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2006年9月28日

ロッキード事件の真相

 30年前の7月27日早朝、私は東京地検の玄関前にいた。暑い夏の日差しが照りつけてきた午前7時20分、黒塗りの車が地検の玄関前に止まり、中から日焼けした顔の田中角栄前総理(当時)が降りてきた。直ちに無線機で社のデスクに一報を入れたが、すぐには信じてもらえなかった。「田中角栄が東京地検に入りました」と三度繰り返してやっとデスクも納得した。戦後最大の疑獄事件と言われるロッキード事件の田中逮捕の瞬間である。

 誰もが予想しない前総理の逮捕に日本中が衝撃を受けた。以来、ロッキード事件は「総理大臣の犯罪」となり、金権政治の象徴として田中角栄が糾弾された。それまで「庶民宰相」、「今太閤」と田中を持ち上げてきたマスコミは、手のひらを返したように田中批判に転じた。

 しかし事件の発覚当初から取材してきた私には、この日の田中逮捕が事件の全容を見えなくする「目くらまし」に思えてならなかった。

 1976年2月にアメリカ議会上院の多国籍企業小委員会で発覚したロッキード・スキャンダルは、アメリカの航空機メーカーであるロッキード社が自社の航空機売り込みのため、多額の工作資金を海外の要人にばらまいたという国際的な汚職事件である。

 工作の対象は日本だけでなくイタリア、ベルギー、オランダなど15カ国におよび、ロッキード社は各国の秘密代理人を通して工作を行っていた。日本の秘密代理人は右翼民族派の領袖で自民党の前身である自由党に結党資金を提供した児玉譽士夫である。

 当時ロッキード社が日本への売り込みを図っていたのは民間航空機トライスターと対潜哨戒機P3Cオライオンで、それぞれ30億円と25億円の工作資金が政府高官に流れていた。

 資金の流れは児玉ルートの他に、トライスターの販売代理店である商社丸紅のルート、トライスター購入を決めた航空会社全日空ルートがあり、我々はこの3つのルートを取材対象にしていた。ところが本命の児玉ルートは、本人が病に倒れたことと児玉とロッキード社との通訳を務めた福田太郎が急死したことを理由に全く手がつけられず、防衛庁が導入を決めた対潜哨戒機P3Cの売り込み工作についてはすべてが闇に葬られた。

 田中角栄はトライスターの導入に絡んで丸紅から5億円の賄賂を受け取ったとして起訴されたが、それは政府高官に流れたとされる金額のほんの一部に過ぎず、事件の全容は全く解明されていない。解明されていないにもかかわらず、前総理の逮捕という衝撃が目くらましとなって、ロッキード事件はあたかも田中角栄という特異な人物の「政治とカネ」の話にすり替わっていった。

 おそらく全容が解明されれば、この事件が田中個人ではなく日本政治の構造的な問題であることが明らかとなり、自民党は壊滅的な打撃を受けて政権維持が難しくなったと思われる。ところがこの国には自民党に代わって政権を担当できる野党が存在しなかった。野党第一党の社会党は政権を取る構えがなく、自民党という日本国の「経営者」に要求を突きつけて若干の修正を勝ち取る「労働組合」の役割に徹していた。その証拠に社会党は選挙で過半数を越える候補者を擁立することをしなかった。初めから政権を取らないようにしていたのである。

 このため当時の日本の政治構造は、国民が選挙によって政権を交代させるのではなく、万年与党である自民党の中の派閥の権力闘争によって擬似的な政権交代が行われ、野党は自民党のそれぞれの派閥の「隠れ応援団」にすぎなかった。社会党左派と公明党は田中角栄の応援団、社会党右派は金丸信、竹下登の応援団、民社党は中曽根康弘の応援団といった具合である。

 日本にも政権を担当する野党を作らなければならないと言われ始めたのは、このロッキード事件の直後からであった。

 政権を担いうる野党がない以上、捜査当局は全容を解明したくとも踏み込むことは出来なかった。それをすれば日本の政治は混乱し、国民生活の安寧秩序を損なうことになる。事件発覚直後に児玉譽士夫が病に倒れ、福田太郎も急死した事を奇貨として、対潜哨戒機売り込み工作の解明は消え去り、ロッキード事件は田中角栄の犯罪に「矮小化」されていった。

 1976年2月から9月までロッキード事件を取材した私の見方はそのようなものである。

 いったんは日本の最高権力者の地位に上り詰めた田中角栄にとって、7月27日の逮捕は決して認められるものではなかった。彼にとって逮捕は自民党内の権力闘争の延長上にあり、三木総理による政敵潰しに他ならなかった。田中は全身全霊をかけて自民党内権力闘争に勝利し、再び権力を手にすることを決意する。

 ロッキード事件から8年後に私は政治記者となり、有罪判決を受けた後「自重自戒」と称して目白の私邸にこもっていた田中角栄と月に一度昼食を取りながら話を聞く機会を得た。「話の聞き役」は田中角栄が病に倒れる直前までおよそ一年間続いた。

