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読売新聞が世論調査記事で偽装グラフを掲載 »

日本の“モノづくり”精神の大元はどこか? ── 文明の基礎としての超精密農耕技術

takanoron.png 前稿(INSIDER No.502)で日本が「“モノづくり資本主義”で世界をリードする」可能性について論じたところ、読者から、資本財の優位性だけで日本全体が食っていけるわけではないし、その優位性もいずれ新興国からキャッチアップされて保てなくなるだろうとの趣旨の指摘があった。

●日本の最先端中小企業

 まず1つには、私は資本財供給国としての世界貿易の中での日本のユニークな位置取りを「日本が21世紀の世界を生き抜いていく1つの筋道」として重視すべきであることを示したのであって、それだけで日本全体がやっていけるとは言っていない。その大きな可能性を、榊原のようなインテリを含めて、日本人の多くが認識していないことを嘆かわしいとかねがね思ってきたので、力を入れて強調したまでのことである。ひとたびこれが21世紀日本の生き方の柱の1つであるという合意が成り立てば、例えば、

▼政府の長期的な研究開発投資のプログラム、
▼大中小企業の経営力や技術力や製品開発力などソフト面を評価してリスクを賭けて投融資するベンチャーキャピタル型の(ということは土地担保でしか金を貸せない従来の銀行を脱皮して経営力や技術力や開発力などソフトを評価してリスクを賭けて投融資する)金融機能を重視した金融改革の方策、
▼小学校からのモノづくり教育、(何人かの読者が指摘したように)ドイツのマイスター制度に倣った「匠制度」、工業高校と理工系大学・大学院の充実などを含む教育改革の方向付け

──など、およそすべてのことを“モノづくり日本”の方向に沿って合流させていくような総合施策を組み立てることが可能になるだろう。日本と世界の関わりにおける(全てではなく)最前線をそのようにして形成したい。

 2つには、確かにこの領域においてもキャッチアップの可能性は大いにあって、油断も隙もあったものではないが、前稿で例に出した世界最小歯車メーカーの樹研工業の松浦元男会長にそれを問えば、「なーに、彼らが5年経って追いついてきた時にはウチは10年先まで行っているよ」とのことである。その自信から、同社の場合は、請われればどの国からも研修生を受け容れて技術を伝授し、3年かそこらで基本を学び終えると、彼を工場長にして本国に合弁工場を出し、その場合にパテント料で縛るという小賢しいことは一切せずに、出資比率50:50で済ませている。もちろん誰もがこんなことが出来るわけではないけれども、日本の最先端には、そういう意識を持って事業を成功させていて、毎年、創業以来史上最高の昇給を更新し続けている中小企業があるということは知っておくべきである。それを単なる例外と考えるか、それこそが先進モデルだと考えるかが、思考の1つの分岐点である。

 全国どこへ行っても、商工会議所・商工会・法人会など中小企業団体の会長の挨拶は「日銀短観は景気が下げ止まりつつあると言うが、我々中小企業はそんな実感からはほど遠く、まさに“100年に一度”の大不況の波をもろに被って苦しんでいる」という、「大企業はいいかもしれないが中小企業は大変」パターンに決まっている。それでいて、講演が終わって宴会になって個別に聞けば、確かに大企業の下請け一本でやってきた企業などは大変なことになっているが、独自の技術を磨いて何とか切り抜けていたり、それどころか積極的に海外にまで販路を広げて独り立ちを果たしている企業も決して少なくなく、その割合は普通の中小企業団体で半々、地方銀行の優良融資先の経営者の会などの場合は7〜8割が後者である。つまり「大企業でも中小企業でも、成熟経済への適合が出来ている企業とそうでない企業との二極分解が進んでいて、全体としてみれば大小・業種・地域に関わらず“まだら模様”を呈している」というのが本当のところで、にもかかわらず中小企業団体の建前としては「中小企業は大変」ということにしておかないと運営上差し障りが出るのでそう言い続けている。しかしこれでは、農協が「農家は大変」と“弱者ブリッ子”を演じて補助金漬けに身を沈めている内に本物の弱者になってしまったのと同じ轍を踏むことになる。

 3つには、このような日本的モノづくりの精神は、今現在で言えば精密機械工業やハイテク素材産業や環境、IT、バイオ、医療産業などに典型的に顕れていて、そのまた突端にあるのが高度資本財輸出企業であるけれども、その精魂込めてモノを作り上げるという心意気の根元は、実は縄文以来1万年に及ぶ日本の農耕文明にあって、それは農業から製造業、サービス業まで含めたこの国の(サービス業まで含めた広義の意味での)モノづくりに一様に貫かれていることを認識する必要がある。

●農耕漁撈文明の特質

 日本は国土の66%を森林が占める世界でも稀なる「森の国」である。その森が林業の衰退によって荒れ果てているという現実的な問題は(天野礼子に委ねて)今は措くとして、なぜ日本にそれだけの森が残っているのかと言えば、それは農業のあり方の特殊性と関わっている。

