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2007年4月29日

『長崎市長銃撃事件』を私はこう見る(其の二)

ヤクザは常に犯罪のコストパフォーマンスはシビアに計算する。

例えば、10年刑務所に入れられそうならば、それ以上の見返りがあるかないかがポイントだ。

素人じゃあるいし、キレたからやるということは100%ないといっていい。

つまり、今回の事件で考えれば長崎市役所との交渉過程で誠意がみられなかったからというのは城尾容疑者の犯行動機にならない。

では、一般的にヤクザが犯罪を犯すことで得る利益とはなんだろうか。

それは金か名誉である。

アウトローの視点で考えれば、城尾容疑者がある種の名誉を手に入れようとしたため犯行に及んだとみるのが常識である。

これまで多くのメディアが長崎市との軋轢を動機だと報じているが、これらは全て間違いである。

また、警察は現場を訪れた城尾容疑者の知人を殺人幇助などで逮捕しているが、それ自体が原因究明につながることはないだろう。

結局は、真の原因追求までは至らず長崎市役所との交渉過程で怒りをもった城尾容疑者が犯行に及んだという、おざなりの捜査で終わってしまうであろう。

そもそも長崎市との交渉過程での問題というのは、270万円の車の修理代である。

この270万円という微々たる金を得るために腹を立て、無期懲役の可能性もある犯罪をヤクザである城尾容疑者が起こすとは考えられない。

そのように考えると、残された犯行動機はやはり名誉である。

この部分を解析しなければ事件の本質は見えてこない。

この種の事件が起こる一般論を私自身が考える現代ヤクザの行動パターンから考えれば、組の内部的な事情によるところが多い。

特に1987年の大阪戦争(山口組対松田組)以降、組対組の抗争は起こっていない。

むしろ、現代ヤクザの対立は「組対組」よりも「組内部の対立」という形に変化してきている。

よって、今回の長崎の事件の場合も組内部の状況がどうであったかが一番のポイントとなるだろう。

もちろん、私は取材をしているが、この部分を取材しない、できないメディアが圧倒的だ。

なぜかというと、警察発表を鵜呑みにするという悪しき体質から脱しきれない状況があるからだ。

今回の長崎市の事件では、むしろ警察に寄り添って生きていくしか能がない日本のメディアの悪しき姿を示した顕著な例であったとも言えるだろう。

余談だが、私はそういう考えがあったからこそ、今回の事件について日本の全テレビ局からの取材要請に一切応じず国外のメディアにのみ応じたのである。

次回は、警察の腐敗について書くつもりだ。

2007年4月18日

緊急考察!!『長崎市長銃撃事件』を私はこう見る

昨日、4月17日午後8時前、長崎市の伊藤一長市長が選挙事務所前で銃撃された。

殺人未遂現行犯で長崎県警に逮捕された男は、山口組系水心会会長代行、城尾哲弥容疑者である。

今回は、この事件の私の見方について書くこととする。

まず、考えなければならないのは容疑者である城尾氏の年齢である。

59歳といえば私とほとんど変わらず、分別がつく年齢だと考えられる。

だとすれば、分別がつく大人が殺人未遂を犯すまでの過程には、それなりの動機があったはずだ。

その動機については、長崎県から発注を受けた道路工事現場での自動車事故や温泉施設の解体工事の受注を巡るトラブルが原因ではないかと言われている。

だが、それが今回の事件の動機となりうるだろうか。

私は、そのトラブルが短絡的に市長銃撃に繋がるかどうか大いに疑問である。

おそらく異なる動機があったのではないか。

もう一つは、この事件に対する全メディアの報じかたである。

これまでの報道を見ていると、全てのメディアが「暴力はいけない」の一辺倒である。

なるほど、確かに「暴力はいけない」という意見に異論はない。

だが、情報によると容疑者である城尾氏にはすでに弁護士が付いている。

この弁護士のコメントを取材することもメディアが報道すべきことである。

小学校のホームルームのように「暴力反対」を唱えるばかりでは一向に事件の概要が見えてこない。

