維新の年末
「週刊新潮」に文芸評論家の野口武彦氏が「明治めちゃくちゃ物語」を連載している。野口氏によると「明治のメの字はめちゃくちゃのメ」だそうだ。特に明治の初年は「びっくりするほどめちゃくちゃな時代だった」。「徳川幕府を打倒して出来た新政権は、まだ海の物とも山の物ともつかず、権力実体は曖昧模糊として、自前の財源も軍隊も官僚組織もない」と4月2日号に書いている。
それを読んだ後に現実の「政権交代」が起きた。日本の歴史上初めて国民が自らの意思で政権を誕生させた。私はかねてから「政権交代は明治維新に匹敵する体制変革だ」と言い続けてきたので、ある程度は「めちゃくちゃが起こる」と想定した。常時政権交代を繰り返している欧米先進国には混乱を避けるためのルールもあるが、初めての日本にはルールも何もない。そこで誰がどのような動きをするか。それに興味があった。
アメリカでは政権交代に伴い数千人規模で官僚のクビが切られ、ワシントンの住人が入れ替わる。新政権が自分たちの意向で官僚を登用するから、政治主導になるのは当たり前である。しかし日本には霞が関の官僚のクビを切るルールがない。そこでどのようにして行政を政治に従わせるかが第一の注目点である。それは予算の作成を巡って見えてくる筈であった。
これまでの予算作成の主役は霞が関である。各役所が役所ごとに予算を積み上げ、それを財務省が査定して予算案をまとめ上げた。従って地方自治体や業界団体の陳情は主に霞が関、次いで援軍となる与党政治家に向かう。そのうちに霞が関と与党政治家との間に持ちつ持たれつの関係が出来る。予算をつけるのをいったんは渋って見せ、与党政治家の一言で実現したと見せかけて、陳情した地方自治体や業界にカネと票で与党政治家を支援させ、その代わり与党政治家は役所の利益のために身を挺して協力する。これが族議員を生み出す構図であり、官僚主導の政治である。
新政権ではまず各役所に入った政務三役(大臣、副大臣、政務官)によって予算の概算要求が作られた。これが95兆円と過去最大であったためメディアは大騒ぎしたが、就任1ヶ月足らずで作成したのだから、ほとんどが官僚の作成した数字に依拠したものと思われる。それをどこまで変えられるのか、騒ぐのは早過ぎるのである。すると次に「事業仕分け」が始まった。国の事業の一部を抽出して必要かどうかを公開の場で判断した。これは予算編成前のパフォーマンスに過ぎないのだが、初めて予算を巡る攻防が公開されて国民の目は釘付けとなった。
「公開処刑」との批判があったが、実は「公開処刑」こそ政治主導に持ち込む方策である。霞が関の官僚のクビを切らずに政治に従わせるには、官僚に対して信賞必罰、アメとムチとを使い分ける必要がある。一方で新政権に協力する官僚を重用し、他方で抵抗する官僚を見せしめにして更迭する。それがなければ政治主導など図れない。だから斉藤次郎元大蔵事務次官や江利川毅元厚生労働事務次官の登用は「天下り」ではない。霞が関の官僚たちに向けた信賞必罰の一方の姿勢である。
ところがもう一方の姿勢が見えてこなかった。せっかく「事業仕分け」で「公開処刑」をしたのだから、続いて政務三役が各役所で「見せしめ」を行い「ムダ」を搾り出すと思っていたがそれがなかった。「ムダ」を最も良く知っているのは官僚である。だから官僚からそれを吐き出させる必要がある。官僚と無用の対立をする必要はないが、吐き出させるには正論で押すだけでは無理である。やはりアメとムチが必要なのである。
結局、吐き出させられると思っていた「ムダ」が出てこなかった。まだ官僚を使いこなせていない証拠である。そのため「財源不足」が浮上して国債発行を増やすのか、マニフェストを変更するかの選択を迫られた。鳩山総理は国債発行を抑制し、マニフェストを変更する道を選んだ。マニフェストで大事なのは政治の方向性であり具体的な政策の一つ一つではない。野党時代の民主党にはマニフェストの逐条を絶対視し、官僚の登用を全て「天下り」として認めないなど「幼児性」があったが、政権を取って少し成長した。
