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2009年11月25日

「事業仕分け」で大騒ぎ

 行政刷新会議が行っている「事業仕分け」に日本列島が揺れている・・・と言っても過言でないほど鳩山政権の「事業仕分け」に注目が集まっている。連日のニュースは「事業仕分け」でもちきりだ。この動きに既得権益の方々は苦々しい思いのようで、「1時間程度の議論で結論を出すのは乱暴」とか「仕分けの基準が分からない」とか「大蔵省に操られているのではないか」などの批判が出ている。

 しかしそれらはいずれも「事業仕分け」を予算の決定機関と過大評価しているかのような批判である。私には谷川秀善自民党参議院幹事長の発言が最も的を得ていると思えた。「ただのパフォーマンスやけど、国民には新鮮に見えるやろうな。自民党は何でこれをやらなかったんだろう」と谷川氏は言った。その通りで「事業仕分け」は予算案を決める手前の「パフォーマンス」に過ぎないのである。

 従って結論を出す時間が短かろうが、仕分けの基準が分からなかろうが、それを過大に批判しても始まらない。ノーベル賞学者が「歴史の法廷に立つ覚悟があるか」と批判したそうだが、予算を決める作業はまだこれからである。「事業仕分け」の結論を「参考」に鳩山政権の閣僚によって予算案が決まり、それが来年の通常国会で与野党によって議論されて予算は正式に決定される。日本の予算が「歴史の法廷に立つ」のはその時である。

正式に予算を決める作業でもない「事業仕分け」が何故これほどに注目されるのか。それは予算を作成するプロセスの一部が初めて国民に公開されたからである。これまでは既得権益の方々と官僚と与党政治家とによって霞ヶ関の内側で作られてきた数字が表に出て来て、数字の根拠を巡るやりとりが生で公開されたから面白くなった。既存メディアも取り上げざるを得なくなり、追加取材までするようになって、国民はこれまで知らなかった建物や施設を見て税金の使い道を実感した。

 メディアは「事業仕分け」によっていくら予算が削られるかばかりを話題にしているが、これもピントが外れている。「事業仕分け」の結論は大事でも何でもなく、予算案を作るための「参考」に過ぎない。むしろ大事なのはこの「パフォーマンス」によって、「事業仕分け」の対象にならない分も含めた予算の削減が可能になる「効果」の方である。

 予算について最も良く知っているのは仕分け人でも政治家でもない。各官庁の官僚である。何が無駄かを知っているのも官僚である。しかし何もなければ官僚は無駄だと思っても予算を削る事が出来ない。正義感で削ったりしたら霞ヶ関で出世する道は永久に閉ざされる。

 予算を削るのは、削られる側からすれば糧道を断たれる話だから大変である。ある人々にとっては生活権を奪われる話になる。その人々は死にものぐるいで抵抗する。その抵抗に負けると予算は既得権益化する。いったん既得権益化すると切るのは容易でなくなり、そのうち政治家や業界とのしがらみも出てきて予算は固定化される。これが積もり積もると財政は破綻する。だから時々政権交代でしがらみを断ち切る必要があるのである。

 政権交代はしがらみを切る絶好のチャンスだが、日本では政権が代わっても官僚は古くからのしがらみに縛られている。アメリカのように政権交代によって官僚が数千人規模で入れ替わるなら容易にしがらみは切れる。しかし日本では法律を変えない限りそれが出来ない。そこで官僚にしがらみを断ち切らせるには第三者の力を利用するしかない。官僚の意思ではなく新たな仕組みが予算を切るとなれば官僚は誰からも恨まれない。それなら官僚も前から無駄だと思っていた予算を削る提案が出来る。

「事業仕分け」の現場を見れば仕分け人と官僚は敵対している。そして実際に敵対するケースは多いと思う。しかし実は敵対しているように見せながら、官僚がこれまで出来なかった無駄の削減を可能にする仕組みが「事業仕分け」だと私は思っている。その上で国民に予算の使い道に対する関心が高まれば、国民の声がしがらみを断ち切らせる力にもなる。「事業仕分け」という「パフォーマンス」の持つ意味はそこにある。

