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神保哲生:検証・民主党政権で日本はどう変わるのか!<第6回>霞が関の権益を引き剥がせるか? 政権の試金石「学校理事会」という爆弾

 民主党が政権を獲得した場合、それが実効性のある政権になるかどうかを占う上で、重要な試金石になると思われる政策がある。それは民主党が教育改革の一環として導入を主張している「学校理事会」という制度だ。

 民主党のマニフェストには「公立小中学校は、保護者、地域住民、学校関係者、教育専門家等が参画する『学校理事会』が運営することにより、保護者と学校と地域の信頼関係を深める。」としか書かれていないので、これがそれほど重大な政策のようには思われていなくても不思議はない。しかし、どうしてどうして、この学校理事会こそ、民主党政権のテーマが満載された象徴的な政策と言っても過言ではない。

 なぜならば、民主党の考える学校理事会制度とは、中央官庁の権益を丸ごと引き剥がし(既得権益の剥奪と霞が関の改革)、それを地方に移譲し(地方分権)、地域が独自の判断で学校を運営できるようにする(フェアネス)と同時に、地域の住民を巻き込んで(市民参加)、学校という公的な機関を運営していこうというものだからだ。
 
 本連載の過去分をお読みいただければわかるように、既得権益の剥奪と霞が関の改革、地方分権、フェアネス、そして市民参加が、いずれも民主党の政策理念の要諦となっている。
 
 しかし、逆の見方をすれば、もし既得権益を持つ勢力の抵抗に遭って学校理事会の政策を実現できないとなると、民主党政権はおそらく他の分野でも立ち行かなくなっている可能性が高いことになる。いや、そもそもこれを実現できないとなると、民主党の政策理念自体が疑わしいものになってくる。一見地味ながら、それほどこの「学校理事会」は民主党政権にとってメルクマール的な意味を持つ政策と見られるのだ。


■画期的な学校理事会の中身
 この学校理事会という制度は、中身を見れば見るほど大変な制度だ。それがマニフェストから伝わってこないのが残念だが、もしかすると民主党の政策担当者たちは、前回紹介した「メディア政策」と同じように、抵抗勢力を刺激することを避けるために、あえてマニフェストにはそこまで書き込まなかったのかもしれない。
 
 学校理事会とは、単にこれまでのPTAに毛が生えたような組織をつくろうという話ではない。民主党の政策集や過去に提出してきた法案の中身、文教政策担当者の発言などを総合すると、現在の日本の教育を牛耳ってきた文部科学省や教育委員会の権益を丸ごと引き剥がし、それを地方に移譲した上で、市民が参加する「学校理事会」に学校運営に関わるすべての権限を持たせるというものなのだ。
 
 学校理事会という組織自体は、学校関係者(校長、教頭、教員など)に加え、生徒の保護者、地域住民、教育関係者などからなり、学校ごとか、もしくは地域ごと(当初民主党が意図していた「地域」は人口30万人程度の基礎的自治体だったが、その後、地方分権政策は道州制に路線変更したため現時点では「地域」がどの程度の規模になるか不明)に設立されるという。
 
 これだけだと、現行のPTAにちょっとスパイスを利かせた程度のものにしか見えない。しかし、そこに移譲される権限が、じつは大変な意味を持つ。学校理事会の設置に伴い、教科書検定や学習指導要領は事実上廃止され、さらには教員の採用から教科書の選定、カリキュラムの決定まで、事実上学校運営に関わるすべての権限を学校理事会が持つことになるというのだ。
 
 もともと民主党は高校無償化や大学向け奨学金の拡充などを提唱し、教育機会の均等の実現にはことさら力を入れている。また、地方分権は民主党が一貫して主張してきた政策でもあるし、民主党が目指す霞が関解体における切り札的政策でもある。霞が関の権益という意味では、戦前の旧内務省から分かれた文科省は、その最も奥座敷にある存在と言っても過言ではない。
 
 現在、カリキュラムを含む公立小中学校の運営に関する決定は、都道府県および市町村の教育委員会が行っている。だが実際は、学習指導要領などを通じて、中央政府である文部科学省の意向が全国隅々まで行き渡っていると言われる。
 
 また、全国の小中学校で使う教科書の検定も文科省のもとで行われるため、北海道から沖縄まで日本のすべての小中学校は、東京にある文科省が認めた教科書を使わなければならない。沖縄では2月、北海道では5月に咲く桜が、日本中の教科書で一律に4月に咲く花となっているのは、すべての教科書が東京を基準に決められているからだ。
 