 「65歳で政治家を辞めようと思っていたが、ロッキード事件があるため辞めるわけにはいかなくなった。これも神の思し召しだと思っている。私は辞めない。天は私が安住することを許さない」。そう言って田中は無罪を勝ち取るため、自らの派閥からは決して総裁候補を出さず、他派閥の候補を総理大臣にすることで、最高権力者を裏からコントロールする「裏支配」の仕組みを作り上げた。

 三木政権に続く福田政権は「角影内閣」と呼ばれ、大平、鈴木、中曽根内閣も「直角内閣」、「田中曽根内閣」などと呼ばれて田中角栄の影響下にあった。無罪を勝ち取ろうとする執念によって田中は総理大臣の時以上の強い権力を手中にした。自民党は田中の思うままになり、日本の権力構造はかつてなくいびつなものに変形した。そうさせたのはロッキード事件である。

 1985年、田中は無罪を勝ち取ることなく病に倒れた。しかし田中が病に倒れた後も「裏支配」の構造は生き続ける。中曽根康弘は自らの政治路線を継承する事を条件に竹下登を後継者に指名し、竹下政権が短命に終わると宇野宗佑、海部俊樹、宮沢喜一と続く政権はいずれも田中角栄の流れをくむ最大派閥によって裏からコントロールされた。

 しかし田中なき後の「裏支配」政治は次第に自民党の活力を奪っていく。政治改革を巡って自民党が分裂し、1993年の選挙で初めて非自民の細川政権が誕生すると、自民党最大派閥は今度は社会党の村山富市を総理に担いで復権を果たすなど、日本の政治は混迷に混迷を重ねてきた。

 30年前、自民党政治を破綻させないために事件の全容を解明せず田中角栄一人を人身御供にしたことが、その後長らく日本の政治を歪めて閉塞状態に陥らせる不幸を招いた。

 それがかつてロッキード事件を取材し、その後政治家田中角栄を直接取材することになった私の見方である。

 2001年4月にはじめて自民党最大派閥が総裁選挙に敗れた。積もり積もった閉塞状況がついに沸点に達したかのように、自民党で支持されるはずのない小泉純一郎が総理に就任した。それまでの閉塞感が強かっただけに国民は熱狂的に小泉総理を支持した。

 その小泉政権もまもなく終わる。ポスト小泉を巡る自民党総裁選挙が始まるところだが、かつてのような擬似的政権交代を演出することは難しい情勢だ。小泉路線を継承する安倍官房長官の独走態勢は揺るぎそうにない。かつての自民党なら小泉政権と対極に位置する政治家が次の総理になることで、あたかも政権交代が実現したかのような錯覚を国民に与える必要があった。それが長期政権を維持するための秘訣でもあった。しかし政権に意欲を示す野党が出てきた以上、自民党の中だけで擬似的政権交代を続けることは難しい。今回の自民党総裁選挙はそうしたことを示しているようだ。そうであるならば次の自民党総裁は自民党員に選ばれた後、速やかに国民による選挙の洗礼を受けるべきだ。そうすることが権力に正統性を与え、政権運営をゆるぎないものにする。

 ロッキード事件から30年、ようやく擬似的政権交代ではなく、国民が選挙によって日本のリーダーを決める時が近づいてきている。

2006年9月14日

小泉純一郎と中曽根康弘(4)

 小泉が自民党総裁に選ばれる直前、自民党はどん底だった。

 2001年の年明けからKSD事件、外務省機密費流用事件などのスキャンダルが相次ぎ、2月にはアメリカの原子力潜水艦に衝突された水産高校の練習船「えひめ丸」がハワイ沖で沈没、一報を受けた森総理がゴルフに興じていたことから世論の厳しい批判を浴びた。内閣支持率は一桁となり、地方党員からは7月に予定されている参議院選挙を戦えないと悲鳴が上がった。森退陣は避けられない状況だった。退陣のシナリオを書いていたのは最大派閥で、その中心人物は野中広務である。野中は公明党と連携しながら森政権の息の根を止めようとしていた。

 森総理が退陣表明を行う前日の2001年3月9日、森派会長の小泉は国会内の図書館で一冊の本を読みふけった。吉村昭の小説「敵討」である。自分の父親と伯父を幕府の権力者の手先に殺された男の生涯をかけた復讐劇だが、小泉はその本を読んだことをわざわざ周囲の記者に披露し、記者が意味を飲み込めないでいると、「明日は歌舞伎座に忠臣蔵を見に行こうかな」とも言った。忠臣蔵もまた敵討の物語である。このとき小泉は森退陣後の総裁選に出馬する意志を固め、その出馬の意味をこの「敵討」に求めていたのではないか。
 
