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2011年3月21日

私たちは大震災と原発惨事のさなかで何を考えるべきなのか?

 人間の歴史には「切断点」がある。その出来事の前と後とでは、まるで風景が違って見え、価値観が変容し、情況が一変するような「切断点」がある。いま私たちはそのような「切断点」のただなかにいる。そのような「切断点」はかつてヒロシマの8月6日にあったかもしれない。あるいは1945年の8月15日にあったかもしれない。僕にはいま論理立てて今回の出来事を整序するだけの余裕がない。だから以下の文章は論理に裏打ちされたものではなく、目の前で進行している事象の素描を記すに過ぎない。だが何を記すかによって見えてくる風景はおのずと異なるだろう。

 取材で入った宮城県南三陸町でみた風景。山間部にまで何隻もの漁船がすさまじい津波によって打ち上げられていた。津波によって押し上げられた瓦礫は、漁船の網やウキ、昆布、ブラジャー、蛸の死体、アルバム、茶碗、材木、泥を巨大な渦のなかで撹拌したように、あり得ない無秩序な塊となって、堆積していた。人の姿がみえない。1万7千余の町の人口の半分の安否がわかっていないのだという。津波によって町は壊滅していた。町の自慢だった防災対策本部の建物は鉄骨だけになった姿を無惨に曝していた。その2階の防災用放送室で、「大津波が来ます。すぐに避難してください」と町民に向かって放送していた25歳の女性職員は、津波に飲まれていまだ行方がわかっていない。防災本部にいた他の20人の職員たちも津波に飲まれてしまった。その防災本部企画課職員であった夫をさがしている妻と現場であった。「最後の最後までいる必要があったのでしょうか?」と彼女は呟いた。気象庁の大津波警報の第一報の記録が残っている。岩手3メートル、宮城6メートル、福島3メートルとある。実際の津波はそれをはるかに超える大津波で、町の設営した防波堤、防潮堤、水門を破壊して突き進み町を飲み込んだ。気象庁の予知には限界があった。結果的に言えば、自然を甘く見ていたと言わざるを得ない。だが、「想定外」という言葉は何の説明にもなっていない。

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↑ 宮城県南三陸町の防災対策本部ビル(筆者撮影)

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↑瓦礫のなかで大破している消防車(南三陸町にて。筆者撮影)

 地震予知の第一人者とか専門家とかが僕らのテレビに登場した。彼らは総じて無力だった。だが彼らの多くが自分たちの無力さ・限界を認識しているようには思えなかった。折しも静岡沖で地震が起きた時も「あれは東日本の大地震とは全く無関係の地震です」と彼らは断じていた。その「無関係の」地震がほぼ時を同じくして起きていることの関連に素人は恐れを抱いている。その素人の直感の方が事態を正確に言い当てているのかもしれない。僕らメディアも地震予知には全く無力だった。

 避難所を含む被災現場には電気がなかった。電話が通じない。携帯電話などおもちゃ以下のものでしかなかった。フェイスブックとかツイッターとかそんなものは現場では全く何の役にも立たなかった。役に立っていたのは物理的なチカラだった。食料をつくって配給するチカラ。地面に穴を掘って仮設トイレをつくるチカラ。瓦礫を押しのけて人間をさがし救い出し収容するチカラ。電気と電波に依拠するものなど何の役にも立たない。カイロとラジオは役立っていたが。被災地域以外でネットは雄弁だったのだろう。

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↑山間部に打ち上げられた漁船(南三陸町にて。筆者撮影)

 避難所を訪ねた。行政の人間が壊滅的な状況にあるとき、食い物をどうするのか。誰かが作らなければ被災者は飢え死にするのだ。誰がつくって配給するのか? 自分たちでやるしかない。南三陸町の水産加工工場の経営者たちは倉庫の冷凍機能が失われた段階で、水産物=魚類をすべて町民に供出した。彼らはそれを、無事に生き残った町民と力を合わせてさばいて、避難所の被災者たちのために炊き出しを始めた。そういう食材調達、調理をする人員の確保、配膳のシステム等を、地元の若い男性ら数人が自力で立ち上げて自分たちで運営していた。頭の下がる思いがした。

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↑避難所で食料を配膳する地元の少女たち(南三陸町にて。筆者撮影)