 学校理事会制度が導入されれば、現在、文科省が持つ小中学校に対する権限は事実上すべて学校理事会に取って代わられることになる。そのなかには、学習指導要領で子細にわたりカリキュラムを縛る権限も、教育委員会や教科書検定委員会を通じて行われている教員の採用や学校施設の管理、そして教科書を選定する権限も含まれる。
 
 つまり、この制度が民主党の意図するとおりに機能すれば、全国の公立の小中学校は、中央からの一律のコントロールから解放され、地域の伝統や歴史、風土や特色に合った独自の教科書を選び、独自のカリキュラム、つまり科目の選定と授業内容や授業の時間割を組めるようになる。教育委員会が行っている教員の採用も学校理事会に移譲されるので、地域ごとに地元の出身者を優先的に採用したり、特定の科目の教員を重点的に雇ったりすることもできる。これらが実現すれば、現行の全国一律の教育が、より地域の特色を活かしたものに生まれ変わる可能性は高い。
 
 また、いじめや非行、学級崩壊といった今日の学校が抱えるさまざまな問題も、各学校と物理的にも精神的にも至近距離にある学校理事会が対応することになる。となれば、地域の実情に合った、よりきめ細かな対応も可能になるだろう。


■市民参加がなければ単なる画に描いた餅
 しかし一方で、仮にこのような制度ができたとしても、地域住民が積極的に参加しなければ、一部の「うるさ方」や「地元のボス」のような人たちが学校理事会を牛耳り、個人の価値観を押しつけたり、偏った教育が行われたりすることにもなりかねない。そもそも地域住民が積極的に参加し、監視しなければ、学校理事会のメンバーの選考自体が、公正なものになるかどうか怪しくなってくる。参加する市民が嫌々だったり、形だけの参加になれば、制度自体が宝の持ち腐れになる可能性もあるし、文科省の一律管理の時代よりももっと悪くなる可能性だって否定できない。
 
 また、文科省が担保していた「全国一律」がなくなることで、地域の特色や地域ニーズが教育に反映されることはプラス面かもしれないが、その反面、教育の地域格差や偏りが出てくる可能性も否定できない。それはそれで、市場原理を導入して地域ごとに教育レベルを競わせればいいという考えもあるだろう。
 
 だが、全国テストの結果発表をめぐり揉めた事例に見られるように、教育と市場原理は必ずしも相性がいいとは言えない。これまで、極端な標準化を図ろうとする文科省の一律管理のもとでやってきた教育関係者や保護者が、ある日突然地域色の濃い教育を受け入れられるかどうかにも一抹の不安が残る。
 
 学校理事会制度は、やり方次第では霞が関権益の引き剥がしという意味でも、地方分権という意味でも、また教育の活性化という意味でも、大化けする可能性はある。しかし、失敗すれば、中央の軛から解放されたことが逆に仇となり、地域が暴走してしまう可能性もある。何年か後になって、いろいろ問題はあっても文科省の一律管理の時代のほうがまだましだったということになりかねない、「ハイリスク・ハイリターン」の政策と言えるのかもしれない。

■民主党政権の成否を握る「市民参加」
 民主党の主張する学校理事会制度がハイリスクな政策になっている理由は、いたって明快だ。それは日本では政治や行政に市民が参加する「市民参加」の歴史や伝統がまだ弱いからだ。これまで霞が関に任せきっておけばよかった時代の残滓と言えばそれまでだが、民主党が官僚支配の打破を謳っているのは、今となっては誰もが知っているはずだ。ということは、民主党政権では霞が関に代わって誰が意思決定をするのかをよく考えおく必要がある。
 
 今回の選挙では「今回は一度民主党にまかせてみるか」という話を耳にする。政権交代がなかったことが日本の政治の最大の問題点の1つであることは間違いないので、それ自体は意味のある考え方だとは思う。しかし、民主党の政策を見る限り、民主党が「まかせる」対象でないことは最低限知っておく必要がある。
 
 たしかに、法律をつくったり制度の大枠を決めるのは、政治の仕事だ。しかし、いったん法律や制度ができ、その運用段階になれば、民主党政権の場合、そこには政治は入ってこない。学校理事会がその典型だ。法律で文科省の権限を移譲し、地域ごとの学校理事会に一定の予算をつけるところまでは政治の仕事だ。しかし、地域ごとの学校理事会がどのように運営されるかは、もはや政治がコントロールできる領域ではない。
 
