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2010年8月31日

民主党代表選挙とは何か

 英国のように政権交代を繰り返している国の政党は、国政選挙に勝利した党首を党首選挙で交代させる事はしないし、その逆に国政選挙で負けた党首をそのまま続投させる事もしない。政党は国民の投票の結果を受け止め、それによって党首選挙をやったりやらなかったりする。

 保守党のサッチャーは14年間、労働党のブレアも13年間党首の座にあった。その間に国政選挙で勝利し続ければ党首選挙は行なわれなかった。党首選挙が行なわれるのは、党首が死ぬか、辞任するか、選挙に負けるか、党内の一定数が要求した場合である。

 ところが「民主主義もどき」のこの国ではそう考えない。国政選挙と関係なく党則で決めた任期に従って党首選挙が行われる。中選挙区時代の自民党には5つの派閥があり、その領袖を次々総理に就かせる必要があったから2年ごとに総裁選挙をやった。「歌手1年、総理2年の使い捨て」と自嘲しながら、しかし自民党単独政権時代にはそれが総理を決める唯一の選挙であった。

 今も自民党は3年、民主党は2年ごとに党首選挙をやる決まりになっている。そして困った事に小泉総理を誕生させた2001年の自民党総裁選に国民が熱狂した。国民が参加しない、つまり国民主権と関係のない選挙に国民は熱狂したのである。それに味を占めた自民党は自民党総裁選挙をPRの道具と考えるようになった。

 ここ数年、自民党総裁選挙には総理になるだけの経験を積んだとは思えない候補者がぞろぞろと出てきて、「口先三寸」の演説を新聞とテレビに連日報道させる茶番が繰り返されてきた。すると民主党にもそれを真似る議員達が出てくる。その連中は「国民に開かれた選挙」と言って、民主主義と関係のない選挙を民主主義であるかのように吹聴する。昔は自嘲気味に語られた「総理と流行歌手」が最近では本当に同レベルになった。

 参議院選挙に敗北した民主党が代表選挙を行うのは当然である。国政選挙に敗北した党首がそのまま続投する事は民主主義の考えに反する。辞任をするか、辞任をせずに続投するならまず党内で信を問うべきである。それもやらずに続投させるのは民主党が国政選挙の結果を無視する政党だという話になる。

 ところが代表選挙をやると党が分裂すると言う反対論がある。これは「私」の論理である。国民には関係のない話だ。第一、党首選挙をやると分裂するという政党は同じ政党である事の方がおかしい。党首選挙は次の国政選挙に勝つために党首を選び直す選挙である。その度に分裂するというならさっさと分裂してくれた方が国民のためになる。

 しかも今回の民主党代表選挙は対立軸がはっきりしている。昨年の衆議院選挙で民主党が掲げたマニフェストを続けるか、やめるかという対立である。思い起こせば自民党の小泉構造改革は「改革なくして成長なし」と言い、①成長重視、②緊縮財政の路線を採った。強い産業をさらに強くすることでその利益を国民に分配するという経済政策だった。

 ところが国民は利益の分配を実感できなかった。そこで3年前の参議院選挙に安倍政権は「成長を実感に!」というスローガンを掲げた。これに対して小沢民主党は「国民の生活が第一」を掲げ、それを具体化したのが昨年の衆議院選挙である。強い産業を強くして利益のおこぼれが国民に到達するのを待つ政策ではなく、税金を直接家計に注ぎ込む経済政策を打ち出した。それが「子供手当」、「農家戸別所得補償」、「高校の授業料無料化」などの諸政策である。

 これに対して自民党は財源の裏付けのない無責任な「バラマキ」だと批判し、自民党が責任政党である証拠に消費税を10%値上げすると参議院選挙のマニフェストに書き込んだ。すると菅総理は自民党の政策を丸飲みし、「財政健全化」に政治生命を賭けると宣言した。つまり菅民主党は小泉構造改革と同様に①成長重視、②緊縮財政路線なのである。

