藤波元官房長官の死で思うこと
藤波孝生元官房長官が10月28日に亡くなられた。リクルート事件さえなければ間違いなく総理大臣になった政治家である。訃報を聞いて何ともいえない虚しさがこみ上げてきた。日本の政治が今に続く混迷を始めたのは、藤波孝生氏の失脚と無縁でないとの思いが私にはあるからだ。
初めて藤波氏にお会いしたのは1979年、第二次大平内閣で労働大臣に初入閣した時だった。私は労働省担当記者で懇談の席で藤波氏の話を聞く機会を得た。政治家らしからぬ控えめな人柄で、記者を相手に話す話もバランス感覚に溢れていた。例えば選挙の話になったとき、藤波氏はこう言った。「選挙で自民党は勝ちすぎないほうがいい。野党がある程度の議席を持っている方が、外国からの要求に対して牽制が効く。自民党が勝ちすぎると日本は言いなりにならざるを得なくなるんです」。
また税制の話になった時にはこんな話をした。「世間で弱者と思われている人たちが一番厄介だ。弱者に世間は同情する。しかしそれを良いことに税金を払わないのが多い。政治は世間の目が怖いから弱者の言いなりになる。逆の不公平がまかり通る。それをやめさせるのは本当に難しいがやらなければならない」。
藤波労働大臣の在任中に行われた春闘は画期的なものだった。親方日の丸の官公労中心から民間労組中心の春闘に変わった。それが総評と同盟とに別れていた日本の労働運動を連合に統一する契機となった。藤波氏は思想的にはリベラルだったが派閥は中曽根派に属していて、中曽根康弘氏の右腕でもあった。当時総評系の労組が何かにつけて頼っていたのは自民党の田中角栄氏である。それに中曽根氏が対抗しようとしたのか、藤波氏は同盟系の組合に手を伸ばして中曽根派の応援団にしようとしていた。
政界で藤波氏を高く評価していたのはおそらく中曽根氏よりも竹下元総理だったと思う。「汗は自分でかきましょう。手柄は人にあげましょう」が口癖だった竹下氏にとって、控えめな人柄の藤波氏はまさに自らの口癖そのものの政治家だった。それに早稲田の後輩でもある。竹下氏は総理になった時から、自分の次は安倍晋太郎、その次は藤波孝生と決めて、その準備に取り掛かっていた。ネオ・ニューリーダーと呼ばれていた森喜郎、羽田孜、加藤紘一氏らも藤波氏には一目置いていて、藤波政権の誕生を待望していた。権力の行方に敏感な霞が関の官僚たちもそのように動いていた。
「一内閣一仕事」と言われるが、竹下政権は税制改革を、安倍政権は政治改革を内閣の課題とする事が決まっていた。それでは藤波政権は何を課題にしたら良いのか。1988年、政治家、官僚、ジャーナリストらが集まって藤波政権の政治課題を考える会が出来、私も参加した。藤波、羽田、森、加藤らの政治家と箱根で合宿を行ない、私は明治以来の中央集権国家体制を見直し、江戸時代のような分権国家を作ることを政治課題にすることを提案した。ところがその直後にリクルート事件が火を噴いた。
リクルート関連会社の未公開株が広く政財官界にばら撒かれていたこの事件は、ロッキード事件に続いて日本政治を大きく揺るがせる一大スキャンダルだった。未公開株を受け取っていた政治家は90人を越えた。リクルート社の狙いの中心は大物では中曽根康弘、宮沢喜一、竹下登、安倍晋太郎、渡辺美智雄氏ら、そしてネオ・ニューリーダーでは森喜郎、加藤紘一の両氏だったが、政治家で事件化されたのは藤波孝生氏だけだった。中曽根氏の身代わりになったという説もあるが、本人は事件について何も語らぬまま世を去ったため真相は分からない。ともかくこの事件で竹下政権は退陣に追い込まれ、藤波氏は受託収賄罪で起訴され有罪となった。
この事件によって予定していた政治リーダーと政治課題の引継ぎは全てが吹き飛んだ。竹下政権の後には誰もが予想もしない、おそらく本人も予想していなかった宇野政権が誕生した。宇野政権は中曽根傀儡政権と見られたが、就任直後の参議院選挙で自民党は大惨敗、超短命に終わった。65歳で政界を引退すると公言していた竹下氏はその後長らく隠微な形で日本政治を裏支配することになる。竹下裏支配の下でそれからは権力を持たない権力者が次々に登場するようになり、今では促成栽培の政治リーダーまで現れた。
中国共産党は先の党大会で5年後の政治リーダーを抜擢し、国の内外にその人物をさらし競わせようとしているが、かつての自民党にも同じように次代のリーダーを育て、鍛え上げるメカニズムが存在していた。佐藤長期政権の後には「三角大福中」、その後は「安竹宮」というように。しかしリクルート事件によってそうした機能は消滅した。だから藤波氏の悲運は私には個人を越えて日本の政治そのものの悲運に思えて仕方がない。
日本の権力機構はロッキード事件で田中角栄を、リクルート事件で藤波孝生の政治生命を奪ったが、その事によって日本政治は取り返しのつかない混迷の中に落ち込むことになった。55億円の賄賂が海外から日本の政界に流れ込んだロッキード事件は、5億円の受託収賄罪で田中角栄が逮捕され、残る50億円は解明されないままに終わった。自分ひとりを人身御供にしたことに反発した田中は全力を傾けて日本政治を裏支配するようになりいびつな政治構造を作り上げた。リクルート事件は竹下裏支配を招いた。
だから政治スキャンダルを見て「司法の解明に期待するしかない」などと言っているニュースキャスターを見ると、つくづくこの国の成熟度の低さを感じてしまう。警察や検察が強い国にろくな国などあるはずがない。