 前回まで繰り返し強調してきたように、民主党が掲げる政策は、どれを取ってもより多くの市民参加がなければ成り立たないものばかりだ。官僚のコントロールを切ることを最大の眼目とする同党の政策が、もし市民参加のないまま実行されようものなら、それこそ大変なことになる。これまで運転をまかせてきた霞が関に代わって誰がハンドルを握るのか。間違っても、政治家が運転してくれるなどと思ってはいけない。また、仮に政治家に運転させることがあるとしても、われわれ市民が教習所の教官のように、横から逐一その運転を監視していなければならない。
 
 私自身はアメリカナイズされすぎているからかもしれないが、何の付託も受けていない行政が、私の行き先を勝手におもんぱかって運転する車になど、怖くてとても黙って乗ってはいられない。彼らの良心を信用していないのではなく、制度がその信用を担保していないことを知っているからだ。
 
 かといって、政治家がハンドルを握る車に黙って乗っているのも怖くてしかたがない。どちらかというと、政治の役割は自動車が安全かつスムーズに流れるために道路を整備し、道路標識や信号を設置するところまでにしてもらい(政治の決定に従い、実際の舗装作業や標識を付ける作業を行政がやる)、自分の車の運転は市民一人ひとりがハンドルを握る仕組みのほうがしっくりくる。NPOなどの市民セクターが運転するバンやワゴンサービスもたくさんあったほうがいい。ただし、そのためにはまずは市民一人ひとりが運転を覚えないと話にならないことは、言うまでもない。
 
 市民参加を前提とする民主党の政策が、市民不在のまま実行されれば、もはや官僚に権限を持たせない以上、誰も明確な意思決定をしないまま、物事が決まっていくことになる。そうなれば、大混乱は必至だ。あげくの果てに、自分たちで意思決定することの負担に耐えかねて、「これまでどおり、行政が良い塩梅で決めてくれ」などと、泣き言を言い出す人や自治体が出てくるかもしれない。
 
 また、情報公開を徹底し市民参加の機会を増やす民主党型の統治形態のもとでは、意思決定に参加しない人は、法律の執行や制度の運用が、自分の意思のインプット無しで行われることになる。官僚に任せていたときは、それが民意を反映していたかどうかはともかく、一応は行政がすべての住民の利益を考えて決定をしてくれていた。だが、官僚のコントロールが無くなる以上、頼みもしないのに自分の利益を代弁してくれる人など、どこにもいない。
 
 もちろん、参加するかしないかはそれぞれの勝手だが、参加しなければ損をする可能性が大きいということだ。もっとも、頼みもしないのに誰かがあなたの利害をおもんぱかってくれるのが当たり前だったことのほうが、むしろ特殊な時代の産物だったと言うべきなのかもしれないが。
 
 民主党の政策には、行政より市民、霞が関の中央官庁より地方自治体、東京より地域への権限委譲を伴うものが圧倒的に多い。そして、民主党はそれを情報公開の徹底により本気で実現しようとしているように筆者には見える。言い換えればそれは、市民の自立(そして自律)と自治に大きな信頼を置く政策だ。そうした政策が実施されたとき、もし最も基本的な単位である市民側に意識も覚悟もなければ、民主党政権は大失敗に終わる可能性がある。
 
 現に、民主主義の伝統が弱い旧共産圏や途上国のなかには、急速に民主主義を導入してみたものの、結局それでは社会がうまく回らず、時計の針を戻すように市民の権利を制限する方向に軌道修正するケースが少なからず出ている。
 
 はたして日本の民度は、民主党の政策が提唱しているような市民参加を前提とする政治を支えられるレベルに達しているのか。それとも、まだまだ霞が関官僚に意思決定の部分まで依存しなければ、国の運営など到底できないレベルなのか。われわれはその答えをまもなく目の当たりにすることになるだろう。言うまでもないが、その答えを出すのは民主党ではなく、われわれ自身にほかならない。


■最後に
短期集中連載でお送りしてきたこの「民主党政権で日本はどう変わるか」は今回をもって終了となる。
 
 公職選挙法で、選挙公示後のインターネットのウェブページの書き込みは、選挙ビラやチラシと同じ「図画の頒布」に当たると判断されるため、公示後に特定の政党について文章が書かれたページを更新する行為は、法に抵触する可能性があるからだ。
 