 今回の「事業仕分け」によって税金の使い道に対する国民の関心は高まった。それは良い事だが手放しで喜ぶ気にはなれない。本来は国会の予算委員会と決算委員会がその役目を果たすべきだと考えるからである。予算委員会できちんと予算の議論をしていれば、国民は税金がどのように無駄に使われそうになっているかを知る事が出来、決算委員会を見ればどれだけの無駄があったかを知る事が出来たはずである。

 ところが前にも書いたが、予算委員会の国会中継はスキャンダルの追及ばかりである。予算の議論などほとんど見たことがない。決算委員会と言えば直近の予算の使い道ではなく、2年前の税金の使い道を対象にしているから気の抜けたビールになる。そうした国会のあり方をこれまで誰も批判してこなかった。

 予算に対する関心を抱かせない国会は予算を作ってきた霞ヶ関の官僚にとって都合の良い存在だった。これまでは国民に注目されずに思い通りの予算を成立させてきたのである。その反動が「事業仕分け」に対する国民の高い注目となって現れた。この変化を国会議員は肝に銘ずるべきである。

 国民が予算の作成段階から注目した予算案に対し、通常国会で国民の期待を裏切らずに議論を展開しなければならない。特に攻める野党自民党の責任は大きい。「事業仕分け」で削減された予算を元に戻して「増やせ」と言うのか、それとも「無駄がまだある」と追及するのか、その攻め方で自民党は野党としての鼎の軽重が問われる。

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2009年11月17日

改革の本丸は国会にあり(3)

 11月2日に始まった衆議院予算委員会の「基本的質疑」で初めて官僚のいない委員会質疑を見た。これまで官僚が待機していた席には副大臣、政務官らの政治家が座り、閣僚はそれぞれ自分の言葉で答弁して見せた。政治家が自分の言葉で語るのは当たり前である。しかしこれまでは当たり前が当たり前でなかった。官僚が政治家に代わって答弁し、官僚が書いた原稿を閣僚が読み上げるなど、官僚に振付けられた国会の姿を見せられ続けてきた。その意味で画期的な委員会の始まりだった。

 しかしこれは国会を変えるほんのわずかな一歩にすぎない。前にも書いたが、予算とは関係のないオール政府対オール野党の議論を何故予算委員会でやらなければならないのか。その分本当の予算審議は時間が削られている。党首討論を行なっている委員会を「国家基本政策委員会」と言うが、予算に関係のないオール政府対オール野党の議論はそこで行うべきではないのか。

 また審議時間が長いのも異常である。午前9時から夕方5時過ぎまで審議する委員会など世界にはない。座っているだけでも肉体的に苦痛である。会社の会議なら通常は1時間、長くても2、3時間だろう。それ以上は肉体的限界を越えて効率が悪い。むしろ短い方が濃密な議論が出来る。ところがわが国の国会は6時間も7時間も審議するのである。審議時間が長いのはまともな議論をしていない証拠だと私は思う。

 英国議会でオール政府対オール野党が議論をする「クエスション・タイム」は30分間である。その代わり毎週定例的に行なう。オール政府対オール野党の議論なら毎週定例でやってもらう方が国民にはありがたい。30分間なら忙しくとも全てを視聴できる。しかし1日中審議を見る国民などほとんどいない。

 米国議会の審議も大体1時間程度である。ただ例外的に朝から夕方までやる場合がある。国家が戦争突入を決める時で、この時は議員全員が議会で意見の開陳を行なう。国民の血を流す決断だから、議員も自らの政治生命を賭けて意見を表明する。議場には朝から緊張感が漂い、この時ばかりは長い審議も長さを感じさせない。しかし機械的に朝9時から夕方5時半まで行なう審議に果たして意味があるのだろうか。

 何故こんな事になったかと言えば、議席数に応じて機械的に質問時間を割り振るからである。少数の野党も質問時間を要求するから、少数野党に質問時間を割り振ろうとすれば、議席数の多い野党第一党や、さらに多い与党には大幅な質問時間が与えられ、結果的に長い審議になる。しかし与党に大幅な質問時間を与えても全く意味はない。「よいしょ」をするか、野党を批判させる答弁を導くのがせいぜいである。そんな質問を国民が聞きたい筈もない。しかし現実にはそうした事が行なわれてきたのである。