 従って民主党代表選挙はこの10年ほど日本が模索してきた路線対立の決着点になる。同時に政界再編の対立軸を作る選挙にもなりうる。小泉構造改革を支持する政治家は菅民主党と、小泉構造改革に反対する政治家は小沢民主党と手を握る事が出来る。実に意味のある選挙なのである。

 それを「選挙で政治空白を作ってはならない」などというバカがいる。そんなことを言えばアメリカ大統領選挙は1年がかりで行われるが、誰一人「政治空白」を問題にする国民はいない。むしろそれだけ時間をかけてくれるから国民も国家の現状や進路に関心を抱くことが出来る。この選挙は国民が参加する選挙ではないが、この国の「分かれ道」を考える貴重な時間を国民にも与えてくれる筈である。

 ところが昨夜鳩山前総理が菅総理と会談して「トロイカ」体制の確認を行ったことから、メディアは一斉に代表選挙回避と報道し始めた。しかし「トロイカ」体制を確認したからこそ代表選挙は行われると私は思う。党が分裂することなく代表選挙を戦うための「トロイカ」体制ではないか。選挙を回避したら政治が分かりにくくなるだけの話だ。

2010年8月26日

「ねじれ」にお気楽な人たち

 現在の民主党政権は3年前の参議院選挙以降三代続いた自民党の安倍、福田、麻生政権より非力である。参議院で過半数を失い、衆議院で再議決に必要な三分の二の議席を持っていないからである。三分の二を持っていたにも関わらず、安倍、福田、麻生政権がどれほどの醜態をさらしたかを思い起こせば、民主党政権の行く末はそれより酷くなる事が想像できる。

 ところがお気楽な人たちは政策毎の部分連合で野党とよく話し合いながら政治を進めれば、3年先まで解散をしなくとも民主党の政策を実現出来ると言う。そのノー天気には呆れるしかない。そういう人たちは「政治は信頼が大事」とか「国民によく説明する事が大事」とか、世界のどの国の政治家も言わないような幼稚な事を言い、学級委員レベルの政治手法で嘘と謀略に満ちた世界に立ち向かうつもりなのだろう。

 安倍、福田、麻生政権が不様だったのはこの3人が政治家として無能だったからと言う人たちもいる。メディアはおしなべてそう言う。しかし私は全くそうは思わない。メディアを含め3人の能力のせいにする人たちは「ねじれ」の怖さを知らないのである。なぜなら1956年から1989年まで30年以上も日本の政治には「ねじれ」がなく、その政治構造にどっぷりと浸ってきた人たちには「ねじれ」の怖さが想像できない。その人たちから解説を聞かされる人たちもそのレベルになる。

 竹中治堅政策研究大学院大学教授の「参議院とは何か」(中公叢書)によれば、戦後の日本政治は保守合同によって自民党ができるまで「ねじれ」の連続だった。片山、芦田、吉田と続く政権はいずれも「ねじれ」に苦しみ、国家の最重要課題と思われる法案を成立させられなかった。戦後の日本政治は初めから非力だったのである。吉田茂は連立工作に明け暮れ、法案修正は勿論だが、参議院で否決された法案を衆議院で再議決させる事の連続で綱渡りの政権運営を行った。

 しかし占領期にあって吉田のバックには絶対権力であるGHQがいたから綱渡りも出来たと私は思っている。与野党の対立が抜き差しならなくなると、1948年の「馴れ合い解散」に見られるようにGHQの調停で吉田は解散する事が出来た。現在では与野党の対立を調整する権力など他にない。あるとすれば第四の権力メディアに煽られた「国民の声」に迎合して衆愚政治に陥るのが関の山である。

 保守合同による自由民主党の誕生は日本の政治が「ねじれ」から解放された事を意味した。ようやく政権は安定し、日本は高度経済成長を迎える事が出来た。それが転換するのはベルリンの壁が崩壊した1989年である。世界が冷戦構造の終焉を迎えた時、長らく「ねじれ」を忘れていた日本の政治も平和な時代を終えた。消費税とリクルート・スキャンダルで自民党は参議院選挙に惨敗、結党以来初めて過半数を失った。勿論、衆議院で三分の二など持っていない。