 公示前の記事をそのまま出しておくのはかまわないが、ページを更新すると罪になるというのは、前時代的で不可解な法解釈ではあるが、公職選挙法の解釈で幅広い裁量権を持つ総務省がそう言うのだから仕方がない。
 
 余談になるが、民主党のマニフェストには「インターネット選挙の解禁」が明記されている。つまり、今回の選挙で民主党政権が実現すれば、その次の選挙は投票日直前までウェブに新規記事を掲載することが可能になるはずだ。
 
 民主党の政策を過去のマニフェストから政策インデックス、提出法案、そして党幹部や政策担当者の発言などを全部ひっくり返して検証してきた身としては、本連載におけるわずか6回の原稿ではなかなかその全貌をお伝えすることができず、やや心残りな面もある。民主党についてより詳しいことを知りたい方は、ぜひ拙著『民主党が約束する99の政策で日本はどう変わるのか?』を投票前にご一読いただければ幸いだ。
 
 同書は民主党が主張してきた政策のなかから、筆者が重要と考えた99の政策を抜き出して解説したものだ。もちろん投票前に読んでいただくことを想定してはいるが、実は同書は民主党政権ができた後に本領を発揮することを期待して書いたものでもある。民主党が政権についた暁には、われわれ有権者は、同党が野党時代に主張し推進してきた政策の実現を迫る権利があるし、迫る義務があるはずだ。その際のアンチョコとして、あるいは備忘録として、ぜひ活用していただきたいというのが同書のもう一つの重要な意図なのだ。筆者はこれを勝手に、「民主党と市民社会の契約書」と呼んでいる。
 
 いずれにせよ、民主党がこれまで主張してきた政策については、拙著に含まれていようがいまいが、マニフェストに含まれていようがいまいが、同党が政権を獲得した際には、市民社会との契約としてその履行を皆で迫っていこうではないか。そうすることが、この選挙で政権交代が実現したとき、それを意味あるものにする最も有効な手段に他ならないのだから。(ダイヤモンド・オンラインからの転載)

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ご理解・ご協力のほどよろしくお願いいたします。

拙者,老耄をも弁えず?,数少ないとは言え,時折の諸賢の反応を期して諸賢からすれば偏見の類の観点を敢えて投じている古稀を過ぎたる村夫子。
本テーマの論旨に是非を言うに非ず,市民と言う概念,余りにも不用意に用いられては居られませんかと諸賢のご意見を伺う次第。
8月20日岡部一明氏,自治体は市民団体である,は優れた論考と感服致した次第なれども,矢張り,市民と言う概念が安易に遣われていることを残念に想う処へ本題が提示されましたので止むに止まれず。

>そうした政策が実施されたとき、
>もし最も基本的な単位である市
>民側に意識も覚悟もなければ、
>民主党政権は大失敗に終わる
>可能性がある。


以前、外でこの事に触れた事が
ありますが、現状でこんな乱暴
な進め方をしたら、間違いなく
失敗するでしょう。

どの方法をとるにしても、充分
な練習を市民の側が行う必要が
あり、その環境整備は当然、政
治の責任です。

いきなり仮免許も取れないうち
から、高速に乗れなどという行
程はとりませんので、ご心配に
は及びません。

神保さんが「人気優先マニフェスト選挙のジレンマ」で表明されていた懸念が現実になっている。
民主党の政策について、自民党の批判を鵜呑みにしている人が少なくない。
「なぜ、そうでなくてはいけないのか」の背景説明をしないといけない。
(マスコミには期待できない)

>地域が独自の判断で学校を運営
>行政が、私の行き先を勝手におもんぱかって運転する車
学校の管理運営と費用負担は市町村、責任は市町村教育委員会。
市町村に自主裁量権はなく、教員の人事権は県に、給与負担は実質的に国。
国の方針は押し付けたい(現場の創意工夫は認めない)が、責任は負いたくない中央集権のカラクリ。

>地域住民が積極的に参加しなければ
>政治家がハンドルを握る車
本来、自己責任というのは上から言われるまでもないこと。
なのに、責任回避に使う人がいるから困る。
中央集権政府の責任の重さを自覚していない人が「責任力」とは。
自分と社会の関係をキブ&テイクで考える。
納税には公共サービス。
ただし、世の中には金で済まない問題もある。
権利を主張するだけで義務を果たさなければ何も得られない。
とはいえ、過労死寸前まで酷使されている方々には酷かも知れないが。