弁護士のコメントを報道するのも「原因追求」へのメディア的努力の一つではないだろうか。

また、城尾氏は長崎県を相手にいくつかの裁判を起こしていたという事実がある。

しかしながら、ヤクザ組員の訴訟では、どのような正当な言い分があったとしても現在の司法には受け付けられない現実がある。

城尾氏が裁判で訴えていた内容について、ある種の先入観を持ち真面目に取り扱わない司法の在り方も事件の要因の一つではないのかと私は考える。

暴力反対と唱えるだけでは、この種の事件が今後も絶えることはないだろう。

なお、この事件に関する新たな情報が入れば、随時、コモンズにアップするつもりである。

2007年4月17日

アウトロー史観(其の九)「何故、今アウトロー史観なのか」

ところで私は「わがまま」であることにおいては誰にも負けないという変な確信がある。

この連載もそうしたわがままな動機によるものであって、「世のため、人のため」に何か書こうという「立派な」精神など私にはかけらもない。

そして、この「アウトロー史観」も私のまったく個人的趣味からの出発である。

ところで、それでは何故今「アウトロー史観」を私が書くのかというと、それは私が今書き上げようとしている著作との関連で私の頭の中を整理整頓しておく必要があったからである。

さて、このコモンズの読者諸氏には、小難しい話につき合わせてしまったおわびの意味で、今、私が取り組んでいる原稿のさわりの部分を紹介しておく。

そうすれば何故、私が「今、アウトロー史観なのか」おわかりいただけると思うからである。

流民労働者の街、神戸

いま神戸というと、六甲山腹の高級住宅地、洒落た洋館や教会、明治以来の洋風レストランやベーカリーというイメージから、昔からハイカラでハイブロウな街だったかのように思われてしまうが、そんなことはない。この男がやってきた明治三十九年の神戸というと、生田川河口付近の新川や葺合の通称二百軒長屋をはじめとして、いくつもの広大なスラムをかかえ、農山漁村からの流入労働者と主に中国人からなる外国人労働者が混住する雑駁な流民の街だったのである。神戸の人口膨張の大きな要因は、流民労働者の流入であった。

この男が神戸にやってくる少し前、一八九八年(明治三十一年)に刊行された『神戸開港三十年史』には、「非人乞食潮の如く来る」と題して、明治初年に乞食・浮浪者取締の厳令を出しているのにもかかわらず、どんどん流入してくるのはどうしようもない、と書かれている。「今兵庫神戸の如く、俄に景気付たる地に向て潮の如く乞食の押寄せたるは免れさる勢ひなりき」というのである。そして、農村が困窮し港湾都市が繁盛するかぎり、この勢いは続くだろう、と観測している。

事実、そうだったのである。そして、この流入した流民労働者のうち定着したものの多くが、船舶の貨物の積み卸しをする港湾荷役の力業、すなわち仲仕として働くことになったのである。

神戸に着いたこの男は、ある本では、その日のうちに荷役請負の組の小頭と出会い、その度胸と胆力で相手を圧伏し、たちまち仲仕の部屋に迎え入れられたかのように描かれているが、これは、おそらく創作であろう。実際には、まず木賃宿に身を落ち着け、浜の立ちん坊としてその日の仕事を手配師からもらう買人足から出発したにちがいない。

神戸に流れ込んできた流民労働者は、まず新川や葺合、長田などに無数に立ち並ぶ木賃宿の一隅に居を定める。木賃宿郡は、それぞれのスラムの一角に組み入れられている。そして、このスラムで仕事を探すわけだが、彼らがすぐに就くことができる職業は二つしかなかった。行商人か沖仲仕である。懐中無一文でも、それならできた。

無一文の流民や定着貧民が集まるスラムには、彼ら専用の高利貸しがあった。そこにいくと、一円くらいのカネと天秤棒や籠などの道具を貸してくれる。そのカネで米と安い南京米を仕入れて、適当に混ぜ、貧民街を売り歩く。貧民街では、商品は絶対に掛け売りはしなかったから、その日その日で少量の米を現金買いする貧乏人たちがたくさんいた。だから、この米の行商はけっこう商売になった。一日歩いてえた売り上げのなかから元金一円と利息一〇銭程度を高利貸しに支払うと、なにがしかの銭が残る。こういう商売が、その日からできた。

