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2006年12月17日

歴史観をめぐって(其の三)『アウトロー史観の確立』

前回、前々回で日本の近現代史の中でのエポックと思われる(※1)米騒動と (※2)三井三池争議の評価をしてきた。

その評価の中で、私は社会の最底辺で生きざるを得なかった人たちと歴史との関わりが欠落している従来の歴史観は無意味なものであると唱えてきた。

そして、その思いが強まるにつれ、そういった人たちの視点から見た歴史観、つまり『アウトロー史観』を確立していきたいと考えるようになった。

実際に、11月19日に行われた沖縄県知事選挙を振り返ってみると、革新側の敗北という結果を招いた大きな原因の一つに、革新側が唱えた基地反対という正論が最後まで失業者たちの胸に響かなかったことが考えられる。

本来ならば、革新側というのは弱者の味方であるはずなのに、なぜ沖縄県知事選挙においては弱者側が革新側を支持せずに棄権したり、場合によっては保守側を支持したのだろうか。

私は、沖縄の失業者たちが最後まで平和理念を唱える人たちを自分たちと同じ苦しみを持つ側の人間だと思えなかったのではないかと思う。

つまり、失業者たちは革新側の運動を行っている人々を生活安定者として捉えたのである。

その結果、失業者側が持つ不安感というのが全体政治に向かわずに自分たちよりも少し条件のよい生活を送る人々に対しての感情的な反発を生み出すこととなった。

そういった感情は小学校のHRに例えて考えると分かりやすい。

HRで先生のご機嫌をとるように「トイレに行った後は手を洗いましょう」、「廊下は走らない」という正論を唱えるエリートたちに対して、落ちこぼれている連中というのは無意識に反発の感情を持つものである。

前回の沖縄県知事選挙においては、両者が唱える主張の是非を別にして、感情レベルの問題で考えると保守側の人間のほうが彼らの目線と近かったのだろう。

私は、このアウトロー史観の確立というテーマの中で私が唱えている公式の歴史観に欠落しているアウトローたちの視点や感情が、実は社会を動かしている原動力である可能性が大きいと考えている。

そのような思いをベースに、もう一度この国の歴史を社会の枠組みから外れたアウトロー側の視点から振り返り、これまでの歴史観とは違った『アウトロー史観』を確立していきたい。

※1 米騒動
1918(大正7)年7月~9月の米価急騰を原因とする全国的暴動を指す。
1918年から始まったシベリア出兵をきっかけに需要増大を見込んだ商社や米問屋らによる米の買占め、売り惜しみと政府の米価調節失敗が重なり米価が急騰。そのような状況下で、1918年に富山県下新川郡魚津町の住民らが、米問屋による県外への米移送阻止を行い、それが暴動の発端となった。暴動は全国的に広がり、検挙者数万名、起訴者は7000名以上に達した。

※2 三井三池争議
1960年、福岡県大牟田市で三井鉱山の合理化案に猛反対していた三井炭鉱労働組合連合会・三池炭鉱労組と会社側が組織した三井新労組が全面衝突した。会社側は三池炭鉱や港湾施設の前で労働組合側を排除して強制就労しようとしたため流血の惨事となった。事態は一企業の労働組合問題から炭鉱業界全体の問題として発展。日本炭鉱労働組合が事態を収集しようと斡旋に乗り出したが決裂。7月7日の闘争のシンボルとなった「ホッパー前の対決」では300人以上の負傷者がでた。この事態に当時の労働大臣が調停に入るなど様々な施策提案がなされ、ようやく収束の方向が見えてきた。中でも「離職者の完全失業対策」などの条件が労働組合側に受け入れられて、両者が生産協定に調印したのが10月29日だった。だが、労働組合側が全面ストを解除して就労したのは12月1日。1月25日のストライキ開始から実に282日間に及ぶ、労働運動史上最も規模の大きな争いであった。

2006年12月11日

歴史観をめぐって(其の二)『天皇と被差別部落民』

前回に引き続き、アウトロー史観の基本的問題について記す。

今回は「天皇」「民衆」の問題である。

この問題について、私は私の著作『近代の奈落』(幻冬舎)の中でこのように書いたので参照にしていただきたい。

naraku061211.jpg
『近代の奈落』
2005年12月、幻冬舎、価格760円(税込)

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(以下、『近代の奈落』より引用)