 梅棹忠夫は『文明の生態史観』で、ユーラシアを中心部の乾燥地帯の遊牧民世界、その外側の準乾燥地帯に起こった4大古代文明世界、そのさらに外側の湿潤な日本と西欧の近代文明世界という3層の文明モデルを提示した。それに対して、「陸」だけではなく「海」の視点を加味して、その文明モデルの修正・増補を図ったのが川勝平太(現静岡県知事)の『文明の海洋史観』で、それによって日本の自己認識の深度は相当に深まったのであるけれども、梅棹も川勝も、ユーラシアの東西両端の日本と西欧との文明の質の違いを問題にしていない。そこで登場するのが、環境考古学者で縄文学者の代表格の1人である安田喜憲=国際日本文化研究センター教授で、彼の『文明の環境史観』によって日本の文明史的な独特の位置づけは一層明白になった。

 安田によると、西欧の代表としての英国では「農耕が伝播して以降、カンバやナラの森は一方的に破壊され…17〜18世紀には森の90%以上が消滅して、完全な森林破壊の段階が現出した」が、日本では「確かに農耕の伝播によってカシやシイの原始林は破壊されるが、その後、アカマツやコナラなどの二次林が拡大してくる。このため英国のような完全な森林破壊の段階が現出しない。…このように英国と日本とでは、森と人間のかかわりのあり方に、根本的な相違が見られる」のであり、それは詰まるところ、英国はじめ欧州の麦作と牧畜を中心とした農業と、日本の水田稲作と漁撈を中心とした農業との違いに帰着する(安田『稲作漁撈文明』)。

 問題の1つは、麦作と牧畜を中心とする西欧型が、限りなく森を伐採して広大な平原を切り拓いて麦畑と牧草地を作るので、大規模な粗放経営がまことに妥当であるのに対して、稲作と漁撈を中心とする日本型は、耕地の42%が中山間地にあって、そこでの里山的な森と田畑との循環的な生活技術とそれを担う家族労働集約的な小規模農家こそが主体と位置づけられるべきである。「水田稲作農業を基本とし、肉食用の家畜を欠如した日本の農耕社会では、経営規模をいたずらに拡大して粗放的にするよりも、労働集約的にする方が収量が多かった。急峻な山地に家畜を放牧するよりは、森を保存し、森の資源を水田の肥料として利用する方が、土地生産性を活用することにつながった。灌漑用水を定常的に確保するためにも……豪雨による災害を防止するためにも森は必要だった。温暖・湿潤な気候は森の再生には好都合だった。こうして日本人は森の資源に強く依存する農耕社会を構築した」(安田)。

 東アジアのモンスーン気候帯の下でのこの温暖・湿潤は、農学者の野田公夫=京都大学教授に言わせれば(「現代農業革命と日本・アジア」、『生物資源問題と世界』所収)、農法の上で「最大の問題」で、「作物の増殖を促進する条件である温暖・湿潤は、同時に雑草を繁茂させ病気や虫害を増大する条件である……。肥料を増投すればかかるリスクも増大するのであり、それを確実に生産力化するには綿密な肥培管理がポイントとなる」。多投した肥料を実に結ぶ能力のある品種の育成、健苗を育てるための綿密な苗代管理、耕土を厚くするための深耕、適期を外さない水のかけひき、雑草・病虫害の防除など、まさに作物を撫で回すがごとくに丹精込めて育てる超精密農法は、江戸時代には確立され「明治以降の日本農業も基本的にこの延長上にある」(野田)。

 江戸の人々が、より深く耕すために敢えて家畜による耕耘を止めて、改良された鋤鍬を用いて人力で思い通りの深耕を実現したことは、人口経済学者の速水融によって「勤勉革命」と名付けられたが(『近世濃尾地方の人口・経済・社会』)、西欧が畜力を機械に置き換えて産業革命へと突き進んでいくのに対して、日本は驚くべきことに、畜力を人力に代えてまで土と作物を手塩に掛けて育てることを選んだ。安田は言う。西欧的な産業革命は「機械で森を切り開き、農耕地を造成し、家畜と農作物と人間の世界だけを創造してきた」のだが、それに対して日本の勤勉革命は「家畜や機械に代わって自らのエネルギーを大地に投入し不毛の大地を豊かな大地に変えることに専念し、それに喜びさえ覚え」ながら「人間以外のこの地球の生きとし生けるものの命との共存にも目をくばりながら」「棚田を造成し森と水の循環系を維持し、生物の多様性を守り通してきた」。

 なぜそれほどの人力深耕が必要だったのかと言えば、江戸以来、日本の農家の土壌管理の根幹が落ち葉を主体とする堆肥の大量投入にあったからである。毎年冬が近づいて真っ先にやることは、里山の二次林で大量の落ち葉を集める作業で、それを庭先に山と積み、ワラや人畜糞を混ぜるなどして発酵・熟成させて堆肥化し、何と1反歩の耕地に1トンほども投入した。完熟した乾燥堆肥1グラムには1億個の微生物が含まれているというから、1トンなら100兆個。その働きによって高度の土地生産力を維持した。今から100年前の1909年、米国の土壌学の父と呼ばれたF・H・キング博士は、すでに始まっていた米国農業の機械化・化肥化による土壌の劣化を憂いつつ、日本・中国・朝鮮の農業を視察、とりわけ山と川と田畑の繋がりの中で巧みに養分管理された水田稲作のシステムに日々仰天し、それを「西洋諸国への反省を迫る」ものとして紹介する長大なレポートを書いた(『東アジア四千年の永続農業』)。