 小泉の政治の師である福田赳夫は、1972年の自民党総裁選挙で田中角栄にわずか6票差で敗れた。敗れた理由は同郷の中曽根が福田ではなく田中側についたからである。以来、福田と中曽根は犬猿の仲となり、二人の争いは「上州戦争」と呼ばれた。それから4年後に福田は話し合いで総理の座に着くが、2年足らずで田中に応援された大平正芳に政権の座を奪われる。それからというもの清和会(福田派の流れ)は常に最大派閥に負け続け、自民党には最大派閥の支援を受けないと総理にはなれない「裏支配」の仕組みが出来上がった。
 
 森政権は、福田赳夫が大平正芳に総理の座を奪われてから実に23年振りに出来た清和会の政権だが、自力で勝ち取った政権ではない。小渕総理の急病によって、田中派と中曽根派の流れをくむ橋本派と江藤・亀井派の「密室の談合」によって生み出された。そして森政権はその「密室」のメンバーによって使い捨てにされようとしていた。
 
 小泉にとって2001年の自民党総裁選挙は「敵討」の始まりだった。政治の師・福田赳夫が戦った二人の男に対する敵討ちである。
 
 そのうちの一人である田中角栄の一人娘、田中真紀子の力によって総裁選挙に勝利する事が出来たのは歴史の皮肉だが、小泉は1年を経ずして田中真紀子を切り捨てる。
 
 政略に長けた松野頼三を軍師に、もう一人の宿敵中曽根の手法を真似しながら、小泉は忠臣蔵さながらにいつ「本懐」を遂げるのか、その時期を模索した。
 
 田中政治を解体するための「本丸」は郵政民営化であり、その手前の「二の丸」には道路公団民営化がある。そして中曽根康弘との「三の丸」の戦いもある。この三つの戦いに勝利したとき小泉の「敵討」は「本懐」を遂げることになるが、とても一期目の2年の間には出来ない。小泉はその時期を総裁二期目に設定する。
 
 2003年9月、自民党総裁に再選された小泉は直ちに「三の丸」と「二の丸」攻撃を開始し、二人の男の首を取りにかかった。
 
 10月23日、中曽根康弘に対して次の衆議院選挙では公認しないことを通告、議員辞職に追い込んだ。
 
 翌24日、「道路のドン」と呼ばれた道路公団の藤井治芳総裁を解任、道路公団民営化に道を開いた。あっという間の連続攻撃だった。
 
 小泉が自民党総裁に再選される直前には、「郵政のドン」野中広務が最大派閥内部の権力闘争に敗れてすでに議員辞職を表明していた。
 
 そして残り1年で総裁任期を終えようとする2005年、小泉は「本丸」攻めに取りかかった。田中的政治を支持する者たちを自民党から追放し、さらに刺客を放って殲滅した。ついに「本丸」も陥落し、小泉にとって4年半がかりの「敵討」はこのとき終わった。
 
 敵討ちを果たした者の心には満ちたりた気持ち以上に事を為し遂げた虚しさが広がる。総選挙後の小泉はまるで燃え尽きたかのようにこの国の諸課題に関心を示さなくなった。選挙の大勝利で任期延長を求める声が相次いでも小泉には聞こえない。あとは余生と考えているかのように見えた。

 では小泉純一郎は戦いをやめたのか。それは否である。権力を知っている者は権力を失う事を極度に恐れる。権力を維持するために自らがしてきたことを、他の人間がやり始めると考えるといたたまれないほどに恐ろしい。

 中曽根は総理の任期を終えるとき、後継総理が自分を裏切らないようにするための仕組みを考えた。後継者に自力で権力を握られることになる総裁選挙は絶対にやらせたくない。中曽根は、自分の指名によって後継総理を決める「禅譲」を行う事にする。民主主義政治の時代にはありえない前代未聞のやり方である。中曽根は後継と目されていた竹下、安倍、宮沢の三人を競わせ、最も忠誠を誓う者を後継に指名した。後継に竹下が選ばれたのは、裏切らない事を中曽根に確信させたからである。
 後継競争が行われた1年間、竹下の周囲には数々の不思議な事件が起こった。右翼団体が一斉に竹下攻撃を開始し、「ほめ殺し」や脅迫事件が連続した。また竹下の娘婿が突然関西のテレビ局KBS京都の役員に就任したが、そこは闇の帝王と呼ばれた許永中が支配する放送局であった。

 中曽根政治を継承した竹下内閣は消費税導入という難題を政権の課題とする。それだけでも容易ではなかったが、さらにリクルート事件の直撃を受けて竹下政権は短命に終わった。リクルート事件の疑惑の中心人物は中曽根だったが、摘発されたのは中曽根ではなく中曽根内閣で官房長官を務めた藤波孝生だった。
 
 そして竹下内閣の後には誰もが予想しない宇野宗佑内閣が誕生した。それは中曽根の傀儡政権ともいうべき内閣である。そのようにして中曽根は権力を保持し続けようとした。これが中曽根のやり方である。
 
