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シリーズ小沢一郎論(11) ── 小沢一郎の「自由」 »

平田伊都子:UN脱植民地化50周年アルジェ国際会議 ── 西サハラ民族自決権行使を目指して

  2010年12月13日午前8時30分、北アフリカ.アルジェリアの首都アルジェにあるシェラトン.ホテル。そのロビーへ突然、ドドドッと日本人約30名の集団がなだれ込んできた。その真ん中に前原誠司外務大臣の姿があった。「おはようございま〜す。日本人で〜す」と、筆者はおもわず大声をかけた。「ご苦労さん」と、大臣が答えた。

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↑ アルジェのシェラトン・ホテルで調印式にのぞむ前原誠司外務大臣とメデルシ・アルジェリア外務大臣

 ご一行さまは、そのまま特別室に向かう秘密階段を駆け上って行く。ナンでそんなに慌てているのかなと、首を傾げながら筆者も一緒に走った。走りながら前原外務大臣に封書を渡した。「何これ?」と前原大臣、「後で読んでください」と筆者。それは、「アフリカ最後の植民地.西サハラ紛争解決に向けて、日本で両当事者交渉の場を作る事を求める要望書」だった。要請者はSJJA(サハラ・ジャパン・ジャーナリスト・アソシエーション)である。

◆まずは西サハラ難民キャンプへ

 成田空港を出発して18時間後、アルジェリアの首都アルジェに12月10日午後7時に到着した。その日の夜11時にアルジェから約2000キロ離れた、アルジェリア最西端の軍事基地チンドゥーフに飛ぶ。さらにその軍事基地から約50キロ、西サハラ難民亡命政府が回してくれたトヨタ・ランドクルーザーに揺さぶられて暗闇のサハラ砂漠に入って行く。目的地の西サハラ難民キャンプに着いたのは、翌日の早朝5時だった。

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↑ 砂嵐で埋まってしまうのは車だけではない。厳しい砂漠気候にさらされて35年間耐えてきた西サハラ難民キャンプ

 仮眠を取る間もなく、7時には薄明るくなった西サハラ難民亡命政府の日干しレンガ小屋群を撮影する。8時に友人のハトリがゲスト用食堂に案内してくれる。壊れた長机と簡易椅子、メニューは砂混じりの硬いパンと援助物資のチーズ、相変わらず殺風景で貧しい朝食だ。 が、寒い冬の砂漠では暖かいミルクとコーヒーがなによりのご馳走になる。

 8時半には難民亡命政府が用意してくれたランドクルーザーで、4つある難民キャンプ群の内、一番ゲストハウスに近いスマラ難民キャンプに向かう。

  1998年には、このスマラ難民キャンプで「国連西サハラ住民投票」に向けての投票人認定作業が行われていた。投票箱も投票用紙も用意されプレスも難民もやっと「国連西サハラ住民投票」で西サハラ人自ら西サハラ独立かモロッコ帰属かを選べると、大いに盛り上がった。しかし、投票はなかった。なぜなら、西サハラを占領支配するモロッコが、国連の投票人認定基準ではモロッコに勝ち目がないと判断したからだ。かって1991年に国連が「西サハラ住民投票」を提案してモロッコ軍と西サハラ難民軍の両紛争当事者は停戦した。その後モロッコは投票に勝つためモロッコ占領地.西サハラにモロッコ人入植者を大量に送り込んだが、国連基準では彼ら入植者たちが投票人と認められなかったのだ。

 1990年代後半になって西サハラに石油、天然ガス、ウランなどの鉱物資源が確認され、ますます西サハラを手離せなくなったモロッコは2000年に入ると「国連西サハラ住民投票」を拒否し、「西サハラは先祖代々モロッコ王のもの」という主張をし続けている。

◆西サハラ難民亡命政府大統領

 12月11日正午に、西サハラ難民亡命政府大統領アブド・ル・アジズから会いたいとの連絡を受けた。撮影を中断して大統領舎に車を走らせる。

 応接室には、アメリカの西サハラ支援団体が詰めかけていた。オバマ政権になってから、アメリカ人が西サハラ難民キャンプに頻繁に出入りしている。

 以下、大統領とのインタヴューをQ(筆者)とA(大統領)の形で展開していく。

Q:大統領も12月13日と14日の「国連脱植民地化50周年会議」に出席されますか?