●日本農業の可能性

 その根底にあるのは、縄文時代以来、1万年以上にわたって築き上げてきた「森の思想」(梅原猛)で、それこそが21世紀の地球と人類を救う自然観・世界観である。

 森の思想は、つまりは八百万の神的な、人間をも自然の循環の一部と捉える共生の思想で、鳩山流に言えばそれが友愛精神の一面である。日本人が凄いのは、その思想を抽象レベルで済ませるのではなくて、日々生きるための生活技術の体系として具象化し、何によらず丹精込めて育て上げる気風として体に刻んで受け継いできたことで、それは、岡本太郎が称揚した縄文火焔土器のあの異様なまでの芸術性(岡本『縄文の思想』)、あるいは5500前から1500年間も続いた青森県三内丸山の縄文都市遺跡から出土した、漆の大皿の破片や糸魚川上流から輸入した翡翠のネックレスや、さらには北海道産の黒曜石を用いた鏃(やじり)を岩手県産のアスファルトで固着した狩猟用の矢といった品々の、想像を絶するモノづくりへのこだわりに既に現れている(梅原『縄文文明の発見―驚異の三内丸山遺跡』)。そのモノづくりは、養蚕、機織り、鍛冶、製陶、工芸、食品加工等々、元々は誰もが自分でこなす生業の一部であったものが、やがて分業化・専業化して「匠」の技として絢爛たる発展を遂げ、さらに近代工業化と共に今日に受け継がれ、例えば、町工場の金属加工の現場で、5軸切削の最先端マシニングセンターでロケットヘッドを成型しながら最後の最後はベテランが撫で回しながら手作業で磨き上げて細密な仕上げをするといった職人技とか、世界最高度の産業用ロボットを決して単なる機械と思わずに「○○ちゃん」とか愛称までつけて自分ら工員の仲間として扱うといったヒトとモノの一体感覚とかにまで、真っ直ぐに繋がっている。

 戦後日本の農政が分かっていないのは、以上のこと全てであり、欧米型の大規模化・機械化・化肥化をモデルに安易に「金になる農業」を創り出そうとして、かえって農業をめちゃめちゃにしてしまった。この愚劣を断ち切って、日本文明の基礎としての農林漁業を再建して世界のどこにも例のない独自の田園生活の豊かさを実現し(大平政権の「田園都市構想」を思い出す!)、その我々の暮らしぶりとそこに貫かれているモノづくりの精神とを世界に向けての(とりわけ「西洋諸国に反省を迫る」ための)メッセージとするのでなければならない。日本の耕地の42%は中山間地にあって、そのほとんどは大規模化などもってのほか、小規模の家族集約労働で守っていくしかない。それを経済効率が悪いからといって切り捨てようとしてきた従来の農政は、文明に対する破壊の罪に値するのであり、民主党のすべての農家に対する所得補償制度の提案は(議論すべき問題がたくさん含まれており、それについてはまた論じることにするが)その大転換の端緒となりうるだろう。

 こうして、モノづくりで生きていこうという場合に、その最突端を形成するのは第2次産業のハイテク資本財ということになるが、それ以外の製造業でもいろいろな可能性があり、また第3次産業でも、例えばユニクロの海外での成功や、セブンイレブンの米国子会社を通じてのコンビニの世界的大展開、あるいは中国も米国も注目する新幹線やリニアモーターカーの輸送技術など、いかにも日本的な超緻密な商品・店舗・顧客管理のノウハウやシステムの輸出も、広義でのモノづくり精神の現れと見ることが出来よう。世界中での寿司屋はじめ日本食レストランの大ブームは、単に素材がヘルシーだからではなく、その素材を生かし切る超精密な食品加工と調理の技術の見事さによるところが大きい。そうしたことの文明的基盤は農業はじめ第1次産業であり、そのようなものとしてそれを再建することが出来た暁には、日本の農業自体もまた他の先進国と同様、輸出産業へと転換することが出来るだろう。そのように、21世紀日本の世界の中での生き方の戦略問題としてモノづくりということを考えてみたいのである。

余談:今日の日本経済新聞「経済教室」で戸堂康之=東京大学准教授が「今こそ『内需より輸出』で」と論じていて、その中で「実は日本は先進国の中ではもともと輸出依存度が低い。輸出額の対GDP比ではOECD諸国の中では米国に次いで最低水準」と述べているのは正しいが、昨年から今年上期にかけての日本の輸出が急減した理由として「日本の輸出産業が自動車・電機などの耐久消費財に偏っていたこと」を挙げているのは、前稿で引用した輸出の商品特殊分類表に照らして、全くの間違いである。スタンフォードで博士号まで取って、こんなことも分からないで日本経済を論じているのが学者の世界である。▲