 当時の野党第一党社会党が政権を狙える状況になった。しかし社会党政権が出来なかったのは何故か。一つは社会党に政権を取る気がなかった。つまり社会党は本当の意味の「野党」でなかった。もう一つは小沢一郎という政治家が自民党幹事長の職にあったからである。

 この時、社会党を中心とする野党は「消費税廃止法案」を国会に提出して参議院で可決させた。すると小沢幹事長は「消費税見直し法案」を提出して野党共闘を分断し、消費税を廃止させなかった。また社会党が絶対反対のPKO法も成立させ、「ねじれ」にもかかわらず、全く法案審議に影響させなかった。つまりこれから民主党がやらなければならない事を20年以上も前に小沢氏は成功させていたのである。

 これと対比したくなるのが1998年に起きた「ねじれ」である。参議院選挙惨敗の責任を取って橋本総理が辞任した後、後継の小渕政権は「ねじれ」で苦境に立っていた。野党民主党が政権交代に追い込むチャンスであった。ところが当時の民主党代表菅直人氏は「政局にしない」と発言し、民主党の金融再生法案を小渕政権に丸飲みさせただけで終わった。それで民主党に政権交代の足がかりが出来たかと言えば逆である。

 自民党は自自、次いで自自公連立政権を作って権力基盤を固め、民主党を権力闘争の埒外に追いやった。政権交代の可能性は消えた。恐らく民主党のふがいなさに呆れた自由党の小沢氏は自民党との連立に向かい、連立の条件として副大臣制や党首討論の実施などの政治改革案を自民党に飲ませた。

 この時、自民党の野中幹事長は「悪魔にひれ伏してでも」と言って自由党との連立に踏み切るが、「ねじれ」になれば与党は野党にひれ伏し、足の裏を舐めるようにしなければ課題の実現など出来ない。現在のお気楽な人たちにその覚悟があるのか、はなはだ疑問である。結局、自民党は公明党と連立を組む事で、自由党との約束を反故にした。裏切られた自由党は連立を解消、民主党との合併に向かうのである。

 民主党は自由党と合併することで初めて政権獲得の可能性を手にした。それが3年前の「ねじれ」につながる。自民党政権にとって89年の社会党や98年の菅民主党のように政権奪取を狙わない野党と違い、相手が自民党の裏を知り尽くした小沢民主党だから事は簡単でなかった。安倍、福田、麻生政権がよれよれになるのも無理はなかったのである。

 安倍、福田、麻生政権より非力な民主党政権にとって最大の問題は来年度予算である。予算だけは衆議院に優位性が認められているが、予算関連法案が参議院で否決されると予算の執行が出来ない。総理は解散するか総辞職するかしかなくなる。つまり現状での菅政権は来年3月までの寿命なのである。

 総理の首をころころ変えるのは国際的に恥ずかしいと言う人がいるが、そう言う人がいる事の方が私は国際社会に対して恥ずかしい。自分の国の政治構造も知らず、論理的な考え方も出来ずに、情緒だけで政治を語っているからだ。

 日本の政治構造は「ねじれ」が起きれば総理の首はころころ変わるようになっている。それが嫌なら日本国憲法を変えて、衆議院の過半数で選ばれた総理が参議院で否決された法案を衆議院の過半数で再議決できるようにしなければならない。それで初めて国民から選ばれた総理が国民に約束した予算を執行できるようになる。

 現状では民主党政権が来年度予算を成立させるには、自民党にお願いをして予算案を作ってもらうしかない。それが嫌なら予算関連法案が通らなくなり、総理は辞職か解散に追い込まれる。それが分かっていても総理を続けようとするのは、菅総理が自民党と大連立する腹を固めているからだと考えるしかない。それは民主党が掲げてきた政策を変更する事になる。

 すると今日、小沢前幹事長が民主党代表選挙出馬を表明した。こちらは20年以上も前から「ねじれ」と向き合ってきた人だから、お気楽に考えているはずはない。来年度予算を成立させる成算がなければ出馬を決断する事もないだろう。どんな策を考えているのか現時点では想像もつかないが、まずは選挙戦で語られる言葉の中から探してみようと思う。