もう一つは、沖仲仕の立ちん坊である。海上に停泊している大型船から艀に荷物を運び込むのが沖仲仕の仕事である。沖仲仕には、この仕事を専業にして、いわば正社員として働いている「常人足」、決まった人夫部屋に所属していて、部屋単位で仕事をする「部屋人足」のほかに、一度に大量の人夫が必要になったときに、その日ごとに雇われる「買人足」があった。この「買人足」になら、すぐにでもなれるのである。

早朝、まだ暗いうちに海岸に行って、そこに集まっているそれと思しい男たちに混じって立っていると、手配師がやってくる。身元がどうの、保証人がどうの、という面倒なことはいっさいない。仕事も、きつい肉体労働だが、なんの技術も技能も必要としない。その日からできる。そして、指図されるままに艀に乗って船に上がり、一日働けば、その日の賃金が手渡される。

賃金は、仕事によって違うが、だいたい三〇銭から四〇銭、そこから昼飯に配られた握り飯代が引かれる。宿泊代が一晩五銭から一〇銭、一膳飯屋で飯が一杯一銭五厘、汁が一杯一銭だから、いくらか残る。もっとも男は家族持ちだったから、きつかったろう。

『神戸開港三十年史』には、この買人足の実態について、こう書かれている。
「一時外国船多数の入港ある時は、人夫二三千人を要することあれば、常人足、部屋人足を以て其用を弁ずるに由なし。此時に当り労力供給者は、日々海岸に来て不時の需要を持つ所の、謂立ちん坊と呼べる労働者を募り、以て一時の急に応ず。然れども尚ほ不足を感ずる時は、更に古湊通の木賃宿、宇治野部落、又は市内貧民の住居区に奔て労働者を募集するを常とす」
という具合である。立ちん坊を雇ってもまだ足りないときに人集めに行くと書いてある「古湊通の木賃宿」とはスラム、「宇治野部落」とは市内にあった被差別部落である。

このような買人足の仕事ぶりを見ていた棒心(ぼうしん)と呼ばれる人足部屋住みの現場監督が、これはと見込んだ男をスカウトして、部屋人足に加える。そして、見所のあるヤツは仲仕のリーダーとして部屋で育てていくのである。この男は、買人足から出発して、そのように見込まれ、一人前の沖仲仕の仲間入りをしていったのだと思われる。彼が入ったのは、荷役請負の中堅どころだった倉橋組であった。

次回へ続く。

2007年4月10日

アウトロー史観(其の八)『日本ではどうだったのか』

それでは、この個別社会は日本ではどうだったのか。

私は、明治維新以前の近世までは、日本にも個別社会は明らかに存在していたと考える。

そこで今回は、例えば「ヤクザ」という個別社会を考察することとする。

いつの世にも、法と秩序からはみ出して生きている者たちがいる。そういった人間たちが集団を形成したものがヤクザだとするなら、いつの世にもヤクザはいる、ということになる。そして、実際に、ヤクザは、外側からは、いつの世にもいるしょうもないヤツらというふうに見られていることが多い。

逆に、ヤクザの内側からも、自分たちを古くからの任侠の系譜を継ぐものとしてとらえようとする傾向がある。いつの世にも通用する任侠道というものがあって、自分たちは、現代においてそれを継承するものだ、というわけである。

そうすると、ヤクザとは、いつの世にもいる仁と義を守る集団である、ということになり、これは、いまいった外側からの見方を価値評価において裏返しにしたものになってくる。

確かに、ヤクザにつきものの賭博は、すでに奈良時代の朱雀三年(六八九年)に賭博禁止令が出ていることからもわかるように、古くからおこなわれているし、鎌倉時代後期の歴史書『東鑑(あずまかがみ)』に、博徒たちの徒党化についての記事が見られるという。また、任侠集団については、もっともっとはるかに昔、中国古代前漢の歴史書、司馬遷の『史記』外伝にも出ているのだから、そういっていえないことはない。