そのようにして92兆円を越す過去最大規模の平成10年度予算案が出来上がった。景気悪化による9兆円の税収減という悪環境の中で、社会保障費を10%増やし、公共事業費を18%減らした。マニフェストの言う「コンクリートから人へ」を実現する予算案になった。ただどうせマニフェストを変更するなら子供手当てに所得制限を認めて、その財源を少子化対策の他の分野に回しても良かったのではないかと個人的には思う。もっともそこは通常国会で野党に追及された場合の修正部分になるのかもしれない。
それにしてもメディアの評価はいずれも「借金増やしてばらまき膨張」と手厳しい。借金を増やすのは「百年に一度」と言われる滅多にない危機的状況の中で景気悪化による税収減があるのだからやむを得ない。また子供手当てや農家への所得補償をばらまきと見るか消費刺激策と見るかだが、少なくも「選挙目当てのばらまき」の規模は超えている。私は経済効果は出てくると思っている。
予算案が出来たところでメディアは世論調査を行い「内閣支持率激減」と騒いでいる。どれほど「激減」したかと言えば支持率が50%を割り込んだと言うからアメリカのオバマ政権と変わらない。去年の9月に発足した麻生政権は12月に支持率が20%台に下落し、不支持が60%台と支持を上回っていた。それに比べて騒ぐほどのものかと思うが、メディアはとにかく騒いでいる。
ただ世論調査で鳩山総理の指導力に疑問を呈する人が多いのは頷ける。毎日ぶら下がり取材に応じて余計な事をしゃべっているからそう見えるのである。世界中で毎日記者の取材に応ずる指導者などいる筈がない。どの指導者にもスポークスマンが居てそれが取材に応ずる。最高権力者が取材に応ずるのは時々の事で、だからその言葉には重みがある。重みのある事を言うから最高権力者なのである。
ところがわが国では党内に全く力のない小泉総理が誕生し、彼は党内と戦うために国民を味方にする必要があった。そのため官房長官というスポークスマンが居りながら、自分でパフォーマンスをしてみせた。稀代のパフォーマーである小泉氏は鼻歌を歌いながら記者を煙に巻き、独特のテクニックで国民を目くらましにした。こんな事は民主主義とも説明責任とも何の関係もない。むしろ民主主義を劣化させるだけの話である。
特に交渉事については「沈黙こそ金」である。普天間問題で「アメリカの本音は」とか「誰がどう言った」などと最高権力者は決して言うべきでない。しかも駆け出しの何も知らない記者を相手にである。言われた当事者が不快になるのは当たり前である。これではまとまる話もまとまらなくなり、相手に足元を見られる。そんな事をあちこちで言っていたら、鳩山総理が「ぶら下がり取材でサービスし過ぎて反省している」と言ったそうだ。私の話が耳に入った訳でもないだろうが、しかしその直後に「グアムに移転するのは無理」と発言したそうだから全く反省していない。これでは弁慶役を演じている亀井静香氏や小沢幹事長はお守りをするのが大変だ。
それが私の目に映る政権交代初年の年末風景である。わが国の政権交代は先進諸国の政権交代と違い、長年続いた一党政治が変わったという意味で、これまでの既得権益には厳しい筈である。「事業仕分け」に抗議していたのは既得権益の方々である。だからもっと激しい反撃の声があちこちから上がると思っていた。しかし最も声を上げているのはメディアである。恐らくメディアが霞が関をはじめとする既得権益の声を代弁している。
戊辰戦争が終っていなかった明治初年の年末と比べるといささか緊迫感に欠ける今年の年末だが、来年はいよいよ参議院選挙という「最終戦争」がある。新政権に対する反撃はこれまで以上に激しくなる筈だ。通常国会がその舞台だが、出来る事なら自民党には予算案の中身で新政権に戦いを挑んでもらいたい。スキャンダル追及に終始して予算の議論を全然しない予算委員会を散々見せつけられてきた立場からすると、かつての万年野党社会党の真似だけはして欲しくないからである。