2010年8月18日

誰も言わない龍馬伝

 坂本龍馬は今や国民的英雄である。幕末維新の激動期に一介の浪人でありながら薩長同盟を実現させ、大政奉還を図った話を知らない人はいない。しかし龍馬に「閑愁録」と「藩論」という二冊の出版物があることを知る人は少ない。

 あの司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」では、「竜馬は『藩論』という新国家構想についての評論を口述して長岡謙吉が文章にし、長岡自身も『閑愁録』という宗教問題をあつかった評論を書き、いずれも著者名をいれず、『海援隊蔵版』という名目で出版した」と簡単な記述があるだけで、その内容や意味するところには言及していない。

 因みに司馬氏は「閑愁録」を長岡謙吉の著作としているが、「閑愁録」は「キリスト教を禁じてはいけないが、日本人が古来から信じてきた仏教を捨ててはならない」という内容で、キリスト教信者として土佐藩から蟄居を命ぜられた事のある長岡謙吉の書というより、これも龍馬の思想的影響によって書かれたと考えるのが妥当だと思う。

 「閑愁録」は慶応3年5月に出版された。その翌月に龍馬は夕顔丸に乗船し、長崎から上京する船中で長岡謙吉に「船中八策」を口述筆記させている。ここに徳川幕府に代わる近代国家の構想が初めて提示された。

 それによると、まず徳川は政権を朝廷に返還し、次に二院制の議会を設置してすべてを議論で決し、有名無実の官を廃して天下の人材を登用し、外交の確立と憲法の制定を行い、海軍の強化など兵制を確立し、さらには外国と対等の為替相場を実現する事を提案している。龍馬は封建的専制政治から二院制議会による立憲政治への転換を指し示した。

 その後、龍馬の考える大政奉還の方針と薩長の武力倒幕の方針とが激突する。龍馬は力による政権交代を徳川の権力が薩摩や長州に移るだけだと捉え、「公武合体」、言い換えれば「大連立」による平和的政権交代に情熱を注いだ。実際、慶応3年10月に徳川慶喜が大政奉還を決断すると「慶喜のために一命を捧げる」とまで言って涙を流し、ただちに新政府の人事案作成に取りかかっている。

 内閣総理大臣に当たる関白に公家の三条実美、副総理に当たる副関白に徳川慶喜を充て、それを支える重役には四賢候と呼ばれた藩主や岩倉具視らの公家、さらに西郷、大久保など薩長の藩士と学者の横井小楠も内閣に参加させている。いわば幕末日本のドリームチームとも言える布陣を考えた。

 ところが武力倒幕を準備していた岩倉や薩長にとって龍馬の大政奉還論は障害であった。西郷の命を受けて江戸市中を荒らし回る「御用盗」が組織され、徳川幕府に対する挑発行為が始まる。その頃に京都で龍馬は暗殺された。挑発に乗った幕府が江戸の薩摩屋敷を攻撃した事から、大政奉還したにも関わらず、戊申戦争の幕が切って落とされ、賊軍となった幕府と官軍との戦いが始まるのである。

 「藩論」は戊辰戦争がまだ終わらない明治元年12月に出版された。木版16頁の小冊子だが新時代に藩が行うべき政治の在り方が書かれている。そこには、藩にあって領民は全てが平等であり、武士階級以外の町人や農民にも選挙権を与え、しかし衆愚政治に陥らぬよう一回の選挙で選ばれた人々がさらに互選によって有能な人物を選び出し、議会制度で政治を行うべきだと書かれている。

 「藩論」の内容に衝撃を受けたのは日本人ではない。日本に駐在していた英国公使パークスである。英訳された「藩論」が英国外務省に送られた。英国外務省公文書館に保存されていた「藩論」が世に出たのは明治43年である。貴族院議員の千頭(ちかみ)清臣が英字新聞「ジャパン・クロニクル」に「日本に於ける立憲思想の原点」として英語版「藩論」を掲載した。こうして世に出た「藩論」の思想を日本人が知らないのは何故なのか。