だが、現実のヤクザは、そんな昔から代々継承されて、万世一系でいまに至ったというわけでは、もちろんない。その時代、その時代に社会の吹きだまりのなかから、社会からはみ出す形で発生してきたものなのだ。

そして、ヤクザというのは、単にはみ出したくてはみ出したのではなく、はみ出さざるをえなかったのだ、という側面がある。

法と秩序の枠のなかでは生きていかれなかったがために、ヤクザになったのである。なぜはみ出さざるをえなかったのか。その時代、その時代の法と秩序の枠、すなわち国家と社会の構造は、それぞれ、その時代特有のものをそこからはみ出させるのである。

だから、そこを見ないで、「いつの世にも悪は蔓延る」「いつの世にも仁義は廃れない」というような見方をしていては、その時代、その時代が、なぜ、どのようにヤクザのような者たちを生み出さざるをえないのか、がわからない。彼らがはみ出さざるをえなかった事情も明らかになってこない。ひいてはヤクザの存在意義というものも明らかになってこない。

いままで書かれてきたヤクザの歴史の大半には、このような観点がない。だから、ヤクザの歴史はほとんどの場合「博徒喧嘩史」「暴力団抗争史」として取り扱われてきた。また、多くの場合、事実と虚構が入り交じった「稗史」として書かれてきたのである。

それは、ヤクザという集団を蔑視、異端視してまじめに扱おうとしないからであった。こうした扱い方に対して、ヤクザという社会集団をまじめに取り上げて、なぜそうした社会集団が発生したのか、どういう役割をになっていたのかを明らかにし、そこから経済的・政治的・社会的変遷としてのヤクザ史が書かれなければならない。

そこで次回は、近世ヤクザの始源を見ることとする。

2007年4月 2日

アウトロー史観(其の七)『ヨーロッパの近代化』

さて、今回はヨーロッパの近代化がどのようなものであったかを書くこととする。

個別社会は、したがってその規範である掟は、さまざまな多様性をもち曖昧である反面、そうであるだけに、具体的で生活的である。具体的な生活場面に即している。

これに対して、全体社会は、したがってその規範である法は、個別社会および掟より具体的でないし、生活的でない。抽象的で、生活から遊離している。

ところで、法と掟は、相互に無関係ではない。

掟がどのようなものであるかに応じて、法も変わってくるし、法がどのようなものであるかに応じて、掟も変わってくる。そういう相互に相手を規定しあう関係にある。

そういう相互規定関係の中から社会規範が、いわば法と掟のセットとして形成されてくるわけである。

そういう相互に規定しあう関係にあるから、個別社会が強いと、社会規範---ここでいっているのは法と掟の複合体としての社会規範である---は具体的で生活的な基盤をはっきりともった、いわば地についた規範になるけれど、個別社会が弱いと、社会規範が抽象的で生活から遊離したものになってしまう。

その意味では、個別社会がどれだけ強固に形成されているか、が法と掟のあり方を規定する重要な要因になってくる。

ヨーロッパでは、この個別社会が、都市・農山村における地域社会のような基礎社会においても、職能別組合や協同組合のような派生社会においても、強固に形成されており、イタリア社会、スウェーデン社会といった国民国家レベルの全体社会よりも、ある意味では強いとすらいえるのである。

たとえば、イタリアでは、協同組合、消費組合、同業組合などの各種の協同組合がさまざまな局面に網の目のように組織され、強い力をもっている。また、職能別労働組合とその連合が、あらゆる工場や事業所に組織されて、その集合が「労働者世界」(イタリア語でmundo obrero)と呼ばれる独立した一つの世界を形づくっている。

そして、「われらの世界」と「やつらの世界」がはっきりと区別されているのだ。

この「われらの世界」と「やつらの世界」とでは、もちろん、価値態度体系が違うし、文化が違い、したがって従うべき掟がまったく違うわけである。

イタリアでは、このように組合という派生社会の自立性がきわめて高くなっているわけだが、地域共同体という基礎社会の自立性も高い。

だが、この点では、イタリアよりもスペインのほうがさらに上である。スペインに行って驚くことは、首都マドリッド圏以外のどの地方に行っても、その地方ごとの独立運動があることだ。