「そりゃ金がねえなら結婚しない方がいい」などと若者の気持ちを逆なでし、少子化対策にも

逆行する様な発言をするお粗末な総理がただ単に「国民受けが良い・選挙に勝つ総裁」など

の理由で選ばれなくなるだけでも良い。

神保様、ご苦労様です。
いや、全ての方々に感謝しています。
ここJOURNALの記事を読み続けて繋いで行くと民主党という党が見えてきます。

私もかねがね何でも国に任せておけば楽だし確実で良いと思いつつもいくら金があったって足りないだろうと感じていました。

その金を生み出す唯一の方法が市民参加の友愛社会ということですね。
教育に限らず市民生活の全てが良くなるも悪くなるも市民の参加意識次第という厳しい現実があるということがわかってきました。
高野さんとのトークで鳩山代表は、これを友愛とはLOVEじゃない、「厳しい」のですという表現で語っていたのですね。

私たち市民は、絶対に不正がないことを信じて参加して行くのだろうと思います。
絆も生まれて行くと思います。
市民は、行政の主役になるとともに汚職に対して相当厳しい目を持つようになると思います。
裏切られた時の反動はものすごいものがあるでしょう。

説明、準備はどうやって行くのでしょう。
越えなければならない山は大きいですね。
このJOURNALをどれくらいの人が読んでいるのでしょうか。
まずはここで予備の勉強をしておいて欲しいですね。

市民参加による公共政策の形成は闇雲に走るのでは有らぬ混乱が生じることは必定である。混乱を避けるため、先ずは市民参加の基本を理解することが肝要である。市民参加とは市民側と行政側等の合理的且つ公正な民主的な合意形成を図ることを意味している。

そのためには十分な情報開示が前提で、行政関係者、市民代表者、その他の利害関係者が一堂に会し、公開の場で、中立の立場の司会者のもとで意味ある議論を介して行われることが不可避となる。

民主党を中心とする連立政権下、力量ある政治家主導のもとで文科省の公僕官僚の本来の役割を認識させ、雇用主である国民の公僕官僚には、しっかりその能力を発揮して貰わねばならない。

今は権力闘争下にある。いつ何時、何が仕掛けられるかわからないご時勢、決して甘い脇を見せぬよう願いたい。そして、旧来の教育制度の問題点を払拭するため、市民参加のもとで、真に国民のため新たな政策形成の創出とその実行が伴わなければ意味がない。大きなチャレンジに期待したい。

全体に何を言いたいのか具体性が無い。
お上に任せず、何でも地域・市民が運営するというのは妄想に思える。
根源は「公平」でなければいけないという事。
学校教育に何を求め、それによってどう成長し、それをどう評価出来るかでしょう。
また、個々の子供の能力・学力差があるは当然で、それは先生も同じ事。
昔からアホな先生はいたんで、それは今後も変わらない。
親も子もまた然り。
勉強は学習塾に頼る一方、学校(公立)には、何を市民が期待するの?
要は、子供にとって勉強する機会を公平に作ってあげる事。
金が有ってもなくても。
また集団での生活によって、社会の一員としての自覚を付ける事。
日の丸揚げるかどうか、国歌をうたうかどうか・・・なんて事でガタガタやってるレベルは子供に見せられないでしょう?
ただ、そういうレベルの大人を見て、子供は以外に冷静に内面では判断しているよ。
教育の最大の問題点は、社会が成熟していない事で、それは今が成熟していないとしうより、以前より劣化しているという方が正しいでしょう。
社会(霞が関住民も含めた地域)が劣化を止めないと、格差は広がる。
何も経済的な事ではなく、人格形成に於いて。
本当は、馬鹿なやつはしょうがないと思っていて、派遣村で炊き出しを食べるような人間には育てたくないというところが本音でしょう。
終戦後(30年代)にも乞食はいたが、今ほどいたようには思えない。
赤旗振るような時代でもないし、無宗教、ノンポリ国家での教育とはいえ、一方で大作先生信奉者や国旗掲揚はイカンという無国籍勤パチ先生がいる環境でも大人が心配するほど子供の判断能力は劣化していない。
子供の教育の前に、大人のリハビルでもやった方がマシ。
隣近所・職場を見ても、マトモなのは以外といないのが現実。
神保先生の今回の言は、全体にいただけない・・という感想です。