 坂本龍馬の「船中八策」は明治天皇の「五箇条のご誓文」にある「広く会議を興し万機公論に決すべし」の原型になったと言われる。しかし「藩論」を読むと全く違うと私は思う。幕末に議会制の導入を考えていたのは龍馬だけではない。幕臣の勝海舟や西周(あまね)らも考えていた。特に西周は英国型の二院制を日本に取り入れ、上院議員には藩主、下院議員には藩士がなり、上院議長に徳川慶喜が就任すれば、徳川体制は温存されると考えた。

 「五箇条のご誓文」を書いたのは木戸孝允らだが、龍馬のように庶民にまで選挙権を与えようとした訳ではない。あくまでも武士階級による合議制が言われたに過ぎない。国民から選ばれる民選議会は明治23年にようやく実現するが、それも国民の1%程度に選挙権が与えられただけで、普通選挙法が実現するまでにはさらに35年を要した。

 徳川時代の身分制は廃止されても、明治2年には「皇族、華族、士族、平民」という新たな身分制が生まれ、明治3年には絶対的な天皇権力をうち立てるため天皇を神格化し神道を国教とする祭政一致の国家方針が示された。そのために古来からの仏教施設を破壊する「廃仏毀釈」が行われる。この愚行も仏教を捨ててはならぬとした「閑愁録」の思想と反する。

 明治4年に欧米を視察した岩倉使節団が強く影響を受けたのはプロシャの鉄血宰相ビスマルクで、議会嫌いのビスマルクから絶対君主と官僚による国造りが進言された。こうして薩長藩閥政府による官僚政治が始まり、士族以上の階級が官僚となって平民を支配し、「官吏侮辱罪」と「公務執行妨害罪」によって「官尊民卑」の思想が育まれた。

 このように龍馬の思想は明治政府に生かされる事はなかった。薩長藩閥政府に対抗した自由民権運動の中に龍馬の夢は甦るが、しかし官僚政府はこれを厳しく弾圧し、ようやく国会が開設されると、今度は選挙で選ばれた政治家を無力化する施策が打ち出された。「超然主義」を宣言した政府は国会が決めた事を「超然と」無視する姿勢を貫き、力のある政治家が現れると必ず「金権」のレッテルを貼って国民の怒りの対象にした。

 国民が選挙によって権力を作る。龍馬が夢見た基本的な原理を明治以来の官僚権力が阻んできた。そのため薩長倒幕派に都合の良い龍馬像に光が当てられ、龍馬の思想は封印されてきたと私は思う。戦後民主主義と言ったところで、占領下ではアメリカという絶対権力に支配され、独立後は選挙で過半数を超える候補者を立てない「野党」の存在によって国民は権力を作ることが出来なかった。

 初めて龍馬の夢が叶ったと思わせたのが昨年の選挙である。初の政権交代は海外からも注目された。ところが1年を経て見えてきたのは衆参の「ねじれ」が付きまとうこの国の政治構造である。今後民主党が政権を続けても自民党に政権交代をしても両党とも「ねじれ」を解消するのは容易ではない。つまり国民が選挙で作る権力は常に非力にしかならない。これは官僚権力にとって望ましい状況である。

 この大本を変える事が出来るのは従って選挙ではない。日本国憲法に関わる話だから民主党と自民党とが手を組まない限り実現しない。龍馬が情熱を注いだ「公武合体」のように「大連立」的状況だけが国の構造を変え得る手段となる。妙な話だが「民主主義的でない」と思われている方法が「民主主義を強くする」唯一の方法となるのである。

2010年8月 8日

続・弛緩国家

 連日猛暑が続いている。思えば参議院選挙で自民党が大敗し、「ねじれ」が現実となった3年前の夏も猛暑だった。与党の大敗は政治に緊張感をもたらす筈だが、敗北の責任を取らずに続投を表明した安倍総理は改造人事も国会の召集も先送りし、奇妙な沈黙を守っていた。