 このバカバカしい長時間審議を変えようとすると、最も反対したのがかつての野党社会党だった。「民主主義に反する」という訳の分からない理由で反対した。55年体制当時の自民党は水面下で社会党と通じていたから、社会党の言い分を聞き入れ、世界ではありえない長時間の審議が慣例となり、旧大蔵省が仕切る予算委員会での「基本的質疑」が国会を代表する審議となった。

 さらに世界でありえないのが国会への出席を最優先にする考えである。1年ほど前に民主党の小沢代表(当時)が本会議の採決を欠席して新聞やテレビが騒いだ。民主主義に反するかのような騒ぎだった。しかしそんな事で大騒ぎする国を私は知らない。その欠席で投票結果が変わるならいざ知らず、党議拘束がかかった国会で投票結果は分かっている。それなのに騒いだ。まるで国会出席イコール民主主義なのである。

 だから国会開会中に政治家は国会に縛り付けられる。中でも問題なのが外交を預る外務大臣や総理を野党が国会に縛り付ける事である。英国では国益は議会への出席よりも外交に力を尽くしてもらう事だと考える。野党は外相の外国行きを応援し、仮に外相の留守中に採決が行なわれる事になると、野党が自主的に1名を欠席させて公平を期す。さすがに紳士の国だと思うが、わが国はまるで逆である。政府を困らそうとする野党が国益など考えずに「国権の最高機関を無視するのか」と恫喝して総理や外務大臣を外国に行かせないようにする。

 従って日本では通常国会開会中に閣僚が外国に行くのは、週末の土日か5月のゴールデンウイークかという話になる。それでも冷戦の間はこの国にまともな外交などなかったから深刻な影響はなかった。しかしこれから日本が真に自立する国になろうとすれば、このような「国権の最高機関」のありようでは困るのである。外交に関して言えばもう一つ、私が以前から指摘している「秘密会のない国会の異常さ」がある。

 国会は国民から預った税金の使い道を決めるところである。従って税金の使い道については徹底的に審議してもらわないと困る。それは秘密を要する安全保障や外交や捜査中の事件に関する税金についても同様である。しかし安全保障問題や外交問題の手の内は諸外国に知られてはならないし、事件を解決するために公開できない捜査情報もある。

 それらの問題についてこれまでの国会では野党が追及しても「お答えできません」の一言で官僚が公開を阻んできた。情報は官僚の中だけに留め置かれ、国民の代表である政治家には知らされずに来た。しかし日本が民主主義であるならば本来それは許されない。主権者の税金で集めた情報は基本的に主権者に帰属すべきなのである。

 そこで各国の議会には「秘密会」がある。問題の性格上公開は出来ないが、国民の代表である国会議員にだけは秘密保持を条件に情報を知らせ、税金の使い道として妥当かどうかを判断してもらう。その非公開の議論の場が「秘密会」である。ところがわが国の国会で「秘密会」は開かれたためしがない。ないと言う事は政治家に官僚の情報が知らされていない可能性がある。最近話題になった「核密約問題」などはその好例である。知らされない総理もいた話である。

 「脱官僚」の政治は政治家が官僚の人事権と官僚の持つ情報を全て把握する事から始まる。それがなければ政治はいつまでも官僚にコントロールされる事になる。その入り口の一つが国会に「秘密会」を設ける事だと私は思う。選ばれた与野党の議員に罰則付きの守秘義務を課し、「秘密会」で秘密情報を元に議論させるのである。

 かつて外務省と警察庁の幹部に何故「秘密会」がないのかを聞いた事がある。「議員に秘密情報を漏らせば直ちにクレムリンと北京に通報される」と言うのが官僚の答えだった。冷戦中はその論理が通用したかもしれない。しかし今や日本は好むと好まざるとに関わらず、冷戦思考からの脱却を考えなければならないし、政治主導の政治は「秘密会」の存在を必要とするのである。(続く)