バスクの独立運動は有名だが、それだけではなく、たとえばバルセロナの街に行けばカタルーニャ独立運動のポスターが貼ってあるし、サンティアゴ・デ・コンポステーラの街に行けばガリシア独立運動のポスターが貼ってある。どこの地方に行っても同じである。民族が違うというわけでは必ずしもない。民族独立ではなくて、地域独立なのだ。

スペイン人は、政治的な意味ではスペイン人としてのアイデンティティをもっているが、社会的な意味ではあくまでカタルーニャ人、ガリシア人、アンダルシア人などなどとしてのアイデンティティを明確にもっており、それがスペイン人としてのアイデンティティに優先しているのである。

これはラテン系の社会に共通して見られる特徴で、かつてスペイン人の植民地だった南アメリカ北部のベネスエラ、コロンビア、エクアドルを取ってみても、ベネズエラ人、コロンビア人、エクアドル人であるという意識よりも、自分の出身地域によってバランキージャ人だとか、サンタンデール人だとかいう意識のほうがずっと強いし、またそれぞれの国民であるという意識と並んで、かつてシモン・ボリーバルのもとで、いまの三国の地域がいっしょに独立をめざしていた「大コロンビア」(Gran Colombia)の国民であるという意識がある。少なくとも国民国家という意識はない。

これは、ラテン系社会の特徴だが、ラテン系社会に限ったことではない。

たとえば、スウェーデン社会を見てみると、ある意味ではラテン系社会よりもっと進んだ「コンミューン社会」になっているのである。

ここでは、「コンミューン法」という規律が制定され、福祉を中心とする行政サービスを国家よりもむしろ地域コンミューンがになう制度が確立されていて、こうした地方自治体の基本単位であるコンミューンと県コンミューンのほか教会コンミューンなどさまざまなコンミューンが制度化されている。

そのほか、ヨーロッパ諸国では、それぞれの歴史に根ざした違いがあるものの、総じて個別社会が自主的にしっかりと成長して根を張っており、むしろ全体社会よりも強いものになっている。

EU統合が成功したのも、そういう社会構造があればこそであったと考えられる。

資本や労働力をはじめ、それまで国民国家レベルで基本的に自己完結していたさまざまな要素が国境を越えて開放されても、それぞれの地域の住民がアイデンティティを失わず、スムーズに適応できたのは、もともと国民国家というまとまり以前から自立して存在を続けてきた都市を中心とする地域社会が国民国家のもとにおいてもアイデンティティの拠り所となっていたからでる。

このように、全体社会以前にあり、全体社会より強かった個別社会を拠点として人々はヨーロッパ共同体という新しいまとまりに適応していったのである。

Profile

宮崎 学(みやざき・まなぶ)

-----<経歴>-----

1945年、京都のヤクザの家に生まれる。
早稲田大学法学部に進むが、学生運動に没頭して中退。
週刊現代記者として活躍後、京都に戻り家業を継ぐが倒産。
「グリコ・森永事件」ではキツネ目の男に擬され、重要参考人Mとして警察にマークされる。
自身の半生を綴った「突破者」で作家デビューを果たした。
2005年には英語版「TOPPA MONO」も翻訳出版された。
最近は、警察の腐敗追及やアウトローの世界を主なテーマにした執筆活動を続けている。

BookMarks

オフィシャル・ウェブサイト
http://miyazakimanabu.com/

魚の目(魚住昭責任編集)
http://uonome.jp/

-----<著書>-----


『ラスト・ファミリー 激論 田岡由伎×宮崎学』
2010年1月、角川書店


『談合文化論』
2009年9月、祥伝社


『近代ヤクザ肯定論―山口組の90年』
2007年6月、筑摩書房


『安倍晋三の敬愛する祖父 岸信介』
2006年9月、同時代社


『法と掟と』
2005年12月、洋泉社


『近代の奈落』
2005年12月、幻冬舎


『TOPPAMONO』
2005年9月、Kotan Pub


『万年東一(上)』
2005年6月、角川書店


『万年東一(下)』
2005年6月、角川書店



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