小泉純一郎と中曽根康弘(1)
2001年4月に小泉政権が誕生したとき、国民は熱狂的に「変人宰相」の登場を歓迎した。内閣支持率は80%を越え、自民党本部が東京の観光名所になるという異常な社会現象まで生んだが、政治のプロ達はその時点で誰もこの政権が長続きするとは思っていなかった。
なぜなら党内基盤が脆弱で、しかも総理になるのに十分な外交経験も、これといった政策も持ち合わせていないと思われたからだ。かねてから郵政民営化を主張してはいたが、それは自民党では支持されない政策だった。
小泉は総裁選挙で圧勝した。しかしそれは地方票が上積みされたためで、国会議員の票だけをみれば過半数をわずか2票上回っただけである。しかもそれは亀井静香が本選挙を辞退して小泉支持に回ったためで、それがなければ小泉は党内の支持基盤が3割にも満たない全くの少数派であった。
吉田茂をみても佐藤栄作をみても長期政権を可能にするためには盤石の党内基盤が必要である。ところが小泉は党内基盤がないままその二人に伍して戦後歴代3位の長期政権をものにした。
何故それが可能になったのか。その秘密を解き明かそうとすると、小泉に抜かれるまで歴代3位の記録を保持していた中曽根康弘という政治家に突き当たる。中曽根政権もまた誕生したときには短命で終わると思われていた。それが5年の長期政権となった。
この二人の政治家を眺めていると実によく似ている。ところが似ている反面全く正反対の部分があり、政治的には敵対している。この相似性と対照性と敵対性の絡まり合いが実に興味深い。そこに政治の本質が潜んでいるように思う。
中曽根は吉田茂の日米協調、経済重視の戦後政治を批判し、憲法改正、民族自立を訴えて政治家となった。そのため吉田の流れをくむ保守本流と対立しながら自民党傍流を歩んだ。その中曽根を総理の座に据えたのは、当時福田赳夫と「角福戦争」を続けていた田中角栄である。自民党最大派閥を擁する田中の集票マシーンのお陰で中曽根は予備選挙で圧倒的な地方票を獲得し、河本敏夫、安倍晋太郎、中川一郎を破って総理に就任した。
その4年前、福田赳夫は田中によって総理の座から引きずりおろされた。以来23年間清和会(福田派の流れ)は田中の流れを組む最大派閥によって自民党傍流に押し込められた。福田を政治の師とする小泉は、奇しくも田中角栄の一人娘である田中真紀子の応援のお陰で、予備選挙で圧倒的な地方票を獲得して総理となった。傍流を歩んだ二人の男がそれぞれ田中親子の応援によって予備選挙に圧勝し総理の座を勝ち得たのである。
田中のお陰で総理になれた中曽根の内閣を、世間は「田中曽根」内閣と命名した。中曽根はまるで田中の操り人形だった。中曽根は総理就任と同時に、自分を総理に据えた田中角栄の支配から逃れようと画策を始める。自らが権力者になるためには最大の功労者を切らねばならない。その非情さがなければ権力者にはなれない。権力というものはそういうものである。中曽根は田中派の中で世代交代を訴えていた不満分子、金丸信、竹下登と密かに気脈を通じて田中失脚をねらった。
小泉もまた総裁選挙での最大功労者田中真紀子には頭が上がらなかった。このまま真紀子を放置すればいつかは権力の座を奪われるおそれがある。小泉は田中真紀子を切ることを決意する。幸い外務大臣に就任した真紀子が外務省とトラブルを起こし始めた。じっと見ていた小泉は躊躇なく田中真紀子を切り捨てた。
ちなみに竹下登は総理になると同時に、自分を総理に押し上げた金丸信を政界から引退させようと画策した。地元で金丸引退の噂を流し、長男への世代交代を計ろうとした。それを知った金丸は「政治家は一代限り、世襲はない!」と激怒した。表面は盟友関係を装い、互いの力を利用しながら、しかし水面下で金丸-竹下戦争が始まった。それがその後の竹下派(経世会)分裂、自民党分裂につながるのである。
中曽根も小泉も権力とは何かを知っていた。そして権力者になるための非情さを持っていた。この二人によって総裁選挙での最大の功労者田中親子が切り捨てられた。



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もっと 奥を知りたいです
投稿者: 匿名 | 2006年9月 8日 09:56