは海外から食品が輸入され、次第に食生活が変化していった。
 今回の「アメリカの食糧戦略」で山下氏は、変化してゆく食生活の背景にある米国の存在にスポットを当てている。農家として戦前・戦後の日本を見てきた山下氏が「間違い」と表現するものは一体何だったのか。前回と同様に『身土不二の探究』から一部を抜粋し、《THE JOURNAL》で紹介する。

*   *   *   *   *

アメリカの食糧戦略

 その変化はあくまで私たちの内発的な要求によるものであり、政治的な意図や外国の力が働いているとは誰も考えなかったのではないか?少なくとも私は一度も疑ったことはなかった。
 だが、「いや、アメリカの食糧戦略によるものだったのだ」とするショッキングな説が登場するのは、それから20年以上もたった昭和50年代(1975〜84年)に入ってからである。

 昭和53年(1978)11月に放映されたNHK特集「食卓のかげの星条旗」は国民に大きな衝撃を与えた。
 「初めて聞く話だ。もっとくわしくこの知りたい」
 放映後、視聴者からの問い合わせが殺到し、翌年、『日本侵攻 アメリカ小麦戦略』(高嶋光雪・家の光協会)として出版された。
 著者の高嶋は、当時NHK農林水産番組班に所属しており、この番組制作のために1ヶ月間アメリカに滞在して丹念に取材している。
 ことの当否はともかくとして、当時の社会的背景と、全国に渦巻いていた時代の気分といったものをよく伝えているので、少しみてみたい。
 ポイントとなっているのは「MSA小麦」と「キッチンカー」である。
 MSAは「Mutual Security, Act」の頭文字をとったもので、「相互安全保障法」と訳されている。アメリカが友好的に軍事援助をするための法律だが、1953年(昭和28年)に余剰農産物を活用できるように改正された。簡単にいうと、アメリカの余剰農産物の支払い代金を相手国に自国通貨で積み立てさせて、その代金でアメリカの兵器を買わせる仕組みで、昭和29年(1954)3月に日米はこの協定(日米相互防衛援助協定)に調印した。
<この結果、日本は2250万ドル相当の小麦(35万トン)をはじめ綿花、米、葉タバコなど、1億ドル(当時の360億円)ものアメリカ農産物を受け入れることになった。このうち55億円相当が学校給食用の小麦、脱脂粉乳の現物贈与であった>

 食糧不足に苦しんでいた日本にとっては渡りに舟のありがたい話だったわけだ。
 そして昭和31年(1956)から栄養改善の指導事業が始まる。これに使用されたのがアメリカの資金援助で購入したキッチンカーで、当初8台、のちに12台が食生活改善、栄養指導のために全国をかけまわることになる。

 キッチンカーについては、『食と農の戦後史』(岸康彦著・日本経済新聞社)から引用する。
<キッチンカーによる栄養指導が終了した60年(昭和35年)末までの4年あまりに沖縄を除く(注・沖縄は復帰前)すべての都道府県をまわり、2万回を超える講演会をした。総走行距離は57万5000キロメートル、じつに地球を14周した勘定になる。
 日本食生活協会は現在22万人(注・1996年)にのぼる食生活改善推進員を会員として組織し、厚生省と連携しながら食生活改善に関わる広範な活動をしている。しかし、もともとはキッチンカー事業のために生まれたような組織だった。
 キッチンカー事業は56年(昭和31年)5月米国農務省の代行機関であるオレゴン州小麦栽培者連盟と協会が結んだ契約で始まった。米国が資金を提供し、協会はキッチンカーを使って食生活を指導するというのである。米国側がキッチンカー事業に口をはさむことはなかったがひとつだけ条件がついた。指導のために作る献立の中に最低1品は小麦を使ったものを入れることである。その当時栄養改善のために国をあげて粉食を奨励したから、この条件は協会にとっても歓迎できることだった。>