A:勿論、チンドゥーフとアルジェ間のフライトを予約したところだ。

Q:会議のテーマはなんですか?

A:勿論、アフリカ最後の植民地.西サハラだ。アフリカ最後の植民地が開放されるためには「国連西サハラ住民投票」以外にないということを再認識する会議だ。

Q:何故、西サハラ住民投票が速やかに行われないのですか?

A:勿論、モロッコが投票を拒否しているからだ。

 「勿論」と言う言葉は大統領の口癖だ。国連が提案し、占領国モロッコが呑み、国際社会が認めている「国連西サハラ住民投票」は当たり前の話であり早急に実施されるべきものだという思いと焦りが、この「勿論」という言葉に籠められている。

Q:日本にとって西サハラは地球の反対側にある遠い所なんですよ、、

A:勿論、承知している。しかし、西サハラには石油、天然ガス、ウランといった鉱物資源が眠っているんだ。それに日本人が大好きな魚が多数、悠悠と泳いでいる。現時点では国連が西サハラを未確定地域に指定していて漁業も採掘も禁じられているが、西サハラが独立したら、真っ先に、日本に声をかけるよ。

Q:「国連西サハラ住民投票」の可能性はあるのですか?

A:勿論、11月8日にモロッコ占領地.西サハラで、西サハラ被占領民による2万人の抗議キャンプをモロッコ治安部隊が大弾圧し活動家たちを虐殺したのを知っているだろう?あの事件以降、国際社会がモロッコ占領地.西サハラにおけるモロッコ占領当局の残虐で非人道的な行為を非難するようになった。そして西サハラ問題を解決するには「国連西サハラ住民投票」以外にないということを認識し始めたんだ。

◆西サハラ難民、35年間のテント生活

 大統領と「国連脱植民地化50周年会議」での再会を約して、12月初旬に放映を開始した西サハラ難民衛星テレビ局を訪ねる。「これからは西サハラ難民キャンプやモロッコ西サハラ占領地で何が起こっているのかを、世界中の人々に発信できる」と、ムルード・キャスターは目を輝かせる。「日本でも見れる?」という筆者の問いに、「今は無理だけど将来はOKだ」とキャスター。スタッフ一同の笑い声に送られてスタジオを出た。

 午後4時、冬の砂漠ではもう陽が傾き始めた。急いでスマラ・キャンプの小学校に駆け込む。二部制になっている小学校では、午後の部で国語のアラビア語を勉強していた。数学、理科、地理、歴史などのほかにスペイン語やフランス語や英語も学んでいる。

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↑ イスラム世界では珍しい男女共学の西サハラ難民キャンプ小学校

 中学校でフランス語と英語を教えている友人のムハンマド(27)の一家は父母と兄弟姉妹合わせて9人家族だ。西サハラ人の習慣で甘茶を立ててくれながら、ムハンマドは前より明るい表情で能弁に語り出した。「やっと独立の希望が見えてきた気がする。砂漠気候は厳しいし、食料は不足しているし、キャンプ内での仕事は殆ど無料奉仕に近い。しかし、独立という目標があれば耐えることができる」

 モハンマドはキャンプで生まれキャンプで育った。故郷西サハラをまったく知らない。

 モハンマドの両親は35年前にモロッコ軍の銃で故郷西サハラを追われ、以来、他の西サハラ難民と同様にこの難民キャンプで暮らしている。

 日没の祈りを告げる声が礼拝所から流れてくると、難民たちは夫々の場所で祈り始める。祈りが終わると友人や親類のテントを訪ね、甘茶をたてながら祖国や将来の話しに花を咲かせる。「今度くるのは国連投票の時だね」と、筆者は約束してキャンプを後にした。