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2009年11月12日

「政治ホットライン」の復活

 この14日に「政治ホットライン」が復活する事になった。これはスタジオの政治家に視聴者が直接電話で質問が出来る生放送番組である。1998年にCS放送でスタートした「国会TV」の目玉番組だった。なぜ目玉かというと日本の放送局が決して真似の出来ない「怖ろしい」番組だからである。真似が出来ない理由は視聴者からかかってくる電話を全く選別せずに次々につないでいくからだ。そこには演出が一切ない。つまらない質問が続けば番組もつまらなくなるし、面白い質問があれば番組も面白くなる。シナリオのない生放送の主役がスタジオの政治家だとしたら、作・演出は視聴者ということになる。視聴率を無視出来ない放送局には不可能な番組なのである。

 この番組にはモデルがある。アメリカの政治専門チャンネルC-SPANが毎朝放送している「コール・イン・ショー」である。こちらは毎朝1時間、政治家、ジャーナリスト、学者などをスタジオに呼んで視聴者からの質問を電話で受け付けている。最初に見た時にはラジオの「子供電話相談室」のテレビ大人版だと思った。それほど電話の質問が素朴なのである。専門家とは発想の違う素朴な質問がとても新鮮だった。時にはたどたどしい質問にゲストが優しくフォローしたりする。並の政治討論番組とは違って人間味があった。

 湾岸戦争でバグダッド爆撃が始まり世界中のテレビが戦争の実況中継を始めた時、C-SPANはこの「コール・イン」を24時間放送した。深夜にはゲストの政治家もいなくなり、視聴者だけの「声の伝言板」になったが、その夜のアメリカ国民一人一人の心の中が見えてきてとても感動的だった。世界ではCNNの湾岸報道が評価されたが、アメリカのメディア批評家たちは「戦場シーンを見せない戦争報道」としてC-SPANを高く評価した。

 これを日本で放送するにはためらいがあった。日本では知ったかぶりの人間だけが電話してきて素朴な質問にならないのではと心配した。政治家と国民との間に人間味のある会話が成立するだろうか。そんなことを考えながら始めて見ると、案の定政治家に対する「罵倒」と「陳情」だらけになった。「お前らは議場で居眠りしやがってもっと真面目に仕事しろ」とか、「保育園の料金を下げてください」とか言われても、スタジオの政治家は答えようがない。せっかくの対話のチャンスが対話にならない。日本では政治家と国民が普通の人間同士として会話することは難しいのだとつくづく思った。

 しかし番組を続けていると視聴者の方が変わってきた。「罵倒」や「陳情」がなくなって、「励まし」や「ヨイショ」も出てきた。「官僚に負けずにがんばれ」とか、「さっきの一言は良かったです」とか言われて、スタジオの政治家も胸襟を開いて話すようになり素顔が見えるようになった。時にはスタジオの政治家が視聴者の激励に涙ぐんだり、政治家と意見がぶつかって電話の向こうで視聴者が泣き出したりした。

 「加藤の乱」の時、総理不信任案を採決する衆議院本会議が休憩に入り、再開のめどが立たなくなった。その時湾岸戦争のC-SPANを思い出し、ゲストなしの「コール・イン」をやってみた。「加藤紘一の行動をどう思うか」で日本中から賛否両論の電話がかかってきた。夜の8時頃から始まった番組に夜中の2時を過ぎても電話がかかって来る。その夜の日本人の心のドキュメントが放送出来たと思った。この番組に感動して政治に対する見方を変えたという人がその後何人も連絡をくれた。政治家への個人献金を始めたと言う人もいた。日本の政治に少しは役に立ったかなと思った。しかし諸般の事情で「政治ホットライン」は放送が出来なくなった。

 そんな思い出のある番組がインターネットで復活する。日本人が初めて自らの手で政権を選んだ時期に復活するのだから格別の思いになる。政治は国民が作り育てるものだと私は思ってきた。どう育つかは国民次第である。その事に「政治ホットライン」が役立つようになれればと思っている。

2009年11月 8日

やれば出来る

 国会で予算委員会の基本的質疑が始まり、初めて官僚のいない国会審議を見た。かつて官僚が待機していた場所に副大臣や政務官が座り、昔なら質問の度に閣僚席にペーパーを運んでいた官僚の姿がない。従って閣僚が原稿を棒読みする事もない。大袈裟かもしれないが生まれて初めて見る光景である。「やれば出来るじゃん」と思った。