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ご理解・ご協力のほどよろしくお願いいたします。

高野さんの農業論畏れ入りやした。
藤村氏が生きていたら、さぞかし力になってくれたでしょうと思うと残念です。
戦後の復興は、第一次産業からの決別がテーマでした。そういう風に学校でも教わって、農家の子供はさげすまれました。輸入材に太刀打できないために日本の森林は放置されました。農業に後継ぎが出ないように、林業は技術継承すら風前の灯です。一刻も早く、新時代概念を構築し、自然との調和バランスのなかで、ものづくり日本様式を再構築すべきときです。
 若者達は一方で希望の星です。次なる世代の優秀な子供達が少しずつですが育ってきている気がします。そういう若者達に自信を持って日本スピリットを掲げて新しい世界を切り開いてもらうために、環境作りは私たちがやらねばなりません。

高野氏は「モノづくり」という概念を広義にとり、文化文明論における最先端の諸説を引用しつつ、日本の目指すべき一つの方向を提示された。学的成果の粋を見事に活かされ、The Journalが日本のJournalismの最前線を押し広げるに相応しい論説であると思います。
 人が他者との比較により我にあって彼に無い様々な意義や価値を見出すのと同様に、日本の文化社会に如何なる価値を見出すかは他文化諸外国との比較において初めて可能となる。そんなことを感じた次第です。
 日本文化の特殊性を遡源的に究明し、日本の農業その他のモノづくりの無限の可能性を訴えることは真に意義深い。蛇足を怖れずに言えば、他者の技術、システム、思想の無批判な適用を警戒すると同時に、それが狭量なる排外主義につながる動きもまた警戒すべきことを確認しておきたいと思います。
 競争原理の市場経済を是とする世界で生きていく以上は他者との軋轢も避けて通ることはできない。道義的思想がそれを最小限に止め、解決に導くものであるならば、そこに「友愛」という理念が強調されるべき根拠があるのでしょう。

高野様

09・07・29『日本の「ものずくり」精神の大元はどこか?』を読ませていただきました。ザット一度読んで感動致しましたのでプリントアウトし、更に二度三度と読み返しております。今日は早速図書館に駆け込み、文中で引用されている諸先生方の著作物にも目をとうす心算です。と言いますのも貴兄の文書を通読して、私は直ぐ「岩手県に疎開」していた時のことを思い出していたからです。小学2年生の終わりまでですが、その時見聞きした事は不思議に今でも覚えているのです。それは今にして思えば「じい様ばあ様の勤勉さ」です。夜も明けぬうちから藁を叩き、明ければ空けたで作りたての蓑や草鞋をつけて野良仕事に出かける姿でした。まさしく祖父母が「『勤勉革命』の担い手だった」事に思いを新たにさせられて「感動」したのかもしれません。私の思考回路にも少しは「深みが増す」かもしれません。有難うございました。

YOUTUBEで高野さんとホリエモンの対談を視聴しました。

私もホリエモンが捕まった時、悔しかったです。
私はホリエモンより七歳くらい年下なのですが、何というか、和の精神みたいな閉塞的な価値観はバブルがはじけた頃から、徐々に瀕死の状態になり、あとは堀江氏がフジを買収すれば、そのつまらない価値観が完全に絶滅すると期待していましたね。

秋葉原の事件が恋愛格差によるという意見は的を得ていると思います。

高野さんが、親友(いや戦友)藤本敏夫氏の「鴨川自然王国」近くに移り住み(ご自身の「人生二毛作開墾記」に詳述されている)帰農塾のボスとして藤本未亡人(加藤登紀子さん)を支えておられることは、余りに有名ですね。
また、新潟「妙高里山みらい塾」の塾長として、里山の維持、地域経済の活動などを文字通り、無償・手弁当で応援していることも、知る人ぞ知る、高野さんの「すごさ」です。
アタマだけ、口先だけ、でない「森の中から出てきた1万年も前の日本人」が、里山で農耕にいそしみ、培った技術と伝統を、今、ご自身が体現されているのですから「日本のモノづくりの原点は超精密農耕技術にある」という高野さんの論説が、説得力をもつのは当然だと思います。
だから、末尾「余談」の切れ味も「納得」するしかありません。
私は、m.kumagai様のように「文中で引用されている諸先生方の著作物を図書館に行って目を通す」努力もせず、横着にこのコメントを書いていますが、思いは同じです。

