Calendar

2011年8月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      

Recent Comments

« <3.11に思うこと> ──その5──
メイン
<3.11に思うこと> ──その7── »

<3.11に思うこと> ──その6──

 3.11について我々が得ることの出来る情報は余程の特別な場合を除いて、メディアを通じて得るしかない。それ故に我々は、とりわけ3.11についてのこの国のメディア状況を検証する必要が、特にあると思う。

 さて3.11直後の報道は、経産省系の官僚や東電の「会見」と地震、津波の映像等の情報が中心であった。この段階での報道は、官から与えられる情報しか持ち得ないという限界と未曾有の大惨事への対応に、思考停止状況にあったのであろう、3.11に対するメディア側からのメッセージ性のある「報道」が無い分だけ、かろうじて読み聞きに耐えられるものであった。ところが3.11からおおよそ1ヶ月程経った頃から、メディアの伝えるところに彼等の「評価が出始めた。いわく「がんばろう東北」曰く「がんばろう日本」というスポーツビジネス企業が「観衆」をスタジアムに「動員」するかのごとき意味不明のキャッチコピーがまずそれである。その後、同程度の水準で「絆」というのも多用されるようになった。

 この種の「言葉」が氾濫するようになるということは、同時に、メディアが取り上げるポイントが、イベント中心主義に変質し始めたことを意味する。これは明らかに広告代理店的発想が情報発信の中心に混入してきたことを意味する。

 ところでこの「絆」という言葉の持つ意味は「運命の共同」つまり、生きるのも一緒、死ぬのも一緒ということが基本にあり、もともとの意味するところは、実に生き生きした実感的なものである。そこには「観衆」と「プレーヤー」という区分けのない一体の世界がある。そこで被災者の今置かれている状況を考えると、広告代理店的発想で言うところの「絆」などという耳障りのいい言葉を使える人間が果たしてこの国にいるのだろうか。どこにもいる訳がない。自らに「運命の共同」という固い意志も無く、この種の言葉は語られるべきではない。

 しかし、この種の「言葉」の氾濫は、3.11の「収拾」を官とメディアが如何なるイメージであるかは示している。それは1945年の敗戦時に「一億総懺悔」という論調がメディアと生き残りを賭けて官僚が用いた事実と類似している。

 ところでこの国のメディアは、事件、災害、事故の被害者を劇場公演の舞台の主役にし、観客は新聞の読者だったり、テレビの視聴者だったりで、観衆の役割を果たさせようとするのが得手である。その際、国民の多数は、観衆の立場を演じさせられ、目の前で繰り広げられる「劇」を安全なところから見物させられる。そこには「運命の共同」は存在しない。

 最近では、被災地で行われる「祭り」や海外に短期間のホームスティする学生の姿などに何か意味があるかのように報道するという具合である。しかし、さしもの劇場型報道もネタ切れのようだ。

 そもそも3.11はこの国が官僚やメディア産業によって創り上げられてきた「イベント型の偏執と熱狂」の歴史が持つ虚構性を、結果として暴くものであったと、私は考えている。

 ところで今、私の目の当たりに展開されている悲惨極まりない現実は、メディアが伝えるような「劇場型公演」でもなければ、まして玉転がしに一喜一憂するサーカーゲームでもない。そこには生身の人間が生きんがための苦闘がある。そして数え切れない「死」の悲しみがある。しかし残念なことにこの国のメディアは3.11を、国民を観衆の立場に置くといった愚劣な劇場としてしまい、メディアが特に年間3兆円と言われる原子力開発のための国民負担の税金を「喰って」来たことに対する「追求」からの逃亡を図ることに躍起となっている。再度言うが、劇場とは舞台の上で役を演ずる役者と、そこで演ぜられるものを「眺める」観客がいる。ところがメディアによるこの種の「情報」のデフォルメによって、国民と被災者との運命共同体的な一体感は稀釈化してしまった。そしてそこで演ぜられるものは「虚構」となってしまっている。

 しかし、3.11は虚構ではない、ましてテレビドラマでもない。それは厳然たる事実である。

 そして今、何よりも肝要なことは、3.11に向き合う姿勢を「イベント化、劇場化」してはならないということである。劇場化する民衆の意識が加速する中では、復旧、復興もイベントの中の一つのシーンとして捉えられてしまう。