 官僚の答弁禁止が問題になっているが、反対する政治家は官僚の助けなしに答弁する自信がないか楽をしたいかのどちらかである。これまでの閣僚は官僚が後ろに控えていたから実に楽だったと思う。しかし「それで良いのか」というのが「官僚政治からの脱却」である。行政府の官僚に仕切られる立法府で良いのかという話である。国会が官僚から話を聞く必要があれば、官僚を喚問して「証言」させれば良い。決して「答弁」をさせる必要はない。それが民主主義国ならどこでもやっている常識である。

 政治家が自分の言葉で語るようになれば、ムキになったり、言葉足らずになったり、閣僚同士の意見が食い違ったりする事は大いにありうる。むしろそれこそが本当の国会の姿である。ところがわが国のメディアは官僚に洗脳されているから、すぐに言葉尻を捉えて「閣内不一致」とか「発言に矛盾」とか瑣末な批判をする。政治が変わったのに民主主義とは対極の官僚思考から脱却できない新聞とテレビは大いに問題である。

 民主主義の議会は言いたい事を大いに言い合う「言葉の戦場」である。昔見た英国議会では当時のサッチャー首相が野党の党首をつかまえて「お前は古臭い共産主義者だ!」と金切り声を上げていた。政治は結果責任だから、大いに言い合っても、矛盾しても、閣内不一致でも、最後に国民に支持される結果を出せればそれで良い。その途中を針小棒大にあげつらうのは「ちいちいぱっぱ」の民主主義である。

 官僚が振付けて政治家が踊っていた時代は途中経過が見えなかった。途中経過で主役を演じているのは官僚だから、裏舞台を国民に見せる訳にはいかない。しかし政治家が主役になると途中経過も見えてくる。政治の途中経過には紆余曲折があり目的地に一直線に進む訳ではない。何を決めるにも敵が至る所にいる。そのため右に行ったり左に行ったりしながら最後の最後で目的地に着陸する。その過程を大局も見ずに批評していたら何が何だか分からなくなる。今のメディアはその蟻地獄に嵌っている。

 官僚のいない国会を見て、やっとこの国も民主主義に近づいたとは思ったが、議論の中身は今のところお粗末である。責任の多くは野党にある。攻めるポイントがうまくない。どのみち予算案がまだ出来ていないので本格論戦にはならない。そのため民主党の選挙マニフェストを俎上に乗せている。しかしこれはすでに選挙で決着がついている。攻め方によっては負け犬の遠吠えに聞える。同時にこれから実現していく話なので、それを批判しても始まらない。「実現できるか」、「4年間で実現する」という応酬にしかならない。

 結局、鳩山総理の故人献金問題と日本郵政社長人事に力が入れられた。しかしこれも攻める論理がいまいちである。故人献金問題は東京地検が捜査中だから、その推移を見守るしかない。それはこれまで攻められる立場にあった自民党は良く分かっている。国民の印象を悪くさせるだけが狙いである。ところが悪徳企業や外国から金を貰ったならともかく、大金持ちが自分の金を政治活動に使うために虚偽記載をしたという話で、国民の憤りはさほどでない。東京地検が結論を出すまでは大した話になりそうもない。

 日本郵政の社長に元大蔵官僚を起用した人事を「天下り」と批判するのも、これまでの自民党的大人の考え方に立てば、声高に批判出来る話にならない。大体この人事を「天下り」と批判するのは余りにも幼稚である。なぜなら「天下り」が問題なのは、第一に官僚の人事権を政治家ではなく官僚が握ってきた事、第二に国民から預った税金をその人事に関して無駄遣いしてきた所にある。

 法律上、官僚の人事権は大臣すなわち政治家にある。国民の代表である政治家に人事権があるという事は最終的に国民に人事権がある事になる。国民は政治家の生殺与奪の権限を握っている。これが国民主権国家における官僚と政治家と国民との関係である。ところがこれまで自民党は全く人事権を放棄し、あらゆる人事を官僚に委ねてきた。人事権を放棄した事が「官僚主導政治」を生み出した。

 官僚はOBの「天下り」も含めて全ての人事を自分たちで決めてきた。公団、公社、外郭団体などへの「天下り」は昔からあったが、80年代の後半に「天下り」の様相が一変した。日本が世界一の債権国になったことでタガが緩んだのだろう。「国を富ませたのは我々のおかげだ」と考える官僚たちが利益配分に預ろうと「天下り」が拡大した。

