アウトロー史観(其の六)『日本近代化の特異性』
今回は前回に引き続き、明治維新後の日本の歴史の変則性について書く。
秩父困民党のおきては自治の破壊に抵抗して創り出された。
とはいっても、何の抵抗もなく自治が破壊され、全体社会に飲み込まれていったわけではない。
抵抗は、自由民権運動という形でなされた。そして、その抵抗の中で、自治的な掟を創り出していった。その典型が、一八八四年(明治十七年)に埼玉県秩父郡で農民を結集して蜂起した秩父困民党である。
秩父困民党を組織したのは秩父自由党だったが、実際に中心になったのは大宮郷の侠客田代栄助ら農村の任侠集団だった。総理の田代栄助、副総理の加藤織平はともに博徒、甲大隊長と乙大隊長は小学校教員と自由党員だったが、各村ごとに組織された小隊の指揮官は大部分は博徒であった。
彼らは明治になって上から自治が破壊されていっても、任侠集団としての独自の自治的結束を保っていたから、その自主的規範を援用して農民蜂起の中核になっていったのである。
彼らが制定した秩父困民党の規律つまり掟は、次のようなものであった。
第一、今般大事件中金円其他を私に押領致す間敷事、若し犯す者は斬。
第二、事件中、決して婦人に関係致す間敷事、若し犯す者は斬。
第三、酒宴遊興は一切致す間敷事、若し犯す者は斬。
第四、私の遺恨をもって人を暴言致す間敷事、若し犯す者は斬。
第五、すべて指揮するものの命令を受けず私に事をなす間敷事、若し犯す者は斬。
[申合せ]およそ何人といえども、先方より手向い致さぬ内は、決してこちらから手出しせぬ事、警察署等は、人が居れば格別人の居らぬに破壊しては国益を害する故、決して空所を打ちこわさぬこと。高利貸には一応掛合をし、貸借を皆無にさせ、応ぜぬ際は斬殺す。近隣の害となるから放火はせず、やむを得ぬときは、もっとも苛酷な者の家には、放火するに致方ない。
カネやモノを私物化したり、オンナをこましたり、酒を飲んで騒いだり、人に難癖をつけてどなったりしたら斬る、というのだから、かなり厳しい規律である。
この秩父困民党の規律は、抗日戦争を戦いぬいた経験から制定された中国人民解放軍の「三大規律八項注意」を思わせる。一九四七年に制定されたものだが、抗日戦争時代から八路軍や新四軍の中で実践されていたものを集大成をしたものであった。制定された「三大規律八項注意」は、次のようなものである。
三大規律
一、一切の行動は指揮に従う
二、大衆のものは針一本、糸一筋も盗まない
三、一切の捕獲品は公のものとする
八項の注意
一、ことば遣いは穏やかに
二、売り買いは公正に
三、借りたものは返す
四、壊したものは弁償する
五、人を殴ったり罵ったりしない
六、農作物を荒らさない
七、女性をからかわない
八、捕虜を虐待しない
これは、太平天国の軍律をもとにしたものだといわれている。
太平天国というのは、清朝末期の一八五一年から一八六四年に広西で起こった宗教的農民叛乱で、土着的キリスト教信仰にもとづく上帝会が中心になったが、後漢末の黄巾の乱以来中国に伝統的な、宗教的秘密結社を基礎とする農民叛乱の近代版といえるものであった。
黄巾の乱の太平道、太平天国の乱の上帝会、これらは、教えは違っても、いずれも民間宗教であり、それを媒介にした相互扶助組織であり、それを統べる掟は相互扶助結社のそれを範型とするものであった。人民解放軍も、その例に漏れない。それは、土地均分を実現する「共産道」ともいうべき「民間宗教」を基盤とした農民叛乱軍だったといえるのではないか。
秩父困民党の掟がそれと似たものになったのは、困民党が同じように農民の相互扶助を基盤にした結社としての性格をもっていたからにちがいない。そして、その相互扶助結社の「前衛」の役割を果たしたのが、農村任侠集団としての博徒だったのである。
同じ年、秩父困民党事件より前に群馬事件が起こっている。これは、妙義山麓人馬ヶ原に数千の農民を結集した蜂起だったが、これは秩父困民党でも大きな役割を果たした自由党壮士・宮部襄が、上州博徒の大親分・山田丈太郎やその弟分の神宮茂十郎、町田鶴五郎らの博徒を動かし、彼らが中核となって起こした農民叛乱であった。
このように、この時期の農村には、明治政権に対する同じような性格の抵抗が見られたのである。しかし、このような抵抗は明治政権の全力を挙げた弾圧によって粉砕された。そして、それによって、個別社会からの自治的な社会規範が形成される道も閉ざされていったのである。
このように日本の近代化は、基礎社会においても派生社会においても、個別社会の自治、独立性を徹底して押しつぶすことから出発したのである。それはあまりに徹底していたため地域の生活の荒廃を招き、のちに政府は大区小区制は廃止せざるをえず、また明治四〇年代になって「地方改良運動」を起こさなければならなかったのである。だが、それらの措置も、いったん破壊した自治を甦らせるものではなく、その後の近代化も、一貫して個別社会を呑み込んだ単一の全体社会を国家が画一的に統合していく形で行われていったのである。
以上が明治維新以降の日本の歴史の変則性である。
それではこの近代化は、ヨーロッパでは、どうだったのかを次回は比較することとする。