高野さま
今晩は。
今回、私は一つの提言をさせて頂きます。
それは耕作農地の危機に関してです。私は地方に住んでいますが、現実、不動産関係の特に賃貸住宅の業者が休耕田や減反の水田に土地活用、資産運用と称して、兼業農家にセールスを行っています。子供に会社勤務としてのある程度の収入が有ると、将来農業で苦労させたくないという親心から、業者が管理運営をするという事で、安易にアパートを建てた結果、相続時の莫大な課税で他の農地や、宅地をなくすケースが多々有ります。ビジネスの観点からいえば、自己責任であり、投資の失敗となるのでしょうが、国の農業政策はもちろん、地方行政、当事者の農業従事者はあまりにこういう問題をスルーしすぎています。農業を活性化しようとしても、制度を考える段階で、遅きにに失してしまうのではないかと、懸念しております。また、優良農地の減少は結果作物の品質に大きな打撃を与えます。輸出で競争をしようとすれば、コスト以上に、製品の特化性、品質は落とせない事項です。商業での規制緩和は私は賛成ですが、農業に関しては競争体力がつくまで、耕作地に関しては、環境問題とセットで、ある程度規制をかけなければ難しいのではないでしょうか。大きな問題は地方行政のアイディアと目的意識のなさです。農業行政は、環境問題と同等広範囲のアセスメントを必要とします。これこそ、木を見て森を見ない政策に終始すれば、みすみすのビジネスチャンスと日本の活路を失ってしまいます。天野さんのように草の根的に、農業や森林の再生に取り組んでいる方達には、本当に頭が下がります。それくらい、農業というものは、環境や気象とともに生活し、苦労も忍耐も伴う物です。しかし、これを戦略とするなら、どうしても高い位置、広範囲から農業というものを見渡す知恵も融合させていかなければ難しいのではないでしょうか。私は一市民の知識も情報も持たない者ですが、現実、身の回りに起こっている事から、ふと考えました。どうか、こんな情報でも、お役に立ててください。

このたびの文章で高野さんの言わんとする"日本のモノつくり"の哲学的な支柱が私なりに少しはわかったように思います。

「森の思想は、つまりは八百万の神的な、人間をも自然の循環の一部と捉える共生の思想で、鳩山流に言えばそれが友愛精神の一面である。」

「この思想を抽象的なレベルでなく生活技術の体系に具現化しているのが日本。」確かにその通り。ここでなぜそれが実行できていたかと言えば、人間と自然が共生するために自然発生する倫理観といったことがあり、それはそれこそ抽象論でなく現実的な生活に活かされており、それが大変有効に働いていいたために連綿と続いたのではないでしょうか。(それが途中から怪しくなってきたわけでして)

ところで今回の高野さん論説、コンセプトがでかくて理解しにくい人もけっこういるように思えます。特にエコノミストという肩書きの人々にはわかりにくいような。

それから"匠方面”として面白くないニュース。どうも京友禅の後継者が少なく、”技”の伝授がままならず、やむなく匠の仕事を録画してDVDに保存するという計画が持ち上がっているようです。

高野様のご意見にまったく賛成です。
賛成というの意味は、これからは文化に根ざした比較優位を活用して、それを輸出の強みにつなげていくべきという
ことで賛成ということです。たとえば、インドならば数学が得意という文化的特長があるならば、それを比較優位として貿易上の強みとして活用するというようなことです。
ですから、 これからは 我々の文化をもっと見つめることが必要になるのではないかと思ったりします。

これとは、あまり関係ないというか、もしかしたら少し反するかもしれないことを余談的に下記に述べますが、
この前亡くなられた 文化人類学者の 川喜田二郎氏が次のように書いているんですね。

....... 園芸農業への愛着ということは、どんな作物や農具や乳牛を選ぶことよりも、より一層
日本文化の核心部に近い位置を占めているとみてよかろう。(生活様式の改造、川喜田二郎著)


日本人は、ある狭い土地の農業に集中して、それをきわめて丁寧に丁寧に扱うことに愛着を感じるということなんでしょう。それが、「日本文化の核心部に近い位置」にあるとまで述べています。

...... なるほど一坪菜園的に見事な野菜畑を管理したり、米作反当収量を七石もとったり、世界一の搾乳量の乳牛を育てたりするのが日本人である。そこには、日本人の園芸好きの精神と相通ずる一貫したものが流れている。彼らはそこに、実用価値を超えた芸術的満足感すら味わっているのだ。(生活様式の改造、川喜田二郎著)


「日本人はそこに、実用価値を超えた芸術的満足感すら味わっているのだ」というのは非常に面白い指摘です。
というのは、だいぶ前ですね、NHKのクローズアップ現代という番組で、商品の国際的な標準規格をテーマとしていましたが、そのなかで、韓国企業の関係者がこのように語っていたからです。「日本人は技術が優れていれば製品が売れると思い込んでいる。」この指摘ですね、
なるほどなと思いました。 というのは、周囲と話していて、「日本の製品はいかに技術的に優れているか」を自慢する風潮があって、それが海外で売れるかどうかよりも重要であるという感じさえある。というか、むしろ 技術的に優秀な日本製品を買わない海外の顧客の方が間違っているのだという感じさえある。(笑

これは、川喜田二郎氏の述べた
「日本人はそこ(園芸農業)に、実用価値を超えた芸術的満足感すら味わっているのだ」ということと通じているものがありそうです。

川喜田氏は この部分を日本人の欠点としてもとらえていて、園芸農業の枠を超えて、そこから外へと視野が向かいにくいとしている。 これが、商品の国際規格競争で、かつて 日本企業が韓国に連敗した要因かもしれないと、思いますね。
つまり、日本人は ある一定の範囲で きめ細かく丁寧にやることに無類の愛着を感じていて、それが繊細なモノ作りに
通じているのでしょうが、それは同時に 視野をその範囲に留める作用をしている。そのことが全体から眺める戦略思考を出来にくくしているとすれば、 韓国人が評した 「日本人は技術が優れていれば製品が売れると思い込んでいる。」という言葉が
妙に合点がいきます。

