構造改革は見果てぬ夢
小泉元総理が最近出版した「音楽遍歴」によると、総理在任中に構造改革を断行した時はミュージカル「ラ・マンチャの男」のテーマ・ソング「見果てぬ夢」の一節「敵はあまたなりとも、我は勇みて行かん」で自らを鼓舞したという。
構造改革という「不可能な夢」に立ち向かった勇気をドン・キホーテになぞらえて見せるところなど大向こうから声がかかりそうで「役者やのう」と感心してしまうが、しかし小泉構造改革は今や本当に「見果てぬ夢」になりそうな気配がある。
小泉政権が郵政選挙の圧勝の勢いで導入した後期高齢者医療制度がこの4月から施行され、これまで最も自民党を支えてきたはずのお年寄りが一斉に怒っている。75歳以上の老人をひとまとめにして自己責任を押しつけるやり方に我慢がならないという怒りである。すると今度は自民党内から小泉政権が「2006年の骨太の方針」に盛り込んだ「毎年2200億円の社会保障費の削減」は止めるべきだとの声が上がってきた。全国特定郵便局長会も今年から「民営化見直し」で政治活動を行っていくという。こうした動きを見ると小泉構造改革はどうやら「風前の灯火」になってきたように見える。
小泉構造改革とは一口で言うとアメリカ共和党に代表される「小さな政府」を志向する政治だという。アメリカの「小さな政府」はなるべく税金を取らない代わりに国民を助けることもしない。あくまでも自己責任が原則である。経済を市場に任せ、規制を緩和し、自由に競争をさせて国を繁栄させる。平等よりも自由が優先する。国民から一杯税金を取ってその代わり国が何でも面倒を見る「大きな政府」の福祉国家とは全く逆の政治である。
そもそもアメリカでは「福祉は悪」と考えられる。努力しない者も助けることになるからだ。現在大統領選挙で劣勢に苦しむヒラリー・クリントンが大統領を目指しているのは日本のような「国民皆保険制度」を実現するためだが、これがアメリカでは評判が悪い。「国民皆保険」は社会主義だと思われる。マイケル・ムーア監督が「シッコ」という映画で描いたのはそうしたアメリカの現実で、「シッコ」ではヨーロッパやカナダ、さらにはキューバの医療制度の方がアメリカよりも人に優しい様子が「9・11」テロ事件と絡めて描かれていた。
従って「小さな政府」を目指した小泉構造改革に国民が痛みを感ずるのは当然である。小泉元総理も就任当初から「痛みに耐えて貰わないと構造改革は出来ない」と力説していた。その頃国民はそれを熱狂的に支持した。ところが同じ国民が今や「痛みに耐え切れない」と悲鳴を挙げている。日本にはアメリカ流の「小さな政府」は無理なのだろうか。
そもそも日本の政治は官僚が主導してきたから一貫して「大きな政府」の政治だった。何でも国が振付けて国民はその通りに踊らされてきた。その仕組みは戦後の復興過程で極めて有効に作用した。結果として日本は世界一の長寿国で世界第二位の経済大国に上り詰めた。ところが貧しさから脱するための仕組みは豊かになるとマイナスに作用し始める。国民は自立を求めるようになり、政治にも官僚主導からの脱却が求められた。
しかしそれまでの長い習慣は簡単に変わらない。自己責任原則はなかなか日本人には身につかない。何か問題が起こるとすぐ国のせいにして政府の責任を追及する。しかし政府を追及すればするほど国の権限が強まることを忘れている。政府は追及されて困った顔をしながら実はそれを権力強化に利用する。なんでも政府の責任にする国民のお陰で官僚機構は権限の幅を広げる事が出来た。そのことを最初に指摘したのが小沢一郎氏の「日本改造計画」だった。子供が池に落ちても国民は政府のせいにする。お陰で日本の観光地は柵だらけだが、アメリカのグランドキャニオンには柵がないという書き出しだったと思う。
日本では自民党も社会党も全ての政党が「大きな政府」で、「小さな政府」を主張する政党はなかったから「日本改造計画」は新鮮だった。その頃はいつの日にか日本にも「小さな政府」を主張する政党が現れるのだろうと思っていたが、小泉元総理がそれを主張した。そしてそれを霞が関の官僚機構が後押しした。官僚が後押ししたあたりから日本の「小さな政府」はアメリカと様子が違ってくる。
「官から民へ」をうたい文句に、経済財政諮問会議に権限を集中して、霞が関とは別のところで政策決定を行っているように見せながら、実は官僚機構が後押しして構造改革が始まった。道路公団民営化、規制緩和、中央から地方への税源委譲など「小さな政府」の定番メニューには一通り手をつけたが、しかし肝心なところがアメリカと全く違っていた。それは国民の負担を極力減らすという「小さな」の語源に関わる部分である。
「小さな政府」というのは経済に占める政府の比重を限りなく小さくすることで、税金を極力取らない事が前提になる。その代わり自分の事は自分でやりなさい。税金を取らない分だけお金が消費に回るので経済が成長する。大金持ちになるチャンスもあれば貧乏になるリスクもあるという社会である。ところが日本では「何よりも財政の均衡が重要」という財務省の要求を最優先にしたため、国民には減税の恩恵が全く与えられなかった。減税どころか逆に恒久的とされていた定率減税の廃止・縮小に手がつけられ、さらに医療、年金、介護などの国民負担が増大し、生活保護費や児童扶養手当が削減された。これではアメリカの「小さな政府」と似ても似つかない。まるで逆である。増税しながら自己責任を要求されては国民は悲鳴を上げるしかない。
だから最近の一連の動きは当然で、小泉構造改革が「小さな政府」であるかのようなまやかしの議論はもうやめたほうが良いと思っていた。官僚が主導する「小さな政府」などありうるはずがない。福田政権は小泉政治を継承してはいないのだから「小さな政府」という看板を下ろして、むしろ高齢化社会に対応する福祉国家を目指すべきではないかと思っていたら、自民党の綱領に「小さな政府を目指す」と書いてあることに気がついた。3年前の結党50周年に作られた新綱領で自民党は、「行政の肥大化を防ぎ、効率的な、透明性の高い、信頼される行政を目指します」と謳っている。
これを読んで考え込んでしまった。この綱領で使われている「小さな政府」の意味は世界で通用する「小さな政府」とは違うようだ。要するに行政を無駄のないようにスリム化すると言っているに過ぎない。行政のスリム化ならばわざわざ綱領に掲げる必要もないほど当たり前のことで、恐らく「大きな政府」の国だってやっている事だと思う。それとも自民党は「大きな政府」の意味を行政の無駄がある事だとでも思っているのだろうか。日本を代表する政権政党ならば「小さな政府」を正しい意味に使ってもらいたい。そうしないと「小さな政府の・ようなもの」が綱領に書かれていて、日本には「の・ようなもの」が蔓延していると思われてしまう。


