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2010年9月14日

やはり「政治文化」を変える必要がある

 民主党代表選挙が終わった。メディアは「菅総理が大差をつけて小沢氏に勝利した」と報じている。では菅氏は党内の強い期待を受けて再選されたかと言えばそうではない。「まだ3ヶ月しかやっていない」という消極的な支持で再選された。

 総合得点は菅氏721ポイント対小沢氏491ポイントで確かに大差である。差が付いたのは党員・サポーターの票の249対51だが、これは300選挙区を総取り方式にしたためで、得票率で見ると菅6対小沢4の割合である。地方議員票も6対4の割合だった。一方、国会議員票ではわずかに6票差で菅氏が勝利し、党内の支持は二分された。

 この結果を見て政治の世界の選挙はいつもながら見事なバランスを作ると感心した。国政選挙は別にして、永田町の選挙は終わってみるといつもバランスが取れているというのが私の経験則である。勝者には確固たる勝利を与え、しかし敗者を決して潰さない。

 今回の選挙で勝利した菅氏は党員・サポーター、地方議員、国会議員のいずれでも勝利した。もし国会議員票だけ小沢氏が勝つようなことになれば、メディアは「民主党議員は世論と乖離している」と猛烈に攻撃しただろう。後に混乱をもたらすようなややこしい勝ち方はさせないのが永田町である。

 だから国会議員票でも菅氏は勝利した。しかしその差はわずかである。総合得点で菅氏大勝を印象づけ、一方で小沢氏は党内に確固たる力を有していることを証明し、なおかつ選挙後の政治を混乱させないバランスを保っている。小沢氏が国会議員票で菅氏の数字を上回っても少なすぎても党内は混乱した筈である。

 逆に小沢氏が勝利する場合も国会議員票だけで勝利することはあり得ない。その後の政権運営のためには党員・サポーター票でも勝利する必要があった。それが見込めないのなら敗者になって党内に確固たる力を持つ方が自分自身も民主党もダメージを受けない。

 前に「この国の政治文化をどう変えるか」を書いたが、いまだに「政治とカネ」の呪縛から解き放たれていないこの国では、やはり2週間程度の選挙期間で国民を説得する事は難しかった。結局、司法が「シロ」を証明するのを待つしかないと言うことである。小沢氏は検察審査会が議決するまで待つしかないと考えたのかもしれない。

 この選挙結果を受けて大変なのは菅総理である。選挙戦でやたらと「雇用」を叫んでいたが、そのための経済政策をどうするのか、小沢氏との違いを強調したが故に採れる道は狭い。同様に普天間基地の問題、尖閣諸島を巡る中国との関係、来年度予算編成など難問山積である。そして来年3月、本当に予算関連法案を成立させる事が出来るのか。その手腕が問われる。

 選挙で小沢氏の政治手法を批判した以上、政権運営で小沢氏に協力を要請することは難しい。そうなると来年度予算を成立させるためには自民党に協力してもらうしかない。大連立と言えば世間から批判を浴びるから、裏でこっそり手を組むのである。昔の自民党と社会党の関係再現である。表で激しく批判し、国会で激突して見せたが、自民党と社会党はしっかり手を組んでいた。国民の判断を誤らせるために存在するメディアが報道しなかっただけである。

 自民党に協力して貰うというのは民主党が自民党の要求を飲む事である。論理的にはそれ以外に予算を通す方法を私は考えつかない。よく話し合えば理解してくれる野党などある筈がない。お前が出来ないなら俺にやらせろとなる。

 菅氏をはじめ前原氏や枝野氏などはかつて自民党と連立を組んだ経験がある。自さ社の連立政権で、細川政権から自民党が政権を奪い返した時に重要な役割を演じた。その時の自民党の中心人物は加藤紘一氏であり、現在の谷垣総裁の後見役として控えている。