まあ、どのような文化的な長所も そこにまた短所がある、(笑) というわけです。
それと、日本人だけではその部分が盲点になっていて見えにくい、外から指摘されて 
気が付かされるということもあるのだということですね。

堀口雪文さん | 2009年07月29日 21:50  「私見での問題解決策」

何時もながらの堀口さんの真摯で的確なご意見には、感動的でもあり頭が下がる想いです・・、大袈裟ではなく!
問題意識にも、ご提案内容にも賛同した上で、私見から若干の補足をお許し戴いて(又しても、勝手に!(niko=戴きました(笑))・・:

1.農業の側にある現在の現実が、≪「カネを苦労無く手近に手に入れること」を、此処の議論では重視されている「農業への想い」に、優先する考えが多い現実≫である以上、その現実の善し悪しの議論は「現状分析」ないし「問題解決策の検討」の段階にあって、ご指摘を延長して「問題解決策の検討」段階まで進んで観ると・・、
「農業には無縁の人間が、無謀にも・・」を敢えて顧みずに・・(笑)、

2.解決策のポイントは、「農業の辛さや困難を解消すると同時に、農業を楽しくする」着眼と要素が必須要件となると思っています。

3.その脈絡で「私見での問題解決策」は、過去の他の板への投稿の繰り返しですが、「農業のビジネス化=農業への現代経営論の導入=経営を含めた全ての作業を、家族などの少人数で熟す(こなす)のではなく、作業も責任も細分化し分担し組織化する=夫々の分野の熟練者を育てる」ことだと、自分では確信しています。

4.巷間の一部に批判がある「農業の大規模化」に関して敷衍すれば、私見では、
1)経営組織としては「大規模化」することになるが(それが、ビジネス化の目的でもある)、
2)農業現場を現在の小さな区画を集約して大型機械を入れて・・という様な「農業現場の大規模化」には直線的にはならないであろうと・・、それは真にその経営陣の選択によって、イ)大規模農業現場を良しとするのか、 ロ)否とするのか、 ハ)または、「大規模と小規模」を混在させるのか、 ニ)その他
を決定すれば、夫々の組織が「夫々に最善とする農業現場」が創造出来るのではないかと・・考えています。

5.これも繰り返しになりますが、農業のビジネス化には、「イカガワシイ狩猟民族的欲望を排除する」など、当然に「多くの課題や問題」を解決しうる必要があります。「進化」「発展」を望む以上は、「当然」です。
例えば、
1)ビジネス化すれば、喪うものが当然に出て来る。何を失って好いものとするか、何を残すべきか?、残すためにどう工夫をするか?も大きな課題となる。
2)組織化する以上は、夫々の人達の「成果」を、「的確適切かつ公正に評価する」システムも「必要不可欠」になる。また、「逆もまた真」でもある。どの仕事でもそうですが、「的確適切かつ公正に評価する」システムが、「仕事の楽しさ」を産み出す非常に大きくて重要な要素」だと思っています。一つには、都会とは違って、人間関係が狭く極めて濃厚な農業地域にあっては、「嫉妬」が邪魔をするでしょうから・・。「良き経営」に行き着くには、「余所の真似」を含めて試行錯誤は「絶対に」欠かせないものでもある。(私は主義として、「絶対に」とは言わないことにしていますが、此処では数少ない例外です(笑))。

6.次の段階の「決断(=決死の判断)は、当然ながら「農業者ご自身」が行うことになる・・・。私の時代感覚的には、良く言われることですが、「単に待つことは後退を意味する」のかも知れませんね。

高野さん
Tonbeiさん 浅山 in 武蔵野の大地 | 2009年07月30日 06:50

≪生産財製造業は、日本の「ものづくり立国」を支える柱の一つになり得るか?≫その1

(種々の制約要因で限られざるを得ない議論に厳しく「成果」を求めるために、此処では論点を絞って、第二~三次産業に属する「文化を含めた日本式ものづくり」に限定して=共通する要素は当然にあるが、「想い」を含めて全く固有の要素を持つ農業などの第一次産業は此処では除外しています。)

冒頭から余談で恐縮ですが(笑)、お互いに見も知らない高野さんやtonbeiさんとこのような「非日常的で大きな論点」について議論ができるInternet環境や、Netが広く社会に恩恵を齎す「全く新しい時代」に生きていることを、喜びを含めて実感しています(笑)。
私見では、人類は、Net技術によって、単なる仮説ではなく真に「第三次産業革命」の時代を生きていて(産業アナリストの中には、この観方に反論する者もいるが・・)、然も現在はその革命が進昂する数十年の期間の「ほんの玄関口」に立っているに過ぎない、そして日本人はParadigmShiftと呼ぶべきその時代に「生活を豊かなものにする」ためにも=それと略々同義だが「日本国が世界の中で『相応の立ち位置』を確保する」ためにも、世界に出来るだけ先駆けて、「第三次産業革命」に対応した思考回路や各種のシステム(社会システム、ビジネスシステムなどなど)を継続的に創造して行くことが必要かつ重要だと思っています。
日本は過去の成功体験を投げ捨てるという苦痛を伴う必要条件を満たす必要がある、それが「充分条件」ではないかも知れないが・・。
(この認識は、21世紀の有り様を論じる場合には、「余談」には止まり得ずに、後述の通り本論で言及することになる(笑)。)