拝啓<神保哲生>様へ。
貴兄の論説、毎回楽しみにしつつ、その度にイロイロとイチャモンをつけて御免なさい。
でもねぇ神保様、今回もイチャモンをつけざるをえないのです。
貴兄の論説の大半(数値化するのは難しいですがほぼ80%)に納得し支持できる…にも拘わらず…なーんだか腑に落ちない論拠が多すぎるのです。
今回の「教育制度」の問題でも、貴兄の仰ることは完璧にリアリティを欠いています。
文部科学省主導の教育委員会なるものが、学校理事会制度に代わっても、一歩前進ではありますが、日本の教育制度全体をドラスティックに変換できるものではないってことぐらい、オイラ民衆は百も承知!なんです。
追記すれば、貴兄の仰るPTA組織は、オイラが子供だった時代…親爺になった時代…爺になった時代では激変しています。ですから、民主党が言ってる「学校理事会制度」は単なるトッカカリに過ぎません。民主党だって「教育問題」について正解を持ってるわけじゃぁないんですよ?

端的に申し上げて、「教育」と「農・漁業」の問題だけはダーレも正解を持っていないのです。
つまり不肖私が、貴兄に申し上げたいことは「ワカラナイことは、ワカラナイ」って言って下さいってことです。無理矢理なんかをこじつけてご発言なさっても、説得力が無ければ墓穴を掘るだけです。

私見ですが「教育制度」を根本的に変えるためには、まず「大学制度」を変革しなければならないと考えています。
その最も有効的な方法は、東京帝国大学解体…国立駅弁大学の統合…私学助成金の撤廃…つまり、大学の在り方自体を変えない限り、義務教育をどう論じたって、究極の不条理です…ってオイラは思うんですけど、如何ですか神保様? 

政権交代にふさわしい「教育改革」とは。

戦後一貫して行われていた日本の教育とは何か、まず根本から見つめ直すことから始めなければならない。組織率が30%をきったとはいえ、現場の教師に大きな影響力を持つのは依然として「日教組」であり、その対立軸としての「文部科学省」「教育委員会」までもがつい最近まで「ゆとり教育」なる方針を掲げ、ますます公教育が骨抜きにされ続けてきた、という「認識」すら、「共通認識」にならないという現状から始める必要がある。一体どのようなプロセスが有効であるか、とても簡単なことではないだろう。

 政治的な歴史的な記述でさえ「認識の相違」に基づいて「新しい教科書をつくる会」とかつての家永氏の「教科書裁判」と真っ向から対立したまま、こう着状態である。まずは何から始めるかの公聴会を開き、国民的コンセンサスを形成する必要がある。

 その上で教育を地域に、あるいは「学校理事会」みたいなものに、市民参加の新様式を模索するのも一案である。
 地方財政が逼迫し、小子化が進んで、各地で教員の削減ばかりが進んでいるような中で如何に中長期的に日本の国力を、地方力を活性化するためには、「教育」こそが基本であるという観点から、真に根本的な「教育改革」を考えてもらいたい。
 
 世界と渡り合えるような優秀な人材を発掘し、育て上げることと、一方で地域の産業育成にも貢献できるような人材を育て上げること、すべては「教育」から始まる。

ゆめゆめ日教組の影響力の大きい「民主党」という頚木にとらわれてはならない。

神保さん、こんにちは(いま25日11:40頃です)

民主党の真髄。
確かに読み取りました。
「オープン&フェアネス」
誰でもほしい情報が読める。そして、誰でも同じ土壌にたてる。機会の均等。
という土台を民主党はつくろう。
でも、その上にのってよい暮らし(政策)を考え、作るのはあなたたちなんだよと、いっている。
「パーティシーペイション=参加」

立場によって、利害は異なる。でも、話し合えば、70点くらいの納得はできるのではないか?