私は、柏原三青年の章に、こう書いた。

「いつも何かを思い詰め、破滅の渦に引き込まれていこうとする男たちを、支え、救っていくのは、常に女たちであり、また広い意味で女性的な共同性である。……西光の描いた原像には、彼らの企てをほとんど女性的といっていい支えで包み、破局を救っていく現実の部落共同体の姿が重なっていたのではなかったか」
 
平野はおそらく、故郷の部落共同体で、このような女性的な共同性に包まれて育ち、出身を隠して帝都の雑踏に紛れこんだあとでも、その共同性へのノスタルジーを母への想いに結晶させていただろうと想像される。 そして、西光万吉が天皇の下に万民が還っていく一君万民の平等社会=「高次的タカマノハラ」を母権制的なイメージで描いたように、平野小劔も天皇をそれと同じような母性的なイメージでとらえていたのではないか、と思われるのである。
 
私は、平野は天皇が好きだったのだと思う。母に愛されたいと母を愛するように、天皇に愛されたいと天皇を愛したのだと思う。そして、当時の部落民の中には、このような天皇の愛し方が広く見られたのではないか。
 
とくに、生まれ育った部落を離れて異郷で差別に直面しながら暮らす部落民には、故郷の部落共同体への想いとともに、天皇に思われたいが故に天皇を想うという気持ちが、母への想いと重なるかたちで強く存在するケースが見られたのではないか。
 
被差別部落に生まれ育って南方の異国に身を売った、からゆきさんたちの生涯を追った大場昇『からゆきさん おキクの生涯』(明石書房)には、そうしたケースがいくつか描かれている。大場のことばを借りれば、そこでは「天皇制のピンとキリ」である天皇と被差別部落民の娼婦とが、ピンとキリであるが故に「一瞬交差」するのだ。
 
また、彼女らからゆきさんは、日本を愛した。
 
日露戦争のとき、シンガポール沖合いを堂々と過ぎ行くロシアのバルチック艦隊の姿を目にして、こんな強大な艦隊と郷土の男たちが戦わなければならないと思うと、やもたてもたまらず、領事館に飛び込んで指輪も簪も投げ出して軍費にしてもらいたいと申し出たからゆきさんがいた。
 
別のからゆきさんはいった。

「あにしゃま、我々は血も肉も濁ってゐますよ。黒ん坊も白ん坊もあらゆる男を相手にしました。しかし魂まで腐ってはゐません。(と胸をたたき)今度の日露戦争で、ボルネオだけの妾等の仲間で献金しました。千圓(今の一千万円位)もした人もありました。あにしゃま、此次に亜米利加とやる時は、少なくとも二、三倍の献金ができますばい」
 
これは「愛国美談」などではない。いや、いわゆる「愛国」ですらないと私は思う。大場は、「自分が棄てられ、蔑まれている母国へのこの愛国、あるいは憂国の情」が「一方通行の片思いであるだけに、なお痛ましい」と書いているが、私は、これが「愛国」「憂国」といった国家意識にもとづくものだと思わないし、「痛ましい」とも思わない。ましてや、一部の知識人がいうように、日本は一等国だという大国意識にとらわれた民衆の倒錯した意識だなどとはまったく思わない。
 
きわめてまっとうで、しかも誇り高い態度だと思う。
 
平野小劔もそうだったと思う。彼が立憲労働党に拠って展開した労働者の普選運動は、全体としてどういう意識に立脚していたか。
 
「国運を賭する征露の大戦に、資本家は之に乗じて大金儲けをなし、罐詰に石を容れて兵士に喰はせた時、華族様の子は戦線に出ず、弾丸の当たらぬ処に置かれた時、大臣大将は公侯爵になつた時、国家のために進んで身命を擲ったものは実に平民の子ばかりであつた」ではないか。だから、「我等が普通選挙を主張したのは、……天皇の威徳の下に統一して階級なく差別なく、億兆皆な日本人として平等に日本国家の事に任ずるといふ真正なる日本民族の日本帝国を再建すべしと信じたからである。」(上杉慎吉「起きてよ無産の愛国者」一九二〇年)
 
上杉慎吉は国体主義者であり、こういうことをいうのには彼なりの政治的意図があるのだが、その政治的意図を超えて、ここには当時の労働者の心情と意識が、かなりの程度反映され表現されている、と私は思う。
 