 その2007年8月17日に私は「弛緩国家」という一文を書いた。政権延命のための施策も打ち出さずに沈黙する安倍総理とは対照的にアメリカで派手なパフォーマンスを繰り広げていた小池防衛大臣の背後に裏の権力が存在し、安倍総理を退陣に追い込もうとしているのではないかという内容である。

 小池防衛大臣は同時に「防衛省の天皇」と呼ばれた守屋事務次官を退任させるため、計画的に送り込まれた「刺客」であるとも書いた。守屋事務次官には普天間問題を巡って地元沖縄から反発があり、またイージス艦の機密漏洩問題や軍事専門商社との癒着が問題視されていた。

 安倍政権が国際公約したインド洋での海上給油を継続させるためには、8月中に国会を開いてテロ特措法案を衆議院通過させる必要があった。「ねじれ国会」ではそれが絶対条件である。しかし総理の意に反して自民党国対は国会を開かせず、安倍総理は国際公約を裏切る状況に追い込まれていた。ところがメディアは自民党内部の権力闘争に目を向けず、「閣僚候補の身体検査には時間がかかる」などとピンぼけな解説を繰り返していた。

 「弛緩国家」と題したのは大事が起きても緊張感を感じさせない国家の状況を指したのである。その後、安倍総理はぶざまな辞任表明を行い、守屋氏は退任にとどまらず東京地検特捜部に収賄容疑で逮捕された。その守屋氏が先月「『普天間』交渉秘録」(新潮社)を上梓した。普天間問題を巡るアメリカ、沖縄、外務省の対応とそれに振り回される政治家の動きを実名で記載している。

 これが極めて面白い。無論本人に都合良く書かれているのだろうが、全てを失った者だけが書ける生々しさがある。逮捕されていなければ官僚であった守屋氏が公表する事はあり得なかっただろう。そう思うと我々が目にする事が出来たのは逮捕のお陰である。元外務省職員の佐藤優氏をはじめ、リクルート事件の江副浩正氏、前福島県知事の佐藤栄佐久氏らの著作が面白いのも、失うものがなくなった者だけが語れる迫力に満ちているからである。

 ところでこの夏も3年前と酷似している。参議院選挙で与党が大敗したにもかかわらず政治に緊張感が感じられない。まず民主党の選挙総括である。両院議員総会が開かれた7月30日まで選挙から2週間以上の時間があった。それだけの時間があれば3年前の参議院選挙、昨年の衆議院選挙、そして今回の参議院選挙を比較検討し、何が国民に支持され、何が支持されなかったかを検証することは出来たはずである。ところがそうした「厚み」のある総括は行われなかった。

 「菅総理の消費税発言が唐突で説明不足だったのが敗北の原因」という薄っぺらな総括に終わった。それで良しとするならば、菅総理が政治リーダーとしての適性を欠くために民主党は議席を失った事になる。菅総理の責任が問われる総括なのだが現実はそうならない。総理の首をコロコロ代えて良いのかという話になる。これでは何のための総括なのかが分からない。だから緊張感のない政治になる。

 鳩山・小沢時代の「政治とカネ」と「普天間」が敗北の原因だと言うのなら、それを総括すれば良かった。以前から私が指摘しているように「政治とカネ」は民主党政権に対する官僚権力からの攻撃であり、「普天間」は民主党政権にとってアメリカという権力との戦いである。政権を取れば当然に予想された二つの権力と民主党は対峙したのである。

 かつて政権交代のない時代、自民党政権が戦う相手は野党ではなく官僚とアメリカだった。勿論相手を「敵」と呼ぶ事はないが、最も知恵とエネルギーを要する相手であった。そのため自民党政権は時として野党と水面下で手を握り、力を結集して自らの立場を有利に運ぶ算段をした。政権を握った民主党がこの二つの権力と対峙するのは当然であり、政権にいる限り戦いは続くのである。従って「政治とカネ」と「普天間」では党全体が認識を共有する必要がある。しかしそういう作業が行われた様子もない。