 「テレビ用の幹事長」に就任した石原伸晃氏が「菅政権となら手を組める」と口走ったそうだが、それはそういう話が進行していることを伺わせる。表に見えないようにしながら協力するには綿密な裏の連携が必要である。一両日中に決まるだろう人事にはそういう要素も加味される可能性がある。

 政治の動きを考えるとそのようなシナリオが見えてくるのだが、民主党代表選で党員や議員の判断材料は「政治とカネ」と「ころころ変えて良いのか」だけだったようだ。代表選の最中に厚生労働省の村木局長が無罪になった。その事件は、昨年の総選挙前に東京地検と大阪地検がそれぞれ民主党幹部をターゲットに捜査を始めた事件と見られていた。

 選挙直前に政治家をターゲットに捜査をする検察など民主主義国家ではあり得ない。それをこの国のメディアは騒がなかった。そしてその一方が無罪になった日、メディアは大阪地検の無能ぶりを言うだけで、同じ時期に東京地検が捜査していた西松建設事件には全く触れなかった。こうした体たらくを見るとやはり「政治文化」を変える必要があると思うのである。

2010年9月 9日

あぶりだされるこの国の姿

 民主党代表選挙によってこの国の姿があぶりだされている。「官僚支配」を続けさせようとする勢力と「国民主権」を打ちたてようとする勢力とがはっきりしてきた。

 アメリカは日本を「異質な国」と見ている。「異質な国」とは「自由主義経済でも民主主義でもない国」という意味である。ある知日家は「日本は、キューバ、北朝鮮と並ぶ地上に残された三つの社会主義国の一つ」と言った。またある知日家は「日本の司法とメディアは官僚の奴隷である。そういう国を民主主義とは言わない」と言った。

 言われた時には反発を感じた。「ロシアと中国の方が異質では」と反論したがその人は首を横に振るだけだった。よくよく自らの国を点検してみると言われる通りかもしれない。何しろ百年以上も官僚が国家経営の中心にいる国である。財界も政界もそれに従属させられてきた。「官僚支配」が国民生活の隅々にまで行き渡り、国民にはそれが当たり前になっていておかしさを感じない。

 北朝鮮には顔の見える独裁者がいるが、日本には顔の見えない「空気」がある。「空気」に逆らうと排斥され、みんなで同じ事をやらないといけなくなる。その「空気」を追及していくと長い歴史の「官僚支配」に辿り着く。それが戦後は「民主主義」の衣をまとった。メディアは「官僚支配」を「民主主義」と国民に信じ込ませてきた。

 確かに複数の政党があり、普通選挙が行なわれ、国民の意思が政治に反映される仕組みがある。しかし仕組みはあっても国民の意思で権力を生み出す事が出来ない。どんなに選挙をやっても自民党だけが政権につくカラクリがあった。社会党が選挙で過半数の候補者を立てないからである。つまり政権交代をさせないようにしてきたのは社会党であった。表で自民党、裏では社会党が協力して官僚は思い通りの国家経営を行ってきた。

 民主主義とは与党と野党が権力闘争をする事である。そうすれば国民が権力闘争に参加する事が出来る。選挙によって権力を生み出すことが出来る。ある時はAという政党に権力を与え、次にBという政党に権力を与える。AとBは権力を得るために切磋琢磨する。それが官僚にとっては最も困る。異なる二つの政策の政党を両方操る事は出来ないからだ。それが昨年初めて政権交代した。

 官僚の反撃が始まる。政権与党に分裂の楔を打ち込む工作である。一つは「政治とカネ」の攻撃で、もう一つは野党に昨年の選挙のマニフェストを批判させる事で民主党の分裂を誘った。最大の攻撃対象は小沢一郎氏である。それさえ排除できれば、民主党も自民党も手のひらに乗せる事が出来る。小沢なき民主党は自民党と変わらなくなる。それが官僚の考えである。案の定、昨年の民主党マニフェストが批判されると菅総理は自民党と似たような事を言い始めた。