 被災地における人々の努力を、イベントとして捉えることを自己への責任追及から逃亡できる唯一の方途として汲々とするメディアと官僚の姿に、私は激しい嫌悪感を持つ。

(次回に続く)

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.the-journal.jp/mt/mt-tb.cgi/8205

コメント (9)

■コメント投稿について編集部からのお願い

《THE JOURNAL》では、今後もこのコミュニティーを維持・発展させていくため、コメント投稿にルールを設けています。

一、コメント欄は匿名掲示板ではありません。投稿は本名(もしくは固定のペンネーム)でお願いします。

一、コメント欄は投書欄ではありません。記事と関係のないコメントや長文(400字以上)のコメントは、内容に関係なく削除する場合があります。

一、コメント欄は噂話を書く場所ではありません。ネット上とはいえ、公的な場である以上、事実関係に誤りがあるコメントは公開できません。情報元のソースはできるだけ開示してください。

一、コメント欄はフラストレーションの発散場所ではありません。感情的な非難や誹謗中傷は受け付けません。なお、最低限のマナーが守られている投稿であれば、記事に批判的なコメントでも削除することはありません。


そのほか、詳細は下記リンクにも掲載していますので、投稿前にご確認ください。

http://www.the-journal.jp/contents/info/2009/07/post_31.html

ご理解・ご協力のほどよろしくお願いいたします。

宮崎さんのおっしゃる通り、この国の報道機関には激しい嫌悪感を抱きます。

>被災地における人々の努力を、イベントとして捉えることを自己への責任追及から逃亡できる唯一の方途として汲々とするメディアと官僚の姿に、私は激しい嫌悪感を持つ。

先の大戦において、もっとも最前線において国民を扇動したのは、報道機関と教師です。靖国神社の遊就館を訪問すれば直ちにそれが理解できます。戦後、大局観も無くいたずらに反動し結局は権力側に立つことをよしとした彼らは、今も国民を扇動し続けています。

かつて権力と対峙するツールであった報道の自由が、現代では既得権益を守るための錦の御旗となって、その挙句に劇場型の報道になりさがっています。宮崎さんご指摘の通り、確たる信念もないままに、共有する痛みと覚悟の外にいて、表層的なイベント報道をすることによって、自らを安全な位置の置いている構図が透けて見えます。

宮崎 様

ご投稿を拝見し、頷くところばかり、納得です。私はマスコミは「劇場型虚構事実」の小説構築作家と理解しています。

関連して頭に浮かんでくるのは、小沢氏の「西松事件」、「陸山会事件」です。小沢氏のグループの大きな集団が数を頼みにして国の政策を歪めてしまうなどと、政党政治を基盤とした間接民主主義を否定するようなことを、平気で記事にしています。

また、集団維持のために多額の金を不正な手段で手にしているようなイメージを膨らませ記事にしたのである。このようなあくどい記事を恥ずかしげもなく連日報道し続けました。

最近も「小沢詣で」とか、やくざの世界の話のようなイメージづくりに努めており、あきれてしまう。どのような世界でも力のある信用のおける人のところには、自然に集まるのであって、自民党の石破氏の見当違いもはなはだしい。

一人ひとりがめいめい勝手なことを言っていると物事が進まず復興対策が遅れることをあれだけ批判しておいて、数を頼みにして政策を遂行しようとすると、旧い政治家だと批判する始末、マスコミは自らが自己矛盾に陥っていることが分からない。

自己のストーリでしか物事を見られない劇作家に変身したと言えるのであろうか。勿論検察ストーリの批判などできないが、一番恐れるのは社会全体が真実を知ることなく劇場型社会を正当化し、すべて国家が面倒ををみなければならないとする錯覚が起きる無責任社会の到来です。

<宮崎親分>
こんばんは。私は広告屋だけど、「がんばろう日本キャンペーン」はヘドがでました。
結局、それは被災した方に我慢せよ、という空気感を醸成してしまったからです。
本来、政治の働きは、被災している方々に頑張って貰わなくても良い環境を作り出すことです。
その不作為を「国民の全体責任」にすり替えるのがキャンペーンの効果です。
マスコミは「苦しい中でも我慢して諦めない被災者」をことさら美談で取り上げる。「自助努力」を絶賛する。私は悪意すら感じてしまう。
みんなが強い訳じゃないんだよ。
頑張らなくても、いいんだよ。
それをいって差し上げ、助けるのが政治の温かさでしょ。
頑張っている人は、さらに頑張れる様に助けるのが政治の仕事でしょ。
悪質なキャンペーンに何億も使う金があるなら、瓦礫の処理くらい金をドカンと入れて、さっさと済ませんか!
義援金もいつも間には、ろくに払われずにウヤムヤだ。
一言でいうと何も腹に堪らない、見せかけだけのショーウインドだ。どこまでも冷たく、人間味がない。