◆国連脱植民地化50周年アルジェ国際会議

 2010年12月13日午前11時、「国連脱植民地化50周年アルジェ国際会議」は1時間遅れで始まった。

 ひな壇には今会議の議長オバサンジョ元ナイジェリア大統領、ゼリホウン国連事務総長代理、ムーサー・アラブ連盟事務局長、ジャン・ピン・アフリカ連合議長、メッサール・マグレブ・アフリカ・アルジェリア担当大臣などが並ぶ。それに対じした半円形の来賓席には、ムベキ元南アフリカ大統領、カウンダ元ジンバブエ大統領、ベンベラ初代アルジェリア大統領などアフリカ諸国独立の志士たちが坐る。そして、その真ん中に西サハラ難民亡命政府大統領アブド・ル・アジズがいた。

 しかし、その日の朝に会議への参加をお願いした前原誠司外務大臣の姿はなかった。が、前原外務大臣は午後にブーテフリカ・アルジェリア大統領と3時間にわたって会食したという。ブーテフリカ現大統領は1975年に西サハラ難民の面倒をみた外務大臣だった。アフリカ最後の植民地解放に向けての大統領の熱意が前原外務大臣にも伝わったと思う。

 この日の午後には、ワークショップNO1で国連決議1514「植民地独立付与宣言」の意義と適用が検討され、ワークショップNO2で「国連脱植民地化運動」を巡るプレスの役割が討議された。ワークショップNO2で、アルジェリア政府は招待したプレス関係者に発言を強制した。筆者も飛行機代や宿泊費を支払ってもらった手前、スライドショーを見せながら日本での西サハラ問題を巡る動きを報告する。そして、「日本ではほとんどの人が知らないアフリカ最後の植民地.西サハラ解放運動のことを伝え続ける。そのためにはどんな手段が一番有効なのかを模索していく」と、結んだ。

◆アルジェ宣言そして国連西サハラ住民投票

 1960年12月14日、国連総会は植民地独立付与宣言を採択した。その要旨を次に記す。

「非自治地域、またいまだに独立を達成していないすべての地域において、これらの住民が自由に表明する意思と希望に従い、人種、信条あるいは皮膚の色による差別なく完全な独立と自由を享受できるようにするため、一切の条件あるいは留保なしに、すべての権限を彼らに委譲するための手段が直ちに講じられねばならない」

 50年後のアルジェ宣言では、植民地独立付与宣言に基づく脱植民地化を鼓舞している。

 「被植民地の住民が独立を目指す、脱植民地運動を支援していこう。1514国連決議の枠内で、民族自決権の行使を求める被占領民に連帯の意を表そう。プレスや映像制作者たちは植民地支配下にある人々の姿をありのままに伝えていこう、、」と、謳っている。

 この会議を受けてロス国連西サハラ担当事務総長特使は、12月17、18,19日とニューヨークのマンハセットで西サハラとモロッコ両当事者にアルジェリアとモーリタニアを加えた非公式会談を催した。が、「国連西サハラ住民投票」早期実現を迫る西サハラと、西サハラの領有権を主張するモロッコとの溝はまったく埋まらなかった。

「アメリカは西サハラ紛争に注視し続け、1514決議に基づく国連の仲介で、西サハラ民族が民族自決権を行使することを支持する」と、クローニー米外務次官が表明した。

 モロッコと友好関係にある日本は今こそモロッコに働きかけて国際社会の土俵に帰ってくるよう説得すべきだ。そしてアフリカ最後の植民地を開放し、アフリカ諸国の信頼を勝ち取り、国連安保理常任理事国入りのアフリカ53支持票を得て、さらなる国際貢献への足がかりにして欲しい。前原誠司外務大臣殿、よろしくお願いします。

写真構成:川名生十

(この記事は「日刊ベリタ」から許可を得て転載しました)

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