 「敵討」を終えた小泉が考えている事はただ一つ、自らの政治路線に忠実な者を後継総理にする事である。そうしなければ小泉政権の5年間はすべて消し去られてしまう可能性がある。権力を知る小泉は中曽根と同じ事をやろうとしている。ただその方法は中曽根と正反対である。
 
 禅譲などと言う前近代的なやり方では国民の理解は得られない。小泉が自民党総裁に選ばれた時と同じように、国民を巻き込んだ選挙で自分の後継者を作りたい。小泉はその事だけを考えて布石を打ち始め、自民党総裁選挙の年2006年を迎えた。
 
 郵政選挙の大勝利によって自民党反小泉派は表向き沈黙せざるを得なくなった。しかし小泉の任期はわずか1年。小泉が任期延長を画策しない限り、小泉の求心力は日に日に衰えていく。反小泉派も総選挙の直後から小泉政治路線を転換させるための政治工作を開始した。工作の一つは、小泉路線の司令塔である経済財政諮問会議を取り仕切り、郵政民営化の担当大臣だった竹中平蔵を権力の座から引きずりおろすこと。もう一つはアジア外交を停滞させている靖国参拝を徹底批判することだ。
 
 最も端的にそのことを語ったのは中曽根の盟友である読売新聞グループ本社会長の渡邊恒雄である。次の総理になる者は、竹中のような市場原理主義者を閣内に入れてはならず、さらに靖国参拝を行わないことを約束しない限り支持しないと明言した。そして中曽根自身は、2006年になると小泉外交を批判する福田康夫との間で父親の代から続いてきた「上州戦争」を終結させた。3月には共に韓国を訪問して福田との連携振りをアピールしている。
 
 小泉の鶴のひと声で通常国会の延長がなくなった。異例の事である。小泉は永田町の夏を自民党総裁選挙一色にしたい。政治の舞台から野党を排除し、自民党だけの権力闘争の舞台を作り上げた。おそらく小泉自身がシナリオを書き、演出をこらす構えだろう。
 
 その自民党総裁選挙は「麻垣康三」の戦いから、「安福」の戦いになってきたと言われる。その一方で福田康夫が本当に出馬するかどうかは流動的だとの見方もある。しかし安倍も福田も麻生も谷垣も言ってしまえば舞台の上の役者に過ぎない。役者が福田から与謝野に代わろうが他の誰かが登場しようが、この舞台を作りシナリオを書いているひとりは小泉で、それに対峙しているのは、実は米寿を迎えた中曽根康弘である。
 
 仮に安倍が総裁選挙で敗北すれば、小泉政治はそこで終わるだろう。しかし安倍が勝利して安倍政権が誕生しても、安倍がどこまで小泉の路線を踏襲するかは分からない。安倍が真の権力者たらんとすれば、いつか小泉を裏切り、小泉の影響を脱して独自の道を模索する筈だ。それが出来ない政権は短命に終わる。権力を知る小泉は戦いに終わりがないことを知っている。政界を引退しない限り戦いは続く。それを知りながら小泉は今シナリオの仕上げを書こうとしている。

2006年9月12日

小泉純一郎と中曽根康弘(3)

 松野頼三は、「ズル平」とあだ名された衆議院議員松野鶴平の三男で、昭和22年に総理大臣吉田茂の秘書官となり、その年の総選挙で田中角栄、中曽根康弘らと共に衆議院議員に初当選した。

 昭和30年の保守合同で自民党が結成されると佐藤栄作派に所属し、佐藤栄作の後継を決める角福戦争では福田赳夫を支持して田中と対立した。

 田中退陣後の三木武夫内閣では福田派から三役に送り込まれて政調会長を務めたが、三木内閣が自民党内で孤立し、全党的な「三木おろし」が始まると、三木を守るために福田と疎遠になり、福田からは「はぐれガラス」と批判された。中曽根内閣では中曽根再選を阻むため二階堂擁立工作に荷担したと言われている。

 経歴から、反田中、反中曽根で動いた政治家という事が出来る。

 小泉が中曽根ではなく松野を後見役に選んだ事は、小泉が反田中、反中曽根の政治を行う意志を表明した事になる。

 田中角栄の力の源泉は旧建設省、旧郵政省、旧自治省を支配したことにある。

 道路建設は政治家にとって最大の利権、郵便局ネットワークは自民党最大の集票マシーン、そして巨額な郵便貯金は第二の予算として政治に組み込まれている。それらを支配することで田中は自民党を支配し、その流れをくむ最大派閥はそれを踏襲してきた。

 小泉は道路公団民営化と郵政民営化を政権の課題とした。それは田中角栄が作り上げてきた支配構造の解体を意味する。容易なことではない。自民党内での孤立を覚悟し、場合によっては自民党分裂も覚悟しなければならない。