宮崎氏の仰せのとおりですね。小沢氏の問題も、長年、田中の子分イコール悪人と言うストーリーを立花隆が作り、劇場の舞台にはいつも悪役として登場、いや強制判断を国民に植え付け、”政治と金”イコール汚い物にしている。現実、政治にカネはつき物、しかし、力と人気が献金を産む、そこに期待がある。献金を多く受ける政治家の力を羨む政治家の味方の振りして虚構を描き正当化している。国民、購読者の求める物は真実なのです。真実を告げると云う正義をマスコミは放棄してしまい。国民を虚構の世界に導き、報道の自由をビジネスに還元してしまっている。体制側での報道は、いつも間違いは体制側に押し付けられる。国民はどんどんその真実を疑い始めているのに、もはや麻薬患者の様に元へは戻れない。マスゴミはもはや衰退期にさしかかっている。

宮崎親分さま

「媒(メディア)=産=官=政」が一体となった劇場型興行報道。
何度も繰り返さられるのは、その報道を無批判に消費する善良なる国民がいるからに他ならない。
そこから逃れる唯一の道は、国民ひとりひとりが、情報に対して自分の脳ミソで咀嚼し本質を理解する、思考的自立を図るほか道はないのではないか。
「劇場型報道」はそもそもメディアの本質そのものではないかと最近つくづく思う。しかし今更それを嘆いていても始まらない。
既存メディアであっても、ネットメディアやフリージャーナリストの発信であっても、“人間”というフィルターを通して発信される情報は、100%真理という事はあり得ない、というスタンスを私達は持つべきではないのか。
大本営発表的記者クラブの弊害がよく言われているけれども、たとえ、記者クラブが廃止されて既存メディアが新生まれ変わったとしても、フリージャーナリストの方々が今よりも大きな影響力を持つようになったとしても問題は解決しない。
情報の受けて側の思考的自立が前進しない限り、同じ問題がまた繰り返さられるだけである。

話は変わるが、小沢一郎氏が言う「自立と共生の社会」で言う「自立」は、
善良なる国民の「思考的自立」から先ず始めなければらないないのでは、と思う次第である。

なかなか熱のこもった論説だと思います。ただ宮崎さんは少し厳しいですね。(少なくとも私にとっては少し厳しいです。)
メディアの報道が<メッセージ>を持つ、ということ、および<劇場化、イベント化>をしている、と言う点は、これは「報道」というものの本質ではないでしょうか?ほとんどの報道(論説)は、それを受け取る側にとっては、所詮<他人事>でしかありえないのではないでしょうか?少なくとも私にとっては、報道される総てのことに運命共同体、もしくは当事者意識、という感情を持つことはできません。ここからは想像ですが、人間のキャパシティはそれほど大きくはなく、受け入れられる感情に限りがあるのではないか、そうだとすれば、報道の送り手側としても、ある程度<劇場化、イベント化>して報道を流すしかないのではないでしょうか?(かなり勝手な汎用化ですが。。。)
私が報道に対して嫌悪感を持つのは、報道の送り手の「価値観」を、受け手に押し付けることに対してです。ある価値観を提示するのはかまいませんが、それが総てだ、というように報道されると反発を感じます。そういう意味で、昔から報道(論説も同じですが)に対しては、かなり引いた見方をしております。(このコメントも私の価値観を押し付けているのかも知れませんね。)

宮崎様
日本の現状に合わない円高だって、協調介入してくれる国もなく、日本を米国のために奉仕することに、一方的な誘導をする勢力が、日本を牛耳っていることは、明々白々ですね。原子力発電事故や震災・津波の終息すらもまだまだメドすらたたないのに、新興国に原子力発電を売り込むことを誘導する番組制作とは、どんな人間性で制作し、報道しているのか、ほとほとあきれます。汚染された土壌を掘り起こして、何度も新しい土を埋めるが、その汚染された土も始末できない現状が、この国の真の姿なのです。