1. 高野さんの前稿“モノづくり資本主義”の板への投稿 無国籍人 | 2009年07月22日 14:18で、切っ掛けがあって、日本文化や伝統を色濃く伝える産業として「皇室御用達制度」を含めた私見を述べました。其処では行き掛かり上、産業界全体はカバーせず、網羅性は低くなっているが、産業別の「一つの切り分け」としてご一読戴けると助かります。

2. 扨て、漸く本論です(笑)。
高野論説が引き続き説く処の、最終段落引用【モノづくりで生きていこうという場合に、その≪最突端≫を形成するのは第2次産業のハイテク資本財ということになる】(≪≫は無国籍人)に示される「ハイテク資本財製造業の≪最突端≫論」への、私の「違和感」と、「大国である国家の産業戦略としての危うさ」の視点から:

ビジネスモデルをベースにして、第二次産業を切り分けると・・、
1) 家電を含めた電機や自動車を典型とする「耐久消費財を含む消費財の組み立て産業」。此処に属する企業は、「消費者」を最終顧客としてその趣味嗜好や志向やそれらの変化を強く意識する必要があり、夫々の商品の「成功か失敗か」を賭けて(時によっては会社の存続を賭けて)商品開発を手掛けるため、そのリスクを最小に抑え込むためにも、次のような商品化工程の上流下流を一貫して手掛け管理する必要がある。従って、夫々に大きな経営資源(ヒト、モノ、カネ、技術)の投入が必須となり、「規模の経済」の論理から、夫々が大企業化せざるを得ず、相応の利益を得たこともあり(=論理が正解であった)現実にそうなっている(勿論、ニッチ的な例外はある)。 イ)コンセプト造りを含めた商品企画機能、 ロ)その設計機能(基本設計、詳細設計)、 ハ)製造機能=生産管理技術の内部蓄積と最先端技術での製造KnowHowの蓄積(実際の製造工程はOutSourceするにしても、生産管理技術や製造KnowHowの肝部分は自社が持って置くこと(=内部化)が肝要とされている。)
私には、旧来の日本の「ものづくり」論は、このハ)項という狭い分野での議論に押し込められているのではないか?という仮説がある。その仮説の先に「第三次産業(サービス)が、第二次産業(ものづくり)を取り込む」という着想に繋がっている。)

此処で又しても(笑)、話は脇道に逸れますが・・私見では、アメリカでは新自由主義(別名「略奪的資本主義」)や金融資本主義が流行りとなり、また「Globalization」という名の利益誘導目的のAmericanaizationに強く誘惑され、アメリカ製造業の多くがGlobal化と金融化の過程でこの貴重な製造技術の内部保存に失敗し、肝心の「ものづくり」を弱体化させた。・・アメリカの製造業は、会計上の「売上高基準」では竹中氏の言を待つまでもなく「世界に隆々たる位地」にあるが、製造現場の「ものづくり」の基準ではOutSourceを安易に多用し過ぎて「ものづくり」の核心技術や情報の内部保存に失敗した。例えば、台湾のTSMCなど世界のFoundry達やEMS達の隆盛は真に「アメリカの失敗=過剰な選択と集中」に依る処が大きい。

2) 上記の「消費財組み立て産業」各社を顧客販売先とする、「生産財(=資本財)組み立て産業」。此処に属する企業の特色は、B2Bに特化することになるが、
イ)特別仕様設備では、重要パートナーとして企業秘密(商品企画、生産計画など)に基づいて(厳しい守秘義務が課せられる)事業を行うケースが多くなる、
ロ)汎用品でも非情な(笑)短納期の要求を受け容れる、納入した設備の不具合を勘弁して貰う(笑)などの日常的な「貸し借り」が強い取引関係を造っている。
以上イ)項、ロ)項を通じて私が強調するのは、「事業戦略のレベルに於いて取ることを迫られる事業リスクが、消費財メーカーとの直接比較では、生産財メーカーは相対的に小さい乃至大きくない」がポイントです。

ハ)販売先の売り上げの振幅によって、その振幅に数倍する発注の急増(然も短納期)、発注の繰り延べ(極端には取り消し)などの「荒波」が不可避である。
以上のイ)項~ハ)項の事業特質を背景として、最近は崩れて来ているが、「企業グループ」(XXX協力会を含む)など「閉鎖的環境」を好む要素がBuiltInされている。