 中国の山東省から水産加工工場に働きに来ていた12人の中国人少女たちが避難所にいた。着の身着のままで津波を逃れてきた。工場の責任者から「一緒に逃げなさい」と指示されたのだという。彼女たちはその後、避難所で開通した衛星電話サービスで故郷の町とつないで無事を知らせながら涙ぐんでいた。

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↑避難所で食事の配給の列に並ぶ中国人女子労働者たち(南三陸町にて、筆者撮影)

 この町は復興できるのか? これほどすさまじい破壊の後に。だが、人々は整然と食事の時には列を作っていた。それらの人々の慎み深さに希望がみえる。僕らの国の都知事が「天罰」とか「我欲」とかいう言葉を使ったことを知った。彼がひょっとして出馬表明をするのではないかと言われていた日に、今回の大震災は起きた。僕はそのめぐりあわせに何の意味を見出すつもりもない。時間の無駄だ。

*   *   *

 福島第一原発の事故はこれまで世界で起きた原発事故のなかでも最悪級に近い様相を呈している。原子力工学とか原子炉設計とか、「原発に詳しい」専門家、学者たちが僕らのテレビ局のスタジオにやってきた。出演交渉したのは僕らの仲間だ。ある人は饒舌でまるでニュースキャスターのようだった。その後、危機が深刻化し、発電所近辺で放射線量が基準を超えるような事態になったあとも、それらの人々は「ただちに健康に害を及ぼすような量ではない」「全く健康には問題がない」などと繰り返していた。彼らにも家族がいるのだろうに。

 インターネット系のメディアは「御用学者」とストレートな表現で彼らを非難した。「御用学者」「御用マスコミ」をつくりだしたのは僕ら自身だ。原発の安全性については長く異議申し立てが行われていた事実が厳然としてある。故・高木仁三郎の残した言葉に耳を傾けてみよう。何人かのメディア学者や小説家がパニックに陥り、関西地方に家族ともども避難した。マスコミは電力会社と結託して真実を隠している、と彼らは発信している。原子力委員会や原子力安全委員会の人々はなぜか固い沈黙を守っている。有名シンガーたちがコンサートをキャンセルし、同じく関西地方に長期滞在するためのホテルを押さえたという醜悪な話が飛び交う。16日からの来日公演ステージをやりとげたシンディ・ローパーの方がよほど偉い。

 この事態に誰が何を言い、どのような行動をとるか、僕らはしっかりと見よう。誰が本物で誰が偽物かを凝視しよう。

 岩手県石巻市出身の作家・辺見庸は大震災のおそらく数週間前に『朝日ジャーナル』増刊2号に寄稿した文章「標なき終わりへの未来論」のなかで、こんなことを記していた。

すさまじい大地震がくるだろう。それをビジネスチャンスとねらっている者らはすでにいる。富める者たちはたくさん生きのこり、貧しい者たちはたくさん死ぬであろう。階級矛盾はどんどん拡大するのに、階級闘争は爆発的力をもたないだろう。性愛はますます衰頽するだろう。テクノロジーはまだまだ発展し、言語と思想はどんどん幼稚になっていくであろう。ひじょうに大きな原発事故があるだろう。労働組合はけんめいに労働者をうらぎりつづけるだろう。多くの新聞社、テレビ局が倒産するだろう。生き残ったテレビ局はそれでもバカ番組をつくりつづけるだろう。

(辺見、上記文章より)

辺見は予言していたのだ。

 日本が大打撃を受けたことを見越して投機マネーがハイエナのような動きをみせて、円はあっさり戦後最高値を更新した。資本の論理とはそのようなものだ。日本の地震被害に哀悼の意を表したその同じ頭と手で、米・英・仏はリビアを空爆し(彼らは何にでも作戦名をつけるのを好む。「オデッセイの夜明け作戦」という傲慢で自己陶酔的な作戦名がつけられたそうだ。)、内戦状態にある国の一方に肩入れし、政体をひっくリ返そうとしている。それが民主主義なのだという。日本の民主党政権はただちにその空爆を支持した。それを伝えるNHKの解説委員が「時間との戦いです」などと空爆全面支持をテレビでさらけ出していた。ちなみに、アメリカ政府の日本震災支援特別チームの調整役は、あの「沖縄はゆすりの名人」発言で更迭されたはずのケビン・メア国務省元日本部長がつとめており、その作戦名は「トモダチ作戦」だとか。これが僕らが直面している同盟国アメリカの支援のひとつの現実だ。