<悪魔の笛は終わらないのでは>
人は蓄積された情報と直近で得た情報で判断するものと思います。
狡猾な人間や組織はこのことをしっかりと自覚し、己の意図するように大衆を動かすべく必ず情報を統制する。
このことは過去においても現在でもあらゆる国で実行されている。
今日もNHKの朝のニュースで中国の高速鉄道事故から丁度1ヶ月になるのに中国メディアは当局の意向を反映してかこの事故の報道をしなくなったと批判的に報じていた。
私はこのNHKの報道を聞いて西松事件・陸山会事件が頭に浮かび、彼らも全く同じことをしているのによくもぬけぬけと言うものだと思いました。
NHKはNC9で22日には被災知事の声として宮城県の村井知事を登場させて復興の為の増税の必要を語らせ、23日は民主党代表選に絡めてNHKの解説者に財政再建を先送りすべきではないと発言させ増税を必死に煽っています。
そこには過去の実績からすれば財政再建は増税では実現出来ないとの経済学での常識的主張は一切出てきません。
久しぶりに生まれ故郷に帰る用があり、長兄と話す機会がありました。熱心な小沢支持者の私に対して彼が言うには新聞テレビで水谷建設が「小沢氏に裏金を渡した。」と証言したと報じられているので、周りの皆が小沢氏は裏金をもらったと思い込んでいるとのことです。仮にそれを否定する記事が小さく載ったとしても大半の人はそんなものは気に留めないでしょう。
大きく報道されることを疑う人間は割合としては非常にに少ないと思います。
私は技術者として重要と考える情報は自分なりに納得がいく裏づけが取れるまでは仮説としか扱わない習慣を身につけていますが、そうした人間は極めて少ないと感じています。
残念ながら、明確な意図を持って情報統制・情報操作が行われてしまったら、これに抗うことは事実上出来ないと思います。しかし、メディアによる洗脳の結果としての結末は全ての人に悲劇となってのしかかるわけです。
中国での文革、アメリカの9.11後ののアフガン・イラク戦争。前者は中国社会全体に、後者は欧米の参戦兵士とアフガン・イラクの国民に大きな戦禍をもたらしました。
日本では戦前の軍国主義、近くは小泉改革、さらには原発の安全神話もメディアの洗脳報道抜きでは語れません。
しかし、これが永い地球の歴史のほんのひとコマに現れ、滅びるであろう人類の宿命かもしれないと少し諦めの境地です。

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

※[投稿]ボタンをクリックしてから投稿が完了するまで数十秒かかる場合がございますので、2度押しせずに画面が切り替わるまでお待ちください。

Profile

宮崎 学(みやざき・まなぶ)

-----<経歴>-----

1945年、京都のヤクザの家に生まれる。
早稲田大学法学部に進むが、学生運動に没頭して中退。
週刊現代記者として活躍後、京都に戻り家業を継ぐが倒産。
「グリコ・森永事件」ではキツネ目の男に擬され、重要参考人Mとして警察にマークされる。
自身の半生を綴った「突破者」で作家デビューを果たした。
2005年には英語版「TOPPA MONO」も翻訳出版された。
最近は、警察の腐敗追及やアウトローの世界を主なテーマにした執筆活動を続けている。

BookMarks

オフィシャル・ウェブサイト
http://miyazakimanabu.com/

魚の目(魚住昭責任編集)
http://uonome.jp/

-----<著書>-----


『ラスト・ファミリー 激論 田岡由伎×宮崎学』
2010年1月、角川書店


『談合文化論』
2009年9月、祥伝社


『近代ヤクザ肯定論―山口組の90年』
2007年6月、筑摩書房


『安倍晋三の敬愛する祖父 岸信介』
2006年9月、同時代社


『法と掟と』
2005年12月、洋泉社


『近代の奈落』
2005年12月、幻冬舎


『TOPPAMONO』
2005年9月、Kotan Pub


『万年東一(上)』
2005年6月、角川書店


『万年東一(下)』
2005年6月、角川書店



当サイトに掲載されている写真・文章・画像の無断使用及び転載を禁じます。
Copyright (C) 2008 THE JOURNAL All Rights Reserved.