被差別部落出身のからゆきさんは、自分を日本近代社会の「市民」だなどとは思っていない。けれど、「だからこそ」天皇を想い、「にもかかわらず」日本を愛するのである。
 
同じように、平野小劔も自分を日本近代社会の「市民」だなどとは思っていない。けれど、「だからこそ」天皇を想い、「にもかかわらず」日本を愛するのである。

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この考え方が私のアウトロー史観における基本的なポイントなのである。

従来の歴史観では、被差別部落民たちの天皇への思いについて触れてこなかった。

だが、実は戦前の被差別部落民たちの天皇への思いというのは非常に強いものがあるのだ。

明治維新を経て日本がアジアへと進出していく中で、からゆきさんは東アジアやアメリカ、アフリカなどへ売春婦として売り飛ばされていった。

言ってしまえば、彼女達は国や社会から見捨てられた人たちである。

しかしながら、その被差別部落民である彼女達が持っていた精神のほうが、日本国内にて天皇を利用し、国を支配してきた「君側の奸」と言われる官僚達が持った精神よりもずっと気高いと言えるのではないか。

私が確立しようとしているアウトロー史観においては、こうした事実から出発してみようと考えている。

2006年12月 4日

歴史観をめぐって(其の一)『米騒動、三井三池争議の実行者たち』

これまでのアジア諸国における歴史を振り返ったときに、我々は一体どのような歴史観を持つべきなのだろうか。

これまで語られてきた日本の歴史観というものは、マルクス主義的な歴史観と保守派による皇国史観の2つの争いが大きな論点であった。

しかし、もう一度この国の歴史を社会の枠組みから外れた人々、つまりアウトロー側の視点から振り返れば、これまでとは違った歴史観が見えてくるのではないのか。

私は、そういう前提の中でアウトロー史観というものを確立しようと考えている。

そもそも、私がこのような考えを持つに至った経緯には、これまでの日本の近現代史で言われてきた定説の存在によるところが大きい。

その定説をもう一度見直し実証してみると、どうも定説そのものが間違っている可能性があると思うのである。

まず初めに、大正時代に起こった(※1)米騒動を振り返ってみると、これまでのマルクス主義的な歴史観では、この騒動を契機に日本のデモクラシーというものが生まれ、その結果として水平社運動が起こったり日本共産党が創立されたとされている。

つまり、その米騒動が人民による闘争のスタートだというのが定説であり、実は、これは保守派の人たちも受け入れてきた認識なのだ。

しかし、私はその定説に疑問を持っている。

米騒動の歴史を詳しく調べてみると、まず富山から始まった米騒動が各地に飛び火して米屋に対する打ち壊しや放火が進んでいった。

その中でも特に激しかったされる神戸米騒動を見てみると、(※2)鈴木商店焼き討ち事件に突き当たる。

その鈴木商店焼き討ち事件というのは、かつてのマルクス主義的な歴史観でいうと大正デモクラシーに目覚めた人たちや労働運動を行っていた人たちが民衆と一緒になって行ったとされているのだが、この騒動による逮捕者や裁判記録を検証していくと、実はそういった先鋭な人たちよりも、山口組組員の逮捕者の数が圧倒的に多いのである。

つまり、神戸米騒動というものは定説によるところの人たちが中心になって行ったものではなく、戦前の山口組組員が行ったものなのだ。

となると、従来言われてきた定説は間違いではないかのもしれないが、正しいとも言えないのではないかという結論にたどり着く。

このような事実を目の当たりにして、私はもう一度この国の歴史観を見直してみたいと考えるに至ったのである。

もう一つは、1960年に筑後の(※3)三井三池炭鉱で発生した労働争議である。

これは戦後の日本における労働運動の最も激しく規模の大きかった労働争議であったと言われおり、確かに、このストライキに参加した人数や闘争の期間を考えた場合、労働運動史上、最も規模が大きかった争議だと考えられる。

そしてその後、この三井三池争議は一つの労働運動のお手本のようになり、特に、このストライキの山場となった「ホッパー前の対決」という会社側が雇ったやくざと労働組合側との凄惨な実力闘争は、労働組合側から見た場合、高く評価しなければならない戦いだと言われてきた。