3) 上記の二つの「組み立て産業」企業群の下流に、高野さんご推奨の高精度部品メーカーあり、多数の「XX地方にこの企業あり!!」群が控え、
更に、その下流に、先端的なものを含めて「多種多様な素材」を製造する「日本を代表する財閥ないしそれに準ずる大企業群」が存在する。
然しながら、此処に属する企業群は、バランスを失することは承知しつつも、この投稿の「生産財製造業」の視点では、ポイントではないので詳細は省略します。

読み返してみて、既に一投稿としては「長過ぎ」ているので、唐突に此処で一区切りとします。  「続く」に当たっての確認として・・・、此処での論点は、≪21世紀に於いて、生産財製造業は、「経済規模と人口規模での大国日本」の「ものづくり立国」を支える「柱の一つ」になり得るか?≫です。

高野様
「“モノづくり”精神の大元」といえば「ひとづくり」でしょう、やっぱり。

「ひとづくり」の基本は、「五明」でしょうね、きっと。

 「明」とは学んで明らかにすべきことを指し、仏教で説く「五明」とは、学問の種類としての五つの分野のことであり、仏教徒として学ぶ「内の五明」と、世俗一般の学芸であ る「外の五明」に分ける。

 「内の五明」とは、「声明(文法学・言語学・音韻学)」、「内明(宗教・哲学)」、「因明(論理学)」、「医方明(医学・ 薬学)」、「工巧明(工学・数学・暦学/天文学・建築技術など造形学)」などを指す。

 また、「外の五明」とは「声明」、「医方明」、「工巧明」、「呪術明」、「符印明」などがあるようですね。

 「因明」即ち「論理学」では、物事の正邪・真偽を論証する法として、宗(結論=命題)・因(宗を成立させる理論的な根拠)・喩(宗と因との関係を明らかにする例証)の三支からなる論式を確立することが大切ですね。

 また、「因明」即ち「論理学」を用いて、論証する場合の証拠として、「文証(文献上の明確な根拠)」・「理証(因果の道理に適うという明確な根拠)」・「現証/実証(実際に出現した形象・事象による明確な根拠)」を尊重し、日蓮聖人は『三三蔵祈雨事』で「日蓮沸法をこゝろみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず、…」と説いており、文証・理証・現証/実証の三証の中では現証/実証を最も重要視していますね、当たり前のことですがが…。

 さらに、様々の思想・哲学・道徳・宗教などを比較・検討して、高低・浅深・勝劣を判定するときに、前期「三証」と、「内外相対(内の五明と外の五明の比較)」・「大小相対(大きな乗り物と小さな乗り物の比較)」・「権実相対(一時的な手段である権と 根本のな内容である実の比較)」・「本迹相対(本来の姿・本体・本性・本心か先人の手本・先例・以前に何かが行われ存在した形跡かの比較)」・「種脱相対(結縁する段階である下種か、過去に下種したものを熟成して収穫/得脱する段階である脱益かの比較)」から成る「五重相対」を併用すべきですね。

 何れにしても「ものづくり」の基本は「最高の品質と最低の費用で社会に貢献」であり、「最高の品質」とは内容のばらつきの極小化であり「最低の費用」とは無駄の徹底的な削減であるから、この経営方針と戦略目標に対して、ぶれない「ひとづくり」が大切ですね。

(日本人を止めた)無国籍人さま
こんにちは、お久しぶりです。
このあと、天野さんや甲斐さんのブログも拝読させて頂き、やはり、農業林業は一筋縄ではいかないな...というのが実感です、農産物のビジネスといっても、現段階の時給率では当分余剰を輸出するという事は不可能ですし、大規模集約は、土地や耕地面積などを考えるとなかなか難しいと思います。私自身も農業の門外漢ですから、実際大規模農業に関わっている人、兼業で農業に携わる人、それぞれには、彼らのいい分も有るし、簡単ではないかと。それに、農業や林業は、工業と違い、自然相手ですから、常に一定の生産性を保つという訳にはいきません。ただ、日本という国の、食糧政策という観点や環境という観点、ひいては農業従事者の生活を守るという観点からすれば、この分野をほおつて置く訳にはいかないわけで、試行錯誤してでも、なんだかの方向性はつけなければならないのではないでしょうか。何事につけてもそうですが、当事者だけでは、どうしても生活に埋没してしまい、別の視点からアイディアも、なかなかでないと思います。おせっかいですが、だからこそ、そこに携わらない人間が、様々な考えを披見するという事は、使う使わないに関わらず、必要なのではないかと思っております。

[(日本人を止めた)無国籍人]様 ( 2009年07月30日 22:56)

あなたの論述は日本の高度資本主義消費社会における第一次産業(4.8%),第二次産業(26.1%)そして第三次産業(69.1%)の産業別人口割合[http://www.teikokushoin.co.jp/statistics/japan/index06.html]に基づく基本的な論点を踏まえて,正当に展開されている,と理解しております。従って,誠に失礼なお願いですが,論旨を更に整理して,明快な論理で,改めてご投稿の上,読ませて頂けないでしょうか。「THE  JOURNAL」では,あなたの論説は貴重です。なお,文章の中の(笑)など無用です。

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2009年11月、日刊工業新聞社

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