 かつて自民党内で孤立した三木内閣が「三木おろし」にどう堪えたのか。かつて自民党に分裂選挙はあったのか。小泉は松野から教えを受けた。

 1976年、「三木おろし」の真っ只中で、三木は松野を幹事長に据えようとして党内の猛反発に遭う。その時、政調会長になるはずの内田常雄を幹事長に、総務会長になるはずの桜内義雄を政調会長に、そして松野が総務会長に就任すると反対はなくなった。三役の顔ぶれは同じでもポストを変えれば反対は消える。松野はそう教え、小泉はそれを実行する。

 小泉政権の一期目、小泉には山崎拓幹事長以外に心の許せる相手はいなかった。そこで反小泉派は山崎の失脚を画策する。2003年、山崎幹事長の再任を認めないという党内の強い意向に対し、小泉は安倍晋三を幹事長に抜擢し、山崎拓を副総裁に据えた。安倍は名目だけの幹事長であり、山崎副総裁は事実上の幹事長留任なのだが誰も反対できなくなった。

 世間はサプライズ人事と驚いたが、何のことはない、松野の教えに従っただけの事である。

 1952年8月、吉田茂は自由党内の鳩山一郎派を排除するために「抜き打ち解散」を行い、自由党は分裂選挙になった。吉田派と鳩山派が赤バラ組と白バラ組に分かれて激しい分裂選挙を繰り広げたという。その選挙で自由党は議席を増やし、共産党は全員が落選した。選挙後、鳩山派は党の分裂を避けるため吉田に妥協した。小泉は自民党の前身である自由党の分裂選挙について耳をそばだてて松野の話を聞いた。

 2005年8月、小泉は自民党内の抵抗勢力を排除するために郵政解散を断行した。反対派には「刺客」を差し向け、激しい分裂選挙の結果、自民党は勝利し、民主党が惨敗した。ちなみに解散が8月に行われたのは53年の年月を隔てて史上この二例しかない。

 郵政解散と総選挙の大勝利で小泉は田中角栄が築き上げてきた支配の構造を徹底的に破壊した。田中の流れをくむ最大派閥は消滅し、自民党内のパワーバランスは一変した。小泉にとって郵政民営化は田中角栄との戦いであった。そして小泉にはもう一つの戦いがある。郵政民営化と同様に小泉が頑なに固執していること。それは靖国参拝である。

 かつて総理大臣の靖国参拝が外国から非難される事はなかった。A級戦犯が合祀されても抗議はなかった。ところが1985年、中曽根が8月15日の公式参拝を宣言し、外務大臣安倍晋太郎と大蔵大臣竹下登を引き連れて大々的な参拝を行った。このとき初めて中国外務省が公式に参拝反対を表明した。当時、中曽根は防衛費のGNP1%枠突破を図かろうとしており、中国からは日本に軍国主義復活の兆候があると見られていた。

 中国の強い反発の前に、中曽根は翌年一転して靖国参拝を中止する。表向きの理由は、中国政府内の親日派の立場を悪くしないためとされたが、靖国参拝をやめても親日派が復権したわけではない。それどころか日本の総理大臣はそれ以来誰も靖国神社を参拝することが出来なくなった。

 2001年の自民党総裁選挙で、小泉は8月15日に靖国神社に参拝することを選挙公約に掲げた。最初の年、周囲の反対で参拝の日取りを前倒しにしたが、小泉はその後も靖国参拝を欠かさない。中国からどんなに抗議されても欠かさない。外交上、それがどれほどの国益になるのかと批判されても、小泉は靖国参拝をやり続けている。何のためか。小泉の靖国参拝を最も苦々しい思いで見ているのは中曽根だ。紛糾すればするほど問題の根元に中曽根がいることを指摘される恐れがある。

 小泉にとって郵政民営化が田中角栄との戦いであるならば、靖国参拝は中曽根康弘との戦いである。

 2003年10月23日、小泉は中曽根を事務所に訪ね、党の定年制に基づいて比例単独候補での党の公認を辞退するよう申し入れた。中曽根に関しては、小選挙区制導入に際して、小選挙区を小渕恵三と福田康夫に譲ることを条件に、終生比例第一位に処遇することを橋本龍太郎内閣が約束していた。小泉はその特権を剥奪して議員の地位を奪おうとしたのである。中曽根は激怒した。「政治テロ」だと叫んで勧告を拒否した。しかし小泉は譲らない。中曽根は出馬断念に追い込まれ、半世紀をこえる議員生活にピリオドを打たざるを得なくなった。

 中曽根が国会議員の地位に固執したのは、憲法改正と教育基本法改正という自らのライフワークを実現する為であると中曽根は主張した。その憲法改正と教育基本法改正で再び中曽根は小泉に裏切られる。

 自民党は結党50年となる2005年11月までに党の憲法草案を作成することにした。その憲法草案の前文起草小委員長に中曽根が選ばれた。憲法改正をライフワークとする中曽根は精魂込めて前文を作成した。しかしそれが採用されることはなかった。小泉が反対したと言われている。

 2006年の通常国会には憲法改正のための国民投票法案と教育基本法改正案が上程された。この二つの法案は、中曽根にとってまさに生涯をかけた歴史的な意味を持つものである。しかし小泉の対応は冷淡だった。国会の会期延長をあっさりと否定して両法案ともに成立の見通しは立たなくなった。

2006年9月 9日

国会TV訪問記

kokkai060908.jpg

先日、国会TVを訪問しました。

写真を見ていただくとお分かりのように、壁一面の凄い機材でした!