 もっと問題なのは初の予算委員会である。民主党政権は開く気など無かったろうが、「ねじれ」になって開かざるを得なくなった。そのせいか見事なまでに訳の分からない議論に終始した。衆参合わせて4日間、菅総理は何を聞かれても何も答えていない。昔の自民党単独政権時代に「言語明瞭、意味不明」の答弁が優等生とされたが、その意味で菅総理はまさに優等生中の優等生だった。

 野党から考えを質されても、「野党の考えを聞いた上で検討する」と言うだけである。「ねじれ」だから自分の考えを言ったところで通らない。全ては野党の言い分を聞いてから決めると言う訳である。これに対して野党は「政権が考えも出さないのに野党から案を出せる筈がない」と応える。まるで「後出しじゃんけん」の競争みたいな議論であった。

 菅総理が一つだけ力を込めたのは「財政健全化に不退転の決意で臨む」と言う事である。そこで「総理の評価は歴史が決める」と大見得を切った。ところが言葉とは裏腹にそれを言う菅総理の表情に力がない。目が虚ろなのである。予算委員会を通してこれほど張りのない表情の総理を見るのは初めてだった。

 そしてもう一つの問題は野党自民党である。政権交代を実現する野党になり切れているかと言えばとてもほど遠い。民主党の弱点をつついているだけでまるで昔の社会党なのだ。政権交代が繰り返される政治体制において、与党の弱点をつついているだけの野党が政権を取ることなどあり得ない。

 昨年の総選挙で国民は自民党政治を拒絶し、民主党の「生活が第一」路線を選択した。仮にその路線がうまくいかなくなったとしても、民主党政治のその先の政治の在り方を提示しない限り国民は自民党には戻らない。いったん実施された民主党の政策を「全てやめて昔に戻す」などと言い出したら、選挙で勝てる筈はないからである。自民党にそうした政策形成の準備が出来ているかと言えばそれも全く見えない。

 しかも仮に政権交代を果たしたとしても「ねじれ」は自民党にも付きまとい、衆議院で三分の二を獲得する事などあり得ないから、福田、麻生政権よりさらに弱体の政権が出来るだけの話である。それも理解せずに批判を繰り返すのはやはり政治に緊張感がない証拠である。日本の政治が依って立つ構造を見直さないとこの国は弛緩した状態から抜け出せないのではないか。

 3年前に書いた「弛緩国家」で私は最後に「例えばアメリカの核の傘から脱却して自力で生き抜く決意をし、そのために持てる力の全てを動員して外交を研ぎ澄ます、そんなことでもしない限りこの国は永遠に弛緩したまま朽ち果てていくのではないか」と書いた。今年の8月6日に広島の秋葉市長が「核の傘からの脱却」を訴えたのに対し、菅総理は「核抑止力は引き続き必要だ」と述べただけであった。

Profile

田中良紹(たなか・よしつぐ)

-----<経歴>-----

1945年宮城県仙台市生まれ。
1969年慶應義塾大学経済学部卒業。
同年(株)東京放送(TBS)入社。
ドキュメンタリー・デイレクターとして「テレビ・ルポルタージュ」や「報道特集」を制作。また放送記者として裁判所、警察庁、警視庁、労働省、官邸、自民党、外務省、郵政省などを担当。ロッキード事件、各種公安事件、さらに田中角栄元総理の密着取材などを行う。
1990年にアメリカの議会チャンネルC-SPANの配給権を取得して(株)シー・ネットを設立。
TBSを退社後、1998年からCS放送で国会審議を中継する「国会TV」を開局するが、2001年に電波を止められ、ブロードバンドでの放送を開始する。
2007年7月、ブログを「国会探検」と改名し再スタート。

BookMarks

日本初の政治専門チャンネル!
↓ ↓ ↓
国会TV
http://kokkai.jctv.ne.jp/

-----<著書>-----


『裏支配─いま明かされる田中角栄の真実』
2011年1月、電子書籍


『メディア裏支配─語られざる巨大マスコミの暗闘史』
2005年3月、講談社

-----<編書>-----


『憲法調査会証言集─国のゆくえ』
2004年7月、現代書館

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