「接ぎ木民主主義」を認識すべき時
「ねじれ」国会の惨状に悲憤慷慨して、「政治を見るのも嫌」になったり、「一面的な政治報道に嫌気」をさす人が増えているという。
メディアが毎度伝えているのは「まるで指導力の無い総理と何でも政局に絡めて政治を停滞させる野党党首という図式」だから、そういう目で見れば「政治を見るのも嫌」になって絶望するのは当然である。
しかし「誰が総理になっても指動力を発揮できず」、「誰が野党党首でも政治は停滞する」としたら、国民の政治に対する見方も変わるのではないか。「一面的な政治報道に嫌気」をさす人も増えているというから、メディアとは異なる政治の見方を提示して絶望から救う必要がある。
これまで与党が衆参両院で多数を占めてきたために表面化しなかったこの国の奇妙な政治制度が「ねじれ」によって顕在化してきたというのが、昨年の7月29日以来私がコラムで書き続けてきたことである。福田総理や小沢民主党代表が特別に駄目な政治家であるわけがなく、この国の奇妙な政治制度から「国民が嫌になる」政治が導き出されている。その意味で「ねじれ」はわが国の政治制度を再度認識してみる絶好のチャンスである。
戦前の日本は世襲の君主を戴く立憲君主国として日本とよく似た英国の政治制度を取り入れた。英国の制度は国民が直接首相を選ぶのではなく、議会が首相を選ぶ議院内閣制で、議会は世襲の貴族院と選挙で国民から選ばれる下院との二院制である。さらに英国議会は委員会でなく本会議で議論を重ねる本会議中心主義をとっている。大日本帝国議会もまた世襲の貴族院と選挙で選ばれる衆議院の二院制を採用し本会議中心主義の議会運営を行った。戦前の日本は立派に英国型民主主義制度の国だったのである。
ところが敗戦後のアメリカによる占領支配の中で民主化の名の下に日本の議会は大きく変えられた。議院内閣制をそのままにしながら、貴族院が廃止されて参議院となり、本会議中心主義から委員会中心主義に変わった。その仕組みは大統領制をとるアメリカ議会と良く似ていて英国議会とは似ても似つかない。つまり英国型の議院内閣制という原木に大統領制をとるアメリカ型の議会制度が「接ぎ木」されたのである。
英国型の民主主義を大雑把に言えば、国民は選挙で政党の政策を選ぶ。「候補者は豚でも良い」と冗談で言われるほど、誰が候補者かは関係ない。選挙で候補者の名前を連呼することなどない。選挙運動とは党のマニフェストを理解させるための運動である。だからマニフェストが極めて重要な意味を持つ。候補者は党のマニフェストに縛られ、議員になれば党議拘束がかけられる。その結果国民の多数から支持された与党の政策はその通りに遂行されることになり野党は妨害などしない。妨害すれば民意を無視した反民主主義的行為と見なされる。野党に出来る事は与党の政策を批判することである。毎週水曜日の午後に行われる30分間の「クエスチョンタイム」で政策論争をし、次の選挙のマニフェストを作成して国民に支持を訴える。
ところがアメリカ型民主主義はこれとは全く異なる。大統領は国民から直接選挙で選ばれるが、議員もまた選挙で選ばれる。大統領が所属する政党と議会の多数党が異なるのは毎度のことで、そこで議員に党議拘束などかけたら政治は全く機能しなくなる。だからアメリカの政治にはマニフェストも党議拘束も無い。選挙で選ばれるのは政党の政策ではなく候補者個人である。候補者は自分が選挙区のためにどれほど貢献するかを訴えて競い合う。こうして選ばれた議員は党には縛られずに自らの考えで投票する。民主党議員が共和党大統領の政策を支持することなど日常茶飯事である。法案は委員会に付託されて議論を重ね本会議で採決されるが、党議拘束が無いから投票結果は最後の最後まで分からない。大統領は反対党の議員に電話をかけまくって支持を求める。委員会中心主義の議会運営は法案を成立させるかどうかで駆け引きを繰り広げ、法案を成立させないための審議妨害も行われる。議会と大統領とが対立して政治が機能しなくなるのを避けるため大統領には議会に対する拒否権も与えられる。これがアメリカ型民主主義の政治である。
英国型もアメリカ型もそれぞれに首尾一貫していると思うが、その「接ぎ木」である日本の政治制度は「接ぎ木」であるが故の矛盾に満ち満ちている。最近は日本でもマニフェスト選挙などと言うから英国型の選挙が行われるかと言えばまるで違う。候補者の名前を連呼して個人を売り込み、選挙区へのサービスを訴えるというまるでアメリカ型の選挙である。ところがそのアメリカ型の選挙で当選した議員が国会に行くと一転して党議拘束に縛られて個人の意思は無視される。それでは党議拘束があるから英国のように与党の政策がすいすい通るかと思えば、委員会中心主義の国会運営はそうはいかない。野党は法案ごとに徹底的に抵抗して審議妨害を行い成立を阻もうとする。国会運営はアメリカ型であって英国型ではない。