機材フェチの私としては、いきなりテンションが上がってしまったのですが...

しかも、アナログ編集メインなので、余計に量が多いです。

国会からここに専用回線をひいて放送(現在はネットだけで)、また、編集していろんな所に素材を提供されているのです。

代表の田中氏は、ここに入ってくる映像を毎日チェックして、ちゃんとインデックスを付けて編集し、かなり神経質にきちんと保管されています...極めて地道な作業です。

普段、国会というものをまじまじと見ないのですが(正直、長時間見るのはたいくつなものですよね)ここに来て映像を見てみると、テレビでダイジェスト的にかいつまんで放送しているものだけでは、何も判断できないと思いましたし、かと言って全ての議会を見るのは無理ですが、例えば、地元の議員さんがどういう話をしているのか、また、ろくに何もしていないのか...などなど、着眼点を決めて見れば十分おもしろいと思います。

個人的には「9・11テロの直後、アメリカ議会では何を話していたのか」が興味あり、その映像も見せてもらいました。

現在は、国会TV自体会員制(有料)ですので、そこは当然「しきい」の高い部分ではありますが、今後《ざ・こもんず》では、できるだけダイジェストの載せたり、田中氏のとっておきの話を聞いたりして、国会に触れる機会を作ってゆきたいと思っています。

もし「もっと映像を見たい!」と思ったら、一度国会TVを覗いてみてください。

国会TV
http://kokkai.jctv.ne.jp/

原点はここにあるのだと思います。

from《ざ・こもんず》運営事務局(一番政治にうといスタッフ)

2006年9月 8日

小泉純一郎と中曽根康弘(2)

 前回述べたように、中曽根康弘は最大派閥にくさびを打ち込むため、金丸信、竹下登と秘かに気脈を通じていた。田中角栄の支援によって中曽根が自民党総裁に再選されて間もなく、金丸と竹下は「創世会」を結成して田中派は分裂状態になる。そしてその直後に田中は病に倒れ、田中による裏支配政治は終わった。

 小泉純一郎は、橋本派の青木幹雄と野中広務との間にくさびを打ち込んだ。持論の郵政民営化を力説して郵政族のドン野中を挑発する一方、参議院のドンである青木には十分に気配りした。青木とのパイプ役には早稲田大学雄弁会仲間の森喜朗も一役買う。

 そもそも青木と野中の間には以前から微妙な関係があった。竹下登の地元秘書として長年仕えてきた青木と、当選回数は少ないものの実力で派内での地位を高めてきた野中の間にある微妙な関係である。小泉はそれを最大限に利用した。小泉が自民党総裁に再選された2003年の総裁選挙で、青木と野中の対立は決定的となり、最大派閥は分裂状態となった。

 党内基盤が脆弱な中曽根は外にも後ろ盾が必要だった。外の後ろ盾とはアメリカの事である。当時のアメリカ大統領はソ連を「悪の帝国」と呼んだレーガンで、米ソの軍拡競争はピークに達していた。中曽根は、共産主義から西側世界を守るために日本列島を「浮沈空母」にすると言ってレーガンを喜ばせた。以来、レーガンと中曽根は「ロン」、「ヤス」とファーストネームで呼び合う親密な関係を築いた。

 党内基盤が脆弱な小泉もまた中曽根と同様にアメリカを後ろ盾にする必要があった。アメリカ大統領はレーガン路線を踏襲しようとしているジョージ・W・ブッシュである。小泉はアメリカが望む不良債権処理とミサイル防衛構想を受け入れ、ブッシュに気に入られた。9・11同時多発テロに際しては、いち早く「テロとの戦い」を支持し、自衛艦のインド洋派遣を決めた。二人の相性の良さはロン−ヤスを越えたと言われる。アメリカ大統領と親密な個人的関係を築いた総理はこの二人をおいて他にない。

 財政政策には国が借金をしてでも公共事業などを行って景気浮揚を図る積極財政と、肥大化した政府の無駄を削減して財政を健全化する緊縮財政があるが、中曽根も小泉も後者の政策をとった。