 従って民主党代表選挙は「政策論争」の選挙になる筈だった。積極財政を主張する小沢氏と緊縮路線の菅氏の政策競争である。小沢氏は政策を掲げて路線も明確にした。ところが菅氏が路線を明確にしない。「一に雇用、二に雇用、三に雇用」と経済政策としては全く意味不明の事を言いだし、次いで「政治とカネ」を争点にした。

 積極財政と緊縮財政は、かつて自民党内の党人派と官僚出身者がそれぞれ主張した事から、「政治主導」か「官僚主導」かに分類する事は出来る。また総理就任以来の菅総理の言動は財務省官僚のシナリオで、かつての竹下元総理と同じである。大蔵省の言う通りの政権運営をした竹下氏を金丸氏や小沢氏が批判して経世会は分裂した。

 それだけ見ても小沢VS菅の争いは「政治主導」と「官僚主導」の戦いだが、菅氏が「政治とカネ」を持ち出した事でさらにその意味が倍加された。「政治とカネ」はロッキード事件以来、検察という行政権力が政界実力者に対して犯罪とも思えない事案をほじくり出し、それをメディアに騒がせて国民の怒りを煽り、無理やり事件にした一連の出来事である。

 小沢氏の疑惑も何が事件なのか元司法担当記者である私にはさっぱり分からない。騒いでいるのは検察の手先となっている記者だけだ。メディアは勝手に小沢氏を「クロ」と断定し、勝手に「政界追放」を想定し、勝手に「総理になる筈がない」と決め付けた。小沢氏が代表選に立候補すると、自分の見立てが外れて慌てたのか、「あいた口がふさがらない」と相手のせいにした。無能なくせに間違いを認めないメディアのいつものやり口である。

 メディアはこれから必死で小沢氏が総理にならないよう頑張るだろう。世論調査をでっち上げ、選挙の見通しをでっち上げ、足を引っ張る材料を探し回る。世論調査がでっち上げでないと言うなら、いくらの費用で、誰に調査させ、電話をした時間帯、質問の順序、会話の内容などを全て明らかにしてもらいたい。街頭インタビューと同様、あらかじめ決めた結論に沿ったデータを作る事などメディアにとっては朝飯前だ。

 メディアが頑張れば頑張るほどメディアの実像が国民に見えてくる。メディアは今自分があぶりだされている事に気づいていない。自らの墓穴を掘っている事にも気づいていない。

 「政治とカネ」が裁判になると「事実上は無罪だが有罪」という訳の分からない判決になる事が多い。しかし政治家は逮捕される前からメディアによって「クロ」にされ、長期の裁判が終る頃に「事実上の無罪」になっても意味がない。アメリカの知日家が言う通り、この国の司法は民主主義国の司法とは異なるのである。

 それを裏付けるように最高裁判所が9月8日、鈴木宗男氏に「上告棄却」を言い渡した。民主党代表戦挙の1週間前、北海道5区補欠選挙の1ヵ月半前である。多くの人が言うように一つは小沢氏を不利にする効果があり、もう一つは自民党の町村信孝氏を有利にする効果がある。最高裁の判決は二つの政治的効果を狙ったと疑われても仕方がない。疑われたくなければ10月末に判決を出しても良かったのではないか。

 北海道5区の補欠選挙への鈴木氏の影響力は大きいと言われる。自民党最大派閥の領袖が民主新人に敗れるような事になれば町村派は消滅する。官僚にとって都合の良い自民党が痛手を受ける。だからその前に判決を出した。民主党代表選挙に関して言えば、その日開かれた菅陣営の会合でいみじくも江田五月氏が言及した。「だから菅さんを総理にしよう」と発言した。最高裁判決は菅氏を応援しているのである。
 
 司法もまたその実像を国民の前にさらしている。行政権力に従属する司法が民主主義の司法なのか、国民はよくよく考えた方が良い。それを変えるためには国民の代表が集う国権の最高機関で議論してもらうしかない。

