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2006年9月30日

『不都合な真実』〜もしもゴアが大統領になっていたら

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映画『不都合な真実』の試写が終わった途端、周囲の席からは、ため息まじりに、「あ~あ、もし、ゴアが米大統領になっていたら、世界はねえ・・・」などという声が複数聞こえてきた。地球温暖化とは何なのか。地球を覆う異常気象の元凶は何か。人類は地球というこの水晶玉のような美しい惑星と共存できるのか。政治家アル・ゴアの「スライド講義」を映画化したこの作品は、強い説得力を持つ。消費・浪費が経済発展の推進エンジンだ、などという粗雑な論法が、いかに人間の幸福とはかけ離れたものをもたらすのか。この映画は、学校の先生が生徒に「いいかい? 世界の仕組みはね・・・」と諭すように心に染み込んでくる。アメリカにはまだこのような映画をつくって世の中に問いかけを行うというパワーが厳然としてあることに衝撃を受ける。そうそう、きのう書いた松山幸雄さんの『自由と節度』に出てくるアメリカのよき部分の証明みたいな作品だ。ごく自然に他人に勧めたくなるアメリカ映画も最近ではめずらしい。

2006年9月29日

親米・反米・知米 教科書としての『自由と節度』

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『自由と節度』
2001年12月、岩波書店

朝日新聞・元論説主幹の松山幸雄さんの『自由と節度』(岩波書店)は、マスメディアのなかで、アメリカに赴任する特派員たちにとっては、いわば教科書のような本だ。現に自分も、ワシントンに赴任する前に、この本を筑紫哲也さんからいただいて読んだ記憶がある。OB記者の書いた本の多くは、結局のところ、特ダネ自慢や、赴任した米国「では」、フランス「では」、イギリス「では」こうだった、という「出羽守(デワノカミ)」が多いので、読者にとってはウンザリさせられることが多いのだけれど、松山さんの著書は、深い味わいがあり、記者ばかりか、多くの人が読んでもとても面白い「読み物」の特級品だと思う。最初に読んだときに記憶に残っていたのは、ロッキード事件の捜査開始前、当時の布施健検事総長が朝日の社会部長と密かに会って、新聞は本気で最後まで応援してくれるか、と打診していたという超弩級のエピソードだった。自分も駆け出し記者の頃、ロッキード裁判を取材していたので、特にひっかかった逸話だったのだろう。

けれども、今頃何でこの本のことを思い出したのかというと、政権が代わって、アメリカに対する日本のスタンスがよく見えにくくなってきたからだ。新政権発足後、喧伝されている価値観が、アメリカという国がもっている価値観と本質的に親和的なものなのかどうかを見極めるには時間が必要だ。親米・反米という単純な二分法は、ものごとを見えにくくしている。松山さんのような「知米」派の人々が、今のアメリカの進んでいる方向にどのような発言をしているのかは、貴重な羅針盤になる。もちろんアメリカという国は、ブッシュ政権のアメリカばかりではない。もっともっと懐が深い。そう思う。ジョン万次郎以来の日米関係史をしっかりと研究してきている人たちの、それこそ歴史に裏打ちされたみかたにこそ耳を傾けたい。今はそのような時期だろう。

2006年9月24日

楽観論から遠く離れて〜和田伸一郎『メディアと倫理』

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『メディアと倫理』
2006年1月、NTT出版

現在のテレビ報道やインターネットが陥っている<病理>について、ネット万能主義を称揚するような時代の主流=楽観論に抗しながら、真摯に論究し続けるのは、もはや少数派かもしれない。和田伸一郎という少壮社会学者の『メディアと倫理』(NTT出版)は、そのような試みのひとつだろう。生硬な言葉遣いの箇所が散見されるけれども、原理的な考察を含むがゆえにとても貴重な本だと思う。

他者の苦しむ映像を見ていても、自分とは関係のない出来事としてそれから身を退きながら、しかしそれを見ているという事実によって、世界に参加しているという気分を感じていることができる。重要なのは、画面を通じて気楽に「いま現にあるこの世界」に参加しているという感覚であって、他者が画面の中で苦しんでいたとしてもそれについて考えても仕方がない、それは重要ではない、とでもいうかのように。世界を「前にした」このようなシニカルな態度が定着することに最も貢献した画面ということで言えば、やはりそれはテレビではないだろうか。(同書より)