 もう一度記しておこう。この事態に誰が何を言い、どのような行動をとるか、僕らはしっかりと見よう。誰が本物で誰が偽物かを凝視しよう。

(大震災発生から10日目に記す。)

2011年3月 4日

御用メディア vs フェイスブック@チュニジア

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↑ ベンアリ大統領(当時)と会談する前原・大畠両大臣(去年12月12日 La Presseより)

 リビアが内戦の危機にある。国民の流血の事態を防ぐのが本来のメディアの仕事のはずだが、現実には内外のメディアの活動によって結果的にますます内戦の危機が高まり、「国際社会は武力行使も辞さず」→「やむを得ない選択もあるのだ」→「独裁からデモクラシーへ」という安易な二元図式よってリビア報道が形成されようとしているように感じるのは僕だけだろうか。僕は、今はチュニジア国境からリビアをみている。大勢の人々が(その多くはリビアへ出稼ぎに行っていた人たちだ)チュニジア国境から脱出してきている。見ているのも辛くなるほど消耗している。そこで僕らも含めた「西側」メディアが、許し難い「人道的な危機」(Humanitarian Crisis)と報道を続ける。一方、東側リビアにいる反政府側の志願兵は「自由の戦士」のように報じられる。かつてのアフガン戦争でのムジャヒディーンが自由の戦士と報じられたように。その中からオサマ・ビン・ラディンのような人物が生まれた。アメリカのFOXニュースなどをみていると、ひょっとしてメディアは内戦を望んでいるのではないか、と錯覚するような短絡的な報道もみられる。
ここチュニジアも緊張が続いている。暫定政権もほとんど展望がない。23年間続いたベンアリ独裁政権などと今では言うが、日本のNHKにあたるチュニジア国営テレビや御用新聞は、政変前は政府批判を一切控え、反政府デモについても全く報じていなかった。

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↑ 軍の兵士に守られている要塞のような巨大なチュニジア国営テレビ局(筆者撮影)

 そこに風穴を開けたのはフェイスブックだった。このことを確かめられたのが今回のチュニジア滞在の最大の収穫だったと言ってよい。フェイスブックの普及ぶりはすさまじく、それは既成メディアがあまりにもヒドイ報道を続けてきたからなのだっだ。御用新聞のひとつだった「La Presse」を、政変を挟んで一気に閲覧してみると、政変前には必ず第一面にベンアリ大統領の顔写真とどうでもいいような業績が記事になっていた。政変後は手のひらを返したように政府批判を始めている。あなたたちはいったい誰のために何のために報道を続けてきたのか? 戦前の大本営発表報道に携わっていた人々に対するのと同じように、僕らは問わなければならない。さて、政変のわずか一か月前にベンアリ大統領と会って「特別な互恵的友好関係を確認しあった国の大臣が、「La Presse」の第一面に堂々と掲載されていたのをみた。日本国の前原誠司外務大臣と大畠章宏経済産業相(当時)が、ベンアリ・チュニジア大統領閣下(当時)との会談にのぞんだ写真が大きく掲載されていた。あられもない現実とは、このようなものである。

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↑ ベンアリ大統領の顔写真を第一面に掲載していた『御用新聞』

Profile

金平茂紀(かねひら・しげのり)

-----<経歴>-----

1953年北海道旭川市生まれ。1977年に在京の民間放送局に入社、以降、一貫して報道局で、報道記者、ディレクター、プロデューサーをつとめる。「ニュースコープ」副編集長歴任後、1991年から1994年まで在モスクワ特派員。ソ連の崩壊を取材。帰国後、同局で筑紫哲也氏がアンカーマンをつとめるニュース番組のデスクを8年間つとめる。2002年5月より在ワシントン特派員となり2005年6月帰国。報道局長を歴任後、2008年7月よりアメリカ総局長としてニューヨーク勤務。コロンビア大学東アジア研究所の客員研究員。2010年9月に帰国。10月より同局「報道特集」キャスター兼TBSテレビ執行役員。

BookMarks

-----<著書>-----

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慶應義塾大学出版会、部分執筆


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