疲れるでしょうね。めんどくさいでしょうね。
誰か決めてよ!と思うことも大いにありうることだ。でも、究極的には話し合いで決める。
それが民主主義ってものですからね。

これは大変なトライアルになるでしょうね。
でも、その前にやることがある。
情報公開と公平と機会均等な社会。
これを作ることに全力を挙げることでしょう。

hal2001っていうのはひどすぎないか。

記事の中身をてんで理解しないまま意味不明のトンデモ自説を展開して、読んでいるこっちが恥ずかしいよ。

編集部も掲載するコメントのレベルを、もう考えたらどうかね。The Journalの品位に関わる問題だと思うが。

 ひさしぶりにコメントします。一市民のたわごとだと思って聞き流してください。
 4年前になぜ「郵政民営化」が改革になるのか全く理解できなかったのと同様に,なぜ「学校理事会」が改革になるのか全く理解できません。
 民主党の政策に対して,なんとも言えない不安を感じていましたが,この文章を読み自分の中で少し形になって来ました。
 政権を取ったあかつきには,理想は持ちつつも現実に合わせて柔軟に対応していかないと,政党政治自体に幻滅する有権者が増えそうで心配です。
 心配しすぎであれば良いのですが。

元大蔵事務次官・前日銀副総裁・大和総研理事長武藤敏郎が「国民負担は不可避」と発言しているが、今のこの時期おかしいのではないでしょうか?天下りの典型のお偉い方は天下りを廃止しようとしている時期に、、、。国民負担の前に天下りによる無駄を省くのが先ではないですか? 「あんたに言われたくない」と貧乏人の庶民は皆さん思うのでは、、、。

更に住友金属工業の社外監査役。これなどもいかがでしょうか?有名私立中・高校「開成学園」(東京都)の学園長は問題ないかも知れませんが、、、。民主党になったら、こういう天下りが本当に無くなるのでしょうね!

けろち様が言われます様にちょっと心配もありますが、政権を取るまでは黙っておきます。

1、「学校理事会」はあわててやらない事


2、学力試験の廃止はしない事(全国一律テストは続ける事)


以前、児童に差をつけるべきでないと、運動会での競争で最後に並んでテープを切り順位を着けなかった様な愚はしない事

世の中に出れば、そんなに甘くない事を子供の時から教えた方が良いのでは、、、。

拙者,中央集権の弊を憂い,過って置かれた郡程の地域を念頭に自治圏をと夢想する者ではあるが,正直なところ,我等日本人の自治能力については懐疑的であることを否定出来ません。
小学3年?の折,教育長の選挙があり,集落内の有志が立候補,当選就任,小さな集落としては誇るべき快挙,GHQのお仕着せとは言え,日本人が自治を実践する機会でありました。
されど,数年を経ずして教育長は首長の任命する処となり,お上のお沙汰として従うべき処となりまえした。
教職員組合等が彼等なりの中央の意を受けて,地域住民の意向を超えた処で教育長選出に働く等して自治体首長と対峙する等の事象が頻発した故と仄聞します。
行政府等の統治機構側の上級官僚のみならず,官公労,日教組等と銘打った公務員等もその中央の意を受けて,自治の経験浅く,稚児に等しい地方自治体を蹂躙した片割と言ってもあながち誤りでもあるまい。
学校理事会なるものの構成員は学校関係者,生徒の保護者,地域住民,教育関係者等とあるが,当事者と言うか,利害関係が強すぎる関係者が多過ぎる等,懸念すべき点多々有り,健全なる自治は期し難しと案ずる次第。
自治の実体験は,地域の全員が等しく関る事象から始め,我等国民一人ひとりが等しく経験を積む工夫が肝要では有るまいか。
8月18日,岡部一明氏の紹介せる米国に於ける自治の例を諸賢は如何様に思われるや。
是非は兎も角,我等は彼の如き経験を等しく積んで居るであろうか。

>画期的な学校理事会の中身
そのモデルは山梨県にあります。
この政策の立案はおそらく山梨県選出の輿石東氏だろうと我々は推測しています。
前提条件が十分な山梨県に類似の地域では、輿石東氏の想定通りにこの制度は実に有効に機能するだろうと思っています。

山梨県教職員組合、山教組・教育庁・教育委員会を考える 山梨評論のホームページ、ご参考まで。

その所属する県や職種(義務教育か高校か)によって
大きく事情は異なるとは思いますが、
以下の意見は、少なくとも私のつとめている県の状況からすると
日教組を過大評価しすぎではないかと考えます。
でもその過大評価を逆手にとって
存在感を実像以上に大きく見せているのが日教組かも。

「組織率が30%をきったとはいえ、現場の教師に大きな影響力を持つのは依然として「日教組」」

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『知らなきゃヤバイ!民主党─新経済戦略の光と影』
2009年11月、日刊工業新聞社

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