こんな調子で、テレビ報道の機能や、インターネット特有のコミュニケーションの<個室化>がもたらす倫理の退廃状況の分析をおこなっている。この種の本を、ネット礼賛論者らが手に取ることはないだろう。しかし、もっとも読まれなければならないのは、そうした人々こそなのだが。

2006年9月22日

石内都さんと久しぶりにお会いする

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http://www.syabi.com/topics/t_ishiuchi.html

写真家の石内都さんが写真美術館で『mother’s』を開催するというので、そのレセプションに出かけた。5年ぶりくらいか、随分久しぶりにお会いした石内さんは、和服でクールに決めていた。自分が予想していた写真家のレセプションというのとは大いに異なっていて、会場は人で溢れていて活気があった。女性が多い。石内さんには女性ファンが多いのだ。『mother’s』は以前もみたが、今回のはベネツィア展を経て、新作を加えた完全版。母親の遺品に宿る<生>の生々しさ(変な言葉遣いだな)に、男としてはたじろぐものを感じる。そのまま二次会に吸い込まれて行ってしまったが、笠原美智子さんら旧知の方達と再会することができて、やはり出かけてきてよかった。日本における女性写真家というと、吉田ルイ子や大石芳野の名前が思い浮かぶが、二次会の席上でお酒の入った誰かが「石内さんが断然いいよな!」と叫んでいた。

2006年9月18日

石田徹也 退嬰の時代のカナリア

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きのうのNHK教育テレビ『新日曜美術館』で紹介されていた石田徹也の作品に衝撃を受けた。彼の作品の一部は、http://www.cre-8.jp/snap/390/index.htmlでみることができる。

わずか31歳で鉄道事故でこの世を去った石田の作品に漂う強烈な同時代性。「退嬰」「引きこもり」「コクーニング(繭化)」といった言葉が頭をよぎる。石田の作品のモチーフにはこうした時代の空気が正視できないほど露わに表出されているのだ。そして石田の作品に頻繁に登場する主人公のようなスーツ姿の男。その視線は宙をさまよい、表情はほとんど虚無と見まごうほどの悲しみに包まれている。さらに、登場人物たちは、ほとんど逃亡先と物的に「接合」されているのだ。『飛べない男』は飛べない模型飛行機に「接合」されている。『トイレに逃げ込む男』は便器に「接合」されている。会社の人事面接官たちは、顕微鏡に「接合」されている。画家はかつては時代のカナリアだった。そのことを石田作品は思い出させてくれた。

2006年9月16日

ケン・ローチの新作は素晴らしい

ケン・ローチ監督の新作『麦の穂をゆらす風』は、今年度カンヌのパルムドール(グランプリ)受賞作品である。この作品の素晴らしさ、この作品が観客達にどれほどの感動を与えたかというニュースを、残念ながらこれまで僕は読んだり、目にしたことがなかった。日本から大勢出かけていったメディアの人間たちは一体何をしていたのだろうか。愚にもつかない自社作品の宣伝活動のためだけに団体旅行でもしていたのだろうか。大体、彼らはこの作品をみたのだろうか? いや、そんなことを言っても仕方がない。人はみたいものしかみないのだから。