 江田氏が最高裁判決に言及した菅陣営の会合での馬渕澄夫議員の発言にも驚いた。「民主主義は数ではなく、オープンな議論だ」と言ったのである。すると民主党議員の間から拍手が巻き起こった。申し訳ないが民主主義を全く分かっていない。重大な事案をオープンな場で議論する国など世界中ない。どんな民主主義国でも議会には「秘密会」があり、肝心な話は密室で行なわれる。

 日本の国会が異常なのは「秘密会」がない事だ。重大な話は官僚が決め、政治家に知らされていないので「秘密会」の必要がない。オープンな場で議論できることは勿論オープンで良いが、それだけで政治など出来る訳がない。「オープンな議論」を強調する議員は「官僚支配」を認めている話になる。政治主導を本当にやるのなら、「オープンな議論」などという子供だましをあまり強調しないほうが良い。

 民主主義は数である。国民の一票が大事な制度だからである。それをおろそかにする思想から民主主義は生まれない。政策を決めるにも一票が足りずに否決される事を考えれば、数がどれほど大事かが分かる。それに加えてアメリカでは「カネ」が重視される。「カネ」を集める能力のない人間は政治家になれない。

 菅陣営にはそういうことを理解する人が少ないようだ。この前の国会でも「オバマ大統領は個人献金でヒモ付きでないから、金融規制法案も提案できるし、核廃絶を言う事も出来る。企業の献金を貰っていたらそうはならない」と発言した民主党議員がいて、菅総理がそれに同調していた。

 とんでもない大嘘である。オバマに対する個人献金は全体の四分の一程度で、ほとんどはウォール街の金融機関からの企業献金である。企業から献金を受ければ政治家は企業の利益のためにしか働かないというのは下衆の考えで、献金を受けても政策はそれと関係なく実行するのが政治家である。核削減も平和のためと言うより米ロの交渉に中国を加えたいのがオバマの真意だと私は思うが、とにかく献金を受けるのが悪で貰わないのが善という驚くほど幼稚な議論をこの国は続けている。

 政治家が幼稚であれば官僚には好都合である。このように民主党代表選挙は図らずもこの国の様々な分野の実像を見せてくれる契機になった。そして改めて対立軸は「官僚支配」を続けさせる勢力と、昨年の選挙で初めて国民が実感した「国民主権」を守る勢力との戦いである事を認識させてくれる。

2010年9月 5日

この国の「政治文化」をどう変えるか

 民主党代表選挙が始まり、日本記者クラブが主催した討論会を聞きに行った。菅総理は小沢氏の「引き立て役」を演じているというのが私の印象である。菅総理が様々な角度から小沢氏を挑発・批判すると、それがことごとく小沢氏を引き立てる効果を生む。

 ところがそういう見方をする新聞・テレビがない。小沢氏の総理就任はあってはならないと考えているかのようだ。日本記者クラブで質問をしていた記者のレベルもひどいもので、政治を分かっていないと思わせる質問が相次いだ。ところがその記者たちが「社説」を書いていると言う。そんな「社説」を読まされている国民は政治を判断出来なくなる。

 考えてみれば新聞は戦前も戦後も国民の判断を誤らせる存在である。戦前は軍部という権力の手先として、戦後は霞ヶ関とアメリカの手先として国民を洗脳する役割を担ってきた。この国の支配者である霞ヶ関とアメリカにとって国民は「知らしむべからず」だから、新聞には判断を誤らせる情報が流され、国民の代表である政治家が貶められるのである。

 選挙が始まる前、この選挙は「政策論争」になると思っていた。それは菅総理が国会の答弁で「財政健全化に政治生命を賭ける」と断言したからである。その考えは自民党の主張と同じで、霞ヶ関の考えとも一致する。そして小沢氏の言う「国民の生活が第一」の路線とは対立する。だからどちらの路線が現下の国際情勢にふさわしいかを議論する「政策論争」になる筈であった。