 中曽根は「増税なき財政再建」を掲げ、行政改革を政権の最重要課題とした。国鉄、電電、専売の三公社を民営化し、「民間活力」を大いに喧伝してバブル経済に道を開いた。

 小泉もまた増税を次の政権に先送りし、道路公団と郵便局の民営化に力を入れた。「官から民へ」をうたい文句に、「80年代の積み残しをやっている」と発言して、中曽根が出来なかった行政改革の諸課題に手を付けている事をアピールした。

 中曽根はパフォーマンスを重視した初めての総理である。劇団四季を主宰する演出家の浅利慶太をアドバイザーに、数々のパフォーマンスを演じてみせた。若さをアピールするために取材陣の前で水泳をし、座禅を組む姿を撮影させた。レーガン大統領が来日したときには、自らの山荘に招いていろりを囲み、法螺貝を吹いてみせた。

 小泉は中曽根以上にパフォーマンスに力を入れた。メディアへの露出度は歴代総理の中でも群を抜いている。内閣のスポークスマンは官房長官で、官房長官は日に2回も記者会見するが、小泉も毎日テレビカメラの前に立って記者の質問に答える。政治の話だけではない、スポーツから社会問題まで、何でもコメントしてみせる。この5年間、テレビ・コメンテーターのナンバーワンは小泉総理であった。

 1986年7月、中曽根は衆参ダブル選挙を決行した。衆参ダブルには憲法違反の疑いがあるとして党内多数は大反対だった。中曽根はそれを策略でなし遂げる。「死んだふり解散」と言われた。結果は自民党結党以来最高の300議席を獲得して中曽根の任期延長に道を開いた。

 2005年8月、小泉は参議院で郵政法案が否決されたことを理由に衆議院を解散した。憲法違反の疑いがあると指摘され、党内には多数の反対があったが、「殺されてもやる」と言って自民党分裂選挙を強行した。結果は296議席を獲得する大勝利となった。

 政権末期が近づくと、二人は共に日本の歴史を自らの手で創ろうとした。

 中曽根は「遷都」をやろうとした。歴史上、日本の都は四百年以内に遷都されてきた。ところが江戸・東京は都となってから四百年以上が経っている。中曽根は首都移転を画策し、その意を受けた金丸が各党に働きかけて国会移転決議を行う。しかし中曽根内閣が終わると共に遷都論は尻すぼみとなり消えていった。

 小泉は「皇室典範改正」をやろうとした。男系男子によって継承されてきた天皇家の歴史を変えようとした。平成18年の通常国会で成立を図ったが、秋篠宮妃殿下のご懐妊により断念に追い込まれた。

 こう見てくるとこの二人にいかに共通点が多いかが分かる。二人とも最大派閥と戦わねばならない境遇にあったから、期せずしてそうなったのか、小泉が意識的に中曽根の真似をしたのかは分からないが、とにかく共通点が多い。しかしこの二人、実は全く似ていない。まるで正反対の人間なのである。

 パフォーマンスを見ればよく分かるが、中曽根は「殿様」を演じている。権力者であることを誇示したいのが中曽根だ。ところが小泉はあくまでも「庶民」を演じてみせる。流行り歌を口ずさみ、ラーメン屋にも出入りする。そこらの「横町のあんちゃん」と同じだ。だからみんなに「純ちゃーん」と手を振られるようになる。

 選挙の大勝によって中曽根は総裁任期の延長を実現した。そのために解散を仕組んだと言ってもいい。ところが小泉はそれとは逆に大勝利の直後から「任期延長はしない」と言い続けている。まるで中曽根に当てつけるようにそれを繰り返している。

 小泉総理が誕生した時、中曽根は「若い頃の自分を見ているようだ」と強い親近感を表明した。予備選挙での圧勝という登場の仕方、自民党右派という思想的立場、いずれも自分に近い。中曽根は、最大派閥に協力して党内のポストを得ようとしていた亀井静香に因果を含め、本選挙を辞退させて小泉政権誕生に力を貸した。その時中曽根は小泉総理の後見役は自分をおいて他にはいないと思っていた筈だ。ところが小泉は中曽根がさしのべた手を振り払い、慶応大学の先輩で、中曽根と同期生の自民党長老、松野頼三に後見役を依頼した。そこから二人の敵対関係が始まる。

2006年9月 6日

小泉純一郎と中曽根康弘(1)

 2001年4月に小泉政権が誕生したとき、国民は熱狂的に「変人宰相」の登場を歓迎した。内閣支持率は80%を越え、自民党本部が東京の観光名所になるという異常な社会現象まで生んだが、政治のプロ達はその時点で誰もこの政権が長続きするとは思っていなかった。
 
 なぜなら党内基盤が脆弱で、しかも総理になるのに十分な外交経験も、これといった政策も持ち合わせていないと思われたからだ。かねてから郵政民営化を主張してはいたが、それは自民党では支持されない政策だった。