 私が働いていた放送業界にも郵政省から要求が下りてきた。それまではNHKとフジテレビだけだった「天下り」がキー局全社に及んだ。87年頃副社長から対応を相談された。断る事は出来ないのだと言う。どうせなら押し付けられる前にこちらから有能な人材を指名したらと言って副社長に候補者リストを渡したが、結局は郵政省から押し付けられた。その頃、放送業界だけではなくあらゆる役所が新たな天下り先を探していた。

 そのうち事務次官の仕事の第一が「天下り先を作る事」になった。それをしないと事務次官として評価されなくなる。「天下り」に伴って天下り先に国民の税金が補助金として支給される。小泉政権で「官から民へ」が叫ばれると、役所が民間の組織を作ってそこに「天下り」するようになった。例えば駐車違反の取締りを民間会社にやらせたり、国民の健康のためと称して「メタボ」検診の組織を作ったり、それらはすべて「天下り」のために考え出された事である。そうした動きが常態化し、無駄な税金が使われる実態があったから「天下り根絶」が叫ばれた。

 従って政治家が官僚の人事権を握り、人事配置をする事に何も問題はない。その人事が不適切であれば国民は政治家を取り代える事が出来る。日銀総裁人事で民主党が「大蔵省出身者だから駄目だ」と言った時、私はそれを幼稚な論理だと批判したが、最近の仙谷行革相の答弁によると「大蔵省出身者だからではなく、個人的な問題があり、名誉のためにそれを公にしなかった」と言う話である。

 自民党が本物の野党なら、小泉構造改革の「一丁目一番地」だった郵政民営化を党内できちんと総括した上で、鳩山政権の郵政改革方針に対して論戦を挑むべきである。それなら国家の進むべき道を巡る議論となって聞く気にもなるが、「天下り」であるかないかなどと言う子供のレベルの議論では聞く気にもなれず、いずれ国民にも見放されると思う。そんなレベルを喜ぶのは「ちいちいぱっぱ」のメディアだけで、それを国民は見放しつつある。せっかく国会が「やれば出来る」ようになったのだから、こちらも「やれば出来る」で本物の野党を目指してもらいたい。

2009年11月 4日

自民党の立ち位置

 80年前の大恐慌で世界の資本主義は大打撃を受けた。世界が失業と貧困に苦しむ中、その影響を受けなかったのはスターリンのソ連とヒトラーのドイツである。共に独裁的権力によって計画経済を推し進め重化学工業化と完全雇用を図った。危機の震源地であるアメリカでは国家が経済に介入するニューディール政策を採用し、福祉政策に力が入れられた。日本にも反資本主義思想が生まれ、国家社会主義が台頭し、「革新官僚」と呼ばれる官僚たちがソ連の計画経済を真似して統制経済体制を作り上げた。

>>続きは「THE JOURNAL×Infoseekニュース」で

Profile

田中良紹(たなか・よしつぐ)

-----<経歴>-----

1945年宮城県仙台市生まれ。
1969年慶應義塾大学経済学部卒業。
同年(株)東京放送(TBS)入社。
ドキュメンタリー・デイレクターとして「テレビ・ルポルタージュ」や「報道特集」を制作。また放送記者として裁判所、警察庁、警視庁、労働省、官邸、自民党、外務省、郵政省などを担当。ロッキード事件、各種公安事件、さらに田中角栄元総理の密着取材などを行う。
1990年にアメリカの議会チャンネルC-SPANの配給権を取得して(株)シー・ネットを設立。
TBSを退社後、1998年からCS放送で国会審議を中継する「国会TV」を開局するが、2001年に電波を止められ、ブロードバンドでの放送を開始する。
2007年7月、ブログを「国会探検」と改名し再スタート。

BookMarks

日本初の政治専門チャンネル!
↓ ↓ ↓
国会TV
http://kokkai.jctv.ne.jp/

-----<著書>-----


『裏支配─いま明かされる田中角栄の真実』
2011年1月、電子書籍


『メディア裏支配─語られざる巨大マスコミの暗闘史』
2005年3月、講談社

-----<編書>-----


『憲法調査会証言集─国のゆくえ』
2004年7月、現代書館

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