 ところが選挙が始まってみると菅総理のスタンスが明確でない。「雇用」を強調するだけで、路線については曖昧である。小沢氏の路線と似たような事を言う。この前の参議院選挙で自民党に「抱きついた」のと同じ手法である。そして菅総理が対立軸として打ち出してきたのが「政治とカネ」であった。

 菅総理は自身が「ロッキード選挙」で初当選した事に言及し、それ以来日本は「カネまみれ」の政治を続けているが、その体現者が小沢氏であり、自分はそうした政治と決別すると言った。「クリーンでオープンな政治」を実現する事で日本の「政治文化を変える」と主張した。それを聞いてつくづく官僚がメディアを使って国民を洗脳したマインドコントロールから菅総理も抜け出せていないと思った。

 以前、「政治とカネの本当の話」(1~3)でも書いたが、「政治とカネ」の話になれば私には言いたいことが山ほどある。そして私も「政治文化を変える」事には大賛成だ。ただしその中身は菅総理とは真逆である。ロッキード事件以来、「クリーンでオープンな政治」を主張する野党とメディアが政治の力を弱め、官僚の思い通りの予算配分を実現させてきた。その「政治文化」を否定しなければ、日本に本当の民主主義は根付かず、冷戦後の複雑な世界を生き抜く知恵は出てこない。

 かつて私は社会部記者としてロッキード事件を取材した。田中角栄氏が東京地検に逮捕された時には特捜部を担当していて検察庁の玄関をくぐる角栄氏を目の当たりにした。その取材経験から言えばロッキード事件を「角栄氏の犯罪」とするのは間違いである。角栄氏の贈収賄容疑は司法取り引きによるロッキード社幹部の証言に基づくが、最高裁はその証言を証拠と認めていない。検察は事件を解明していないのである。

 ロッキード事件はアメリカの軍需産業が世界の反共勢力に贈賄工作を行っていたもので、ロッキード社からカネを受け取った政治家は世界各国にいた。しかし世界では誰も捕まっていない。日本でも本命の政治家は逮捕されず、なぜかロッキード事件は「田中金脈問題」にすり替わった。そのおかしさをメディアは追及せずに「総理大臣の犯罪」というデマを国民の脳裏に刷り込んだ。

 以来、国会では「政治とカネ」が与野党攻防の最大テーマとなり、国民から預かった税金の使い道について議論すべき予算委員会がスキャンダル追及の舞台となる。そのため官僚が作った予算案は関心を持たれずにそのまま通過する。「政治とカネ」は官僚にとって思い通りの国家経営を実現する手段となった。そして検察は次から次と「政治とカネ」の摘発を行って政治を弱体化する。その積み重ねが900兆円の財政赤字である。

 今年5月に私はアメリカの週刊誌「ニューズウイーク」から取材を受け、それが「日本を殺すスキャンダル狂い」という記事になった。どこの国の政治家にもスキャンダルはあるが、先進国ではそれを大騒ぎしない。ところが日本だけはスキャンダルで政治家が致命的な打撃を受ける。「政治とカネ」を問題にしていると政治は機能しなくなり、日本全体が沈没するのではないかという内容である。

 私は冷戦が終わる少し前からアメリカ政治を取材してきたが、クリントン大統領には「ホワイトウォーター疑惑」と呼ばれるスキャンダルがあった。アーカンソー州知事時代に公金を使って土地開発を行い、地価をつり上げて不動産業者を儲けさせ、その見返りに業者から献金を受けていたという疑惑である。妻のヒラリーも関与していて、彼女の弁護士事務所が証拠書類を隠滅したと言われ、関係者が自殺していた。