 小泉は総裁選挙で圧勝した。しかしそれは地方票が上積みされたためで、国会議員の票だけをみれば過半数をわずか2票上回っただけである。しかもそれは亀井静香が本選挙を辞退して小泉支持に回ったためで、それがなければ小泉は党内の支持基盤が3割にも満たない全くの少数派であった。
 
 吉田茂をみても佐藤栄作をみても長期政権を可能にするためには盤石の党内基盤が必要である。ところが小泉は党内基盤がないままその二人に伍して戦後歴代3位の長期政権をものにした。
 
 何故それが可能になったのか。その秘密を解き明かそうとすると、小泉に抜かれるまで歴代3位の記録を保持していた中曽根康弘という政治家に突き当たる。中曽根政権もまた誕生したときには短命で終わると思われていた。それが5年の長期政権となった。
 
 この二人の政治家を眺めていると実によく似ている。ところが似ている反面全く正反対の部分があり、政治的には敵対している。この相似性と対照性と敵対性の絡まり合いが実に興味深い。そこに政治の本質が潜んでいるように思う。
 
 中曽根は吉田茂の日米協調、経済重視の戦後政治を批判し、憲法改正、民族自立を訴えて政治家となった。そのため吉田の流れをくむ保守本流と対立しながら自民党傍流を歩んだ。その中曽根を総理の座に据えたのは、当時福田赳夫と「角福戦争」を続けていた田中角栄である。自民党最大派閥を擁する田中の集票マシーンのお陰で中曽根は予備選挙で圧倒的な地方票を獲得し、河本敏夫、安倍晋太郎、中川一郎を破って総理に就任した。
 
 その4年前、福田赳夫は田中によって総理の座から引きずりおろされた。以来23年間清和会(福田派の流れ)は田中の流れを組む最大派閥によって自民党傍流に押し込められた。福田を政治の師とする小泉は、奇しくも田中角栄の一人娘である田中真紀子の応援のお陰で、予備選挙で圧倒的な地方票を獲得して総理となった。傍流を歩んだ二人の男がそれぞれ田中親子の応援によって予備選挙に圧勝し総理の座を勝ち得たのである。
 
 田中のお陰で総理になれた中曽根の内閣を、世間は「田中曽根」内閣と命名した。中曽根はまるで田中の操り人形だった。中曽根は総理就任と同時に、自分を総理に据えた田中角栄の支配から逃れようと画策を始める。自らが権力者になるためには最大の功労者を切らねばならない。その非情さがなければ権力者にはなれない。権力というものはそういうものである。中曽根は田中派の中で世代交代を訴えていた不満分子、金丸信、竹下登と密かに気脈を通じて田中失脚をねらった。
 
 小泉もまた総裁選挙での最大功労者田中真紀子には頭が上がらなかった。このまま真紀子を放置すればいつかは権力の座を奪われるおそれがある。小泉は田中真紀子を切ることを決意する。幸い外務大臣に就任した真紀子が外務省とトラブルを起こし始めた。じっと見ていた小泉は躊躇なく田中真紀子を切り捨てた。
 
 ちなみに竹下登は総理になると同時に、自分を総理に押し上げた金丸信を政界から引退させようと画策した。地元で金丸引退の噂を流し、長男への世代交代を計ろうとした。それを知った金丸は「政治家は一代限り、世襲はない!」と激怒した。表面は盟友関係を装い、互いの力を利用しながら、しかし水面下で金丸-竹下戦争が始まった。それがその後の竹下派(経世会)分裂、自民党分裂につながるのである。
 
 中曽根も小泉も権力とは何かを知っていた。そして権力者になるための非情さを持っていた。この二人によって総裁選挙での最大の功労者田中親子が切り捨てられた。

Profile

田中良紹(たなか・よしつぐ)

-----<経歴>-----

1945年宮城県仙台市生まれ。
1969年慶應義塾大学経済学部卒業。
同年(株)東京放送(TBS)入社。
ドキュメンタリー・デイレクターとして「テレビ・ルポルタージュ」や「報道特集」を制作。また放送記者として裁判所、警察庁、警視庁、労働省、官邸、自民党、外務省、郵政省などを担当。ロッキード事件、各種公安事件、さらに田中角栄元総理の密着取材などを行う。
1990年にアメリカの議会チャンネルC-SPANの配給権を取得して(株)シー・ネットを設立。
TBSを退社後、1998年からCS放送で国会審議を中継する「国会TV」を開局するが、2001年に電波を止められ、ブロードバンドでの放送を開始する。
2007年7月、ブログを「国会探検」と改名し再スタート。

BookMarks

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国会TV
http://kokkai.jctv.ne.jp/

-----<著書>-----


『裏支配─いま明かされる田中角栄の真実』
2011年1月、電子書籍


『メディア裏支配─語られざる巨大マスコミの暗闘史』
2005年3月、講談社

-----<編書>-----


『憲法調査会証言集─国のゆくえ』
2004年7月、現代書館

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