ところが、実際に現場で直接的に対峙した人たちの多くは、やくざ側も労働組合側も被差別部落民たちであったのである。

すなわち、会社や労働組合という、きれいなカテゴリーの中にいる人々が、この争議においてそれぞれの神話を作っていったのだが、実際に、それを担った人たちとは被差別部落民たちだったのだ。

これは、すでに実証されている紛れもない真実なのである。

つまり、従来語られてきた歴史というものを社会の最底辺から見直した場合、それらはたんなる神話に過ぎないのではないか。それを、はたして歴史観と言えるのだろうか。

そして、もう一度、この国の歴史を社会の枠内から外れたアウトロー側の視点で見直した場合、何か新しく見えてくるものがあるのではないのか。

そういった考えから、私はこれまでの歴史観をめぐって靖国の問題や日本のアジアへの侵略、進出の問題をもう一度見直してみようと思っている。

これが私の来年のテーマである。

※1 米騒動
1918(大正7)年7月~9月の米価急騰を原因とする全国的暴動を指す。
1918年から始まったシベリア出兵をきっかけに需要増大を見込んだ商社や米問屋らによる米の買占め、売り惜しみと政府の米価調節失敗が重なり米価が急騰。そのような状況下で、1918年に富山県下新川郡魚津町の住民らが、米問屋による県外への米移送阻止を行い、それが暴動の発端となった。暴動は全国的に広がり、検挙者数万名、起訴者は7000名以上に達した。

※2 鈴木商店焼き討ち事件
第一次世界大戦の景気で一躍、三井物産、三菱商事と肩をならべ、神戸に本社を持つ関西一の総合商社であった。1919年、鈴木商店が米の買い占めを行っている悪徳業者であるという噂が広がり、それに煽られた群衆によって焼き討ちにあった。しかし、この事件を再調査した城山三郎氏(「鼠-鈴木商店焼き討ち事件」・文春文庫 )によれば、当時、鈴木商店が米を買い占めていた事実はないとしている。

※3 三井三池争議
1960年、福岡県大牟田市で三井鉱山の合理化案に猛反対していた三井炭鉱労働組合連合会・三池炭鉱労組と会社側が組織した三井新労組が全面衝突した。会社側は三池炭鉱や港湾施設の前で労働組合側を排除して強制就労しようとしたため流血の惨事となった。事態は一企業の労働組合問題から炭鉱業界全体の問題として発展。日本炭鉱労働組合が事態を収集しようと斡旋に乗り出したが決裂。7月7日の闘争のシンボルとなった「ホッパー前の対決」では300人以上の負傷者がでた。この事態に当時の労働大臣が調停に入るなど様々な施策提案がなされ、ようやく収束の方向が見えてきた。中でも「離職者の完全失業対策」などの条件が労働組合側に受け入れられて、両者が生産協定に調印したのが10月29日だった。だが、労働組合側が全面ストを解除して就労したのは12月1日。1月25日のストライキ開始から実に282日間に及ぶ、労働運動史上最も規模の大きな争いであった。

Profile

宮崎 学(みやざき・まなぶ)

-----<経歴>-----

1945年、京都のヤクザの家に生まれる。
早稲田大学法学部に進むが、学生運動に没頭して中退。
週刊現代記者として活躍後、京都に戻り家業を継ぐが倒産。
「グリコ・森永事件」ではキツネ目の男に擬され、重要参考人Mとして警察にマークされる。
自身の半生を綴った「突破者」で作家デビューを果たした。
2005年には英語版「TOPPA MONO」も翻訳出版された。
最近は、警察の腐敗追及やアウトローの世界を主なテーマにした執筆活動を続けている。

BookMarks

オフィシャル・ウェブサイト
http://miyazakimanabu.com/

魚の目(魚住昭責任編集)
http://uonome.jp/

-----<著書>-----


『ラスト・ファミリー 激論 田岡由伎×宮崎学』
2010年1月、角川書店


『談合文化論』
2009年9月、祥伝社


『近代ヤクザ肯定論―山口組の90年』
2007年6月、筑摩書房


『安倍晋三の敬愛する祖父 岸信介』
2006年9月、同時代社


『法と掟と』
2005年12月、洋泉社


『近代の奈落』
2005年12月、幻冬舎


『TOPPAMONO』
2005年9月、Kotan Pub


『万年東一(上)』
2005年6月、角川書店


『万年東一(下)』
2005年6月、角川書店



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