この作品はイギリス国内で大きな論争を巻き起こしたのだという。僕は、ケン・ローチの作品を見るのは、かつての『大地と自由』、オムニバス映画の『11’09”01/september11』以来だけれど、IRAを主人公にして、英国支配に抵抗した人々のストーリーを、ここまで描き切った勇気に大いに感動する。さらに抵抗した人々がその後、分裂を遂げていく残酷な過程を描いたことにこそ、この作品が今に通じる普遍的な価値を獲得している理由がある。過去のケン・ローチ作品にも登場していたリーアム・カニンガムが演じる社会主義者風の兵士が「誰と戦うかは簡単にわかるが、何のために戦うかを言い当てるのは困難だ」という趣旨の台詞を作品中で吐いていたが(全くのうろ覚え)、この作品の舞台は、今のイラクやレバノン、パレスチナにも地続きになっているのだ。そう言えば、ケン・ローチは前記「september11」でも、「9・11」を米国が被った同時テロという日付ではなく、米国が仕掛けたチリ・アジェンデ政権を転覆させた軍事クーデター事件の日付として描いていた。1920年のアイルランドを描いたこの作品も、同じ意味で、1972年の日本や、2006年のイラクにつながっているのだ。それにしても、カトリックとプロテスタント。人間の憎悪を増幅させる宗教内の宗派とは一体何なのだろうか。そんなことを考えていたら、ローマ法王がイスラム教について問題発言をし、瞬く間にヨーロッパに大きな波紋が広がっているというニュースが入ってきた。わたしたちの世界は何も進歩していない。

2006年9月12日

「全身ドキュメンタリスト」の逸品をみる

以前この欄で僕は、元RKB毎日ディレクターの木村栄文さんのことを、「全身ドキュメンタリスト」と書いたことがある(06年3月12日の欄)。その思いは今でも変わらない。東京では放送されなかったが、おとといの深夜、九州と山口のいくつかのテレビ局で放送された30分のドキュメンタリー作品『絵かきの優さん』をみる。栄文さんの傑作『あいラブ優ちゃん』の、30年という長い歳月を経ての「続編」である。今年3月に放映されたNHKドキュメンタリー『もういちどつくりたい』では、11年前に患ったパーキンソン病の手術の模様を撮らせていた。この『絵かきの優さん』全編に溢れるわが子・優子さんへの愛情。優子さんが生前に描き続けた「絵」のチカラに素直な感動を覚えた。

2006年9月11日

9・11から5年。究極の核テロをめぐって

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科学者たちのまともな社会的主張が読めるアメリカの雑誌『Bulletin of the Atomic Scientists』の最新号は「Nuclear 9/11」を特集に組んでいる。9・11以降の最悪のテロの形の可能性、すなわち核物質を使ったテロの可能性について、2人の論者が記している。その基本姿勢が正反対なのが実に面白い。グラハム・アリソンというシンクタンクの研究者は、9月11日から5年を経て、核テロが起きるおそれにおいては、世界はより脆弱になったと断じている。「アメリカのヒロシマ」は、オサマ・ビンラディン自身が使っていた表現だ。もうひとりの筆者ワシントンポスト電子版のコラムニスト、ウィリアム・アーキンは、これとは違う結論を導いている。アーキンによれば、核テロの危険が実態以上に誇張され利用されている。例えばイラク戦争にみられたように。大量破壊兵器をめぐる実際の状況は、5年前に比べて脅威が確実に減っているというのだ。どちらが正しい分析なのかはわからないが、危機は煽る側が説得力を常に持つものだ。オオカミ少年の寓話を引き合いに出すまでもなく、本当の危機が訪れたときに、まともに対応できる想像力を維持することが必要だ。それには危機に乗じるよりは、すべての前提にとりあえず懐疑の目を向けてみる必要あるのかもしれない。イラク戦争開戦から3年以上を経て、イラクのフセイン政権は、アルカイダとは全く関係がなかったという報道がアメリカから伝わってきた。

2006年9月10日

EUヨイショ本のタイトルについて

オリジナル本の原題と翻訳本のタイトルが異なるケースというのが世の中にはままある。マイケル・ムーアの『Stupid White Men』が『アホでマヌケなアメリカ白人』になっていた程度ならまだいいとしても、この本のように中身とタイトルがまるで違っているのには、翻訳者の言い訳を越えて、どんなものだろうと首をかしげてしまう。そんなんなら読まなきゃいいじゃないの、と言われればその通りだが。『アンチ・ネオコンの論理』(マーク・レナード 春秋社)は、全編EUを称揚するいわばヨイショ本だ。オリジナルのタイトルは、『Why Europe Will Run The 21th Century』(なぜ欧州は21世紀を起動するのか)である。著者のマーク・レナードという人物についてはよく知らないが、1974年生まれだから、まだ30代前半の若造だ。それでEUの行政にアドバイスを与えるシンクタンクの研究員だというから、そもそもEUの身内みたいな人物なのだろう。フーコーだのベケットだのの引用もいい加減だし、かなり質の低い論文集だという感想だ。