 「啐啄(そつたく)」という言葉がある。『広辞苑』によれば「啐」は鶏の卵がかえるとき殻の中で雛がつつく音、「啄」は母鶏が殻をかみ破ること、とある。貧しい食生活からの脱出と栄養改善をめざす「啐」と、余剰農産物のはけ口としてのマーケットを求める外側からの「啄」がみごとに呼応して、ヒナはかえったのだ。

『身土不二の探究』(創森社、1992)より。著者と創森社から特別に転載許可をいただきました)

*   *   *   *   *

shindohuji.jpg
『身土不二の探究』
1992年、創森社

続きを読む " 山下惣一:アメリカの食糧戦略" »

2010年3月18日

山下惣一:腰を抜かすほどの旨さ

 私たちの世代の日本人は、生涯のうちに何回か、「世の中こんなうまいものがあったのか!」という感動的な食との出合いを経験している。貧しいといわれた飢餓の時代から飽食と呼ばれる現在までを体験してきたからである。いや、かつての食生活が貧しいと実感してきたからこそ、積極的に変革をめざしてきた世代といってもいいだろう。

 私にとっての衝撃的な出合いはチョコレートとフルーツみつ豆である。あの時の感激はいまも忘れられない。
 チョコレートは小学五年生のときだった。学芸会でメーテルリンクの「青い鳥」を演じることになり、担任の教師が、小道具として銀紙にくるまったチョコレートを買い、終了後出演者に分けてくれたのである。たぶん進駐軍からヤミで流出したものだったのだろうが、その甘いこと。甘さに飢えていたからとくに強烈だったのだろうが、世の中にこんなうまいものがあったのか!けっして大袈裟ではなく、私は腰を抜かすほどに驚いた。私にはそれまで菓子やおやつを店で買って食べるという習慣がまったくなかったのである。
 この年から男女共学になり、学級では毎週、「今週の反省・来週の目標」を申し合わせていたが、
 1,買い食いをしない、
 2,道草をしない、
 3,家の手伝いをする、
がいつも上ってくる三大テーマで、農家の長男である私にとってはそれはごく普通の日常だった。
 フルーツみつ豆はもっと後で、たぶん昭和30年(1955)ごろだったと思う。家業の農業を継いだ私は4Hクラブの下っ端だった。4Hは戦後アメリカから輸入された農村青少年の組織で、頭(ヘッド)、手(ハンド)、心(ハート)、健康(ヘルス)の頭文字をとったものである。全国の農村で結成され、同じく戦後に生まれた農業改良普及所の指導で、農業、農村近代化の尖兵として活発に活動していた。当然、私も熱心なメンバーだった。

 ある夏、生活改良普及員の指導で女子部員たちがフルーツみつ豆を作り、その試食会に男子部員が招待されたのである。小学校の教室を借りてローソクの灯の下での試食会だったが、とろけるように優雅で幻想的ですらあるその甘美さに、目まいがしそうだった。もちろん生まれて初めて口にする料理だった。
 ─これからこういう時代になるのだ─
 私の胸は感動でいっぱいだった。
 ─いや、若い力でそうしていかなければならない─
 生活改良普及員の顔が菩薩のようにまぶしかった。
 思えばこれが私にとっての食の戦後の始まりであり、そしてたぶん間違いの第一歩だったのだ。

 というのも、それまでの食生活は、自分の家でとれたものを食う、とれるもの、あるものしか食えない暮らしだった。砂糖と塩を買う程度で、味噌も醤油も豆腐も油も酢すらも自家製だった。魚は漁師との物々交換中心で、たまに玄界灘でとれるクジラが食卓にのぼる。日常は麦飯で盆・正月に白飯を炊き、ニワトリをしめて食べるのはめったにありつけないごちそうだった。
 だから当然、春にタケノコが出てくるとタケノコが毎日、食卓に並ぶ。ナスがとれだすとナスばっかり、カボチャの季節はカボチャばっかり、うんざりするほど食わされて、これを私たちは「ばっかり食」と呼んでいた。
 ことのほか私が苦手だったのが「かんころだご」であった。甘藷(サツマイモ)を輪切りにして乾かしたものを「かんころ」といい、その粉で作ったのが「かんころ団子」である。黒い外皮の饅頭にあんこが入っているのだが、中のあんこがこれまたサツマイモを輪切りにしたもので、これが祖母の好物で得意メニューだったから、私にとっては悲惨だった。見ただけで胸やけがしてくる。しかし、それを食わなければ他に食べるものはない。