しかも日本の国会には英国型ともアメリカ型とも異なる会期制がある。通常国会と臨時国会をあわせても国会が開かれるのは1年間に200日程度である。会期中に成立しない法案は廃案になる可能性があるから野党が物理的抵抗を行って廃案を目指すのも理屈の上からは分からなくもない。因みに英国の議会は1年間、アメリカでは議員の任期である2年間が1つの会期である。
その上でもっと問題なのが日本の二院制である。英国は世襲の貴族院と選挙で選ばれる下院からなるが、国民の代表である下院で決まった事が議会の決定となる。貴族院には実質的な権限がなく事実上の一院制と言っても良い。
これに対してアメリカの二院制はいずれも選挙で選ばれるが下院が人口に比例して小選挙区から選ばれるのに対して上院は各州から2名が選ばれる。下院は国民の代表であり上院は州の代表という事になる。二院の役割も異なり下院は予算と関連法案について優先権を持ち、上院は条約の批准承認権や大統領が指名した人事案の承認権を持つ。つまり上院と下院は全く異なるものを代表し、異なる役割を持っているのである。二院の意味がはっきりしている。
ところが日本の二院制は英国ともアメリカとも異なる特異な仕組みである。日本国憲法を作るに際して、アメリカは当初貴族院を廃して一院制にしようとしたが、日本側が巻き返して二院制を存続させ、議員を選挙で選ぶことを条件に参議院が創設されたという。この参議院が何を代表するものなのか、なかなか良く分からない。一時期は与党の議員に官僚出身者が多く、野党の議員には労働組合OBが多い傾向があった。しかし最近では「一票の格差」を訴える定数訴訟などの影響もあって次第に衆議院と変わらない国民の代表的な要素が強くなった。そうなるとますます二院の意味が分からなくなる。
むしろ日本国憲法が、参議院で否決された法案は衆議院の三分の二以上の賛成がないと再可決されないという高いハードルを課したことから、参議院の法案採決を巡る権限が強くなり、時の政権は常に参議院の意向を尊重しないと政治が進まなくなる事に苦心してきた。そのため参議院は昔から「良識の府」ならぬ「政局の府」と言われてきた。かつて佐藤栄作総理は「参議院を制する者が政界を制する」と語った事がある。与党内で参議院の実力者を「天皇」とか「法王」と呼ぶ慣わしがあったのはそうした事情を物語っている。闇将軍と言われた田中角栄氏も参議院の多数を擁することで自民党を裏支配した。
その参議院を野党に握られたらどうなるか。現状はたまたま衆議院で三分の二以上を与党が有しているから与党の顔をしていられる。しかし次の選挙で三分の二を失えば悲惨なことになる。過半数を失えば政権交代が実現するからまだ分かり易いが、過半数を取ってしまうと本当に困る。選挙でマニフェストに掲げた事が全て通らなくなる。伊吹自民党幹事長が「選挙で勝って政界再編の主導権を握る」と言っているのは、選挙で与党が過半数の支持を得ても再編に打って出ないと何も出来ない。だから自民党は自民党でなくなる方向を目指すという意味だ。選挙に勝った党がそれゆえに消滅するというのも変な話だが、それが日本政治の現実なのである。
総理大臣在任最長記録を持つ佐藤栄作氏ですら「参議院を制する者が政界を制する」と言って、参議院の権限の強大さを認めていた。その参議院を野党に奪われた総理が通常の総理のように振舞えないのは当たり前である。参議院には解散が無いから選挙で問題を解決することはできない。指導力を発揮しようとすれば逆に墓穴を掘ることにもなりかねない。出来る事はじっと耐えて野党第一党である民主党の分断に力を傾けるだけである。
一方の小沢代表は相手が選挙に打って出られない事は百も承知である。しかし周囲からは早期解散に追い込めとの期待がある。それを無視は出来ないから強硬姿勢を示しつつも分断工作にも備えなければならない。来年の秋までには必ず選挙があるが、選挙は政界再編と二重写しになる可能性がある。選挙で単独過半数を獲得する戦略と選挙後の再編に備えた戦略との二つの可能性を追求しなければならない。とても単純な道ではない。
日本の政治は英国やアメリカが選挙で政権交代を繰り返すような単純な図式に当てはまらない。しかしそれもこれも私には日本の政治制度がもたらす特殊な民主主義の結果のように思える。そこを認識して今後の事を考えないとただただ絶望することになってしまう。そしてもうひとつ日本には果たして政治に権力が与えられているのかという別の問題もある。次回はそれを考えてみたい。