このところ濫読を重ねているので、あたりの本もあればハズレの本にも出会う。まあいいや。

2006年9月 5日

「つながり」よりも「階級」でしょ

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『「つながり」という危ない快楽』
2006年7月、筑摩書房

速水由紀子の『「つながり」という危ない快楽』を読む。その言葉遣いに違和感を覚える。「勝ち組・負け組」だの「上流・下流」だの、耳にするだけでも違和感を感じる言葉が、実にすんなりと使われ(筆者にとっては否定的に評価されているのだろうけれど)、分析されている現場に立ち会ってしまった感覚とでもいったらいいのか。ネット用語に接した時に感じる違和感に近い。言葉の密度がどこか希薄なのだ。「コミュニティ」とか「サイファ」とか、新興宗教チックな意味合いを感じる言葉をさらさらと使う感覚も、自分とは全く異なるなと感じながら読んだ。まあ、それはそれでいいのだ。誰もが今の時代に切り込む有効な言葉を探しあぐねているのだから。そういう時に、今更ながら思うのは「階級」という概念の有効さだ。「格差」だの「階層」だの以前に、「階級」がますます露骨にせり出してきているのが、現在の日本ではないのか、いう気さえする。人が生まれながらにして、ある「階級」に所属させられていて、教育だの家柄だの職業だの、さらに私有財産だのが決定的に異なっていて、超えられないレベルにまで達していること。さらにその「階級」の違いが社会を支えるシステムの中に当然のこととして内蔵されてしまっていること。そういう見方の方が現実に近いのじゃないか。

そうそう、日本の若い社会学者たちの言葉遣いの変化も気になっていることのひとつだ。

2006年9月 3日

ルネ・ラリックとメタモルフォーシスの美

箱根にあるラリック美術館に行った。去年の3月にオープンしたこの美術館に行ったのは今回が初めて。足をのばした甲斐があった。美術工芸家としてのラリックの作品はどれも世界的に有名だが、なかでも昆虫や植物と人間を融合させた変身譚的イメージをそのまま作品にしたような幻想的な作品群には驚嘆するばかりだ。『シルフィード』や『流れる髪の女』『蝶の女』などのオリジナルをみると、ラリックの世界にすっかり魅了される。トンボの形象がヨーロッパを席巻したジャポニスムの影響の象徴のように解説されていたが、そうなのだろうか。僕の手元には、1976年に出たパトリック・ウッドローフの幻想イラストレーション集『Halleluyah Anyway』がある。ここにもトンボと人間を組み合わせたメタモルフォーシスの生き物が登場する。天使ではないけれども、この世のものならぬ超自然的な存在として描かれているのだが、これを美と呼んでよいのか。ラリックが幻視したイメージがそこにも通じているような気がしただけである。いずれにせよ、箱根にある美術館のなかでは、ここラリック美術館がずば抜けて質が高く、まだ観光旅行客目当ての俗悪化を免れている。また行きたい場所だ。

Profile

田原総一朗(たはら・そういちろう)

-----<経歴>-----

1934年、滋賀県彦根市生まれ。
早稲田大学文学部卒。
岩波映画製作所、テレビ東京を経て、77年フリーに。
テレビ東京時代の連続番組「ドキュメンタリー青春」で、取材対象者に肉薄する独特のインタビュー手法で注目を浴びる。
現在は政治・経済・メディア・IT等、時代の最先端の問題をとらえ、活字と放送の両メディアにわたり精力的な評論活動を続けている。
テレビジャーナリズムの新しい地平を拓いたとして、98年ギャラクシー35周年記念賞(城戸又一賞)を受賞した。
2002年より母校・早稲田大学で「大隈塾」を開講。塾頭として未来のリーダーを育てるべく、学生や社会人の指導にあたっている。

-----<出演>-----

『朝まで生テレビ!』
(TV朝日、毎月最終金曜25時?)

『サンデープロジェクト』
(TV朝日、毎週日曜10時?)

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