 食い物の恨みはおそろしい。私はいまもって、そして間違いなくこれからも命あるかぎり甘藷とカボチャだけはけっして口にすることはないだろう。

『身土不二の探究』(創森社、1992)より。著者と創森社から特別に転載許可をいただきました)

*   *   *   *   *

shindohuji.jpg
『身土不二の探究』
1992年、創森社

続きを読む "山下惣一:腰を抜かすほどの旨さ" »

2009年8月24日

山下惣一:「誤解」だらけの農業問題(2)

 「農業は過保護」というのは私たち農家が一番アタマにくる「誤解」ですね。くどくどと弁解はいたしません。私の質問にひとつだけ答えてください。「それほど大切に保護されている農業をやる人がいなくなるのはなぜですか。保護される側から保護されない側へ雪崩をうて移っていくのはなぜですか?」さ、答えてください。

 「農業の産出額はGDPの1%程度だから農業が無くなったとしても日本経済からみればたいした問題ではない」こう主張する経済学者がいます。つい数年前、FTA(自由貿易協定)EPA(経済連携協定)推進ムードのころに農業が足枷になっているとして盛んに喧伝された論です。いづれまたむし返されることでしょう。こういう主張をするアホな経済学者が世間に通用し、それを信じて農業を「誤解」する人が多いことが私には信じられませんね。ちなみに同比率の国際比較ではアメリカ・ドイツが0.9%、イギリスは0.8%です。

 まぁ、そんなわけで農業・農村の実態を知らないただの無知からくる誤解なのか、曲解なのか、それとも意図的な攻撃なのかはともかくとして、この国の農業は国民の誤解の大海の中で溺死させられているのです。

続きを読む "山下惣一:「誤解」だらけの農業問題(2)" »

2009年8月21日

山下惣一:「誤解」だらけの農業問題(1)

農業歴57年、私と女房が現役、息子はサラリーマンという立場でがんばる農家

「農業問題・食糧問題は農家の問題ではありません。これは消費者にとっての問題なのです。」私は40年、それこそ何とかのひとつ覚えのようにそう主張してきた。もちろん世の中からは相手にされず、取り合ってくれる人もごく少数。糠に釘。蟷螂の斧。
「いまにみていろ、やがて農業をやる人はいなくなる。日本人は農なき国の食なき民になるぞ」
 私はなおもいいつづけた。かのオオカミ少年のように。オオカミ青年からオジサンになり、いまやオオカミ老人となってしまった。そして本当にオオカミは現れた。現下の農業問題は、ま、そんな感じですね。

 農林水産統計によれば、かつて600万戸あった農家はこの半世紀で半減し、とりわけ「販売農家」(耕地が30アール以上か農産物販売額が年間50万円以上)はたったの180万戸。就業者およそ300万人弱でその半数が70歳以上なのだそうです。私にいわせれば、「それみたことか!」ですよ。

続きを読む "山下惣一:「誤解」だらけの農業問題(1)" »

Profile

日々起こる出来事に専門家や有識者がコメントを発信!新しいWebニュースの提案です。

BookMarks




『知らなきゃヤバイ!民主党─新経済戦略の光と影』
2009年11月、日刊工業新聞社

→ブック・こもんず←




当サイトに掲載されている写真・文章・画像の無断使用及び転載を禁じます。
Copyright (C) 2008 THE JOURNAL All Rights Reserved.