 共和党が疑惑を追及し独立検察官が捜査に当たったが、この問題でアメリカ政治が混乱する事はなかった。捜査が始まれば司法の問題であるから、大陪審にヒラリーが出廷して証言する事はあったが、議会で国民に説明しろなどと騒がれる事はない。政治家は国民の生活を守り、外国との競争に打ち勝つことが仕事である。それが出来ればスキャンダルを追及して政治の力を弱めようなどと欧米の国民は考えない。クリントンの疑惑はよく分からないまま終わったが、国民の支持率が下がる事もなかった。

 与党時代の自民党は野党の「政治とカネ」攻撃を「馬鹿なことだ」と思っていた。検察の捜査を正面から批判すると、メディアに攻撃され選挙で不利になるから黙ってはいたが、検察の大物摘発は10年に1度と考え、誰かが摘発されると「これで10年は大丈夫」と安堵していた。しかしそんな事を続けていれば本来の政治は出来なくなるとも考えていた。

 ところがその自民党が野党になると昔の野党と同じ事を始めた。税金の使い道を議論すべき予算委員会でスキャンダル追及に力を入れたのである。しかしスキャンダル追及ばかりしている自民党に国民の期待は集まらない。メディアの洗脳によって「政治とカネ」に怒る国民もいるが、逆に「政治とカネ」を追及してばかりいる野党に飽き飽きしている国民もいる。

 民主党の「事業仕分け」が人気を集めたのは、初めて税金の使い道が一部ではあるが明らかにされた事だ。国民は無駄遣いの実態を初めて実感した。裏返せば国民はそれまで税金の使い道の議論をまともに見た事がなかった。予算委員会はいつも「政治とカネ」の追及ばかりである。「事業仕分け」の人気は喜ぶべきと言うより悲しむべき日本政治の現実なのである。

 その「事業仕分け」を担当していた枝野幸男氏が日本記者クラブで「政治文化」について語った事がある。「これまでの古い政治は利益誘導型のバラマキだった。しかし事業仕分けで予算を削る事が支持された。明らかに政治文化が変わった」と言った。

 私は開いた口がふさがらなかった。国民が無駄の削減を支持したのは、その削減された税金が自分たちに回ってくる期待があるからである。ただ削減するだけに満足する国民はいない。国民から預かった税金をどう配分するかが政治の根本であり、配分を間違えれば国民に格差が生まれて不満が増大する。間違った配分を是正するための第一歩として事業仕分けをやったのではないか。

 「政治とカネ」の追及に明け暮れて、予算の配分を官僚任せにしてきた政治がこの国の最大の問題である。早く「政治とカネ」のマインドコントロールから解放され、国民の生活を守り、外国との競争に負けない政治をうち立てる事こそこの国の課題である。「政治文化を変える」とはそういう事である。

Profile

田中良紹(たなか・よしつぐ)

-----<経歴>-----

1945年宮城県仙台市生まれ。
1969年慶應義塾大学経済学部卒業。
同年(株)東京放送(TBS)入社。
ドキュメンタリー・デイレクターとして「テレビ・ルポルタージュ」や「報道特集」を制作。また放送記者として裁判所、警察庁、警視庁、労働省、官邸、自民党、外務省、郵政省などを担当。ロッキード事件、各種公安事件、さらに田中角栄元総理の密着取材などを行う。
1990年にアメリカの議会チャンネルC-SPANの配給権を取得して(株)シー・ネットを設立。
TBSを退社後、1998年からCS放送で国会審議を中継する「国会TV」を開局するが、2001年に電波を止められ、ブロードバンドでの放送を開始する。
2007年7月、ブログを「国会探検」と改名し再スタート。

BookMarks

日本初の政治専門チャンネル!
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国会TV
http://kokkai.jctv.ne.jp/

-----<著書>-----


『裏支配─いま明かされる田中角栄の真実』
2011年1月、電子書籍


『メディア裏支配─語られざる巨大マスコミの暗闘史』
2005年3月、講談社

-----<編書>-----


『憲法調査会証言集─国のゆくえ』
2004年7月、現代書館

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